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2020年5月

2020年5月14日 (木)

「日曜美術館 疫病をこえて 人は何を描いてきたか」 

今日は令和2年5月14日。

  

「何に時間を使うか」

やりたいこと、やるべきことはたくさんあります。

私に与えられた時間は無限ではありません。

「何に時間を使うか」

最近、自問することが多いです。

  

今からは、「番組についてブログを書くことに時間を使う」

と決めて、うちはじめました。

 

4月26日放映の「日曜美術館 疫病をこえて 

人は何を描いてきたか」を昨日見ました。

勉強になりました。いい番組でした。

  

45分間番組ですが、ここ ☟ を見ると、

5分ほどで番組の内容がわかります。

チャンスはピンチだ。響くアートの愛好家 日曜美術館「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」 

すごいサイトです。

適度に写真があり、聞き書きは完全です。

なぜこんなに完全な仕事ができるのでしょう。

  

番組のことをブログに書こうとすると、

写真を撮ったり、聞き書きしたり、けっこう時間がかかります。

「響くアート愛好家」さんのお陰で、

そこにかける時間が浮きました。

  

印象に残ったところのみ、書き留めます。

引用したり転載させていただきます。

  

  

〇法隆寺の釈迦三尊像の光背に刻まれた銘文によると、

 622年に聖徳太子は病で亡くなった。

 同時期に太子の母、后も亡くなっていて、疫病であったらしい。

  

〇12世紀末の絵。

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 疫病が鬼で表されている。

 真ん中が疫病を退治する神様。

 4本の腕を使って、鬼を捕らえ、酢に漬けて食べている。

「こういう風に疫病に特定の姿を与え、その振る舞いを

 理解することが絵巻を見る鑑賞者たちにとっては

 安心につながっていったのだと思います。

 これは例えば現代電子顕微鏡で捉えたウイルスの姿が

 メディアで報道されると、こういうものかと、

 まずは理解の第一歩につながる。

 そのことに似ているのかもしれません」  

 【山本聡美さん(日本美術史)】

  

〇京都 祇園祭

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 豪華絢爛で知られる祇園祭も、そもそも平安時代の初めに

 疫病封じのために始まった。

「その闇が深ければ深いほど、

 光は強く美しく目に映るわけじゃないですか。

 周りで疫病が蔓延し、人々がたくさん亡くなって。

 暗い時代において人はより強く光を希求すると。

 それを具現化するものとして美術が絢爛豪華になるって言うのは

 我々人間が持っている心の在り方なのかなっていうふうに

 感じます」【小野正嗣】

  

〇アマビエ

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 新型コロナウイルス感染拡大後、SNS上に「アマビエ」の絵が

 次々にアップされている。

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〇アマビエが描かれた唯一の史料 ☟

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「江戸時代の終わり頃、弘化3年の日付が入っている瓦版という

 江戸時代のメディアなんですけども、そのかわら版の中に

 出てくる物で、右側の文章については肥後国、

 今の熊本県の海の中にアマビエと名乗るものが現れて、

 その後6年間の豊作と疫病の流行を予言する。

 さらにその後自分の姿を写して人々に見せなさいといって

 海の中に去って行ったと書かれています」

 【福井県文書館の長野英俊】

  

〇アマビコ

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 アマビコ(海彦)の史料はたくさんある。

 ☟ この錦絵は明治15年にコレラが流行した時に

 感染予防のお守りとして街中で売られたもの。

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 アマビコも疫病から守ってくれる妖怪。

  

  

以上です。アマビエとかアマビコをこの番組で初めて知りました。

今はアマビエがお守りになっているのですね。

  

「阿・吽(あ・うん)」7巻/唐から帰った最澄・青龍寺を訪れた空海・端午節

   

今日は令和2年5月14日。

  

Photo amazon

「阿・吽」7巻(おかざき真里作/小学館)を読みました。

  

この巻の前半部。

桓武天皇の死が迫ります。

急きょ唐から帰国した最澄は、

天皇に会うことを望むが叶いません。

中後半部。

唐の長安にいる空海は、青龍寺の恵果和尚を訪ね、

その下で過酷な修行を積みます。

恵果和尚は、空海を後継者として認めます。

 

