2019年2月14日 (木)

自転車のルール「歩道は歩行者優先で、車道寄りを走行」

今日は2月14日。

  

整体に行ってきました。

1ヶ月ペースで整体に行っています。

前回は1月10日。

この1ヶ月は、身体には大きなハプニングのあった期間でした。

  

10日間腰痛に苦しみ、コルセットを巻いて

生活していました。

※参考:ここでも道草 腰痛!1年3か月ぶりに整形外科に行きました(2019年1月22日投稿)

そして自転車で転倒。

※参考:ここでも道草 自転車転倒で予想外の重症/不幸中の幸い(2019年2月10日投稿)

ボロボロ状態で整体に行って、

念入りに施術(しじゅつ)してもらいました。

 

整体でも、事故現場を見てもらいました。

Rimg1579a

自分の独りよがりであってはいやなので、

この写真を見せて、危ないかどうか判断してもらっています。

 

ただ私は交通ルール的には良くなかったようです。

警視庁の小学生用パンフレットです。

警視庁 「自転車に正しく乗ろう」パンフ

Photo

Photo_2  

歩道は歩行者優先で、車道寄りを走行

という記述があります。

私は自転車で歩道の車道の反対側を走行していました。

車道寄りを走行していたら、段差にはぶつからないでしょと

言われれば、次の言葉がなかなか出ません。

このルールを十分に自覚していませんでした。

すみません。

  

でも、歩行者が歩いていて、かわすために、

車道寄りを走れない可能性もあると思います。

あの段差はやっぱり危険なのです。

 

2019年2月13日 (水)

間もなく2月14日/カカオ豆の生産地での児童労働

今日は2月13日。

  

最近のネット上のニュースで印象に残ったものはこれ↓

毎日新聞 「カカオの涙」に思いを…産地の児童労働や貧困 パティシエらが支援の輪(2019年2月9日)

 

一部引用します。

  

2月14日のバレンタインデーを前に、

チョコレートの需要が高まっている。

そんな中、原料となるカカオ豆の生産地が抱える

貧困や児童労働などの問題を知ってもらおうと、

パティシエや非政府組織(NGO)が声を上げている。

  

パティシエは、名古屋市の田中千尋さん。

 

「のチョコにカカオ産地の努力がたくさん

詰まっていることを想像しながら味わってほしい」。

名古屋市の洋菓子店「カフェタナカ」のパティシエ、

田中千尋さんはそんな思いから、

店頭ではカカオ豆の特徴や産地の現状を説明するようにしている。

カカオ豆の多くは西アフリカや南米など赤道付近の、

インフラも整わない発展途上国で生産されている。

農家の大半は貧困に苦しみ、児童労働や後継者不足、

病害など産地が抱える問題は多い。

一方、日本のチョコ消費は増加の一途をたどっている。

2017年度の国内消費量は27万4067トンと

20年間で約7万トン増加。

今や世界有数の消費大国だ。

近年は新興国でも消費が増す中、

カカオ豆の取引価格は低水準のままで、

農家は貧困から抜け出せずにいる。

田中さんは08年から、フランスのチョコ会社とともに

エクアドルやマダガスカルの農家に足を運んでいる。

チョコを見たことも食べたこともないという農家が多い中、

企業が農家と連携し、生産技術や加工方法の伝授を始めると、

生産量や品質が年々向上。

農家の生産意欲も10年間で格段に上がったという。

NGOは「ACE(エース)」

  

「問題解決には消費者の声が大きなカギとなる」。

日本に輸入されるカカオ豆の7割を生産するガーナで

児童労働撲滅に取り組むNGO「ACE(エース)」(東京都)の

白木朋子事務局長はそう指摘する。

カカオ豆生産に携わる子供はガーナだけで92万人いるとされ、

ACEは子供を働かせている農家を説得して意識改革を促したり、

学用品を支給したりして、09年以降500人超の子供たちを

労働から解放し、就学させてきた。

そうした児童労働のない産地で作られたカカオ豆の積極利用に

大手菓子メーカー森永製菓などが賛同。

売り上げの一部を寄付に充てるなど支援は広がるが、

海外に比べると日本企業の動きはまだ鈍い。

    

  

ACEについては、次のサイトへ。

ACE(エース)HP

 

今年度、社会科の地理で、アフリカを教えた時には、

ACEの活動のことを知りませんでした。

ガーナのカカオ生産地の児童労働減少に向けて

一生懸命頑張っている人たちがいたのですね。

HPには、印象に残る記述があちこちにありますが、

今回は、次の記述を引用します。

身近に置いておきたい記述です。

  

