2019年6月22日 (土)

「収容所から来た遺書」9/「必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ」

 

今日は令和元年6月22日。

 

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

 

その日遅く作業から帰って病室に駆けつけた新見此助に、

山本は走り書きを渡した。

「死ノウト思ツテモ死ネナイ スベテハ天命デス 

 遺書ハ万一ノ場合ノコト 小生勿論生キントシテ

 闘争シテヰル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ

 100%悲観セズヤツテユキマセウ」

赤鉛筆で書かれた字は乱れてあちこちに飛び、

新見には判読するのがようやくだった。

山本(幡男)がこの世に遺した、最後の凄まじい気力によって

書かれたものだった。山本の顔を見ると、小さく頷いてみせた。

新見は涙がこぼれそうになったが、ぐっとこらえた。

そしてベッドの裾に回って、

骨と皮ばかりになった山本の足をさすった。

 

それから十日間、山本はときおり苦痛の呻き声を発するだけで、

朝も夜も、うつらうつらしていた。

1954(昭和29)年8月25日午後1時30分、

収容所の日本人は作業にでていたため、山本はだれにもみとられず、

ハバロフスクのラーゲリの病室で息を引きとった。

45歳の生涯だった。

死亡時刻は病院側から伝えられた。

山本が案じていた長男の東京大学合格の知らせが届いたのは、

亡くなったすぐあとだった。

すでに、シベリアの秋は深まっている。

夕方、坂本省吾が作業を終えて衛門を入ろうとすると、

衛兵所の脇に新見此助が魂の抜けたような表情で、

ひとりつくねんと立っていた。

「山本さんが・・・・山本さんが死んだけんね・・・・」

それだけいうと、涙と鼻汁と顔をくしゃくしゃにさせた。

山本の死はまたたく間にラーゲリ中をかけ抜けた。

(220~221p)

  

山本(幡男)が亡くなったあと、潮崎はむっつりと黙り込み、

だれとも口をきかなかった。

佐藤からノートに書かれた山本の遺書を見せられた。

その遺書を読み終えると、山本の家族に会って遺書を渡すためにも

自分は生きて帰らねばならぬと心に決めた。

粗末なソ連製のノートの最初の一枚目には、

次のように記されている。

                〈山本幡男 謹白

敬愛する佐藤健雄先輩はじめ、この収容所において

親しき交りを得たる良き人々よ!

この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、

一字、一句も漏らさざるやう貴下の心肝(こころぎも/しんかん)に

銘じ給へ。

心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ。 七月二日〉

(224p)

  

瀬崎が山本(幡男)の願いをなんとか実現させたいと思ったのは、

子供達への遺書を読んだときだった。

日本人として自分が死に臨んだときには、

このような立派な遺書を書きたいとしみじみ思った。

これは山本個人の遺書ではない、

ラーゲリで空しく死んだ人びと全員が

祖国の日本人すべてに宛てた遺書なのだ、と思った。

(225p)

  

北海道生まれの佐々木は親分肌で、

不思議と山本とはウマが合った。

「俺は一の能力しかなくても十の能力があるように見せられる。

 北溟子は十の能力を一しか見せん」というのが口癖で、

山本に一目置いていた。

佐々木のような男まで魅きつけてしまう山本の幅の広さと人脈に、

佐藤はあらためて瞠目(どうもく)した。

(226p)

  

1956(昭和31)年12月24日の朝、

興安丸はナホトカ港の岩壁に横づけになり、タラップが降ろされた。

乗船が開始されると、ひとりずつタラップを登った。

山岸研にはタラップが長い距離に感じられた。

舷側(げんそく)と岸壁のあいだには見えない国境がある。

いま、その国境を越えるかと思うと、足がふるえた。

歩いてわずか1分にもみたないタラップを、一歩一歩踏みしめた。

途中でふたたび呼び戻されるのではないかという不安と、

もう大丈夫なのだという思いとで歩(ほ)を運んだ。

(244p)

  

 

この興安丸は、1956(昭和31)年12月26日に舞鶴に到着します。

あの終戦(1945年8月15日)から、11年4カ月あまり。

このブログを書き始めて12年。

その期間を、極寒のシベリアで衣食住足りない状況で働いていたわけです。

想像を絶します。

  

つづく。

「収容所から来た遺書」8/山本幡男の遺書「妻よ!」「子供達へ」

 

今日は令和元年6月22日。

 

