2019年11月20日 (水)

1988年東ベルリン公演/東ドイツが許可したロックシンガー

今日は令和元年11月20日。

  

前投稿に引き続き、11月6日放映の

BS世界のドキュメンタリー/ロックが崩した冷戦の壁」より。

  

ベルリンの壁が取り払われたのが、30年前の1989年。

その前年の1988年7月19日に、東ベルリンで大観衆を集めて

コンサートを行ったアメリカ人ロックシンガーが紹介されました。

東ドイツが開催をOKしたのです。

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ブルース・スプリングスティーンです。

   

ブルース・スプリングスティーンは、ボブ・ディランの

「自由の鍾/Chimes of Freedom」を歌いました。

※歌詞→廃墟の街のレコード店 自由の鍾 

前投稿で示したように、ビリー・ジョエルは、やはり

ボブ・ディランの「時代は変わる/The Times They Are A-Changing」を

歌いました。

※歌詞→時代は変わる ボブ・ディラン

ノーベル賞をもらったボブ・ディラン。

世代が少しずれた私には、まだそのすごさがわからない。

  

    

ブルース・スプリングスティーンのこのコンサートについては、

このサイトの説明が激しいです。☟

monotone-extra Bruce Springsteen /East Germany 1988

Dvdro10951  

すこし引用します。コンサート開催のいきさつに触れています。

  

その映像美で描かれるショウは、歴史ヌキには語れない。

そもそも、このコンサートを企画したのは、

自由ドイツ青年団(Freie Deutsche Jugend)。

14歳から25歳までの東ドイツ人の75%以上が

加入するという巨大組織だったのですが、このFDJが

スポーツやディスコ、コンサートといった若者文化を企画し、

政府当局の許可を得て開催するスタイルでした。

ところが、80年代半ばには当局が許可できない企画も登場し、

禁止されると暴動に発展するようにもなった。

このコンサートは、そのガス抜きとして企画されたもの。

東ドイツ当局は、ブルース・スプリングスティーンを

「不正と戦う労働者階級」として許可したのです。

 

  

歴史ですよ、これは。

ゾクゾクする歴史です。

私はこの時、教員4年目。

ブルース・スプリングスティーンは聴きまくっていましたね。

でも残念ながら、このコンサートのことは覚えていません。

コンサートの映像をもっと見たくなりました。

 

1987年モスクワ公演/僕の中で冷戦は終わったんだ

今日は令和元年11月20日。

  

11月6日放映の「BS世界のドキュメンタリー/

ロックが崩した冷戦の壁」を見ました。 

  

番組の冒頭に出てきたこの方。☟ 名前は紹介されなかったので、

誰だかわかりませんでした。

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皆さんはわかりますか?

この番組の内容からして、登場して当然の人でした。

最近、いやいやずっとご無沙汰のミュージシャンでした。

正解は、下を読んでいただければわかります。

  

  

  

  

ほんの一部、番組の聞き書きします。

45分番組の28分ぐらいからです。

  

ナレーター:1985年政権に就いたミハエル・ゴルバチョフは、

  若者の支持を得るには、ロックンロールの統制をゆるめる

  必要があると考えます。

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アレキサンダー・バーシュボゥ元駐ロシア米大使:ロックを

  規制することはもはや不可能で、開かれた体制を目指す

  彼(ゴルバチョフ)の政策には、逆効果だったのです。

(中略)

ゴルバチョフ:ロックは若者のためにあります。ロックは若者たちに

  未来を切り開く機会を与えます。それによって彼らは

  大きな解放感を味わえるのです。思慮深い人は皆、

  こう理解していました。「若者たちは単に浮かれ騒いでいる

  のではない」「ロックに魅了されているのだ」と。

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ナレーター:ゴルバチョフはアメリカ人のロックミュージシャンが、

  ソビエト国内で電子楽器を使用することを許可しました。

  一番乗りでやってきたのは、ビリー・ジョエルです。  

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ビリー・ジョエル:「ソビエトで公演してみないか」と打診があった。

  人々の反応が不安だったが、どこへ行っても「アメリカ万歳」と

  言われて驚いた。これがなぜ(アメリカで)報道されないのか

  疑問だった。

  向こうのテレビ番組に出演してディランの”時代は変わる”を

  歌った。変化しようとするソビエトにピッタリだった。

  ゴルバチョフの功績は、抑圧が長く続いたことに気づき、

  門戸を開いたことだ。冷戦は終結しなくても、緊張は

  緩和されると感じた。

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ナレーター:ビリー・ジョエルのモスクワ公演には、2万人の