奪われた「子ども時代」は取り戻せない

子ども時代は成長の時期。

身体や心の健康を保つことはもちろん、

教育を通じて生きていくために必要な知識やスキル、

社会性を身につけ、将来に備える大切な時期です。

成長途中の未熟な身体で重労働を課せられることによって

健康が損なわれたり、教育を受けられないことで

最低限の読み書きさえできなければ、

将来おとなになった時に自立して生きていくことはできません。

基本的な衛生に対する知識を身につけられなければ、

自分の命を守ることさえできません。

児童労働は、子どもが自分の力で命を守り

将来切り拓く可能性を妨げる、

子どもの未来を奪うことともいえます。

  

子どもの未来を奪う」・・・やっては行けないこと。

  

  

わたしたちの生活とつながっている児童労働

児童労働は、遠くの貧しい国の問題と思われるかもしれません。

しかし、日本に暮らすわたしたちと決して

無関係ではありません。児童労働原因として

「貧困」が挙げられますが、それだけが原因ではありません。

子どもの労働で作られているカカオやコットンは、

チョコレートや衣服に生まれ変わり、

わたしたちの生活の一部になっています。

消費者の「安くモノを買いたい」という要望や、

「安くモノを作って販売し、利益を上げたい」という

企業の思惑が、生産者へのしわよせとなって、

児童労働を生んでいるともいえます。  

  

以上のことを知って、間もなく2月14日を迎えます。

バレンタインデーです。

2019年2月12日 (火)

元寇「風で勝ったのではなく、人で勝った」

今日は2月12日。

  

鎌倉時代の教材研究で、2014年9月18日放映の

英雄たちの選択 元寇 北条時宗 最強の帝国に挑む」を見ました。

その時に、このブログに出合いました↓

日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

Photo  

今回見た「英雄たちの選択」を読み物化してくれてありました。

私と同じ匂いのする・・・

私と同じように、番組を見ただけでは気が済まず、

読み物化してしまう方のブログです。

どんな番組だったかを知るのに、ありがたいのです。

  

  

私も上記の「英雄の選択」の読み物化をしてみます。

冒頭の渡邉アナウンサーと磯田道史さんの会話が

印象に残りました。

  

渡邉:さて今回は、今からおよそ740年前。

  「文永の役」「弘安の役」と名づけられた

  2度にわたる元の日本侵略です。

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  この2つの戦いはまとめて「元寇」や「蒙古襲来」などと

  呼ばれています。

  そして、この時、鎌倉幕府の代表として対応に当たったのが、

  執権北条時宗です。

Rimg1589

  磯田さん、元寇と言いますと、圧倒的に強い元の軍隊が、

  いわゆる神風によって壊滅して、日本は救われたイメージが

  あるんですけれども・・・

磯田:私は思うのですけども、ひょっとしたら、

  風で勝ったんではなくて、人で勝っているという面も

  あったんじゃないかと思うんです。

Rimg1585

  やっぱり時宗は情報収集をきっちりとして、

  対策をとってますね。

  勝つべくして勝つという面もあったんじゃないか。

   

 

私の「元寇」に持っていたイメージは、

渡邉アナウンサーと同じです。

偶然台風が来てくれたおかげで、

日本は救われたと思っていました。

今回の「英雄たちの選択」で、そのイメージは変わりました。

 

 

文永の役では、鎌倉幕府は元の2度目の襲来に備えて、

石積みの防塁を御家人たちに造らせました。

その防塁を使って、幕府軍は2カ月間元軍の上陸を防ぎました。

そこに台風が来ました。

  

2か月上陸を防いだことで、上陸側の作戦は失敗しているとし、

2か月も経ったら、台風も来るでしょうという声もありました。

つまり偶然ではなくて、台風は来るべくして来たというわけです。

長大な防塁を御家人たちが一緒に造ったおかげで、

集団で戦おうという意識も高まったと考える人がいました。

やはり「風で勝ったのではなく、人で勝った」と言えるのです。

  

 

北条時宗がモンゴルからの使者と接したのは、

1268年。

時宗17歳。

そして弘安の役が済んで3年後に亡くなります。

34歳。

「元寇」のために生まれてきた人物と評されます。

そうだったんだと思いました。

  

  

「英雄たちの選択」で新しいこの2点の見方を知ったのは、

大きな収穫でした。

2019年2月11日 (月)

「学校の『当たり前』をやめた。」その6/自問:目的のない授業を無駄に行っていないか?