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

山本(幡男)はこの母に、自分が可愛いと思われるなら、

いつまでも元気で四人の孫たちの成長のために

妻に協力して欲しいと懇願したあと、

妻のモジミに夫としての最後の語りかけをした。

 

〈妻よ!よくやった。実によくやった。

 夢にだに思はなかったくらゐ、

 君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た。

 これはもう決して過言ではなく、殊勲甲だ。超人的な仕事だ。

 失礼だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐた私が

 恥しくなって来た。

 四人の子供と母とを養って来ただけでなく、大学、高等学校、

 中学校、小学校とそれぞれ教育していったその辛苦。

 郷里から松江、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、

 お前はよくまあ転々と生活再建のために、子供の教育のために

 運命を切り拓いてきたものだ!

 その君を幸福にしてやるために生まれ代ったやうな

 立派な夫になるために、

 帰国の日をどれだけ私は待ち焦がれてきたことか!

 一目でいい、君に会って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった!

 万葉の烈女にもまさる君の奮闘を讃へたかった!

 ああ、しかし到頭君と死に別れてゆくべき日が来た。

 私は、だが、君の意志と力とに信頼して、死後の家庭のことは、

 さほどまでに心配してはゐない。

 今まで通り子供等をよく育てて呉れといふ一語に尽きる。

 子供等は私の身代わりだ。

 子供等は親よりもどんどん偉くなってゆくだろう。

 君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も来るだろう。

 子供等を楽しみに、辛抱してはたらいて呉れ。

 知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであらう。

 君と子供らの将来の幸福を思へば私は満足して死ねる。

 雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志を刻苦奮闘と意志のたくましさ、

 旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信頼し、

 実によき妻をもったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら。〉

(212~213p)  

  

妻への信頼と感謝にみちた言葉のあとに、

山本(幡男)は、子供たちへの遺言を書いた。

  

〈子供達へ。

 山本顕一 厚生 誠之 はるか 君たちに会へずに

 死ぬことが一番悲しい。

 成長した姿が、写真ではなく、実際に一目みたかった。

 お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が

 多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・・

 あゝ何という可愛い子供の時代!

 君たちを幸福にするために、一日も早く帰国したいと思ってゐたが、

 到頭永久に別れねばならなくなったことは、

 何といっても残念だ。第一、君たちに対して

 まことに済まないと思ふ。

 さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、

 君たちはどんあ辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として

 生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。

 日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、

 東洋のすぐれたる道義の文化ーーー人道主義を以て

 世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。

 この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。

 また君達はどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、

 人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。

 偏頗(へんぱ)で矯激(こうげき)な思想に迷ってはならぬ。

 どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を

 進んで呉れ。

 最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。

 友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、

 生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。

 人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。

 但し、無意味な虚栄はよせ。

 人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無いーーーーという覚悟で、

 強い能力のある人間になれ。自分を鍛へて行け!

 精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。

 自覚ある立派な人間になれ。

 四人の子供達よ。

 お互いに団結し、協力せよ!

 特に顕一は、一番才能にめぐまれてゐるから、長男ではあるし、

 三人の弟妹をよく指導してくれよ。

 自分の才能に自惚(うぬぼ)れてはいけない。

 学と真理の道においては、徹頭徹尾敬虔(けいけん)でなくてはならぬ。

 立身出世さど、どうでもいい。

 自分で自分を偉くすれば、君達が博士や大臣を求めなくても、

 博士や大臣の方が君達の方へやってくることは必定(ひつじょう)だ。

 要は自己完成!

 しかし、浮世の生活のためには、致方なしで或る程度

 打算や功利もやむを得ない。

 度を越してはいかぬぞ。最後に勝つのは道義だぞ。

 君達が立派に成長してゆくであらうことを思ひつつ、

 私は満足して死んでゆく。

 どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。

 最後に自作の戒名

 久遠院智光日慈信士

  

 一九五四年七月二日         山本幡男 〉

「このノートは、しばらく私が大切に預るからね」

佐藤がいうと、山本(幡男)が頷くようにし、

疲れたのか眼を閉じた。

寝返りも打てぬほどの激痛の山本が、

わずか一日のあいだに15頁もの遺書を書きあげた気力に

佐藤は胸うたれていた。

(214~216p)  

  

以上の4つの遺書が、6人の長期抑留者帰還者によって記憶され、

家族に伝えられました。

一字一句、同じように。

筆跡まで真似た人もいました。

思いのこもった遺言なので、6人は行動したのでしょう。

ドラマチックな話です。

つづく

「収容所から来た遺書」7/山本幡男の遺書「本文」「お母さま!」

 

今日は令和元年6月22日。

 

6月20日の投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

遺書は全部で4通。ノート15頁にわたって綴られていた。

1通は「本文」とあり、他の3通は「お母さま!」「妻よ!」

「子供達へ」となっている。

〈山本幡男の遺家族のもの達よ!〉

遺書の「本文」は、この呼びかけから始まっていた。

  

〈到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。

 鉛筆をとるのも涙。

 どうしてまともにこの書が綴れよう!

