2012年4月30日 (月)

塩昆布焼きうどん/うま味

  

今日は4月30日。

   

夕食シリーズ。今回は塩昆布焼きうどん。

「旨み倍増!ウマすぎの塩昆布焼きうどん」61

  

塩昆布を入れるのがコツのようです。

たっぷり入れました。レシピ以上に。

   

旨み・・・うま味。

5つの基本味の一つ。

(甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)

この「うま味」を命名し、1908年に昆布に含まれるうま味成分が

グルタミン酸ナトリウムであることを発見したのが、

池田菊苗(いけだきくなえ)という人だそうです。

池田は、このうま味成分を使った調味料製造方法を発明します。

池田から依頼を受けた鈴木三郎助(味の素㈱の創設者)によって調味料が製造され、

「味の素」の名前による調味料として、世に出ました。

   

以上、ついつい調べていたら、池田菊苗という人に出会いました。

発見からちょうど100年の2008年には、

小栗旬が池田菊苗に扮した味の素のCMがあった模様。

20080321_1_1 CM撮影風景

http://www.ajinomoto.co.jp/press/2008_03_21_1.html

う~ん、見た覚えがないなあ。

   

味の素はHPで池田菊苗とうま味の説明を映像で紹介してくれています。

http://www.ajinomoto.co.jp/kfb/umami/

   

池田菊苗についての本もありました。

「『うま味』を発見した男 ―小説・池田菊苗」(上山明博 著/PHP研究所)

2011年の発刊。昨年ではありませんか!

こういう時は自分中心で考えます。きっと私のために発行してくれたんだと。

読まなくてはね。

近所の図書館にあることも判明。

近いうちに、借りてこよう。

   

今朝、また面白いことに出会った。

 

里芋と豚バラ肉料理/料理は化学反応

  

今日は4月30日。

   

こんな夕食に挑戦しました。

  

☆里芋のめんたいバター   

http://cookpad.com/recipe/1677580

   

里芋がたくさんあるから、今回は里芋で。

奥さんのリクエストで挑戦しました。

フライパンで里芋を炒め、そこへ明太子、マヨネーズ、酒、みりんと次々に入れました。

ジャージャーと音がして、なんか料理を作っているなあ!と思いつつやっていました。

(今、気がつきました。麺つゆを入れるのを忘れていた)

里芋の皮むきが大変でした。そこに一工夫がいると思いました。

でもおいしくて、たくさんの里芋を食べました。

   

   

☆簡単!豚バラ肉のマーマレード煮・煮卵付

http://cookpad.com/recipe/1753919    

   

豚バラ肉は何となく相性がいい。

あまり失敗する予感がない。今回もうまくいきました。

マーマレードと醤油を混ぜるなど、相変わらず料理はいろいろ混ぜるので、

どんなことが起こるのか楽しみです。

誰が最初に考えたのか。

豚バラ肉のタレがご飯にマッチして食が進み、あっという間に食べてしまいました。

   

   

4月9日放映の「プロフェッショナル 仕事の流儀 

覚悟を持って、我が道を行く 日本料理人 山本征治」を見ました。

Photo01 Extra_photo01
http://www.nhk.or.jp/professional/2012/0409/index.html

上記サイトからの引用。

山本は毎晩、営業が終わった深夜から明け方まで、厨房に立ち続ける。

料理を化学反応に遡(さかのぼ)って学び、最新の実験器具を駆使し、

全身全霊を傾けて、食材の可能性を突き詰めていく。

その背中を押すのは、1つの思い。

「日本料理のオリジナルを作った人が、今の世にいたら、同じことをするだろうか?

科学技術も流通も進歩した今だからこそできることが必ずあるはず。

先人からバトンを受け継ぎ、一歩でも前へ進むこと、

その幅だけが、自分が生きた証になると思う。」

    

料理は化学反応。面白そうだ。  

  

 

豊川のシジミ採り

 

今日は4月30日。復帰まであと2日。

  

ここは豊橋市内の豊川(とよがわ)です。

川の中に人がいます。何をしていると思いますか?