  

今日は2月11日。

  

前投稿に引き続き、

学校の『当たり前』をやめた。

(工藤勇一著/時事通信社)より、引用します。

  

たくさん引用したい文章がある本です。

その全てを書き留めておきたいです。

それも今やっておかないと思っています。

後に回すと結局やらないことになりそうです。

でもタイムアップ。この記事がラストです。

 

江戸時代の寺子屋について書いた文章です。

  

「②教え方・学び方」については「自学と学び合い」が

中心です。教師が現在のように大勢の生徒に一斉授業で

教えることはありません。

分からないことがあれば友だちに聞いたり、

教えたり教えられたりしながら主体的に学んでいました。

実はこれは、世の中の営みそのものです。

つまり、社会に出てからの大人の学び方と、

子どもたちの学び方は同じだったのです

今のように一斉授業の中で一方的に情報を受け続け、

ただ丸暗記するような勉強方法ではありません。

また、「これをやりなさい」「あれを勉強しなさい」と

一方的に押し付けられることもありませんでした。

学びは、人に頼るものではなく、自分で分からなければ

調べたり考えたり、それでも分からなければ聞くなどしました。

当時は、「対話」が当たり前だったのです。

まさに「学びのスタイル」が「社会のスタイル」なのです。

(69p)

  

先日、屋根裏の倉庫からアナログ版「道草・社会」を

出してきて、久々読んでみました。

その時に思ったのは、生徒ともっと

社会の話をしていたということです。

昨年の4月からの私は、一斉授業で生徒に社会科の内容を

紹介し続けてきた”だけ”でした。  

久々の中学校だったけど、いろいろ思い出し、

慣れてきたので、よかれと思うことを動きたいですね。

以前「学び合い」の活動に興味をもち、関係の先生と話したり、

本も読みました。最近は疎遠でした。

もう一度思い出したい。

  

  

各学校は、学習指導要領を上手に活用して、

子どもたちに必要な力を身に付けさせていくことが

大切です。個人的には、現在のカリキュラムの内容は

多すぎると感じています。

現代の社会が求める最小限のものに絞り、

もっとシンプルにする必要があると考えます。

ところで、教育関係者の多くは、学習指導要領に基づいて

作られた教科書をこなすことや、

定められた時間数を守ることに意識が向きがちです。

地域の実情や目の前の子どもたちの実態に合わせて、

柔軟に教育内容を工夫することは、ほぼ見られません。

(73p)

  

  

学習指導要領に教員の意識が縛られていて、

自由な発想が奪われてしまっているのです。

目の前の子どもたちが社会の中でよりよく生きていくために

何が必要なのか、多くの教員、教育関係者が自分の頭で

考えることを忘れて、教科書をこなすことに終始して

しまっていることが問題だと考えます。

その結果として、「今週の学級活動、何にする?」

なんて会話が、多くの職員室で交わされているのが

現実ではないでしょうか。

「忙しい、忙しい」と嘆きながら、その一方で、

目的のない授業を無駄に行う。

学習指導要領に縛られた結果がこれでは何とも皮肉です。

(74p)

    

「目的のない授業を無駄に行う」

なかなか痛烈です。

でも定期テスト前の授業なんて、その傾向強し。

  

  

思わぬ事態も出てきました。

生徒が作ったノートを回収して、「A」「B」「C」で

評価しようとする教員が出てきたのです。

私はやめるように言いました。

ノートは評価してはいけません。

ノートづくりの目的がすり替わってしまうからです。

教員が評価するとなれば、生徒の中には「教員に褒められる」

ことを目的とした、「きれいな」「他人に見せるための」

ノートづくりを始めることがあるかもしれません。

しかし、本来ノートは、自らの思考を深めるためのものです。

そして、後で振り返ることによって

理解を深めていくためのものであります。

先生に見せることが目的になってしまうと、

せっかく作ったノートが本来の機能を

果たせなくなってしまいます。

(106~107p)

  

ここに来年度の改善のヒントがあります。

ノートは何のためにあるのか、

勤務校の社会科の先生たちと話し合いたいです。

明日、生徒がノートを出してきます。

私たち社会科教師は評価します。

今年度はずっとやってきました。

来年度はどうする?