 病床生活永くして2年3カ月にわたり、

 衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、

 思ったことの何分の一も書き表せないのが何より残念。

 皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあわれみのこころを

 一体どうして筆で現すことができようか。

 唯、無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を

 表し得るに過ぎないであらうが、

 ここは日本を去る数千粁(キロメートル)、

 どうしてそれが出来ようぞ。

 唯一つ、何よりもあなた方にお願ひしたいのは、

 私の死によって決して悲観することなく、落胆することなく

 意気ますます旺盛に振起して、

 病気せざるやう

 怪我をしないやう

 最新の注意を払って、丈夫に生き永らへて貰いたい、

 といふことである。

 健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。

 決して無理をしてはいけない。

 少しでもおかしいと思ったら、

 身体の具合を予め病気を防止すること。

 帰国して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、

 そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して来たが、

 それが実現できないのは残念、無念。

 この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら

 寂光浄土へ行くより他に仕方が無い。

 私の希みは唯一つ、子供たちが立派に成長して、

 社会のためにもなり、文化の進展にも役立ち、

 そして一家の生活を少しづつでも幸福にしてゆくといふこと。

 どうか皆さん幸福に暮らして下さい。

 これこそが、私の最大の重要な遺言です。〉

 

山本はこの「本文」と冒頭に書かれた一文のあと、

「お母さま!」と、老いた母マサトへ、子として先立つ不孝と

期待に添えなかった思いをこめ、遺書を記していた。

読みながら、佐藤は涙があふれてくるのを山本(幡男)に

見せまいとこらえた。

  

  

〈お母さま!

 何といふ私は親不孝だったでせう。

 あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんとよびませう)

 ご苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副(そ)うことなく、

 一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、

 親不孝を重ねて来たこと私を何といふ罰当りでせう。

 お母さんどうぞ存分この私を怒って叱り飛ばして下さい。

 この度の私の重病も、私はむしろ親不孝の罰だ、

 業(ごう)の報いだとさへ思ってゐる位です。

 誰も恨むべきすべもありません。

 皆自分の罪を自分で償うだけなのです。

 だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しく思ひませぬ。

 唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本当に親孝行したいーーー

 と思ひ、楽しんでゐた私の希望が空しくなったことを残念、無念に

 思ってゐるだけです。

 お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。

 来る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで、

 居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覚えたものです。

 唯の一目でもいいから、お母さんに会って死にたかった。

 お母さんと一言、二言交すだけで、

 どれだけ私は満足したことでせう。

 十年の永い月日を私と会ふ日を唯一の楽しみに生きてこられた

 お母さんに、先立って逝く私の不幸を、

 どうかお母さん許して下さい。

 しかし、お母さん、私が亡くなっても決して悲観せず、

 決して涙に溺れることなく、雄々しく生きて下さい。

 だって貴女は別れて以来十年間あらゆる辛苦と闘って来たのです。

 その勇気を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間

 闘っていただきたいのです。

 その後は少しは楽にもなりませう。

 私がこの幡男が本当に可愛いと思はれるなら、

 どうか私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために

 倍旧(ばいきゅう)の努力を以て生きて戴きたいのです。

 やさしい、不運な、かあいさうなお母さん。さやうなら。

 どれだけお母さんに逢ひたかったことか!