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シジミ採りです。4月19日撮影。

川の真ん中まで行っています。思ったより浅いようです。

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 川の中央からの眺めはいいだろうなあ。

みんなが自動車であくせく動いているのを見つつ、シジミ採り。

優雅な作業に思えます。

 

2012年4月29日 (日)

プロ野球の歴史の勉強の延長で見た映画

 

今日は4月29日。

   

戦前から戦後にかけてのプロ野球に関心あり。

いろいろ調べました。

   

その延長で?映画「瀬戸内野球少年団」(1984年)を見ました。

終戦直後の淡路島が映画の舞台。

夏目雅子演じる江坂(こうさか)国民学校教師が、子どもたちに呼びかけて野球をやることになります。

チーム名は、「江坂タイガース

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もうこれは、「大阪タイガース」から来たものでしょう。

阪神タイガースの前身が大阪タイガース。

1935年発足。

戦時中は、敵性語は使わない風潮から、「大阪タイガース」は「阪神」となりましたが、

1947年からは再び「大阪タイガース」にもどりました。

淡路島だし、人気の有名チームだったことでしょう。

1961年から今の「阪神タイガース」となりました。   

最近プロ野球の歴史の勉強をしていたので、このチーム名からすぐに連想できました。

  

28年前の映画なので、俳優さんが若い。

郷ひろみがなかなか格好いい役でした。

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渡辺謙の映画デビュー作。特に若さを感じました。

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夏目雅子の遺作となった映画。

もうこの人はいない。映画では永遠の命をもらって演じています。  

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大滝秀治、ちあきなおみ、島田紳助、伊丹十三、岩下志麻など

楽しい配役でした。

最も印象に残ったのは、バラケツこと正木三郎役の大森嘉之です。

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悪ガキを気持ちよく演じていました。

大森さんについては明日の投稿につづく。

 

 

 

 

 

 

巨怪伝・・・沢村栄治/死んでしまえば仇花

 

今日は4月29日。

   

前投稿のつづき。

巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」より。

   

沢村栄治の父親賢二が、正力松太郎から職業野球入りについてこう言われました。

その引用です。

  

「とにかく日本の野球も必ず職業野球の時代がやってくる。

だから栄治君のことは僕に任せてくれないか、

そのときだけの面倒をみるというのではなく、

先の先まで栄治君の面倒をみるから、正力を信用して万事お任せ下さい。」 (255p)   

  

でも、沢村栄治は巨人軍を首にされます。

正力松太郎は、約束を守りませんでした。

著者佐野眞一はこう書いています。

  

戦後まもなく、生まれ故郷の宇治山田で沢村の追悼試合が行なわれた。

正力からすれば、これが報恩と感謝の気持ちだったのかも知れない。

だが、一生の面倒を見る、と約束しておきながら、

馘首(かくしゅ)しておいて、プロ野球が復活したからといって追悼されても、

沢村の遺族たちが浮かばれようはずがなかった。 (286p)

   

父親の賢二はこう書き残しています。

   

「人間の世界は、生きていてこそ、全てが勝利であることを、

私は栄治の戦死によって知りました。

死んでしまえば、幾ら功労があっても、それは仇花(あだばな)です。

口や活字で、その偉大さが偲ばれても、それは空虚なものです。」 (286p)

  

   

そうだよ。死んじゃったらおしまいです。

   

以上、黒鉄ヒロシさんの言葉をきっかけに、沢村栄治のことを勉強してみました。

戦争や大人の都合で若くして死んでしまったことがよくわかりました。

いいきっかけを与えてもらいました。

   

プロ野球スタートのことを勉強していて、印象に残った人が1人います。

鈴木惣太郎

機会があったら、この人についてもっと調べてみたい。

巨怪伝・・・ルールを知らなかった「プロ野球の父」

   

今日は4月29日。

   