  

結果は、このブログに書きます。きっと。

 

  

本「学校の『当たり前』をやめた。」からの引用はここまで。

後日続ける場合は、「その7」として投稿したい。

「学校の『当たり前』をやめた。」その5/「行動の教育」は私自身にも

  

今日は2月11日。

  

前投稿に引き続き、

学校の『当たり前』をやめた。

(工藤勇一著/時事通信社)より、引用します。

  

私はよく教員に,「どうでもよいことと、どうでもよくないことを、

 

分けて叱りませんか」と話しています。

 

どうでもよいことなら軽く注意を促せばよい。

  

逆に、命や人権に関わること、差別や暴力といった行為には

  

厳しく対応し、自身の言動の意味を認識させる必要があります。

 

(50p)

  

  

これまたなるほどです。

 

叱る時にはこの言葉を忘れずに。

  

う~ん、忘れそうだけど、何度も思い出し、

  

自分の中に定着させたいですね。 

    

具体的な例を挙げて考えてみましょう。

 

ここに、全く正反対の2人がいるとします。

  

一人は「心の底から優しいことをしたいと思っているのに、

  

人目を気にするあまり、行動できない人」

  

そしてもう1人は、「決して純粋な理由ではないけれども

  

よいことを行っている人」。 

 

どちらの人がより価値があるでしょうか。

  

人は行動の積み重ねで評価されていくものだと私は思います。

  

そもそも人の心の中など簡単に分かるものではないとも思います。

  

私自身、いまだに自分の心さえ、よく分からないことがあります。

 

そもそも「心はみんな違っていい」はずです。

 

人の価値観、考え方はみんな違ってよいのです。

  

私は生徒たちに、人は行動こそが大切だという

 

「行動の教育」を伝えていきたいと思っています。

 

かの孔子が、論語の中で「70にして心の欲する所に従って

 

矩(のり)を踰(こ)えず」(自分の心のまに行動しても、

  

人の道を外さなくなったのは70歳になってからとのこと)

 

と語っています。

 

あの孔子でさえも、70歳になっても意識して

 

自らの行動をしている。人生の最後のステージに差しかかっても、

 

そうした努力をしていたことに感動します。

 

(60~61p)

    

    

よかれと思ったことは行動する。

  

行動を積み重ねる。

  

生徒だけでなく私自身も行動すること、

  

私は「行動」よりも「動く」と表現しているかな。

  

とにかく「動く」  こころがけたい。

  

  

   

  

現在の学校教育を見渡すと、

  

目的と手段の不一致はもちろんのこと、

   

手段自体が目的化されているようなケースがたくさんあります。

   

加えて、そうした矛盾に多くの人が気が付いていないか、

  

あるいは「見て見ぬふり」をして、

 

何らアクションを起こさないでいることについて、

  

なぜなのだろうと、私はずっと考えてきました。

  

今こそ、目的と手段の不一致がないか、

  

徹底的に検証していく必要があります。

  

そのスタート地点として、「学校は何のためにあるのか」という

  

根源的な問いに立ち返って、読者の皆さんと一緒に

  

考えてみたいと思います。

  

「はじめに」でも書いた通り、学校は人が

  

「社会の中でよりよく生きていける」ようになるために

  

学ぶ場所です。そしてその結果として、

  

学校で学んだ子どもたちが将来、「より良い社会をつくる」

  

ことにつながっていくと考えます。

  

勘違いしてはいけないのは、「学校に来る」こと自体は、

  

社会の中でよりよく生きていけるようにするための

  

一つの「手段」にすぎないということです。

  

たとえ、何らかの事情で学校に行けなくなったりしても、

  

学校以外にも学びの場はありますし、

  

社会とつながることだってできます。

  

勉強だってできるし、

  

もちろん立派な大人になることができます。

 

逆に、学校にきて学習指導要領に定められた

 

カリキュラムをこなしても、知識を丸暗記してテストで

  

よい点をとれるようになっても、

  

社会でよりよく生きていけるとは限りません。

  

この点について、私たちはもっと柔軟に考えられるように

 

なっておきたいものです。

  

(64~65p) 

 

  

もう少し学校に関われる身です。

このタイミングで、本「学校の『当たり前』をやめた。」に

出合えたことをラッキーと思って、考えていきたい。

Nationalday1505223_1920 pixabay スイスの建国記念日?

