「函館の大火」②/函館の消防
今日は令和元年11月12日。
前投稿に引き続き、
「函館の大火 昭和九年の都市災害」
(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。
函館の消防について書きます。
函館は火事の多い町でした。
たとえば、明治2(1869)年から昭和9(1934)年まで
66年間に100戸以上を焼失した火災は26件生じている。
その中、1000戸以上を焼失した火災は10件である。
(中略)
26件の火災の中で、明治40(1907)年の大火、
大正10(1912)年の大火、
昭和9(1934)年の大火を函館の三大大火と言う。
(57p)
したがって消防の近代化は進んでいました。
その中心になったのが勝田彌吉。
勝田は、大正8年、アメリカ製のポンプ自動車を導入。
大正11年には全国に先駆けて市内全域に火災報知機を
110基設置しました。
しかし、勝田組頭はそれに満足せず、函館の火災を具(つぶさ)に
検討して、多くの原因・理由を析出して改善に心がけている。
好例がある。函館では、水道は日本で二番目に早く建設されたが、
たちまち給水量の不足を告げ、拡張工事にもかかわらず、
慢性的な水不足に陥っていた。そのため、明治40年近くから
時間給水や断水を余儀なくされ、明治40年の大火も
大正10年の大火も火災は断水中に生じたものであった。
そこで水の有効利用が考えられ、消火栓、火防専用水道、
防火井さらに地下式水槽の設置が推進された。
彼は消防手の健康と疲労を考えて勤務規定の改正にも踏み切り、
昼夜の別なき数日の連続勤務から隔日勤務へ改めたのであった。
その結果、大正10年の大火以来無大火のまま10年が経過したのが
評価され、昭和6年函館消防組は大日本消防協会より
表彰状と表彰旗を授与されたのであった。
(59~60p)
防火意識も高かったです。
昭和9年2月には盛大な防火キャンペーンも行われていました。
その日、組合は火の用心のビラを、注意書を各戸へ配布し、
各町で一斉にパトロールを行い、各所に60本の立看板をたて
市民に注意を喚起したのだった。
さらに、音楽隊を先頭にした宣伝旗のパレード、
水管消防車を先頭に防火キャンペーンの関係者が分乗する
自動車のパレードも行われた。
厳冬の寒気を切り裂く一大スぺクタクルであった。
その時配布された防火のキャンペーン歌(井上金之助作詞)は
守れ守れ火の用心 火事は身の損国の損
我等の愛する函館を 護りて火災を征服せ
火事の名所と謡われた 昔の汚名を雪げかし
と火災の克服を呼びかけている。
(61p)
そんな函館市で、昭和9年(1934年)3月21日に、
再び大火に見舞われてしまったのです。
しかし、その日でも消防への信頼は厚かったです。
函中2年の中原八郎は「僕は安心して居た。火は大分遠いらしいし、
消防は全国に誇るものだ、きっと消すに違ひない」と確信していた。
(64p)
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