2019年11月14日 (木)

「函館の大火」⑨/大火の記録 映像

 

今日は令和元年11月14日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

映像も重要な役割をはたした。火災の現場で撮影されていた

のである。それは当時の新聞、北海タイムスに勤め、

社命により大火当夜札幌から函館までノンストップで

かけつけた救援列車に便乗していた近澤美智雄、木俣実樹雄に

よって撮影された。大火後映像は最初に函館で公開されたが、

その後はどの程度一般に公開されたのか、ニュース映画に

なったのか等明らかではない。北海タイムスの販売店を巡回して

上映されたことは分っている。現在でもネットで

「函館の大火」と検索すれば、その一部を見ることができる

(上映時間は3分20秒)。しかし、それまでである。

(226p)

 

函館の大火 昭和九年の都市災害」が発刊されたのは2016年。

現在(2019年)もその動画は、ネットで見ることができました。


YouTube: 昭和9年函館大火の記録映像 1934年3月21日

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それから45年後、昭和54(1979)年3月21日に

UHB(北海道文化放送)のテレビ番組(特番「ドキュメント

函館大火」)で、その映像フィルムが再生され、放映された。

それは大反響をよび、大火の記憶が改めてよびさまされたのであった。

(226p)

  

ここがじれったいです。

大火から45年後にテレビ放映されたけど、

残念ながらその番組を私は見ていません。

見たいと思っても、ネットで一部を見ることができるところまで。

北海道文化放送にお願いしたら、見ることができるかと言えば、

きっと難しい。40年前ですしね。

もっとテレビ番組をオープンにしてほしい。

以上で、函館の大火 昭和九年の都市災害」からの

引用は終了。

この本は、我が家の本棚に入れます。

「函館の大火」⑧/大火の記録 短歌 絵ハガキ

  

今日は令和元年11月14日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

「終章 大火の記憶」の章では、

大火の記録がさまざまな形で残されていることを

紹介していました。

 

たとえば、先にもいくつか紹介しましたが、

ここでも一句。

 

すがられて知らぬ子なれど手を引きっ

       逃げゆく方も炎となりぬ

            今井キヨ 

  

逃げている時の状況のわかる句です。

印象に残りました。

  

絵よりも早く正確に実態を写す写真は、大火の最中から

撮られた。素人の個人写真からプロのカメラマンによる

写真まで多数あったが、それらが今日写真集となって、

残されたのである。中にはプロのカメラマン管初次が

撮った火災と復興の写真集がある。そこには、焼失した

市内の写真が多数収録された。

(222~223p)

 

「管初次」「函館」で検索してみましたが、その写真集は

わかりませんでした。

  

そうした中で、写真を絵ハガキにして売り出す方法もとられた。

当時発売された絵ハガキは何万枚であろうか。

荒涼とした焼跡、廃墟と化した土蔵、焼け落ちた橋・・・

それらが絵ハガキになって販売され大火を知らなかった人の

目に触れることになった。図8-14はその一部である。

かくて、写真は大火の記憶を伝える貴重な手段のひとつと

なったのであった。

(223p)

 

函館の大火 昭和九年の都市災害」には、上記の通り、

7枚の写真が掲載されています。

そのうちの1枚だけ載せます。

Epson114 (160p)

  

さらにネット上に次のような動画がありました。


YouTube: 戦前絵葉書に残る災害の記録(明治〜昭和初期) Japan Postcards of Great Disaster

この動画には、絵ハガキに残る災害の写真が紹介されています。

今まで聞いたことがない災害も多くありました。

その中に函館大火もありました。(6分30秒から5枚)

Photo

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3

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災害を絵ハガキで伝える文化について興味をもち始めました。

2019年11月13日 (水)

「函館の大火」⑦/死者数、行方不明者数

  

今日は令和元年11月13日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

数字を正確にここに書き留めます。

昭和9年3月21日の函館大火の死者数、行方不明者数です。

  

〇死者 2166人

 内訳は大火による死者2054人と大火による傷病者(傷病死)