 

  

もう1本書く。つづく。 

「学校の『当たり前』をやめた。」その4/いろいろな先生がいるから「全員担任制」

 

今日は2月11日。

    

前投稿に引き続き、

学校の『当たり前』をやめた。

(工藤勇一著/時事通信社)より、引用します。

  

  

見直ししたものの3つ目は、1クラス1担任による

固定担任制です。

本校では、2018年度から学級担任を固定せず、

学年の全教員で学年の全生徒を見る

「全員担任制」を採用しています。

一人ひとりの教員にはそれぞれ得意分野があります。

それを生かすことが、生徒にとって

大きな価値につながってい ます。

生徒のサインを読み取るのが得意な教員、

保護者対応が得意な教員、

ICTの活用に長けた教員、

さまざまな個性を生かし合うことができる学年運営に変える。

それが全員担任制です。

(32p)

  

この考え方は、教科担任制をとっている

中学校の方が比較的スムーズに考えられると思います。  

教師は万能ではありません。

得意不得意があります。

不得意なことを無理してやることで、

今までたくさん自己嫌悪に陥ってきました。

得意なことで他の先生をサポートできたら、

きっと気持ちよく仕事ができたでしょう。

来年度から3年間。私はおそらく特別支援学級の主任です。

4学級4人のメンバーです。

「全員担任制」の考え方で行きたいですね。

 

参考にしたのは、「チーム医療」の考え方です。

患者にとって、最も適切な医療を行うために、

心のケアや、専門性の高い処置を行う

病院の取り組みは、学校に置き換えると

すべての子どもに最善の手立てを、

学校全体で取るという姿になります。

(32p)

 

  

これまでの固定担任制には、さまざまな弊害が見られます。

例えば、生徒のすべてを1人の担任に委ねることに

なってしまいがちなため、固定担任制では、

子どもや保護者にとっての学級の良し悪しは、

多くの場合、担任に紐づけられる傾向にあります。

学級の中で問題が起きれば、子どもたちや保護者は

安易に担任のせいにしたり、また担任の方も自分で

問題を抱え込んでしまったりする状況が生まれていきます。

(33p)

   

  

固定担任制の下では、学級担任は、クラスの子どもたちに対し、

良い意味でも悪い意味でも責任を持ちすぎるところがあります。

極端に言えば、自分の学級の生徒の人生すべてを

背負っているかのような気負いがあります。

加えて、「クラスの子どもに好かれたい」という気持ちも

強いものです。その結果、指導は必要以上に手厚くなります。

そして時に、極端になります。

自律することを学ばない子どもは、物事がうまく行かなくなると、

担任教員に責任転嫁をします。

勉強が分からなければ「授業が分かりにくい」と言い、

忘れ物をしたら「聞いていない」と言い訳をする。

担任が「好かれたい」と思って行った手厚い指導の結果が

これでは何とも皮肉な話です。

(34p) 

 

  

生徒たちの間にある「勝ち組」「負け組」の意識を

なくすねらいもあります。

学年の教員集団は、多くの場合、年齢・キャリアの

異なるメンバーで構成されます。

力量にも教員の個人差が出てくるため、

よくまとまったクラスと、そうでないクラスが生じがちです。

その結果、子どもたちの間で、「勝ち組」「負け組」の

意識が生じます。

中学校は教科によって教員が変わりますが、

すべての教科を担任が教えている小学校の場合は、

こうした意識は、より顕著ではないかと思います。

(34p)

  

  

私は中学校だけでなく、小学校においても学校規模と

専科教員の配置次第で、「全員担任制」を

実施できるのではないかと考えています。

実際、第4章で紹介する、木村泰子先生が初代の

校長を務められた、大阪市立大空小学校は、

固定担任制を廃止して「全員担任制」を導入しています。

(34~35p)

  

3月には、この大空小学校に行ってきます。

朝から夕方まで見てきます。

特別支援教育の視点と「全員担任制」の視点で

見てこようと思います。

う~ん、引用したい文章がまだまだあります。

  

  

中学校では、定期考査の「クラス平均」を公表することも

ありますが、そうした情報がクラス同士の対抗心をあおり、

時に、優越感や劣等感を助長している側面もあると思います。

生徒たちの間に、こうした意識が生じることの弊害は

小さくありません。

保護者の間では、担任の「アタリ」「ハズレ」が

話題になることがあるようですが、「ハズレ」で

「負け組」になった生徒は、どんな気持ちになるのでしょうか。

学年内にそんな格差や、残念な思いを持つ生徒を

生み出さないためにも、固定担任制を廃止する意義は

大きいと考えます。

(35~36p)

    

  

教員3年目のことでした。

私より7つほど年上の理科の教員と同じ学年を

組むことになりました。

実に尊敬ができる人で、考え方が柔軟、旧来型の学校教育を

必ずしも良しとはしない感性をお持ちで、

私とはとてもウマが合いました。

その人と学年を組むうちに、私は「この先生に勝っても

全然うれしくない」と自覚するようになりました。

当時、その学年は2クラスでしたが、両方のクラスを

よくしたいという思いが強くなり、担任制のあり方について

考えるようになりました。

(36p)

   

  

私は残り3年で、担任制について、本格的に?