難しいマンガです。

空想の産物ならだいたいわかればいいかと思えますが、

事実に基づいているストーリーのようなので、

社会科教師としては食らいつきたい気持ちで、

3回どおり読みました。

 

「最澄と空海は、ぞりゃあテストに出るから覚えておいてよ」

と言ってた言葉の軽いこと、軽いこと。

最澄と空海のやったことをマンガでなぞるだけでも、

とても大変です。

「灌頂(かんじょう)」が重要語句ですがよくわかりません。

  

   

ほとんどページ数が書かれていない本なので、

何話目かで示します。

第37話の中で「端午節」について説明しています。

引用します。

 

起源は、河に身投げをした

詩人屈原(くつげん)の命日等諸説ある。

中国旧暦で夏の盛りのこの時期、

疫病予防の慣習として定着した模様。

日本では戦国時代に

菖蒲→勝負

との見立てで男子の節句として広まった。

  

今は「疫病予防」という言葉に敏感に反応してしまいます。

絵でも説明してくれています。☟

本編と違って、コラムっぽいページはわかりやすいです。

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再読「明治・大正 日本人の意外な常識」⑥ インフルエンザにまじないで対抗した

 

今日は令和2年5月14日。

  

前記事に引き続いて、

「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)

より引用します。

   

 1890年(明治23年)に、アメリカから神戸や横浜に上陸し

たインフルエンザは古風にも「お染(そめ)風」と呼ばれて恐れら

れた。当時はインフルエンザウィルスの存在が知られていなかった

のだから無理もないが、なんと明治の人たちはインフルエンザにま

じないで対抗しようとした。

 わずか100年前の日本人がそんな手段で病気を治そうとしてい

たとは、にわかに信じ難い話である。

(185~186p)

  

  

どんな話であるか、具体的な記述を引用します。

  

 では明治のインフルエンザはなぜ「お染風」と称されたのだろう

か。諸説あるが次々に感染して拡大する「伝染病」から「染」の字

をとり、歌舞伎や浄瑠璃の物語、「お染久松」のヒロイン、お染と

の連想が結びついたのではないかという説が有力である。

「お染久松」は商家の娘お染と奉公人久松の身分違いの恋を描いた

心中物語だ。人々はその物語の筋にならって、「お染風」から身を

守る術を考え出した。

(186p)  

  

この術がすごい。

  

「恋しい久松はここにはいないから来ないでくれ」という意味を込

めて「久松留守」と書いた赤紙や、お染のほうから避けることを期

待して、物語のなかでお染が無理やり嫁がされそうになる「山家屋

(やまがや)」の名前を書いた赤紙を門に貼ったのである。

 ワクチンがない当時では、このようなほとんど気休めにすぎない

まじないだけが人々にできる唯一の策だった。

(186p)

  

8年前にこの本を読んだ時よりも、

今回引用した文章は印象に残ります。

医学が進み、環境も整備された現代、

コレラやインフルエンザのような伝染病が広がるとは

ほぼ思っていませんでした。

しかし、今現実、新型コロナウイルスは感染拡大し、

ワクチンがない状態です。

明治時代の人たちの気持ちに近づけたと思います。

 

今はアマビエ or アマビコにすがろうと思っています。

おまじないです。

  

  

以上で、「明治・大正 日本人の意外な常識」からの引用を終えます。

再読「明治・大正 日本人の意外な常識」⑤ 男性も女性も断髪するには勇気がいった

  

今日は令和2年5月14日。

  

前記事に引き続いて、

「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)

より引用します。

  

 

明治時代の文明開化の象徴の一つが、男性の断髪。

髷(まげ)を落とすことでした。

  

 断髪に対するさまざまな葛藤や攻防が繰り広げられるなか、断髪

の広まりによってよく売れた品物があった。それは帽子である。今

では日よけファッションのひとつとして用いられている帽子だが、

当時は、髷の亡くなった寂しさを紛らすためにと、売り出されたの

である。

 案の定帽子はよく売れたのだが、帽子を買ったのは髷の寂しさを

埋め合わせる人たちばかりではなかった。その反対に、どうしても

断髪に踏み切れず、残した髷を帽子をかぶって隠した人たちも少な

くなかったようだ。

 旧弊とされたちょんまげを隠すために洋装の帽子を用いたという

皮肉な話も、いかにも明治時代らしい逸話である。

(148~149p)