沢村栄治のことを調べていくと、正力松太郎のことを知りたくなりました。

「沢村栄治7.卒業証書が届いていたなら」html

そして読み始めたのが「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」です。

佐野眞一著。文芸春秋。

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分厚い本でした。660ページ。

半分くらい読んで、図書館に返す日が来てしまって、

完読ができませんでした。

文庫本でも発売されているようなので、いずれ完読したい本です。

関心のあった戦前と戦後の野球関連のところは読みました。

野球のルールさえあまり知らなかった正力松太郎が、

プロ野球の父」と呼ばれるようになった過程が見えてきました。

もし、正力が暴漢に襲われて命を失っていたなら、

プロ野球はスタートしなかった・・・今ではプロ野球があるのが当たり前ですが、

プロ野球が日本に根付いて当たり前になるまでに正力松太郎は重要な役割を果たしました。

プロ野球はそれほどあやうい存在でした。

プロ野球を始めたいと思っていた人たちに頼られ、

その事業に乗り出し、最後には自分の手柄にしてしまう。

そんな力(魅力?実力?行動力?)を正力松太郎は持っていました。

   

沢村栄一投手に関する記述については、次の投稿で。

   

  

一つ、本書の中で、千田是也(せんだこれや)さんについての記述がありました。

1904年生まれ、1994年に亡くなった演出家・俳優。

名前だけは聞いたことがあった人です。

関東大震災のときに、朝鮮人に間違えられて殺されかけました。

現場が千駄ヶ谷だったので、千駄ヶ谷のコリアンから、

千田是也という芸名が作られたそうです。

ものすごい量のエピソードのつまった本の小さなお話。印象に残りました。 (つづく)

   


   

 

 

回鍋肉/ネギ坊主の観察

  

今日は4月29日。

   

夕食シリーズ。今回は回鍋肉(ほいこうろう)に挑戦。

この回鍋肉の素を使いました。

RIMG0010
   

箱の裏面には、材料の切り方まで書いてあり、

初心者でも、失敗しないような説明がありました。

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ネギは、庭の畑にあるのを使うということで、抜いてきました。

ネギの頭にネギ坊主が付いていました。

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まだ花が開く前のネギ坊主。

薄い膜に覆われていました。

こうなっているんだ…と観察して、膜を破ってみました。

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花の塊。こんなにしっかり観察したのは初めてです。

   

しかし、ネギの構造ってどうなっているんだ。

変な植物です。こんな緑の筒状の先っぽに花ができる。不思議です。

   

調べてみました。

   

ネギは下から見ていくと、まずは根っこがあります。

そこから1センチほどが茎です。茎はわずか。

そこから上は葉っぱです。白くても青くても葉っぱ。

白い部分は土の中にあったところで、葉肉に厚みがあり、

他の葉と環状に重なっています。

実はこの部分が、私にとっては最も嫌いな部分です。

子どもから今に至るまで、苦手不動の食べ物です。

謎は花。葉っぱの先に花ができるのか?

  

どうやらネギ坊主が付く緑の部分は、葉っぱではなくて、

「花茎」のようです。

ネギが成長して、ある程度の低温にさらされると花芽ができ、

暖かくなると花茎が伸びだして、ネギ坊主ができるようです。

花茎が伸び始めた時の写真が、いろいろなサイトで見られます。

特にこのサイトがお薦めです。

※参考:「家庭菜園奮闘記 葉ネギの花」html   

   

苦手であったこともあって、きっと避けてきたのでしょう。

今回ネギのことが少しわかってきました。

      

回鍋肉、おいしかった!

白ネギも細かく刻んだし、キャベツや豚肉に紛れて難なく食べることができました。

めでたし、めでたし。

 

缶詰博士なる人がいた/ツナ缶の始まり

  

今日は4月29日。

  

ツナ缶について書いた投稿のつづき。

「ツナ缶概観」html

ツナ缶について調べていたら、「缶詰博士」なる人のブログに出会いました。

「缶詰blog」cans/

 

3冊ほど著作もあり。

缶詰も極めたら本ができてしまうのですね。

   

このブログで、ツナ缶の始まりを勉強しました。

ここです。

「缶詰blog 缶詰の現場から SSK清水食品」 html

ツナ缶が発明されたのは、1903年アメリカのことでした。

日本では1929年にツナ缶が作られ始めます。

その辺りの記述を、上のブログから引用します。

   