考えるようになりました。間に合ってよかったです。

  

  

「全員担任制」を進める上で大切なのは教員間の連携です。

どの学年も週に1回会議を行い、日常においても

コミュニケーションを取り合いながら、

情報共有を図っています。

(38p)

  

  

宿題にせよ、定期考査にせよ、固定担任制にせよ、

長い学校教育の歴史の中で当たり前のように存在し、

誰も疑問を持たずに続けてきたものです。

制度や仕組みは、時代とともに

変えていく必要があります。

学校教育の上位目的に照らし合わせて、

最適な手段でないと判断したら、

たとえ100年続いてきた仕組みであったとしても、

変えようとする柔軟性を、

校長をはじめとする教育関係者は持つべきだと考えます。

(39p)

  

  

教員になって34年目ですが、中学校勤務は11年目。

中学校勤務でベテランと言っていいか中途半端。

教員として不得意な面があり、

他の先生に迷惑をかけてきた後ろめたさがあります。

(何か月も療休で休んだりもしました)

現行のやり方に疑問を持っても、

学校全体に対して修正しましょうとは言えないなあと

思ってきました。ずっとかな。

でも言っていきたいなあとこの本を読んで思いました。

  

  

そんな不得意な面を持つ教師だからこそ、

「勝ち組」を必死にめざした体験をもつ教師だからこそ、

工藤先生の言う「全員担任制」は賛成します。

お互いに頼って「無責任」になる危険性はありますが、

それはそれで工夫して乗り切っていきたいですね。

学級対抗で何かすることに慎重になりたいです。

教師が得意なことで生徒と同僚の先生のために

頑張ることができる環境は素晴らしいです。

Colors768691_1920 pixabay

  

  

まだ続く。

「学校の『当たり前』をやめた。」その3/「一夜漬け」は中高生時代の体験から?

 

今日は2月11日。  

  

前投稿に引き続き、

学校の『当たり前』をやめた。

(工藤勇一著/時事通信社)より、引用します。

  

私が定期考査をなくそうと考えたのは、宿題と同様、

目的を達成するための手段として適切ではないと

感じたからです。

皆さんの中高生時代を思い返してみてください。

定期考査前の1週間前、日頃の遅れを取り戻すべく

躍起になって勉強し、テストに出そうな部分を

一夜漬けで頭に叩き込んだ記憶はありませんか。

そうした定期考査前の学習パターンは、

今の生徒たちも何ら変わってません。

一夜漬けでの学習は、「テストの点数を取る」という

目的においては有効ですが、学習成果を持続的に

維持する上では効果的とは言えません。

テストが終わったら、かなりの部分は忘れてしまうからです。

そうしたプロセスを経て獲得した点数、評価は、

その生徒にとっての「瞬間最大風速」にすぎず、

それをもって成績をつけたり、学力が付いていると判断することは、

適切な評価とは言えません。

さらに言えば、一夜漬けで片づける「悪癖」がつくことの弊害も

小さくないと思います。

私も大きな仕事があるのに締め切り近くまで着手せず、

直前になってから「やっつけ仕事」で片づける傾向が

かつてはありました。言い訳をするようですが、

こうした習慣も中高生時代の定期考査対策を通じて

身に付いたものではないかと思うことがあります。

教員の多くは定期考査の「勝ち組」です。

自らの成功体験を客観視して、それを否定的に見ることは

難しいものです。自分がそうしてきたように、

子どもたちにも成功体験を積んでほしいと思うのではないでしょうか。

(26~27p)

  

  

「定期考査をなくす」のは、生徒たちに楽な思いをさせるわけでも、

高校受験を軽視するわけでもありません。

生徒たちを第一志望の学校へ進学させる上でも、

定期考査を見直す必要があると判断しました。

その上で、すべての生徒が効率的に学力を高められるよう、

学習システムの再構築を図りました。

具体的には、定期考査をなくした代わりに、

単元テストを行っています。

(28~29p)

  

  

年に3回だった実力テストを5回に増やしました。

実力テストは、出題範囲が事前に示されないため、

生徒たちの本当の学力を測ることができます。

生徒たちは、授業で学んだことを単元テストで確認し、

理解しきれていない部分は、

そこですぐに復習するようになりました。

ちなみに、単元テストは、再チャレンジすることができます。

(29p)

  

  

定期考査を廃止し、単元テストに切り替えたことで、

生徒たちはこれまで以上に自分で考えて、

よく勉強するようになりました。

勉強時間が増えた子もいます。

「自宅で机に向かっている時間が増えた」という

喜びの声も保護者から聞こえてきます。

もちろん、効率的に学習できるようになった結果として、

勉強時間が減ってもよいのです。

子どもたちが自分の意思で主体的に学ぶことが

大切なのですから。

(31p)

  

  

大人になってからの「一夜漬け」も、

中高生時代の「一夜漬け」勉強の影響とい説はビックリ。

でも「そんなわけないじゃん」と言えない部分は

あるなと思います。

  

特別支援学級の生徒の試験はどうするか?