  

価値観なんて、時代で変わるんだなと思った逸話です。

  

  

 日本では、古代以降、長い黒髪は女性の象徴とされ大切にされて

きた。明治時代に入ってもその考えは変わらず、長い髪を束髪など

に結い上げるのが一般的であった。

 その後、女性の社会進出も手伝って、大正時代に入るとその長い

髪をばっさり切る女性たちが現われはじめる。

 ところが、現在では一般的といえる女性のショートカットに対し、

当時の人々は今では考えられないような反応を見せている。

 断髪の元祖と呼ばれる読売新聞記者だった望月百合子が初めて断

髪して銀座を歩いたとき、行き交う人々からまるで見せ物小屋の猿

を見るように奇異な目つきでみられ、呆れられたという。(中略)

 当時の人々にとって、髪の短い女性の存在は信じられないものだ

ったに違いない。

 実際、断髪をする女性に対する社会の反発は根強く、断髪の女性

は嫁の貰い手がなくなると毛嫌いされた。また、女学校でも断髪に

するだけで退学を命じられた例があったというから、当時の女性が

断髪をするには相当の勇気が必要だったことがわかる。

(150p)

  

「退学を命じられた」

それはすごい。

100年後にビックリされるような価値観が、今もあるのだろうか。

そんなことを思いました。

  

  

 近代化が進むにつれ、望月百合子のように、果敢に新しいスタイ

ルに挑戦する女性たちが続々と登場する。彼女たちはモダンガール、

略して「モガ」と呼ばれた。

 これに対応して男性はモダンボーイ、略して「モガ」と呼ばれた。

 モガはカンカン帽子、オールバックの髪型ともみあげ、ちょびひ

げ、縞や格子の柄の洋服にステッキをもった姿がトレードマークだ

った。

 一方、モガはショートスカートにハイヒールの靴など外国の女優

をモデルにしたスタイルが多かったが、なにより髪を断髪にするこ

とが第一条件であった。そのため着物を着ていても断髪であればモ

ガと呼ばれた。

(150~151p)

 

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文明開化の時期の男性の断髪、

大正時代の頃の女性の断髪のこと、

今なら授業で話すことができます。

 

  

次はいよいよインフルエンザのことを記事にします。

再読「明治・大正 日本人の意外な常識」④ 「毛布=赤」のイメージの理由

   

今日は令和2年5月14日。

  

前記事に引き続いて、

「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)

より引用します。

  

 

 今では寝具としてすっかり一般的になった毛布だが、もともとは

開国とともに開国とともに海外から日本に持ち込まれたもの。英語

のブランケットを略して「ケット」と呼ばれることが多かった。

 当初は日本に入ってきたこの毛布はほとんどが赤色をしており、

明治初期の陸軍でも兵卒の寝具はやはり赤い毛布だった。その防寒

・防湿の特長からマントの代用として用いられ一人につき4枚支給

された。

 その後、巷にも赤い毛布が出回り、人力車の腰かけやひざ隠し、

芝居の桟敷、茶店の床几(しょうぎ)など、至るところにこの赤い

毛布が使われるようになった。

 1993年(明治26年)頃からは日本国内でも毛布が生産され

るようになるがしれもまた赤い毛布、当時でいう「赤ゲット」だっ

た。こうして日本では、毛布=赤という認識が定着していった。

(106~107p)

  

今の若者はバラエティ豊かな毛布を見ているかもしれませんが、

私のイメージは「毛布=赤」です。

納得です。赤は暖かい色なので使われたのかな。

 

ついでに「タオルケット」が気になって調べました。

Wikipediaによると次のように書いてありました。

  

厚手のタオル地で作られた身体の上にかけて、

あるいは身体をくるんで使用する寝具である。

タオルケットとは、タオル(英: towel)と、

毛布を意味するブランケット(英: blanket)を

掛け合わせた和製英語である。

英語ではコットン・ブランケット(cotton blanket)と呼ぶ。

 

「タオルケット」は和製英語だろうなと思って調べました。

予感は当たりました。

 

  

  

日本に列車が走るようになったのは、1872年(明治5年)。

日本の列車には1888年(明治21年)まで、

トイレがありませんでした。

  

