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2012年2月

2012年2月10日 (金)

ふきのとうの日/パソコン届く

 

今日は2月10日。

「ふきのとうの日」

「ふ(2)きのとう(10)」の語呂合せ。

    

ふきのとうの天ぷらが好きです。

いよいよその季節が来ました。待ってました。

さっそく山に採りに行きたいけど、暇がない。

食べるのもいいけど、日当たりのいい斜面で探して採るのも楽しいです。

   

昨年は春休みでも間に合いました。

「まだ間に合ったふきのとう」html   

今年は少しでも早めに行きたいとは思っています。

  

うまく採ったら、このブログで見せびらかします。

   

1月31日に我が家のパソコンが壊れました。

それを機に、新しいパソコンを購入。

昨日届きました。組み立てたり、つないだりして、

インターネットが見られるようになったので、一安心。

ブログへの投稿もできるようになりました。

まだメールがつながっていません。いつもこれで苦労します。

私にメールを送っても、全然返事がないと怒っておられる方がいましたら、

もう少しお待ちください。  

 

2012年2月 6日 (月)

今度は100回目の「歴史秘話ヒストリア」

 

今日は2月6日。

NHK放映の「歴史秘話ヒストリア」が、2月8日放映で100回を迎えるそうです。

そのうちのどれだけ見られたかな。

    

2月8日は、

大奥シンデレラ・ストーリー~将軍の母・桂昌院 玉の輿(たまのこし)物語」です。

「玉の輿」というのは、女性が結婚によって富貴(ふうき)の身分になること。

※富貴=金持ちで、かつ地位や身分が高いこと。

もともとあった言葉のようですが、

八百屋の娘であった玉が、3代将軍家光の側室になり、

男子を生んで、家光死後は桂昌院と名のりました。

その男子が、後に5代将軍綱吉になります。

将軍の母に登りつめた桂昌院は、文字通り「玉の輿」をした女性。

「生類憐みの令」に深くかかわった女性でもあるので、興味があります。

   

偶然、同じ日に放送する「今夜はヒストリー」も大奥のことをやります。

大奥のことが勉強できる晩になりそうです。

 

 

2012年2月 5日 (日)

寒風のお手伝いで思い出した仕事

 

今日は2月5日。

昨日は息子の野球チームの練習試合のお手伝い。

朝の6時30分から晩の6時20分まで。(おっと昨日はほぼ12時間だったんだ)

気温は-3度から日中9度に上がってくれましたが、

一日中吹いていた寒風のためつらかった。

厚着でのぞみましたが、凍えました。

なので、仕事の合間に、駐車場の車に入って体を温めていました。

   

昔を思い出しました。

就職前に、2月~3月の40日間、

北海道のオホーツク海沿岸の斜里~稚内を歩いたことがありました。

道々、いろいろな体験をさせてもらいながらの旅でした。

どこだったか、漁船の下部のパテ塗りを手伝ったことがありました。

流氷が来るため漁に出られないから、

漁船は浜にあげられていました。

その漁船の下部のペンキを塗りなおす前に、隙間を埋めるパテを塗る仕事です。

漁船の下にもぐりこんで塗るのですが、

吹きっさらしの場所なので、流氷の上を吹いてくる寒風が尋常ではなかったです。

さらに寝そべっている場所も雪が凍っている状態。

10分間ほど頑張って塗って、急いで小屋へ。

小屋ではストーブがバンバンに焚かれていて、冷えた体を温めます。

それが15分間。働いていた時間より長かったです。

温まったところで、再び外へ飛び出して、パテ塗り。

この繰り返し。

世の中には、こんな過酷な仕事があるのかと体感しました。    

   

昨日、練習試合の手伝いをしていて思い出した話です。

昔話のお付き合い、ありがとうございます。

 

 

節分/4年前の話をまたしてくれた

 

今日は2月5日。

先週金曜日(2月3日)発行の学年通信は「節分」のことを書きました。

以前、ブログで投稿した内容を2つ使いました。

一つは2008年2月1日のラジオ放送で聴いた内容です。

「豆まき 子どもたちの追い出したい鬼」html (2008年2月3日投稿)

「FM豊橋」の渡辺欣生(よしお)さんの話でした。

なぜ炒った豆をまくのかという話です。

もう一つは番組「雑学王」で知った内容です。

「節分/昔は桃をまいていた」html(2009年2月3日投稿)

昔は豆の代わりに桃をまいていたという話です。

 

私のブログでよく登場する渡辺さんは、「FM豊橋」の名パーソナリティーです。

朝の放送では水曜日と金曜日を担当。

実は先の2月3日は金曜日!

出勤中の自動車でラジオのスイッチを入れました。

予定通り、(渡辺)よっちゃんの声。

そして節分の話。

もしかしたら、4年前に話したことが出るかなと期待していました。

いや期待していたと言うより、きっと話すだろうと確信めいたものがありました。

 

結果。よッちゃんは話しました。

炒った豆を節分でまく理由を。やっほ~、うれしかったなあ。

もうすでに言っている話でしたが、よっちゃんの巧みな話術で、とても楽しく聴けました。

 

そんなことがあった節分の朝でした。

   

もう一つ。こうやって、以前にブログに書いたことが通信のネタになることがありがたいなと思います。

当時の自分に感謝。 

2012年2月 3日 (金)

グリコのゴールインマーク

 