 112人である。大火による死者では溺死が917人、

 焼死が748人、凍死が217人、窒息死143人、その他

 29人である。死因の1位が溺死なのは注目に値しよう。

 大火による傷病死では肺炎52人、凍死18人、火傷17人の

 順である。それらの数値が意味するものは大森浜で激浪に

 さらわれて溺死した人、運よく助かったものの全身濡れ鼠になり

 凍死した人、橋の崩落で新川に転落し窒息したり凍死した人、

 寒さで肺炎になって死亡した人等が火焔と火流に倒れて焼死した

 人より多かったということである。

 

〇行方不明者 662人

 それは、家族、親族、知人より届出のあった者の数であるが、

 激浪で海中に呑まれたものと考えられている。

(188p)    

 

この数字から、函館大火がどのような災害だったのか見えてきます。

苦しんで死んでいった人たちの死が風化しないことを願って、

こんなブログですが、書き留めました。

「函館の大火」⑥/大火の時の御真影

 

今日は令和元年11月13日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

11月10日の歴史的な出来事。

天皇陛下の即位に伴うパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」

Photo nippon.com

観衆は国旗を振り、スマートフォンで撮影をしていました。

天皇・皇后陛下の写真を撮るなんてとんでもなかったのが、

函館の大火があった昭和9年の日本でした。

  

  

明治以来、小中学校には宮内省より御真影(ごしんえい)という

天皇・皇后両陛下の公式肖像写真が貸与されてきた。

校長はそれを校内にもうけられた奉安殿に教育勅語謄本と共に

安置し、厳重に管理し、学内の儀式に使用していた。

危機の際御真影をどう扱うべきか。危機が学校に迫るや、

校長や教員は馳せつけ、身命を賭して御真影と教育勅語謄本を

取り出し、安全な場所へ移す奉遷(ほうせん)を行ったのであった。

(179p)

   

Wikipedia 御真影には次のように書いてありました。

 

宮内省からの「貸与」品として、ことさら慎重な取り扱いを

求められており、1898年(明治31年)に長野県の

町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)では、

失火により明治天皇の御真影を焼いてしまい、当時の校長・

久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を負って

割腹自殺するという事件が起きた。また、1933年(昭和8年)、

沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)が

火災に遭い、御真影が焼けてしまった際にも当時の校長が

割腹自殺をした

  

  

 

函館大火の時の話です。☟

  

それはある校長に生じた一生忘れることができない痛恨事であった。

それを明らかにした本人は後年兄から聞かされてそれと知ったので

あった。本人によると、大火の夜、父は家族を避難させると、

ひとりで自分が校長の小学校へ向った。途中には新川橋があり、

それを五稜郭側から松風町側へ渡らねばならなかった。

しかし、既述のように、松風側から渡ってくる圧倒的多数の

避難民のためどうしても渡ることができなかった。

新川橋が駄目なら別の橋へ移動しなかったのか、その間の事情は

分らない。ともかく、橋が崩落したため、渡ることができないうちに

学校は焼失してしまった。その結果、御真影と教育勅語謄本を

もちだせなかったのである。校長としては大失態であり、

進退問題に発展するのは必定であった。翌朝、父は焼け残った自宅へ

悄然(しょうぜん)として帰宅した。

相当な覚悟の上であったと思われる。

(179~180p)

【悄然】=元気がなく、うちしおれているさま。 引用:goo辞書 

  

  

   

どうなったと思いますか?

  

  

  

  

  

  

続きを引用します。

  

  

そこへ知らせが入った。宿直の代用教員が機転をきかして

くさりを切り、御真影と教育勅語謄本をもちだし奉遷

してくれていたのだった。彼のおかげで父は危機を脱した。

公式には、奉遷により御真影の取り扱いは万事遺憾なきを得て

安泰であった、ということで通った。

父は長男のみ真相を明らかにし、黙して語らなかった。

御真影は全部御安泰という事実の背後には、このような

ドラマがあったのであった。

(180p)

2019年11月12日 (火)

「函館の大火」⑤/物の十分なかった時代には、人は物に執着した

  

今日は令和元年11月12日。

  

寝る前にもう1本道草します。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

漠然と疑問に思っていたことが、この本を読んで理解できました。

  