  ファンが詰めかけました。立ち上がって一緒に歌うことを

  初めて許可されました。会場にいたKGBは、それまでの

  ように、観客を座らせようとはしませんでした。

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ビリー・ジョエル:警備員も一緒に飛び跳ねていた。観客を

  席に押さえつける仕事を忘れてね。彼らも変革を求めて

  いたんだ。

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  ソビエトの脅威は確かにあったが、アメリカの政治家に

  煽(あお)られて、我々は恐怖をかきたてられおびえていた。

  ソビエトの人々は戦争など望まず、アメリカ人に好意的だった。

  ソビエトを訪問した時に、僕の中で冷戦は終わったんだ。

  それまでの恐怖が、突然消えた。人生であれほど大きな

  分岐点になった出来事はない。

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この記事に最初に載せた写真は、ビリー・ジョエルでした!

この番組を見て、1987年のモスクワ公演は、歴史的な出来事

だったと思いました。

しかし、懐かしい。

ビリー・ジョエルの曲が聴きたくなりました。


YouTube: Piano Man【訳詞付】- Billy Joel


YouTube: Honesty【訳詞付】- Billy Joel


YouTube: My Life【訳詞付】- Billy Joel

  

ラストは景気よくこの曲で・・・


YouTube: Billy Joel - Uptown Girl (Official Video)

  

2019年11月19日 (火)

そそり立つ壁?恵那市の平岩トンネル

 

今日は令和元年11月19日。

  

17日は、親戚の叔父さん叔母さんを連れて、

岐阜県の恵那峡に行き、紅葉を見てきました。

その時に気になったトンネルがありました。

恵那市にある平岩トンネルです。

  

自動車で走っていて、目の前にそそり立つように山があり、

その山に向かって走っていくと、平岩トンネルがあるのです。

とにかくそそり立っているのです。

壁のように急斜面です。

きっとネット上では話題になっていると思って、

「恵那市 平岩トンネル そそり立つ」で検索しましたが、

なにも引っかかりませんでした。

 

百聞は一見に如かず、見てみますか。

まずはグーグルアースで向かいます。

グーグルアース 平岩トンネル

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国道257号線を、黄色の矢印の向きに進みました。

黄色の線で表わしたのがトンネルです。

目の前に、山がそそり立つように見えました。

3Dではどうでしょう。こちらの方が、壁っぽいかな。

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黄色の矢印の付近にストリートビューで下りてみます。

ストリートビュー 平岩トンネル

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そそり立っているように見えますか?

実際に行くとよくわかりますよ。

国土地理院の2万5千分の1の地形図で見てみましょう。

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トンネルの入り口がある斜面は、等高線が密だと思いませんか。

この地形図から予測するに、急なところは40度くらいあると思います。

(国土地理院のサイトで、始点・終点を指定すると、断面図を

 見ることができます。それを利用して予測しました)

スキーのジャンプ台が35度と言われています。

それに匹敵します。

なかなかの角度です。

よかったら見に行ってください。

そして感想を教えてください。

  

「燃える海山」⑥/「新十津川物語」は「本物志向」の物語

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

  

「あとがき」から引用します。

「あとがき」を書いたのは、那須正幹(まさもと)さん。

「ズッコケ三人組」シリーズの那須さんです。

  

新十津川物語全体を通じていえる、川村作品のものすごさは、

舞台の細部にいたるまで、徹底した取材と時代考証によって

構築されているところにあります。それが、ようかん1本の

商品名であれ、ひと口飲んだだけの酒の銘柄であれ、

ちゃんと当時実在したものでないと書かないという

〈くそまじめ〉さで筆をすすめていくのです。

歴史的事件などは多くの資料もそろっていますが、

こうした日常品の名まえ、あるいはさりげなく挿入されている

歌謡曲の流行期間というのは、じつに作家泣かせの事柄なのですが、

川村さんは執念と思える潔癖さで、そのひとつひとつを

調査しておられます。全十巻では四千枚を越えるだろうと

予想される、この新十津川物語は、川村さんの本物志向によって、

はじめて成立していることをわすれてはならないでしょう。

(307~308p)

  

新十津川物語は、好奇心をくすぐり、

ブログにもたくさん引用したり、引用したことをきっかけに

調べたりしてきました。

たとえばこの記事。☟

ここでも道草 「雪虫の飛ぶ日」④/「宮田号」と「ノーリツ号」について(2019年10月29日投稿)

日本の自転車の歴史の勉強につながりました。

それは、突っついてもびくともしない、

川村さんの「本物志向」の物語のおかげだったのです。

  

  

全10巻の「新十津川物語」

残りあと2巻。

今年中に読めそうです。

「燃える海山」⑤/小笠原丸撃沈 樺太豊原市空襲

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

   