今日は2月3日。

昨日、金栗四三(かなぐりしそう)さんの話を書きました。

その投稿に、ふっとわーくさんからコメントをもらいました。

「この方、某菓子メーカー(道頓堀にマークが)のマークのモデルだと聞いた気がするのですが、

 気のせいだったかしら??」

これはグリコのマークのことだと思いますが、

ちょうど昨日紹介した「知識と雑学の備忘録」にこのことが書いてありました。

引用します。

「知識と雑学の備忘録」48

   

みんな知っているグリコのパッケージのマラソンランナー。

この人は、実は日本人ではなくフィリピン人である。

第五回極東競技大会でゴールしたカタロンというフィリピンのマラソン選手の

笑顔がグリコの商品イメージにぴったりだった為、採用されたとのことである。
    

  

フィリピン人だったんですね。

しかし、今のグリコのマークは、昔の顔ではありません。

大正11年にできた時のモデルが、カタロン選手だったのでしょう。

それ以後いろいろ変ってきて今に至ったようです。

その様子は次のサイトでわかります。

「ゴールインマークの歴史」htm

Goal_02
       

何にでも歴史あり。

 

 

2012年2月 2日 (木)

今朝の雪景色/マラソンの最長記録

   

今日は2月2日。

今朝は雪景色でした。

通勤路にある三明寺の三重塔の写真。

RIMG0562
  

勤務校の運動場の写真。

RIMG0564RIMG0565
  

RIMG0566RIMG0568
    

さて、前投稿に続いてマラソンの話。

今回も引用です。

引用元はここ。前回と同じブログです。なかなか面白いブログです。

「知識と雑学の備忘録」ml 

    

マラソンの最長記録、つまりはワースト記録は、

日本の金栗四三が記録した54年8ヶ月6日5時間32分20秒3である。

金栗四三は1912年に開催されたストックホルムオリンピックのマラソンに出場したが、

32キロ付近で意識不明となり棄権した。

しかし、棄権の意思がオリンピック委員会に伝わらず金栗は記録上、

「競技中に失踪し行方不明」となった。

時は流れて、1967年にストックホルム市が

オリンピック開催55周年を記念する式典を開催することになったのだが、

当時の記録を調べていたオリンピック委員会は

金栗が「行方不明」のまま、完走も棄権もしていないことを発見し、

金栗に改めて棄権、もしくは完走するように要請した。

要請を受けた金栗はストックホルムへ赴き、式典の中で当時のコース

(実際には競技場内の100メートルを走っただけで、残りの10キロを走ったことにした)

を走ってゴールし、ゴールまで半世紀以上という公式記録が残された。

ゴールの瞬間には「日本の金栗がただ今ゴール。タイムは55年。

これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました」とアナウンスされ、

金栗四三は「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」と応えた。
    

  

最後の金栗さんの発言に笑っちゃいました。
 

こういう面白い出来事を作り出したいですね。

何かいろいろ調べていたら、見つかるかな。

金栗さんのことを調べて、金栗さんに声をかけた人がすごい。    

 

 

42.195㎞の理由

  

今日は2月2日。

先日、大坂国際女子マラソンがありました。

福士加代子選手が注目されましたが、途中から後退。9位でした。

優勝は重友梨佐選手。

   

観戦中に、娘から「何で42.195kmなの?」と尋ねられ、

昔、マラトンからアテネまで勝利を伝えるために兵士が走って息絶えた故事から、

マラトンーアテネの距離42.195㎞が「マラソン(←マラトン)」の距離になったと言いました。

 

しかし、その直後に見た子どもの自主勉を見て、

それが間違いであることがわかりました。

42.195㎞の理由は次のようです。

あらためて調べなおして、次のサイトから引用しました。

「知識と雑学の備忘録」48

   

マラソンの起源は、アテナイ軍とペルシャ軍が戦ったマラトンの戦いでの

アテナイ軍の勝利を伝えるため、戦場から完全武装のままアテナイまで走り、

城門の前で絶命したエウクレスという兵士である。

この故事を元に、第一回のアテネオリンピックでは、

マラトン-アテネ競技場間で初のマラソン競技が行われた。

だが、この時行われたマラソンの距離はまだ42.195kmではない。

 

マラソンが42.195kmという距離で初めて行われたのは、

第四回のロンドンオリンピックである。

当初、マラソンは国王の住むウィンザー城からシェファードブッシュ競技場までの

26マイル(約40km)で競われる予定だったが、時の王妃アレクサンドラが、

「スタートを城の窓から見たいのでスタート地点は城の庭で、

ゴールの瞬間は競技場のボックス席で見たいので、

ゴール地点は競技場のボックス席の前にして」と

わがままを言った為、42.195kmという半端な数字になったとか。

そして、第八回のパリオリンピック以降、42.195kmが採用され現在に至る。

   

ちなみに、実際のマラソンコースは42.195kmよりちょっとだけ長い。

コースの距離が42.195kmより短いと参考記録となってしまうので、

ちょっとだけ長くして、42.195kmより短くなるのを避けるためである。

なお、42.195kmより短くても許される誤差は42.195mである
    

   

面白い。誤差がいい。

42.195kmもあると、42mぐらいの誤差はいいんだ。

でも走っている人にとってはきついと思うけどなあ。   

  

マラトンーアテネの距離だから、こんな中途半端だと思い込んでいました。

覆してもらえました。感謝。

さらに調べていたら、マラソンの面白い話にぶつかりました。

次の投稿で。

 

 

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