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2019年10月21日 (月)

冷泉家/京都に残った理由 取り壊されなかった理由

 

今日は令和元年10月21日。

  

前投稿に引き続き、9月7日放映の「ブラタモリ 京都御所」の

読み物化をしていきます。

  

冷泉家は、五月の節句ののように、

昔からの年中行事を今も大切に守り伝えています。

歌会始(うたかいはじめ)☟

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雅楽の上達を願って、織姫と彦星に演奏を捧げる

乞巧奠(きっこうてん)☟

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現在の七夕の原型と言われています。

  

なぜ冷泉家が京都に残ったのかを、

当主が説明してくれました。

聞き書きします。

  

当主:ここで、なぜ残ったかといえば、

  ご存知の通り、明治2年の時に天皇が東京に移られます。

  多くの公家が天皇にお供をして東京に行かれたわけです。

  その時に、冷泉の家は、ちょうど公家の中ほどの

  格だったもんですから、京都御所の留守居役を

  仰せつかるわけです。だから残れたわけです。

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Wikipediaには次のように書いてあります。

  

明治時代になると、ほとんどの旧・公家は

明治天皇に従って東京に移住したため、

現在の京都御苑内にあったほとんどの公家住宅が空家となり、

治安維持のため取り壊された。

しかし、上冷泉家には御文庫といわれるかつては勅封※だった蔵もあり、

また今出川以北の京都御苑外に立地していたため、取り壊しも免れた。

※勅封=蔵などを勅命によって封印すること。

( 扉とびらに錠をかけて麻縄でしばり、

   結び目を天皇自署の紙で封じる。

 開閉には勅使が参向する)引用: コトバンク 大辞林

  

  

ブラタモリ 京都御所」は他にも興味深い内容でした。

本来、天皇は平安京の大内裏に住むはずなのに、

平安京の北東の隅で500年近く住んでいました。

その理由を解き明かしていました。

詳しくは、他の人のブログで読んでみてください。☟

Y.Johnnyかく語りき ブラタモリ 西陣 京都御所編

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