再びこの8年前の記事。

ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

☝ ここからの引用。

  

8月22日  小笠原丸撃沈。

  

「燃える海山」には、小笠原丸撃沈の様子が描かれていました。

8年前にはたった1行でしたが、今回の読書で膨らみます。

  

おなじ(8月)22日の朝、北海道留萌の沖では、3せきの

疎開船がつぎつぎと魚雷攻撃を受けた。

まず午前4時22分、国籍不明の潜水艦が小笠原丸の左後方に

するりとうかびあがった。稚内でおよそ半数の避難民をおろした

小笠原丸は、小樽をめざしていそいでいるとちゅうだった。

潜水艦を見て、あわててくの字の回避運動にはいろうとしたとき、

魚雷が命中した。人がふっとび、マストが折れたかと思うまもなく

船はみるみるしずんでいった。

このようすは、留萌防空監視哨からも見えた。20せきの漁船を

だして救助にむかったが、助けあげたり海岸に泳ぎついたのは

62人で、あとの640人はかえらなかった。

(253p)

  

さらにここで勉強しました。☟

WEB歴史街道 三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇

小笠原丸、第二新興丸、そして泰東丸(たいとうまる)の受難に

ついて書いてあり、最後にこう締めくくっています。

  

終戦後、1708人もの日本人が一方的に「殺戮」された事実は、

まず日本人として記憶に留めるべきことです。

そして、これは日本人に落ち度があったからではありません。

犠牲者の方々を悼むとともに、この悲劇からいま日本人が

学ぶべきことは多いと感じます。

  

   

  

同じ昭和20年8月22日に起こったもう一つの惨事を、

川村たかしさんは書いています。

  

樺太の中心都市であった豊原市の空襲です。

  

豊原の惨劇がはじまったのは、正午をすぎてまもなくである。

爆撃機1機と戦闘機2機が屋根をかすめるように飛来したかと

思うと、駅の上空にきて、黒いかたまりのようなものを、

つぎつぎにおとした。(中略)

耳をつんざくひびきがしたとき、機関車は直撃弾を受けて、

まっぷたつに折れた。カマのほうがそばの貨車につっこんで

燃えだした。横の倉庫が焼夷弾で炎をあげた。(中略)

2つの防空壕は直撃弾を受け、べつの壕の入り口では、

爆風で腹をひきさかれた子どもが、血にそまってたおれた。

にげまどう人びとに、ソ連機はなおもしつこく追いすがる。

女も老人もごろごろよこたわり、機銃掃射はパスパスと

広場の土を縫って走った。なおも小型爆弾が地べたをゆさぶる。

20分もたったろうか。ソ連機は大きく円をえがいて北の空に

消え去った。(中略)町全体ではほぼ100人が死に、

300人がけがをした。

(252p)

  

8年前の記事の昭和20年8月22日に、

次の項目を書き加えることにしました。

  

樺太豊原市空襲 死者100人余。

  

たった1行ですが、重たいです。

「燃える海山」④/北海道空襲 室蘭艦砲射撃

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

   

ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

☝ まずはここから引用します。

  

7月14日-15日  北海道空襲。死者約2000人(室蘭艦砲射撃の死者数を含む)。 

  

この空襲に関する「燃える海山」の記述を引用します。

  

1カ月前の7月14日、北部軍管区司令部は、B29、20機と

艦載機300機が、くりかえしくりかえし7時間ものあいだ、

函館、室蘭、帯広、釧路を攻撃した、と発表した。

 

根室では350機の集中攻撃を受けて、町は延えん19時間も

燃えつづけた。3500戸のうち2500戸を焼いた火は、

家いえにある石炭に引火して、昼も夜も炎を吹きあげた。

 

この日は、青函連絡船もしつこい攻撃を受け、12せきのうち

11せきがしずめられた。今朝男(けさお)が通信士として

のっていた第四青函丸は、6キロの沖で8機の敵機につかまり、

蛇行したままにげまわったものの、とうとう沈没した。

アメリカ機は、船がしずんでからも漂流する人間をねらい撃ってきた。

今朝男はなんども水中にもぐって、やっとのことで助かった。

  

つぎの15日には、ただ1せきのこった第一青函丸も、

青森県三厩(みんまや)灯台1キロのところで、グラマン19機に

おそわれてしずんだ。2日にわたる攻撃で、北海道と本州をむすぶ

船便はまったく絶たれたことになる。

  