 しかい、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、

 モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。

 お願いします。〉

 

(208~210p)

   

つづく

4年ぶり・・・6月21日「世界ALSデー」 6月22日「夏至」

今日は令和元年6月22日。

  

6月21日は「世界ALSデー」でした。

ただ、調べていくと、「ALS/MNDグローバルデー」という名称も

使われているようです。

ALSは、なかなか覚えられませんが、「筋萎縮性側索硬化症」

MNDは「運動ニューロン疾患」を指します。

ALSに特に関心をもつ日としたいです。

夏至が今日。6月22日。

この並びは、4年前にありました。

6月21日「世界ALSデー」 6月22日「夏至」(2015年6月21日投稿)

  

今回調べていて、次のアプリに注目しました。

Photo

Photo_3 コエステーション

指定された文章を読むことで、

文章を自分の声で呼んでくれるアプリ。

そういうものがあるというの聞いていましたが、

アプリとして手に入れることができるのですね。

ALS患者は、治療の中で声が出せなくいなってしまいます。

でもこのアプリを使って、その人の声が聞けるというのは、

まわりの人たちにとっても、もちろん本人もいいことだと思います。

夏至についてですが、

これからしばらくは6月21日が続きます。

6月21日以外が夏至になるのは、

ぐっと間が空いて

2056年が6月20日です。

95歳。

2060年も6月20日です。

99歳。

そして2061年7月28日。ハレー彗星接近。

100歳。

そこまで生きたいね。ボケずに、ハレー彗星を確認したい。

2019年6月21日 (金)

「収容所から来た遺書」6/2002年「知ってるつもり!?」

  

今日は令和元年6月21日。

  

前投稿に続く内容です。

山本幡男さんに関するもう1本の映像。

それはこれです。↓ DVDでの保存です。

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知ってるつもり!? 収容所からの遺書リレー

 海を越えた奇跡 山本幡男」(2002年2月24日放映)

こちらも昨晩見てみました。

こちらはあまり覚えがないので、

録画したまま見損なっていたかもしれません。

この番組の写真も並べていきます。

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この収録は舞鶴で行われていました。

  

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前投稿にも佐藤清さんの描いた絵を載せました。

この記事にも載せます。

佐藤清さんは2014年7月28日に

88歳で亡くなられています。

  

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なんと「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(文藝春秋)の

著者である辺見じゅんさんもゲストでした。

辺見じゅんさんについて調べてみてビックリ。

角川書店の創立者角川源義さんの長女。

角川春樹さん、歴彦さんのお姉さんでした。

辺見さんは、2011年9月21日に亡くなられています。

  

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↑山本幡男さんのシベリアからの最初のハガキ

  

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↑家族から贈られた写真

  

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1948年に、ダモイ(帰国)直前で、列車から降ろされて

軍事裁判を受けた山本幡男さん。

判決は、スパイ罪で強制労働20年。

  

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アムール句会(俳句の会)を開いていた山本幡男さん。

日本語が書いたものをもつことが禁止されていたので、

地面に俳句を書いては批評し合って、

それが終わると消していたそうです。

  

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ロシア国立軍事古文書館にある山本幡男さんのファイルに

新しく1枚加わりました。

それがこれです↓

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約21年間「積ん読」していた

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(文藝春秋)を読んで、

過去に録画してあった2本の番組を見ました。

1本は当時見たのにしっかり頭に残っていなかったのが残念です。

でもこうやってたぐれたので(思い出せたので)、

幸運だと思いたい。

こうやってブログに掲載しとけば、「シベリア」「山本幡男」

「抑留」などのキーワードで、

過去の記事が簡単にすぐに見つけることができます。

(先日は「メロン」でたぐりました)

こういうブログの使い方、いいですよ。お薦め。

 

  

  

「収容所から来た遺書」5/1998年「驚きももの木20世紀」

 今日は令和元年6月21日。

  

前投稿で、シベリア抑留のこと、

以前に映像で見た覚えがあるが

うろ覚えだと書きました。

どんな映像だったのか、確かめました。

 

所有している映像のタイトル名で検索すると、

2本の映像がヒットしました。

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1本はビデオテープでした。

驚きももの木20世紀スペシャル~シベリアの奇跡~

収容所から届けられた6通の遺書

 (1998年10月9日放映)

1時間半の番組でした。

昨晩見始めてみました。

 

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番組が始まって、この写真を見た時に、

私はこの番組を確かに見たことを追い出し、

山本幡男さんの顔を思い出しました。

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そのまま1時間半の番組を見続けました。

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収容所(ラーゲリ)からの遺書」がベースなので

出来事をおさらいでき、本の中で出てきた様々な

人の姿がでてきて、イメージが浮かびやすくなりました。

番組の写真を並べます。

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↑ シベリア抑留体験者の佐藤清さんが描いたラーゲリ(ラーゲル)

  