漁師の娘、6才の近藤ウメは寝ているところを起こされ

火事だと知った。窓から見ると、浜の山沿いのあたりに

赤い花火が上がっているように見えた。

一家の避難先は函館公園と決った。

彼女は母に背負われ、「大丈夫、大丈夫」と励まされながら

公園へ向った。火災により空全体に広がった明るい光りが

近づいてくるようで、恐ろしかったのを憶えている。

家には父や兄たち男手が揃っていたため、家財道具一式を

公園へ搬入した。

  

日本では家財道具の搬出は江戸時代からの伝統的習慣であった

ように思われる。「すわ火事だ」となると、親戚・知人まで

駆付けて搬出を手伝う。物の十分なかった時代には、

人は物に執着した。中には、箪笥、布団類、衣類、柳行李、

書籍類、台所道具一式を持ちだし、障子や襖でそれらを囲うという

念の入ったものもあった。そこへこぶし大の火の粉がどしどし

落ちてくればどうなるか。当然それらは発火する。

函館公園、東川町の護岸、大森浜、大森橋の袂(たもと)には

火がついて放置された家財が多く、延焼を助長したように思われる。

(86p)

  

関東大震災の写真を見た時に、荷物をたくさん持って逃げる人たちに

驚きました。

たとえばこの写真。☟ 上野駅前広場に避難した人々

Kantodaisinsaiuenoekihukin 関東大震災のちょっといい話

  

関東大震災では、これらの荷物に火が襲いました。

橋を渡る人たちの荷物に燃え移って、

火は川を超えました。

本所被服廠跡で火災旋風が起こって、多くの人が犠牲になりました。

※関連:ここでも道草 再会「火災旋風」(2013年9月4日投稿)

なぜそんなに荷物を運ぶんだと、漠然と思っていました。

物の十分なかった時代には、人は物に執着した。

この言葉が特に印象に残りました。

そうなのか?そういうことなのか?

家財道具を持って出れば、それでほぼ全てだとしたら、

やっぱり持って逃げるのかと思いました。

ひとつ疑問が解決した気分です。

  

  

  

災害と背中合わせの現代。

私だったら、最近買ったばかりのお気に入りのショルダーバッグに

財布とタブレット端末を入れて逃げるかな。

いやいや、ザックにそれらを入れて、他にもザックに入るだけ入れて

逃げるかな。  

考えておくべきですね。

  

「函館の大火」④/火炎と打ち寄せる波の挟み撃ち

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

風の方向が変わったことで起こった惨事を書き留めます。

函館の大火 昭和九年の都市災害」は、

こまめに記録を書いてありますが、

地図に関しては、わかりにくい地図のみの掲載です。

したがって、頻繁に出てくる町名や坂名、橋名など、

所在がわかりにくかったです。

  

今回書き留める文章中に出てくる町名、浜名を

今の地名も参考にして、本の表紙の地図に

書き加えてみました。

地図の方角も上が北にしてみました。

Epson113_2  

(昭和9年3月21日)

風向きは21時に南西方向になり、さらに西南西へ廻り、

23時前から西へ変った。延焼中、局地的な旋風も生じていたが、

大局的には海峡側から吹き込んだ風が、ある時点で湾側から

吹き始めたことにある。そのため、東川町の護岸(埋立地)から

隣接する大森浜までの広大な空間は最初風上(かざかみ)に当たり、

安全地帯のように思えた。そこで、東川町、栄町、東雲町等

海岸に近い所に住んでいた市民と、警察の誘導により流れ着いた

市民がその空間に蝟集(いしゅう)したのであった。

消防組の調べではその数約1万人であった。

しかし、やがてそこが風下(かざしも)になり

悲劇が生じることになった。

(116p)

  

その時の様子を伝える文章を紹介します。

函高女1年の池田富美子さんの体験記。

  

一家四人で埋立地へ逃げました。

もう方々で火が燃えて天をこがすばかりでしたが、

私達のゐる所は大丈夫なので私は大変よい所へ逃げて来たと

思ひまして安心をいたしました。

母も「此処は大変よい所だね、なぜ皆こちらの方へ来ない(の)だろう」

といつてゐましたら、俄(にわか)かに風の向きがかはつて

火の粉がたくさん飛んできました。

あちらこちらの荷物に火がついて海へ投げてゐました。

(116p)