おなじ15日、和彦の高射砲隊がいる室蘭市の輪西(わにし)は、

午前9時半からきっかり1時間、顔もあげられないほどの

艦砲射撃に見まわれた。日本製鋼、日本製鉄は炎えんと黒煙をあげ、

死者は500人をこえた。子どもがかくれた防空壕が直撃され、

30人が即死した。

(218~219p)

 

  

繰り返しますが、地元の豊橋空襲(昭和20年6月19日‐20日)と、

豊川海軍工廠空襲は、それなりに調べて知っています。

でも全国で空襲はあって、悲劇が起こっていました。

今回の読書で、北海道の空襲のことを少し知ることができました。

 

すこし調べました。

室蘭艦砲射撃慰霊碑(北海道室蘭市中島本町2-8)

Photo_00 総務省HP

碑文を引用します。

  

慰霊碑  

第二次世界大戦も終局に近い昭和二十年七月十四日十五日

の両日にわたる艦砲射撃のために中島社宅在住の人達

百九十二名の尊い人命が失われた

当会では終戦後毎年この人々の冥福を祈ると共にこのよう

な過ちを再び繰り返さないために慰霊祭をおこなって来た

がこの度この碑を建立し犠牲者の冥福を祈るものである

 

  昭和三十四年三月二十一日  中島社宅民和会

 

 

それぞれの地域に忘れちゃいけない歴史があります。

「燃える海山」③/「隊長はじめ全員が死んだ。」

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

  

広島に新型爆弾が投下されてから3日後の8月9日、

カラフトではふいにソ連軍が国境をこえた。

敷香(しずか)の町にながれこむ幌内川(ほろないがわ)の

上流国境地帯は、ミズゴケやハイマツのしげるやせた

ツンドラ地帯である。その広大な原野にいくつかの派出所が

あって、8人の警官が常駐していた。

ソ連兵が侵入してきたのは、午前7時半ごろである。

銃弾がかすめ飛ぶ中を、警察官は応戦しながら、家族をつれて

南方へとにげた。うまいぐあいに、うしろにびっしりと霧が

閉ざした。ソ連兵は追ってこなかったが、撃たれたものか

ふたりの巡査もすがたを見せなかった。これが最初の交戦だった。

とっくに電話線は切断されていた。

(178p)

  

8月8日にソ連は、日本に宣戦を布告。

その知らせを受けていない国境で、このようなことが

起こっていたのですね。

        ☟ ここが当時の国境

Epson118 (裏表紙裏の地図をコピー)

そして終戦の8月15日には次のようなことがありました。

長いけど引用します。

  

翌(8月)15日、ソ連軍はますます数をまし、戦車は50台、

砲十数門、兵は千数百人にふくれあがっていた。

古屯(ことん)兵舎には速射砲が二門あったが、

戦車砲を2,3発受けただけでしずかになってしまった。

あとに弾薬箱だけがのこった。

この部隊に、明治43年につくられたという、おそろしく古い

連隊砲が1門のこされていた。訓練用の見本で、カラフトにきてから

一発も実弾を発射したことがないという骨董品だった。

 

戦車が近づいてくるのを見た下村伍長らが、このやたら砲身の長い

大砲をひっぱりだしたときだった。

「敵戦車接近します。」

という声に、しっかりと陣地をさだめるゆとりもなく、

「ゼロ距離射撃、直接照準。」

下村伍長が大あわてで号令をかけた。

「撃てっ。」

水平にした砲身から、どっと砲弾がふいた。すると、おどろくべき

ことがおこった。速射砲も歩兵隊砲もまるで受けつけなかった戦車が、

かく座※してうごかなくなったのである。中からあわてた迷彩服の

ソ連兵がとびだしてきた。  

  

味方がワッと歓声をあげた。はじめての戦果だ。明治の大砲はなおも

火を吐きつづけた。3台め、4台めと戦車はうごかなくなり、

とびだした兵が空に飛ぶ。7台めは300メートルほど前方で

キャタピラが吹っとび、くるりと向きをかえてうごかなくなった。

5,6秒できめるのだが、ねらいはたしかだった。ほとんど一発で

命中させた。命中させると、土塀の裏にひっぱりこんで弾丸をこめる。

つぎの目標があらわれたとなると、路上にひきだしてぶっぱなした。

15台、16台・・・・。

  

この骨董品の連隊砲は、なんと32台の戦車をかく座したあと、

沈黙した。味方はふるいたった。何台もの戦車を破壊したのは大きかった。

しかし、敵は大部隊である。負傷兵は担架にくくりつけられたまま、

兵舎の庭にほうりだされたままだった。横山中隊長はじめ、つぎつぎと

戦死していく。小村大隊長はのこった60人ほどをあつめて、

森の中ににげた。夜になるのを待って斬りこむつもりだった。

しかし、あべこべにつっこんできた敵兵にあい、隊長はじめ全員が死んだ。

  