(SSK清水食品の)創業は1929年(昭和4年)のこと。

その2年前に、静岡水産試験場で技師を務めていた村上芳雄が、

米国向け輸出品としてツナの油漬缶詰を試作していた。

当時の日本は外貨獲得が急務だったから、各産業で輸出品の開発が進んでいたのだ。

ツナ缶は特に米国向けとして有望視されていた。

試作品が好評を得たので、村上芳雄はその事業化を鈴木商店の6代目鈴木与平に相談してみた。

(中略)

当時の日本は不景気に見舞われており、静岡も例外ではなかった。

ツナ缶の輸出業を始めることで失業者を救済し、

ひいては日本経済の発展にもつながると考えた鈴木与平は、

昭和4年12月に清水食品を設立した。

折しもこの年の10月には、世界恐慌の引き金となったブラック・サーズデーも起こっていたから、

鈴木与平は大決断をしたんでありますなァ。

翌年の昭和5年5月には米国にツナ缶を輸出開始。以後、清水港からの重要輸出品目となっていくのだ。   

  

はごろもフーズ株式会社」の創業は、2年後の1931年(昭和6年)のことでした。

はごろもフーズは、国内向けに多くを供給したため、

シーチキンの商品名が国内で有名になったようです。

     

いつも思いますが、何にでも歴史あり。

 

映画「ブラインドサイト」4・・・登頂か下山か

   

今日は4月29日。

   

前投稿のつづき。

映画「ブラインドサイト~小さな登山者たち~」(2006年)のことで4本目の投稿。ラスト。

   

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映画のクライマックスは、最終キャンプ地でのこと。

体調を崩して、これ以上登るのは無理という判断で、

3人の子どもが、下山します。

残ったメンバーで、ラクパリ頂上を目指すか、それとも止めるか。

私は登るべきだと思って映画を見ていました。

ここで意見が分かれます。

   

リックはこう考えていました。

   

僕は頂上を目指すのは無意味とは思わない。

盲目の子どもたちが頂上に立つのは、ある意味象徴的なことだと思う。

”ここまでやれる”と自分の心と体に刻み込むのは素晴らしい。

   

リックはこの考えで、最高峰の山々を次々に登ってきたのでしょう。

そして彼の仲間も、彼の考えに賛同し、命がけのサポートをしてきたと思います。

サブリエは、先にも書いたけど、こんな考え方。 

   

頂上はどうでもいいの。

力を合わせて楽しく登ることが大事よ。安全にね。

私たちは安全だし、とても楽しんでいる。

頂上登頂より、それが大事だわ。

頂上に登れたらいいし、登れなくてもいい。

   

そんなサブリエは、3人の子どもが下山した時に、全員が下山することを希望します。

  

私にとって、一番重要なのは、生徒が連帯を学ぶことです。

みんなが一つになって、最も弱い者に気を配り、彼らを最優先に考えねばなりません。

RIMG0664 ※サブリエ

だから私がひそかに願っていたのは、今日、全員で山を下りることでした。

チームとしてです。

生徒たちの目的は、登頂そのものではなくて、チームの一員となることです。

エリックを知り、新しい友人を得ることです。

この旅では、それを望んでいました。

彼らは”自分たちの山”に登りました。

盲人でも生きていけると証明したのです。

   

しかし、エリックの仲間からは、

想像していたより山が怖いところだったから、怖気づいたのではという意見も出ます。

きっと彼らは、ここまで登ってきたのだから、子どもたちに登頂を成し遂げさせたい、

僕らがサポートすれば、必ず登らせられると思っていたのでしょう。

お互いに子どもたちのことを思っているのに、ずれていきます。

エリックや彼の仲間には、すぐ近くに見えるラクパリの頂上は見えていますが、

サブリエには見えていませんでした。

今いるキャンプ地が頂上に見えたと思います。

   

エリックが理解します。

  

