冷泉家/京都に残った理由 取り壊されなかった理由
今日は令和元年10月21日。
前投稿に引き続き、9月7日放映の「ブラタモリ 京都御所」の
読み物化をしていきます。
冷泉家は、五月の節句ののように、
昔からの年中行事を今も大切に守り伝えています。
歌会始(うたかいはじめ)☟
雅楽の上達を願って、織姫と彦星に演奏を捧げる
乞巧奠(きっこうてん)☟
現在の七夕の原型と言われています。
なぜ冷泉家が京都に残ったのかを、
当主が説明してくれました。
聞き書きします。
当主:ここで、なぜ残ったかといえば、
ご存知の通り、明治2年の時に天皇が東京に移られます。
多くの公家が天皇にお供をして東京に行かれたわけです。
その時に、冷泉の家は、ちょうど公家の中ほどの
格だったもんですから、京都御所の留守居役を
仰せつかるわけです。だから残れたわけです。
Wikipediaには次のように書いてあります。
明治時代になると、ほとんどの旧・公家は
明治天皇に従って東京に移住したため、
現在の京都御苑内にあったほとんどの公家住宅が空家となり、
治安維持のため取り壊された。
しかし、上冷泉家には御文庫といわれるかつては勅封※だった蔵もあり、
また今出川以北の京都御苑外に立地していたため、取り壊しも免れた。
※勅封=蔵などを勅命によって封印すること。
( 扉とびらに錠をかけて麻縄でしばり、
結び目を天皇自署の紙で封じる。
開閉には勅使が参向する)引用: コトバンク 大辞林)
「ブラタモリ 京都御所」は他にも興味深い内容でした。
本来、天皇は平安京の大内裏に住むはずなのに、
平安京の北東の隅で500年近く住んでいました。
その理由を解き明かしていました。
詳しくは、他の人のブログで読んでみてください。☟
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