 当時は走行距離が短いため必要がなかったこともあるが、なによ

り動く列車にトイレをつけるなど考えもつかなかったのである。

 しかし明治も半ばになると、路線も延長され、長距離列車を楽し

む人が増えてくる。今日では列車に乗るときにわざわざトイレ事情

を気に留める人はごく少数だろうが、明治の人々にとってトイレの

問題は非常に切実だった。列車にトイレがないのだから、用を足す

ためには短い停車時間のうちに駅のトイレへ駆け込むしかなかった

のだ。出発時ともなれば発車間際の列車に飛び乗る人々が続出する

ため、危険も取りざたされるようになった。

 そしていよいよ官営鉄道がトイレの導入を検討していた矢先の明

治21年、ついに事故が起こる。停車中に駅で用を足した後、走り

出した列車に慌てて乗り込もうとした政府高官が列車への飛び降り

に失敗、転落死してしまったのだ。

 この事故を受け官営鉄道は当初の予定を半年早め、急きょイギリ

スからトイレつきの客車を購入し、東海道本線で走らせている。以

後、トイレ付客車が純次導入されていくことになった。

(117p)

  

資料:日本の列車トイレの歴史

この資料には次のように書いてありました。

本とは年数が1年ずれます。

 

1889年(明治22 年 4 月 27 日)宮内省の

肥田浜五郎氏が藤沢駅でトイレ行ったところ列車が発車してしまい、

あわてて列車に飛び乗らんとしたが乗りそこない

転落死亡する事故がありました。

肥田氏は当時政府の高官であったため、

新聞社がこぞって列車トイレの必要性を書き立てました。

  

 

亡くなった人の人名、現場の駅もわかって

出来事がよりリアルに伝わってきました。

再読「明治・大正 日本人の意外な常識」③ なぜ茶碗や箸は自分専用なのか

 

今日は令和2年5月14日。

  

前記事に引き続いて、

「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)

より引用します。

 

   卓袱台(ちゃぶだい)が日本に普及したのは明治中頃と意外に歴

史は浅い。それ以前の食卓スタイルはどのようなものだったのだろ

う。

 時代劇などを思い出してほしい。江戸以前の日本では食卓を他人

と共有していなかった。各自、自分の前に膳を置いて食事をすると

いうのが、長らく日本で行われていた食事の風景である。

 膳には多くの種類があり、懸盤(かけばん)や蝶足膳(ちょうあ

しぜん)は貴族用・大名用、宗和膳(そうわぜん)や猫足膳は茶席

用など形式で使用できる身分が決められていた。一般庶民のなかで

すら家長が木具膳(きぐぜん)、ほかの家族は折助膳(おりすけぜ

ん)と区別されていたのである。

(94p)

Epson320 (95p)

 

「時代劇などを思い出してほしい」

私は最近観た映画「武士の家計簿」を思い出しました。

調べてみました。

2016年2月2日放映の映画「武士の家計簿」(2010年)の

写真です。☟

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全員が木具膳のように見えます。

   

 身分制の結果としてかつて個人の膳を分けていた習慣は、じつは

今日の生活に引き継がれている。フォークやスプーン、洋食用の食

器は揃いものであったり共用したりするのに、茶碗と箸だけはそれ

ぞれ自分専用のものを使っていることが多い。これは膳を使ってい

た時代に、個人の箸や茶碗が決まっていたことの名残であろう。

(96p)

   

8年前に読んだ時にはこの部分どう思ったのだろう。

今回読み直して、最も印象に残ったのはここです。

確かにそうだ、なるほど!と思いました。

  

  

 文化鍋、文化包丁などといった言葉は今でも耳にすることがある

のではないだろうか。

 大正時代には文化鍋、文化包丁などあらゆるものに「文化」とい

う冠をつけることが流行した。もともとは西洋文化から持ち込まれ

たものを「文化〇〇」と呼んでいた。従来使われていたものよりも

便利で合理的なものを指していたようだ。この「文化〇〇」シリー

ズは大正時代の人々がもっていた近代的で合理的なものに対する憧

れの強さの証といえよう。

(96~97p)

 

「文化〇〇」はちょくちょく聞きますが、

大正時代が発祥だったのですね。

ちなみに文化鍋はこれ。☟

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再読「明治・大正 日本人の意外な常識」② 混浴の習慣を無くすまでに30年かかった