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↑1日の食事量。わかりやすい。これだけだった。

  

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↑シベリア抑留者たちが歌っていた曲。

 

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山本幡男さんの遺書は、次の6人が記憶して、

家族に届けました。

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彼らは、昭和31年12月にやっと日本の地を踏めました。

 

次からは聞き書き。

 

ナレーター:大宮に移り住んでいた山本モジミの家を

  その男が訪ねたのは、昭和32年1月半ばだった。

  男は山村昌雄と名のるとこう言った。

  「私の記憶してきました山本幡男さんの言書を

   お届けにあがりました」

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  (モジミ)「記憶してきた?」「遺書?」

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  モジミが不思議そうな顔をすると、

  (山村)「どうやら私が最初に遺書をお届けしたようですね」

  男はそう言うと、晴れやかな笑顔になった。

  この瞬間、彼の長かった戦争が終わったのだ。

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思い出しました。

山村さんに始まり、次から次に人が山本家を訪ね、

ある時は郵便物で、山本幡男の遺書が家族に届くのです。

涙なくして見れないシーンでした。

 

この番組。21年前に見ています。

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)を

読んでいる時には、漠然としか思い出せませんでしたが、

たぐれました(思い出すことができました)。

 

 

もう1本の映像は次の投稿で。

2019年6月20日 (木)

「収容所から来た遺書」4/1953年長期抑留者帰還第一次

 

 

今日は令和元年6月20日。

  

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

あるとき、山本(幡男)が虎林(こりん)での初年兵時代の

話をしたことがあった。(中略)

1945(昭和20)年1月、山本は部隊長室に呼び出された。

「山本二等兵は、ハルビン特務機関への配属となった。

 明朝、出発せよ」

部隊長は命令したあと、山本が満鉄調査部にいたことを知っていて、

「おめでとう、竜が雲を得たようなものだな」

と励ましてくれた。山本が去ったその翌日、

虎林の部隊は南方戦線へ移動となった。

輸送船で送られる途中、敵機の爆弾で撃沈されて

五百名の将兵は戦死してしまった。

そんな話をすると、山本は眼鏡の奥の眼をうるませていった。

「ぼくひとりだけ・・・・生き残ってしまったのですよ」

(111~112p) 

虎林は、現在の地図では、ここです。↓

Photo Yahoo!地図

   

「新妻ですぞ、なんと新妻からの手紙です」

のぞき込んだ男が声を高くしてまわりの者に伝えた。

「新妻だ」の言葉は、ひとしきり同じバラックの

仲間たちの口にのぼるようになった。

その男はもちろん他の人びとにとっても、

七年の歳月を隔ててなお新妻は「新妻」のままなのだ。

その手紙を書いた妻は、またたく間に同じ部屋の人びとの

共通の「新妻」になっていた。

(149p)

  

スターリンの死は、わずかだったが確かにラーゲリ内に

明るい雰囲気を運んだ。

日本からの小包が、とつぜん許可になった。

日本の味といえば、ラーゲリを訪れた富山県出身の

高良(こうら)とみが、郷里の留守家族たちから頼まれたといって

帰国後に一度だけ東京から山本海苔を送ってきたことがあった。

富山県出身者たちは自分たちだけで故国の味を

楽しんでは済まないといって、

みんなに少しずつ分けた。

すぐに口に入れる者はなく、みな掌のうえに乗せて眺めたり、

匂いを嗅いだり、触ったりして楽しんだ。

そのときの海苔の味が忘れられず、長谷川は句会のときなど、

「血に沃度(ようど)が急にふえたような気がしたねえ」

と、なん度も山本(幡男)たちと話したものだった。

(160p)

沃度(ようど)=ヨウ素。海藻から摂取できる物質。 

  

日本から送られてくる小包は、

人びとにもうひとつの新しい情報をもたらした。

収容所のソ連人たちは日頃、日本は不況で国民は

貧困に苦しんでいるといっていた。

しかし、送られてきた品々から祖国が想像以上に

復興している様子が感じられて話題になった。

(161p) 

  