  

海辺に避難した人たちは、火炎と打ち寄せる波の挟み撃ちに

襲われてしまいます。

  

汐見小5年の尾崎邦さんの体験記

  

大森ですこしやすんでゐましたら、そばにあつた船に

火がつきましたので、荷物を全部そこへすてゝしまひました。

波うちぎはで四時間近く水につかってゐました。

二度も三度も波にさらわれ、後から火をかぶつて

とても苦しくて夢中でした。

(119p)

 

東川小6年の奥寺量平の体験記。

    

「ゴォー」又大浪がきた。と、僕の体がうき上った。

その時、目前にくいが立つてゐた。

僕はむちうになつてしがみついた。

そのくいこそ僕の命を助けてくれた。

もしこのくいがなかつたら僕は死んでいたかもしれない。

(119p)

  

どれだけの人が犠牲になったか?

  

護岸と浜で火と水で挟撃され、命を奪われた人の数は

353人を数えた。その他に湯の川・根崎に漂着した遺体は

325人である。

(120p)

  

聖保禄高女1年の山田芳子さんの短歌です。

  

突然に強風の向き北へ変り 

   激しき炎われらを襲ふ

 

火と風も漸(ようや)く鎮まり母と身を

   寄せ合い一夜浜辺に明かす

  

大波を被りし髪は砂まみれ

   櫛も梳(と)き得ず固まりしまま

  

母とまれ此の日の事は口閉ざし

   幾歳月を過ごし来たるや

  

姉一人妹二人を奪われし

   かの大火日のまた巡り来る 

 

(214~215p)

  

   

ここでも道草 「雪虫の飛ぶ日」⑥/函館大火(2019年10月29日投稿)

☝ 「雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6」の記述で

関心を持った函館大火。

海辺での悲劇が最も印象に残っていました。

昭和の始め、父親が生まれて3年後に、

函館でこのようなことがあったのですね。

教科書には載っていないけど、これも歴史。

「函館の大火」③/不運にも低気圧が減速して、強風が吹いていた

  

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

この本は、次のような構成になっています。

 

第一部 函館の環境

 第一章 自然環境

 第二章 都市空間

 第三章 都市社会

第二部 函館の大火

 第四章 危機管理と大火の歴史

 第五章 大火の日

第三部 鎮火とその後

 第六章 後手に回った危機管理

 第七章 荒廃と混乱

 第八章 責任と被害

 第九章 復興

 終章 大火の記録

 

 註

 証人リスト

 状況推移表

 あとがき 

 

  

いよいよ第五章より引用します。

 

大火のあった日、日本海を低気圧が北上していました。

 

18時、それは函館の西側の日本海を通過して

北西方向の寿都(すっつ)沖約50キロメートルに達し、

発達して966ヘクトパスカルに達した。

(69p)

 

そこまで時速90km~63kmというスピードで、

日本海を北東方向に進んでいた低気圧が、

18時までは時速17km、18時から20時までは時速5kmと

急減速しました。

Epson112b (70p)

Epson112a (71p)

  

原因は低気圧が高圧帯に行く手をはばまれ、転進を模索して

手間どったから、と思われる。その間、急減速していた

18時から20時の間の18時53分頃、

函館で火災が発生したのであった。

要するに、気圧が速度を減速させ、ほとんど停滞している時であり、

同じような烈風がくりかえし長時間吹続(すいぞく)するという

最悪の条件下にあった時である。それは函館にとって極めて運の

悪い状況であった。

(69~72p)

  

ゆっくりではあるが低気圧が移動したことで、

函館に吹いた風は、方向を変えます。

最初は南南西でしたが、南西になり、西南西になり、

最後は西風になります。

この方向の変化が、大惨事を招きました。

風速は19時には22m、その後は24m内外だったそうです。

瞬間最大風速は40m近いと推定されています。 参考:72p

  

函館の大火には、強力な低気圧が関係していたのです。

低気圧は気温も変化させます。

  