  

今日は令和2年5月14日。

  

前記事に引き続いて、

「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)

より引用します。

  

 

 銭湯といえば、番台を挟んで男湯、女湯に仕切られた構造が特徴

だが、明治時代の銭湯では男湯と女湯は分かれていないのが普通だ

った。

(36p)

 

混浴が当たり前だったのですね。

それでも西洋人と付き合わないといけないので、

混浴を取りやめようとしました。

簡単ではありませんでした。

   

 1969年(明治2年)、東京府内すべての銭湯に混浴が禁じら

れた。しかし政府の目の届かない地域ではなかなか実施されなかっ

た。行政の指導通りの施設にするには費用がかさみ、完全に男女を

分けた設備が整わなかったからだ。

 再三の混浴禁止令や浴場施設の制定が行なわれ、ようやく1900

年(明治33年)5月24日の内務省令で12歳以上の男女混浴を

厳しく禁じられた頃に「男風呂」「女風呂」の設備が整った。それ

までの混浴という習慣を無くすまでに開国から30年以上かかった

ことになる。

(38~39p)

  

習慣とはすごいものです。

明治前半は、「男女混浴」が当たり前だったんだ。

常識なんて、時代で変わりますね。

  

  

 今では学校給食でお馴染みの牛乳だが、日本における牛乳の歴史

は明治に始まったといっても過言ではない。古来日本では牛乳を飲

む文化はなく、「無乳文化圏」といわれていたからだ。

(中略) ところが幕末から明治にかけて、習慣的に牛乳を飲んで

いる外国人が日本に居住するようになったことから、乳業が誕生す

る。牛乳の栄養価の高さに目をつけた明治政府が、国民の栄養向上

のため1871年(明治4年)に乳牛の輸入を許可し、牛馬会社を

設立。牛乳の生産をはじめた。

(53~54p)

  

乳業に従事した人たちは、

明治維新で禄を失った元サムライたちでした。

 人々は牛乳を飲む習慣がなかったことに加えて、牛乳は高価であ

くまでも健康食品、または母乳の代用品とみなされたことで、一般

の飲料としてなかなか普及しなかった。しかし、1894年(明治

27年)の日清戦争で傷病兵が牛乳を飲んで元気になったことから

急速に普及、士族たちのアイデアが実って牛乳販売は飛躍的な発展

をみせる。

 じつは最近でも見られる牛乳宅配制度のシステムは、乳業に携わ

る士族たちが牛乳販売の拡大を狙って考え出したもの。この宅配は、

牛乳を買いに出かけなくても新鮮な牛乳を毎日家で飲めるとあって

販売拡大を後押ししたようだ。

 今日まで続く日本の牛乳文化を浸透させたのは、士族の商法の発

想によるものだったのである。

(54~55p)

  

思い出します。

毎朝我が家には牛乳箱が玄関先にあり、

毎朝牛乳が2本届いていました。

よく冷えた牛乳でした。

毎朝、新聞と牛乳を家に取り込んでいました。

あれは明治時代の名残だったのですね。

再読「明治・大正 日本人の意外な常識」① 明治期のウサギバブル

今日は令和2年5月14日。

 

3月に、100年前のインフルエンザの大流行のことを

調べたいと思い、図書館に予約しました。

ところが、新型コロナウイルス感染拡大のために、

図書館が閉館してしまい、借りれませんでした。

先日、通っている図書館の一つが、予約本なら

貸出OKとなり、次の本を借りてきました。

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「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)

 

図書館でこの本を受け取った時に、

表紙に見覚えがあるぞと思いました。

家に帰って、机の上にこの本を置いておいたら、

奥さんに「この本、前にも読んでなかった?」と言われました。

「そうだよね、見覚えあるんだなあ」

試しに読み始めましたが、明治のウサギ税の話。

う~ん、ドラマ「タイムスクープハンター」

明治期のウサギバブルのことをやった覚えはあるけど、

本で読んだことがあったけなあ・・・。

 

本棚を調べに行きました。

そしたら、何と!同じ本が出てきました。

私は以前読んだ本でした。

  

次のブログで調べました。

何らかの痕跡を見つけられないかと。

  

これまたありました。

ここでも道草 今年の7月30日/明治は遠くなりにけり(2012年4月30日投稿)