五か月間もナホトカのラーゲリに留められていた

小高や黒田たちは、別のラーゲリからきた人びとと合流して、

(1953年)12月1日に京都の舞鶴港に上陸した。

この時の稊団長は長谷川宇一だった。

長谷川以下811名の帰還者は、長期抑留者帰還第一次と呼ばれている。

このなかには、一般邦人391名の他に、女性9名、子供1名、

病人27名がまじっており、そのうちの約300名は樺太にいた

民間人だった。

帰還船「興安丸」での二昼夜の航海中から長谷川たちは、

8年間に及ぶシベリアでの疲労もかえりみず抑留者たちの

名簿作りを始めた。

すべては記憶にたよっての作業だったが、

1612名の残留者名簿と500名を超える志望者リストを

作成した。

長谷川たちは舞鶴に着くと間もなく、残された同胞の

帰還運動にとりかかり、国会へ請願に行くなど活発に

活動をし始める。

シベリアの俘虜のうち60万人近くがそれまでに

帰国していたが、組織だった引揚運動が起きたのは、

このときからである。

長期抑留帰還第一次の人びとは、それぞれ手分けして

残留した仲間たちの留守宅を訪ね歩き、その消息を伝えた。

(173p)

 

たくさん引用してきました。

シベリアではこんな状態だったんだ。

こんなことが起きていたのか。

そんなことを思って読みました。

シベリア抑留のことは、映像で以前見た覚えがありますが、

記憶がうっすらです。残念。

きっとその時のアウトプットが十分ではなかったのでしょう。

全てを知ることはもちろん無理ですが、

これらのことを知らずに、シベリア抑留の上っ面しか

教えてこなかったなあ。

まだ引用は続く。

「収容所から来た遺書」3/「まだ若い、人生は長い」

 

今日は令和元年6月20日。

  

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

とりわけ山本(幡男)が句会の折に熱をこめてよく語ったのは、

「ぼくたちはみんなで帰国するのです。

その日まで美しい日本語を忘れなようにしたい」

という言葉である。

竹田は、山本のいちばんいいたいことはこれではないかと思った。

(87p)

  

何年もシベリアにいるとこういう思いになるんだと、

ハッとさせられた文章です。  

  

絶望感から自暴自棄になる者が多く、

「白樺派」という言葉がラーゲリ(収容所)の中では

流行った。

ラーゲリでは、死ぬとボロボロの着衣までも剥ぎとられ、

解剖に付されてから埋葬される。

死者を偽って脱走するのを防止するためだといわれた。

そして、「お前たちは生きて帰さない。

白樺の肥やしになるんだ」とソ連側から

脅かされつづけてきたように、

遺体は白樺の根元を掘って埋められた。

その穴も、九月下旬には凍土になるので、

あらかじめ秋以後の死者の数を想定して、

その数だけ七、八月の短い夏の間に掘らされた。

冬に死んだ者を準備されたその穴に投げ込み、

凍土をかけ、春になってから埋葬しなおす。

「白樺派」というのは、帰国もできず

いずれその穴に収まるのは自分だ、

という投げやりな気持を吐露した言葉だった。

「おれは、もうじき白樺派だよ」

「どうせ白樺派になってしまうんだ」

などと自嘲をこめてみんなのあいだを飛びかった。

山本(幡男)はこの「白樺派」という言葉を耳にすると、

きまって野本にいった。

「野本さん、ぼくたちは白樺派になっちゃおしまいだよ。

 かならず帰れる日がくる。

 まだぼくたちは若いし、人生は長いんだよ」

自分よりも八歳も年上の四十二歳の男が、

「まだ若い、人生は長い」というのに、

野本は呆気にとられた。

しかし、もしかしたら山本はこのラーゲリのなかで

いちばん若々しい精神の持ち主かもしれないと思った。

(98~99p)

 

あるとき、山本と自殺の話になった。

「ぼくはね、自殺なんて考えたことありませんよ。

 こんな楽しい世の中なのになんで自分から

 死ななきゃならんのですか。いきておれば、

 かならず楽しいことがたくさんあるよ」

そう山本(幡男)はいうと、下を向いてニッと笑った。

ラーゲリの中にいながら、

「こんな楽しい世の中」という山本は、

普通の人間を測る物指しでは測りきれない、

別の物指しで見なければ理解できない人物だと思った。

そして、山本と話すようになって何か月か経つうちに、

あの「シベリアの青い空」の文章と同じように、

どんなに理不尽であっても絶望することなく、

いまいる状況のなかに喜びも楽しみも見いだし、

しかもそれを他人にまで及ぼしてしまうところに、

山本の精神の強靭さと凄さがある、と野本は理解した。 

(99~100p)

  

