「学校の『当たり前』をやめた。」その2/宿題は「非効率な作業」
今日は2月11日。
前投稿に引き続き、
「学校の『当たり前』をやめた。」
(工藤勇一著/時事通信社)より、引用します。
以前、将棋棋士の藤井聡太7段が、担任教師に
「授業をきちんと聞いているのに、なぜ宿題をやる
必要があるのですか?」と聞いたことが、話題になりました。
(中略)
日々、将棋の世界で自らの技能を磨き、追求し続けている彼は
すでに十分に自律した人です。
自分が何をすべきかという優先順位が分かっている彼にとって、
その宿題に費やす時間がもったいなかったのだと思います。
(22p)
大人になってからこのことは思いました。
やりたいことがたくさんあるのに、
書かねばならないレポートという宿題の厄介なこと。
藤井聡太7段は、子どもの時からそう思っていたのですね。
さすが。
私が麹町中学校に赴任した当時、
宿題のあまりの多さに驚きました。
ただし、これは多くの中学校でも同じです。
生徒たちは宿題をこなすことに汲々(きゅうきゅう)としていて、
かわいそうなほどでした。
かねてから宿題の存在意義に疑問を持っていた私は、
赴任2年目に、まず、夏休みの宿題をゼロにする方針を
打ち出しました。
その後、段階的に宿題をなくしていき、
4年目を迎える頃に「全廃」に踏み切りました。
(22~23p)
私はこう説明しました。
「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは
子どもたちに『関心・意欲・態度』を測り、
評価(通知表)の資料とするためではないですか。
もっと私たちの専門性を発揮しないといけない」と。
(23p)
学校で宿題を出されて子どもが勉強机に向かっていれば、
勉強の習慣が付くと、保護者は安心するに違いありません。
その思いは分かります。しかし、本当に大切なのは、
勉強時間よりも勉強の中身です。
自律的に学ぶ経験を積まないと、
決して工夫して仕事ができる人にはなりません。
もっと言えば、私は、学校でしっかりと勉強をして、
家では、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、
スポーツをしたり、あるいは、ぼんやりと思索する時間の方が
よほど有意義だと思っています。
そうした時間の中で、自分自身の内面や思考が整理され、
大切なことに気付いたり、思い付いたりすることは、
たくさんあるに違いありません。
(24p)
宿题を全廃したことで、最も喜んだのは、
受験を控えた3年生の生徒たちでした。
それは「負担が減って楽になったから」ではありません。
自分にとって重要ではない非効率な作業から解放されたからです。
自分の時間を、自分の考えで使えることの大切さについて
生徒たちは、敏感に感じ取っていたのだと思います。
(24p)
宿題に関するこれらの記述は、
読後もずっと心から離れませんでした。
宿題を「非効率な作業」としたところは特に。
大人の身で、子どもたちのように宿題を出されたら、
「やるべきことは自分で工夫してやるからほっといて」と
怒り出すことでしょう。
自律的な子どもに育ったなら、宿題はいらないのです。
そういう視点はいりますよ。
つづく
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