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2019年11月12日 (火)

「函館の大火」②/函館の消防

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

函館の消防について書きます。

  

函館は火事の多い町でした。

 

たとえば、明治2(1869)年から昭和9(1934)年まで

66年間に100戸以上を焼失した火災は26件生じている。

その中、1000戸以上を焼失した火災は10件である。

(中略)

26件の火災の中で、明治40(1907)年の大火、

大正10(1912)年の大火、

昭和9(1934)年の大火を函館の三大大火と言う。

(57p) 

  

したがって消防の近代化は進んでいました。

その中心になったのが勝田彌吉。

勝田は、大正8年、アメリカ製のポンプ自動車を導入。

大正11年には全国に先駆けて市内全域に火災報知機を

110基設置しました。

  

しかし、勝田組頭はそれに満足せず、函館の火災を具(つぶさ)に

検討して、多くの原因・理由を析出して改善に心がけている。

好例がある。函館では、水道は日本で二番目に早く建設されたが、

たちまち給水量の不足を告げ、拡張工事にもかかわらず、

慢性的な水不足に陥っていた。そのため、明治40年近くから

時間給水や断水を余儀なくされ、明治40年の大火も

大正10年の大火も火災は断水中に生じたものであった。

そこで水の有効利用が考えられ、消火栓、火防専用水道、

防火井さらに地下式水槽の設置が推進された。

彼は消防手の健康と疲労を考えて勤務規定の改正にも踏み切り、

昼夜の別なき数日の連続勤務から隔日勤務へ改めたのであった。

その結果、大正10年の大火以来無大火のまま10年が経過したのが

評価され、昭和6年函館消防組は大日本消防協会より

表彰状と表彰旗を授与されたのであった。

(59~60p)

防火意識も高かったです。

  

昭和9年2月には盛大な防火キャンペーンも行われていました。

  

その日、組合は火の用心のビラを、注意書を各戸へ配布し、

各町で一斉にパトロールを行い、各所に60本の立看板をたて

市民に注意を喚起したのだった。

さらに、音楽隊を先頭にした宣伝旗のパレード、

水管消防車を先頭に防火キャンペーンの関係者が分乗する

自動車のパレードも行われた。

厳冬の寒気を切り裂く一大スぺクタクルであった。

その時配布された防火のキャンペーン歌(井上金之助作詞)は

 

守れ守れ火の用心 火事は身の損国の損

我等の愛する函館を 護りて火災を征服せ

火事の名所と謡われた 昔の汚名を雪げかし

  

と火災の克服を呼びかけている。

(61p)

  

   

そんな函館市で、昭和9年(1934年)3月21日に、

再び大火に見舞われてしまったのです。

しかし、その日でも消防への信頼は厚かったです。

  

函中2年の中原八郎は「僕は安心して居た。火は大分遠いらしいし、

消防は全国に誇るものだ、きっと消すに違ひない」と確信していた。

(64p)

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