目前に迫った来学年度、考えなければいけないタイミングです。

Board361516_1920 pixabay

 

つづく

「学校の『当たり前』をやめた。」その2/宿題は「非効率な作業」

 

今日は2月11日。  

  

前投稿に引き続き、

学校の『当たり前』をやめた。

(工藤勇一著/時事通信社)より、引用します。

  

以前、将棋棋士の藤井聡太7段が、担任教師に

「授業をきちんと聞いているのに、なぜ宿題をやる

必要があるのですか?」と聞いたことが、話題になりました。

(中略)

日々、将棋の世界で自らの技能を磨き、追求し続けている彼は

すでに十分に自律した人です。

自分が何をすべきかという優先順位が分かっている彼にとって、

その宿題に費やす時間がもったいなかったのだと思います。

(22p)

  

大人になってからこのことは思いました。

やりたいことがたくさんあるのに、

書かねばならないレポートという宿題の厄介なこと。

藤井聡太7段は、子どもの時からそう思っていたのですね。

さすが。

  

 

私が麹町中学校に赴任した当時、

宿題のあまりの多さに驚きました。

ただし、これは多くの中学校でも同じです。

生徒たちは宿題をこなすことに汲々(きゅうきゅう)としていて、

かわいそうなほどでした。

かねてから宿題の存在意義に疑問を持っていた私は、

赴任2年目に、まず、夏休みの宿題をゼロにする方針を

打ち出しました。

その後、段階的に宿題をなくしていき、

4年目を迎える頃に「全廃」に踏み切りました。

(22~23p)

  

  

私はこう説明しました。

「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは

子どもたちに『関心・意欲・態度』を測り、

評価(通知表)の資料とするためではないですか。

もっと私たちの専門性を発揮しないといけない」と。

(23p)

  

   

学校で宿題を出されて子どもが勉強机に向かっていれば、

勉強の習慣が付くと、保護者は安心するに違いありません。

その思いは分かります。しかし、本当に大切なのは、

勉強時間よりも勉強の中身です。

自律的に学ぶ経験を積まないと、

決して工夫して仕事ができる人にはなりません。

もっと言えば、私は、学校でしっかりと勉強をして、

家では、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、

スポーツをしたり、あるいは、ぼんやりと思索する時間の方が

よほど有意義だと思っています。

そうした時間の中で、自分自身の内面や思考が整理され、

大切なことに気付いたり、思い付いたりすることは、

たくさんあるに違いありません。

(24p)

  

  

宿题を全廃したことで、最も喜んだのは、

受験を控えた3年生の生徒たちでした。

それは「負担が減って楽になったから」ではありません。

自分にとって重要ではない非効率な作業から解放されたからです。

自分の時間を、自分の考えで使えることの大切さについて

生徒たちは、敏感に感じ取っていたのだと思います。

(24p)

  

  

宿題に関するこれらの記述は、

読後もずっと心から離れませんでした。

宿題を「非効率な作業」としたところは特に。

大人の身で、子どもたちのように宿題を出されたら、

「やるべきことは自分で工夫してやるからほっといて」と

怒り出すことでしょう。

自律的な子どもに育ったなら、宿題はいらないのです。

そういう視点はいりますよ。

Wood3033159_1280 pixabay

 

 

つづく

2019年2月10日 (日)

「学校の『当たり前』をやめた。」その1/教師は今も時代の最先端でありたい

今日は2月10日。

  

本を読破しました。

学校の『当たり前』をやめた。

(工藤勇一著/時事通信社)です。

71ejih2zvhl amazon

東京都千代田区立麹町中学校の校長先生が書いた本です。

内容も中学校のことが書いてあります。

もし昨年春に中学校勤務にならなかったら、

おそらく読もうとは思わなかった本でしょう。

でも出合って、買って読みました。

いい本でした。出合えてよかったです。

今晩、そして明日は、この本のことでブログに書き留めたいです。

3連休明けの自分の原動力の一つになりそうな本でした。

 

 