気温も追い打ちをかけた。21日午前中は正午まで5度以下であった。

それが午後上昇し始める。13時に6.7度になり、

17時には8.3度まで上昇する。

その後気温は次第に下降し、出火直後の19時には7.3度、

24時には1.4度に下降する。

22日3時、気温はマイナス0.4度、

火炎の延焼が止む6時にはマイナス1.7度になる。

海に入ったり、川に落ちて濡れた人や烈風で着衣を

剥ぎ取られた人には厳しい状況であった。

(72~73p)

  

  

函館の大火による惨事は複数の場であり、

本にも描かれています。

その中で、風向きが変わったことで起こった

大森浜での悲劇を、ブログに書き留めておきたい。

  

つづく

「函館の大火」②/函館の消防

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

函館の消防について書きます。

  

函館は火事の多い町でした。

 

たとえば、明治2(1869)年から昭和9(1934)年まで

66年間に100戸以上を焼失した火災は26件生じている。

その中、1000戸以上を焼失した火災は10件である。

(中略)

26件の火災の中で、明治40(1907)年の大火、

大正10(1912)年の大火、

昭和9(1934)年の大火を函館の三大大火と言う。

(57p) 

  

したがって消防の近代化は進んでいました。

その中心になったのが勝田彌吉。

勝田は、大正8年、アメリカ製のポンプ自動車を導入。

大正11年には全国に先駆けて市内全域に火災報知機を

110基設置しました。

  

しかし、勝田組頭はそれに満足せず、函館の火災を具(つぶさ)に

検討して、多くの原因・理由を析出して改善に心がけている。

好例がある。函館では、水道は日本で二番目に早く建設されたが、

たちまち給水量の不足を告げ、拡張工事にもかかわらず、

慢性的な水不足に陥っていた。そのため、明治40年近くから

時間給水や断水を余儀なくされ、明治40年の大火も

大正10年の大火も火災は断水中に生じたものであった。

そこで水の有効利用が考えられ、消火栓、火防専用水道、

防火井さらに地下式水槽の設置が推進された。

彼は消防手の健康と疲労を考えて勤務規定の改正にも踏み切り、

昼夜の別なき数日の連続勤務から隔日勤務へ改めたのであった。

その結果、大正10年の大火以来無大火のまま10年が経過したのが

評価され、昭和6年函館消防組は大日本消防協会より

表彰状と表彰旗を授与されたのであった。

(59~60p)

防火意識も高かったです。

  

昭和9年2月には盛大な防火キャンペーンも行われていました。

  

その日、組合は火の用心のビラを、注意書を各戸へ配布し、

各町で一斉にパトロールを行い、各所に60本の立看板をたて

市民に注意を喚起したのだった。

さらに、音楽隊を先頭にした宣伝旗のパレード、

水管消防車を先頭に防火キャンペーンの関係者が分乗する

自動車のパレードも行われた。

厳冬の寒気を切り裂く一大スぺクタクルであった。

その時配布された防火のキャンペーン歌(井上金之助作詞)は

 

守れ守れ火の用心 火事は身の損国の損

我等の愛する函館を 護りて火災を征服せ

火事の名所と謡われた 昔の汚名を雪げかし

  

と火災の克服を呼びかけている。

(61p)

  

   

そんな函館市で、昭和9年(1934年)3月21日に、

再び大火に見舞われてしまったのです。

しかし、その日でも消防への信頼は厚かったです。

  

函中2年の中原八郎は「僕は安心して居た。火は大分遠いらしいし、

消防は全国に誇るものだ、きっと消すに違ひない」と確信していた。

(64p)

2019年11月11日 (月)

「函館の大火」①/「蟹」と「工船」

 

今日は令和元年11月11日。

  

この記事に書いたこと。☟

ここでも道草 「雪虫の飛ぶ日」⑥/函館大火(2019年10月29日投稿)

 

この本が読んでみたくなりました。

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)

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2017年刊行で、新しい本であることが魅力。

図書館に置いていないのが残念。

買って読むか迷っています。

でもきっと好奇心に負けます。

  

  