ラクパリ頂上までたった450m。

旅の99%を終えて、残りは1%だった。

頂上直前で登山は終わった。

僕は登山家だから、頂上に登りたい。

だから失敗といえる。

でも子どもたちは違う。だから僕は考えを変えた。

   

エリックは下山を決意します。

さらに、エリックはラストでこう語ります。

  

(山では)自分は人間なんだと感じます。

人間の弱さを感じます。

温かさ、食べ物、水、そして友人が必要だと思わせます。

最後の数日、サブリエの言葉が身に染みました。

みんなが一緒に苦しむ時こそ、最も強い絆が生まれる。

この旅は、考えていたのとは少し違いました。

主役は山よりも友情や連帯感だったのです。

   

ラストにふさわしく、穏やかにエリックは語っていました。

映画はエリックの語りで上手に収束したと思いました。

この登山はエリックの側からの提案でした。

サブリエも賛成しましたが、

エリック側とサブリエ側の考え方の違いが事前にすりよれていなかったことが、

映画中の大人たちの言い合いになりました。

映画を観終わった後は、私は登れば良かったのにという気持ちが強かったです。

でもあらためて、なぜサブリエがこう考えたのか考えました。

先にも書きましたが、やはり頂上が見えないというのは、頂上への意欲を高めないと思います。

でももっと深い理由。サブリエの「最も弱い者に気を配り」という発想。

この発想の辺りから生じてくる理由があると思います。

サブリエは、ドイツから一人でやって来て、チベットで盲学校を始めた人。

浅い理由ではないと思います。もう少しサブリエについて知りたいです。

(気になったのは、サブリエの頑固さ。あのように頑なになった理由も知りたい)

2001年に本も発行されています。この本を入手して読みたいですね。

519210R645L

   

 

 

 

 

 

 

   

 

   

 

映画「ブラインドサイト」3・・・盲目の人の登山

   

今日は4月29日。

   

前投稿のつづき。

映画「ブラインドサイト~小さな登山者たち~」(2006年)のこと、3本目の投稿。

   

盲目の人が山に登っても景色は見えません。

面白いのかなと思います。

その答えが映画の中に出てきます。

   

盲目の少年の一人が語っています。

  

普通の人が山に登れば、どこまでも見渡せます。

でも見えない僕らは、広がる景色を想像して、心を豊かにするのです。

   

「心を豊かにする」と訳していましたが、本当にそう言ったのかな。

いいこと言います。

   

目が見えないと、想像力を使います。

絶え間ない想像力の世界です。

におい、触感、音からすべてを想像します。

時々立ち止まって、そういう感覚を使って楽しむのです。

 

これが盲目の人の登山の楽しみ方。

なるほどと思いますが、目の見える人との決定的な違いがあると思います。

頂上が見えるか見えないか。

この違いが、登山に臨む態度に違いを生じさせるのではと考えます。

(エリックは別格かな)

サブリエの不満が出てきます。次のように語っています。

   

子どもたちも言いました。

ただ歩いて登るだけでは面白くないと。

話をしたり、物語を考える時間もなく、嗅いだり、聞いたりする暇もない。

つららが落ちる音、それぞれ違う音がする(荷運びをする)ヤクのベル、素晴らしいのに。

これでいいのかと思います。

目標は「全員で頂上」でいいのか。

本当に子どもたちのための登山なのか。

何かを誇示するための登山になっていないかと。

    

難しい。

エリックと、盲目の少年少女の登山をサポートする人たちは、

全員を頂上に連れて行き、達成感を味わわせたいと思っていました。

少年たちの中にも、登ったということで、自分たちに自信を持ちたいと思っていた子もいます。

しかし、サブリエの考え方は微妙に違います。

本当はこの違いを、登山前に十分話し合って理解しておくべきだったのでしょう。

登山の最中に、何度か論争があり、カメラは映像としてとらえ映画に含まれます。

   

目が見える見えないという感覚の違いは、考え方の違いを生じさせます。

理解しあうためには、コミュニケーションが大事なんです。

映画はその様子を描いたとも言えます。

両者の中間に立つのが、エリックかなと思えました。  (つづく)

   

 

   

 

 

   

 

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