8年前に、この記事をはじめに4本、この本関連で

記事を書いていました。

いい機会なので、4本読み直しました。

 

再読しましたが、勉強になったので、引用します。

  

  

 今でこそペットといえばイヌやネコとだいたい相場が決まってい

るが、明治の日本人はウサギに夢中であった。待合茶屋、今でいう

貸しスペースでは、集まった人びとがそれぞれに毛色の珍しい自慢

のウサギを持ち寄り披露しあう兎会が開かれた。

 さらにひと儲けを狙った人々が、こぞって投機目的でウサギを飼

い始めたことでウサギの価格高騰に拍車がかかった。

(中略)

 ブームが過熱するあまり、ウサギ欲しさに娘を売る者や、ウサギ

ビジネスの利益を巡って親子ゲンカが傷害致死事件に発展するなど

トラブルも多発したという。

 事態を深刻に捉えた東京府は兎会を禁止、さらには「兎取締ノ儀」

を設けた。ウサギの頭数の届出を義務化し、一羽につき毎月一円を

課金、もし届出を行わなかった場合には一羽当たり二円の罰金を科

したのだ。これがウサギ税である。

 この足かせによりウサギブームは一気に収束を迎える。

(17~18p)

  

先にも書いたが、ウサギブームについては、

「タイムスクープハンター」で扱っていました。

調べました。

放映日は2013年4月30日でした。

7年前でした。録画してあります。

  

8年前に本を読んだ時にはつながりませんでしたが、

読み直したことで、本と番組が頭のなかでつながりました。

 

授業で紹介したい内容です。

 

つづく

2020年5月13日 (水)

日めくりより/「じゃがりこ」 コ・ロ・ナが合体してできる漢字

  

今日は令和2年5月13日。

 

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。 

  

「じゃがりこ」の「りこ」とは何のこと?

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「じゃがりこ」の「りこ」は開発担当者の友人りかこさんの

名前からついたなんて楽しいです。

Wikipediaには次のように書いてありました。

  

商品名の候補には「カリットポテト」「ポテッキー」「スリムポテト」

などがあったが、若手社員中心の開発チームで議論するうち、

男性社員の「友人の利加子さんに試食させたら美味しそうだった」

という話で盛り上がり、「じゃがいもりかこ⇒じゃがりかこ⇒じゃがりこ」

となった。

 

  

2020年5月11日の朝日新聞朝刊の記事です。

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確かに「君」になります。

  

とっておきたくなった記事です。

  

「人間」 覚えているのは頻繁にその日のことを思い出していたから

 

今日は令和2年5月13日。

  

勤務校の図書室で借りた7冊目の本を読破。

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「人間」(又吉直樹著/毎日新聞出版)

    

私は太宰治の「人間失格」を読んだことはありませんが、

この本を読んでみて、きっと「人間失格」ってこんな本なんだろうなと

勝手に想像しました。

 

印象に残った文章を書き留めます。

 

 早口で話すのは変わりはないが、いつからか仲野はお調子者とい

う雰囲気を捨てて、どこか虚ろな暗い表情を意識的に作って話すよ

うになった。仲野の変化の理由はおおむね彼が読んでいる雑誌や小

説に答えが記されていた。

 一度、おなじようにリビングで仲野が政治の話を熱心にしていた

ことがあった。仲野がトイレに立ったときに彼が読んでいた本を見

ると、案の定、それは政治の本で、しおりが挟まれていたページに、

そのまま仲野がさっきまで語っていたことが書かれていたので思わ

ず吹き出してしまったこともあった。自分が触れたものの表面だけ

を直接摂取する悪癖は、中学生が修学旅行で買ったサングラスをつ

けて悪ぶっているような痛々しさがあったが、中学生達の風景のよ

うに愛することができなかった。

(30p)

  

私も日々新聞や本を読んで、印象に残った文章を書き留めたり、

記事の写真を載せたりしています。

まさに「表面の直接摂取」の連続のように思えます。

でもこの積み重ねの果てに、何か総合的な力が得られると信じて

日々ブログに向かっています。

  

   

 小学校に上がる前、もっと自分達が小さな頃に近所の児童公園で

その女の子と一度だけ話したことがあった。(中略)その日のこと

を女の子は覚えていない。僕が覚えているのは頻繁にその日のこと

を思い出していたからだ。

(40p)