学校は何のためにあるのかーーーー。

学校は子どもたちが、「社会の中でよりよく

生きていけるようにする」ためにあると私は考えます。

そのためには、子どもたちには、

「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」

すなわち「自律」する力を身に付けさせていく必要があります。

社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、

私はこの「教育の原点」に立ち返らないといけないと

考えています。

(5~6p)

  

小学校に勤めている時よりも、

社会への入口が近い中学校勤務になって、

「自律」の必要性を感じます。

  

今、日本の学校は自立を育むことと、

真逆のことをしてしまっているように感じます。

手取り足取り丁寧に教え、壁に当たればすぐに手を差しのべる。

けんかや対立が起きれば、担任が仲裁に入り、仲直りまで仲介する。

そうして手厚く育てられた子どもたちは、

自ら考え、判断、決定、行動できず、

「自律」できないまま、大人になっていきます。

そして、大人になってからも、何か壁にぶつかると

「会社が悪い」「国が悪い」と誰かのせいにしてしまうのです。

(6~7p)

    

  

子どもたちに必要な力を付けるための「手段」であるはずの

学習指導要領や教科書が、「目的」となり、消化してこなす

対象になってしまっているのです。

このような「手段の目的化」は、学校の至るところで

見られます。

(8p)

  

テスト範囲まではどうにか教える・・・・・

手段の目的化になっています。

 

大切なのは、固定観念にとらわれず、上位の「目的」を

見据えながら、最適な「手段」を見つけ出すことです。

批判を恐れずに言えば、学校という存在自体も「手段」の

一つにすぎず、「目的」ではありません。

(9p)

  

  

学校は「来ること」が目的じゃない。大人になること、

社会に出ることの方がもっと大事だよ。

(10p)

  

  

最近は「民間人校長」と勘違いされることもあり、

少し残念だったり、少しは進んだことをしていると

見られているのかなと思ったりしています。

「民間人校長ですか」と言われるたびに、思うことがあります。

100年も時計を戻す必要はありませんが、

かつての学校は、時代の最先端にあり、教員もまた、

社会の変化に最も敏感な人たちであったと思うのです。

(12p)

  

  

教師はこれからの時代を担う子どもたちを育てるのですから、

将来のことが見えていなくてはならないと思います。

教師はそれゆえに進歩的な人でなければならないと思います。

そのためには、いくつになっても教師は勉強すべきだし、

さまざまな体験を積み重ねていかなければなりません。

固定観念にとらわれてはいけません。

常に良かれと思うことをやっていく教師でなくてはなりません。

子どもだけでなく保護者にまで刺激を与える教師でなくてはと

思います。

保護者まで巻き込みたいですね。

すみません、工藤先生の文章を読んで、

理想を書きました。でも頭の片隅にはありますよ。

  

  

 

今回はここまで。

今度の本は、購入したので手元にあります。

こうやって引用しておけば、読み返すこともあるでしょう。

もし引用文の周辺を読みたくなったら、

本棚から本を持ってきて読み直したいです。

以後もどんどん引用します。

現場に行きました/あの段差はどうにかしたいです

今日は2月10日。

  

前投稿で自転車で転倒したことを書きました。

その現場に行ってきました。

  

Rimg1579

手前の歩道を走っていて、ひとつ道路を横断して

向こう側の歩道に入るところで、段差に正面衝突しました。

Rimg1579a

 手前の歩道には段差がなく、スッと下りたら、

向こう側の歩道には立派な段差がありました。

昼間に見たら、段差はわかります。

でも晩は難しかったです。

もちろんライトはつけていました。

普通のライトよりも強い明りを発するライトです。

でも段差に気がついたのは、直前でした。

間に合いませんでした。

  

額から落ちたことを思い出すと、

ゾッとします。

自民党の谷垣禎一さんが、自転車事故で

体を不自由にしてしまいました。

2016年7月のことでした。

おいたわしいことです。

やりたいことが制限されてしまった思います。

でも昨年10月に車いすで登場した時には、

応援したくなりました。

私も、あの段差で人生が大きく変わったかもしれないのです。

  

  

現場に行って思ったのは、

夜間に自転車で走ったなら、

私と同じように段差にぶつかる人は

きっといるということです。

いや、もうすでに何人かがぶつかって

けがをしている可能性もあると思います。

私は自転車で、スピードを上げているわけではなかったです。

普通の速さで、夜間なら、間に合わないのです。

  

私は今回の事故で懲りたので、

もうあの段差にはぶつからないと思います。

他の人が大けがをしないうちに、

あの段差は改善しなくてはならないと思います。

強く思います。

行動に移りたいです。

  

  

※今日のニュースで、谷垣さんが自民党大会で

スピーチをしたことを知りました。

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