やっぱり好奇心に負けて、購入しました。

中古で購入。3600円の本が2493円(送料含)で

手に入りました。

そして読みました。

勉強になりました。

昭和9年(1934年)3月21日の函館の

大火に関する詳細な本です。

  

さっそく引用していきます。

  

函館山の山頂からは眼下に市街地が広がり、南は下北半島、

津軽半島を望み、道内有数の景勝地をなしている。

夜景は日本三大夜景(函館、神戸、長崎)、

世界三大夜景(函館、香港、ナポリ)のひとつとして有名である。

しまし、夜景は函館山が市民に開放された現在についてのみ

言えることである。昭和9年の大火当時、函館山には

明治32(1899)年以来設置された

函館要塞(後に津軽要塞と改称)があり、

民間人は立入り禁止であった。

そのため、美しい景観は知られていなかった。

(5p)

  

函館山が、市民に開放されたのは昭和21年(1946年)の

12月のことでした。参考:Wikipedia 

   

   

(函館港の)特色は青函航路の拠点港であったことにある。

元々それは日本郵船が始めたが、実情に即していなかったので、

明治41年鉄道院が新造船を投入して青函連絡船の運航を

開始した。

(18p)  

  

青函連絡船は、上記の通り明治41年(1908年)から、

昭和63年(1988年)まで運航していました。

参考:Wikipedia

そうかあ、平成時代には運航してなかったのですね。

私は1985年に乗船しました。あれは昭和だったんだ。

まあそうか。

    

   

函館は大正·昭和期には変ることなく出稼者の中継基地であった。

季節的には春、秋に賑わう。出稼者は出身が道内、東北、

北陸の諸地方に集中している。(中略)

沿岸漁業が衰退したため、出稼漁夫·雑夫は

北洋漁業へ活路を求めて転進した。

そうした北洋漁業へ出漁する船の出航地は多くが、

関係者の集散しやすい交通の要衝、函館であった。

(29p)

  

工船は船中に缶詰工場を備える大型船だが・・(略)

(36p) 

   

出稼ぎの人たちは、沿岸漁業で鰊(にしん)や鰯(いわし)を

獲っていましたが、不漁になると、遠くオホーツクの海や

ロシア近くの海にまで出かけて行きました。

獲れるものは鱈(たら)、鱒(ます)、鮭(さけ)、

そして蟹(かに)等でした。

  

「蟹」と「工船」で思い出すのが、小林多喜二の小説「蟹工船

小説が発表されたのは昭和4年。

函館の大火の年に近いです。

知っていますが、まだ読んだことがない小説。

近々読もうかな?

  

  

「函館の大火 昭和九年の都市災害」は、大火当時の函館が

どのような都市であったかを細かく紹介しています。

今回は、そこからの引用です。

11月11日は「介護の日」

今日は令和元年11月11日。

   

1が四つ並ぶ今日は、いろいろな記念日です。

5年前の記事です。☟

ここでも道草 今日は11月11日/記念日が目白押し(2014年11月11日投稿)

  

「第一次世界大戦停戦記念日」

昨年は、第一次世界大戦(1914~1918)が終了して

ちょうど100年だったので、ヨーロッパで大きな祝典があり、

社会科の授業でも紹介しました。

    

今日は「介護の日」でもあります。

厚生労働省が2008(平成20)年に制定。

5年前の11月11日の記事を書いた時に比較して、

「介護」という言葉は、私にとってうんと身近になりました。

父親の介護は、当初は予想外のことが多く、

たいへんでした。

認知症、風呂の世話、下の世話などなど。

ビックリ、ショック、あ然、うんざり等の

感情の連続でした。

でも今はだいぶ介護に慣れました。

経験を積んで、父親のすることが想定内になってきたので、

気持ちに余裕が出てきたかな。

  

父親を寝かす世話をしたついでに、

同じ布団にもぐりこんでみることもします。

きっと子どもの頃はやっていたことです。

「じゃまだなあ」と父親に苦笑いされますが、

しばらく居続けます。

何十年かぶりに父親に甘えているかもしれません。

  

    

いつ父親とのお別れが来るかはわかりませんが、

楽しく付き合っていきたいと思っています。

  

 

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楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