句会が終って食堂をでると、

外はつき刺さるような寒さだった。

山本(幡男)の鼻髭が、吐く息でたちまち

凍てついて真白になった。

「山本さん、寒い時だけでも剃ったらどうですか」

と新森がいうと、

「うむ。なにもかもとられたんだから、

 せめて髭ぐらいは残しておかんと」

と山本が答えた。

(105p)

  

つづく

  

山本幡男さんのことが、Wikipediaで説明されていることが判明。

ここです↓

Wikipedia 山本幡男

「収容所から来た遺書」2/「白樺のこやし」

  

今日は令和元年6月20日。

  

私の場合、本は再読しないかもしれませんが、

ブログは再読する可能性が高いです。

再読したい文章は、ここにせっせと書き残します。

 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

「ウラルの首都」と呼ばれるスベルドロフスク市は、

モスクワから1818キロ離れた、ウラル山脈の石炭と

鉄鋼を産する大工業都市である。

帝政ロシア時代には、エカチェリンブルグと呼ばれて栄え、

ロシア革命時に廃された皇帝ニコライ二世一家が幽閉され、

処刑された地としても知られている。

(17p) 

Epson027  

俘虜(ふりょ)たちがもっとも苦しめられたのは、

作業のノルマだった。

俘虜ひとりあたりの1日のノルマを収容所側が決め、

それを上回った者には、食糧の支給をふやし、

ノルマに達しない者には、それに応じて支給量が減らされた。

しかし、ノルマが厳しいため、それを越える者はいなかった。

1日黒パン200グラムとか、150グラムしか

支給してもらえない者も多く、そのため体力はますます衰え

さらに作業量が減るという悪循環がくり返される。

体力のない者は栄養失調で、夜中にだれにも気づかれず

ひっそりと死んでいった。

死ぬと、体中にまつわりついていたシラミが

いっせいに逃げ出すのですぐにわかった。

(22p)

  

死者は、白樺の木の根元に穴を掘って埋められたので、

「白樺の肥やし」といわれた。

(48p)

  

1949年(昭和24年)の夏、「地獄谷」にいた

山本や新森たち戦犯とされた日本人二十数名は、

ハバロフスク市内にあるソ連邦矯正収容所第六分所へ

移された。

到着したばかりの一行が目にしたのは、

焼け焦げた木材や朽ちかけた空缶の散乱する

ゴミ捨て場のような空き地だった。

第六分所は火事で焼けたままに長いこと

放置されていたのだ。

第六分所が火事に見舞われたのは、

山本がスべルドロフスクの俘虜収容所にいた

1947年12月27日の早朝であった。

第六分所は、戦争中に戦車を生産していた

カガノビッチ工場の寄宿舎を俘虜収容所に急改造したもので、

粗末な木造の平屋建てだった。

修養されていたのは、、ドイツ人2名を含む400名の

日本人俘虜たちで、そのなかには満蒙開拓団から

現地召集をうけた十六、七歳の少年兵も十数名まじっていた。

その朝、北隅の乾燥室から出火すると、

折からの北風に煽(あお)られて一気に燃え広がった。

収容所には出入り口が二か所あったが、

すでに北側の出口は火炎に包まれていた。

収容者たちは南側の出入口へと殺到したが、

そこには数日前に寒風が吹き込むのを防ぐために

観音開きのドアが釘で打ちつけられている。

人びとは狭い入口から飛び出そうと押し合っているうちに

充満した煙にのまれた。

翌朝ドア付近の焼け跡に、122名の死体がイナゴを

積みあげたように折り重なって発見されたという。

(62~63p)

日本から遠く離れた場所での、突然の無残な死。

無念だったはず。 

  

野本は周囲を見回した。(中略)

近くに人のいないのを確かめて、「シベリアの青い空」

という随筆と北溟子(ほくめいし)という筆者名が

目に入った。さほど関心もなかったが、

久しぶりに読む日本語が懐かしかった。

読み進むうちに、ささくれだった心が洗われていくような

心地になっていた。なによりも野本の心をつよく惹いたのは、

シベリアの青空の美しさを讃えている作者の

やわらかな感受性であった。

敗戦から5年間というもの、ラーゲリ(収容所)を転々とする

日々だった野本は、民主運動に痛めつけられて、

肋膜炎で死にかけたこともある。

他人の死は数えきれないほど見てきた。

「死」の痛みにさえ鈍くなっていた。

ましてやシベリアの空が美しいなどと考えもしなかった。

第一、空をしみじみ眺めてみるような心の余裕などがなかった。

不思議な人物もいるものだという驚きとともに、

「そうか、シベリアにも青空があったのか」という、

思いがけないものでも見つけたようなほろ苦い気持が広がった。

読み終えたあと、厳しいラーゲリ生活の中で、

青空に詩的な幻想を馳せるだけの心のゆとりを見せる

山本北溟子(山本幡男)という人物へ、にわかに興味が湧いた。

(77~78p)