  

こういう記憶が確かにありません。

それは思い出したくないような、

すぐにでも心から追い出したくなる思い出です。

あの時、そんなこと言うんじゃなかった、

そんな態度をするんじゃなかったと思う。

わすれていたのに、時々思い出すことで、

記憶に何度も刻まれ続けてしまう記憶。

2度と同じような行動をとらないように、

人間の防衛反応がなせる業でしょうか。

  

  

 なぜか自分は、人から気難しいとおもわれることが多かった。

子供の頃はもっと上手に馬鹿にされることができた。いつから

周りを警戒させてしまうようになったのだろう。

(52p)

  

こう思う時が時々あります。

気さくに話しかけられないなあ、

歳が歳だもんなと考えもしました。

共感できた文章なので、引用しました。

  

   

(僕)「子供の頃、絵を描くのが好きやってん。いつものよ

うに自由に絵を描いていた。保育所の先生が、あなたの絵を見

るのが楽しみや、って言ってくれたり。でもな、小学校の図工

の授業でゾウの絵を描く時間があってんな。俺は迷うことなく、

街の風景とゾウの尻尾だけを画用紙に描いた。ここをゾウが歩

いていきましたよという風景を描こうとおもって。10秒前な

らゾウは画用紙の中央にいたけど、今は画用紙の外にいるとい

う絵を描いてん」

(影島)「ええやん」

「先生になんて言われたとおもう?」

僕が質問すると、影島がこちらに顔をむけた。影島の前歯が1

本なかった。

「褒められたんちゃうの?」

「そうおもうやん?」

「違うん?」

 前歯が1本ない影島が真剣な表情で僕の言葉を待っていた。

少しだけ息を吸って吐く。

「調子乗んな、って言われて頭叩かれてん」

 影島は飲みかけのハイボールを噴き出した。彼が笑ったので、

僕も釣られて笑った。

「嘘やろ?」

「ほんまやねん」

「無茶苦茶やん」

「そのあと、先生ちょっと笑いながら、もうええねん、こうい

う奇をてらうの、って言うてん。めっちゃ恥ずかしかった。も

う絵なんて描きたくないとさえおもった。」

そう言って、笑ったけど、もう影島は笑っていなかった。

「そっからな、絵を描こうとおもうたびに、その先生の言葉が

頭のなかで響くねん。ほんならこれも、奇をてらってるとおも

われちゃうかな?かっこつけてないかな?って気になってしも

うてな、わざと平凡な構図で描くようになったり・・・」

(249~250p)

「うん。それから、人と違うことをやるのが恥ずかしくなった。

人と違うことをやるということは、人と違うとおもわれたいと

いうことと解釈されてしまうのが苦痛で。それをはね返す力が

自分にはなかったから」

(251p)

  

先生の言葉って、影響力がありますよね。

又吉さんの実体験だろうか。

さらにこんな文書も。☟

  

(影島)「(前略)教師からすれば、各々の個性を尊重するべき

みたいな言葉は頭の片隅にあったとしても、身体に馴染んではな

やろうから、結局は自由に描いていいはずの絵まで、矯正して

まう。しかも、それが絵に対する批評ではなくて、人と違うこ

をいうことを恥ずかしくおもえという理屈やねん。」

(252p) 

   

「身体に馴染んではない」に注目です。

教師は「自由」が馴染んでいないんだよなあ。

指導しちゃうんだね。

真逆の西郷孝彦先生が思い浮かびます。

ここでも道草 今晩のお薦め番組「ハートネットTV」「ノーナレ」(2020年5月11日投稿)

 

(僕)「美術館で長い時間を掛けて絵画を鑑賞したあと、外に出る

と見慣れた景色のなかにある、いつも目にしていたはずの色が、異

常なほど際立って、奇跡のような印象で目に映ることはある」

(影島)「それは、作家の目をかりてんのかもしれへんな。」

(276p) 

  

「作家の目」

本を読んだ後に、「作家の目」を感じます。

300pぐらいの本を読みきると、

作家の思考みたいなものが自分の中に残っているなあと思います。

又吉さんなら、こう思うだろうなと想像します。

  

  

以上で「人間」からの引用を終えます。

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