  

普請場に燕大きく来りけり 栗仙

  

森田のこの句が山本(幡男)によって選ばれたときには、

「栗仙君のこの句はいいね。作業場にも、

ああもう夏がやってきたなという作者の思いが、

燕大きくによってでてますよ」

シベリアでは、燕(ツバメ)が夏を運んでくる。

長く厳しい冬のあと、一挙に訪れる夏は、

すべてのものが生き生きとしてくる。

燕がまるで「生命」を運んでくる使者のようだった。

ロシア人は溌溂として初々しい娘のことを

ラストチカ(燕)とよんでいた。

(82p) 

  

日本の場合は春に来るツバメ。

シベリアは夏なのですね。

「収容所から来た遺書」1/山本幡男(はたお)

 

今日は令和元年6月20日。

  

また本を完読。

41uyk01edul__sx350_bo1204203200_  

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)

 

本を買うと、最後のページに購入日を記入します。

この本の購入日は「1998年11月9日」

購入してから21年ぶり。

この本の初版が出たのが1989年6月25日なので、

発刊されてから30年してやっと読みました。

  

このお話の主人公は、山本幡男さん。

「幡男」は、現在あまり見慣れない名前です。

本文の最初に登場した時には、

「幡男」には読み仮名がついていましたが、

後はなかったので、

何という名前だったかすぐに曖昧になります。

もう一度確認すると「はたお」と読みます。

また読み方は忘れるかもしれませんが、

漢字4字の「山本幡男」は忘れない名前になりそうです。

いやいや忘れてはならない名前だと思います。

  


1945年8月15日の終戦後、

満州にいた日本人はソ連へと連行されました。

その数なんと60万人。

彼らには極寒地での過酷な労働が強いられました。

そのうち7万人がシベリアで

亡くなったと言われています。

それでも多くの人たちが帰国できたのですが、

その中で、捕虜ではなく戦犯という判決を受けた

長期抑留者たちがいました。

最長で11年以上抑留されました。

山本幡男さんもそんな長期抑留者の一人でした。

  

この本では、山本幡男さんのことを中心に、彼らが過ごした

収容所(ラーゲリとよばれる)での日々が淡々と綴られています。

劣悪な衣食住環境の中、

死ぬまで働かされると思いながらの日々でした。

誰もが生きる望みを失うなか、

山本さんだけは決してあきらめませんでした。

俳句会を開いて、俳句を通して日本を思い出し、

いずれ日本に戻ることを信じて、日本語を磨きました。

俳句づくりは、多くの長期抑留者の過酷な生活の癒しになっていきました。

生きて日本に帰国する、あきらめないと宣言していた山本さん。

しかし、それは叶うことなく、

シベリアの地で病死してしまいます。

昭和29年の8月でした。

亡くなる直前、彼が日本の家族に宛てて書いた遺書。

ほかの抑留者たちは、

いったい何年後に帰国できるかわからないけれども、

いつか帰れる日が来たときに必ず、

山本氏の遺族に遺書を届けると誓います。

シベリアからは紙一枚持ち出すことも許されません。

帰国の日が来たときのため、

抑留者たちは山本さんの遺書を丸暗記しはじめるのです。

山本氏が最後の力を振り絞って書いた

何十枚にも渡る遺書を7人が手分けして暗記。

長期抑留者が日本に帰ったのは、昭和31年の暮れでした。

終戦から11年以上が経っていました。

帰国後、1人ずつから遺書が届けられ、

7通目の遺書が山本氏の未亡人のもとへ届いたのは

実に1987(昭和62)年のことでした。

  

  

この小説は、シベリア強制労働を、

とてもリアルに目の前に見せてくれました。

昭和20年8月15日に、戦争は全く終わっていなかったのです。

日本が戦後復興してだんだん華やかになっていくのと同時期に、

ソビエトではこのようなことがあったのですね。

 

次の記事から、たくさん引用していきたい。

もっと早く読んでおけば、授業で必ず扱った内容です。

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