ソ連軍は、とうとう古屯川をわたりはじめた。ひざまでの水を

けとばしながら、自動小銃をめった撃ちにしながらおしわたってくるのは、

からだがすくむほどの迫力だった。日本軍も撃ちに撃った。

小銃の撃しんは赤く焼けた。こわいから撃っていたともいえる。

戦友の遺体を楯に撃っていた者も、いつのまにか息絶えていた。

  

夕方になって、ソ連兵の射撃がやんだ。かたっぱしから幹を

ひきさかれたシラカバが、むごいほど赤い夕日に焼けていた。

あちこちでうめき声がきこえる中を、わずかに生きのびた日本兵が、

ツンドラの上の水をすすりながらにげた。

軍馬がしょんぼり立っていても、ふりかえる者はなかった。

はるばる日本からはこばれてきた馬は、いまはじゃまでしかない。

  

これが、8月15日のことである。ポツダム宣言を受けいれて

日本が無条件降伏をした日、カラフト国境では、いま非常理な

戦闘が開始されたばかりだった。

(184~186p)

  

※【かく座】=擱座 戦車・車両などが破壊されて動けなくなること。

  引用:goo辞書

   

著者の川村さんは、取材をして実際にあったことを書いていると

思って読みました。自分だけが読んだだけでは、不十分。こういうことが

あったということは、私のブログの読者に知ってもらいたいと思い、

書き留めました。 

 

8月15日以降、兵士や非戦闘員の人たちがいっしょくたになって

ソ連と戦い、ソ連から逃げたかを、8巻後半は書いていました。

「燃える海山」②/置戸の強制労働・土浦の空襲

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

  

置戸(おけど)に千人をこす中国人がはこばれてきたのは、

昭和19年の5月からだった。子どものような若者から、

髪の毛が半分白いやせた男たちまで、貨車をおりると

ぞろぞろと坂をのぼってきた。憲兵や巡査が前後をかためていた。

捕虜だという者も、いや〈兎狩り〉でつかまったのだと

うわさする者もあった。土地の顔役に金をつかませておいて、

14,15歳から50歳ぐらいまでの男を、むりやりかすめとって

くるというのである。事務所の中でも、真相はよくわからなかった。

憲兵がついているのは、脱走のおそれがあるからだろう。

坑道のちかくに、三つの華人寮がたてられ、1キロほどはなれた

ところに、300人ほどの朝鮮人も収容された。

(143p)

  

新十津川物語は、歴史上の出来事を巻き込んできます。

北海道の「置戸」では、戦時中に水銀採鉱が行われていました。

そこに大量の中国人、朝鮮人が連れてこられ、強制労働が

行われました。この置戸には、主人公のフキの長女あやが住み、

水銀採鉱にかかわります。

 

  

 

昭和20年6月10日の茨城県土浦。

ここには主人公フキの孫の中崎勲が予科練生として

土浦海軍航空隊にいました。

そこがアメリカ軍の空襲を受けました。

 

高射砲の弾幕がつぎつぎと空に打ちあがりました。

味方の機銃も火を吐いている。しかし、高度わずか500、600

メートルの低空を飛んでいる巨体はびくともしない。

頭上をよこぎるとき、日をさえぎって地上はほんのすこし

くらくなる。ちかくで見るB29はそれほど大きかった。

(中略)

30機ばかりのB29の編隊は、黒々と土浦の町はずれを

通過していった。やがて、霞ケ浦航空隊のあたりでも爆弾の音がした。

むこうでも乗員を養成していた。鳥人たちの巣を、まだひなのうちに

たたいておこうというのであろうか。

(172p)

  

この日、土浦だけで280人が、霞ケ浦では111人が死んだ。

土曜から日曜にかけて外出していた士官もおおかったから、

平日ならもっと犠牲者がでたことだろう。三波にわたった

B29の群れは、ほぼ30メートルおきに250キロ爆弾を

落としていったことになる。

(176p)

私が住んでいる近くで起こった豊橋空襲、

豊川海軍工廠空襲については勉強し、

このブログにも書いてきました。

しかし、昭和20年は、全国のいろいろなところで

空襲がおこり、悲劇があったんだよなとあらためて思いました。

※参考:ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

2caf1ad36d33eec14bb30ba15b3b1d54 太平洋戦争とは何だったのか   B29

 

  

次の記事では、樺太であったことを書きます。

主人公フキの息子、孫たちが巻き込まれていきます。

「燃える海山」①/浩次郎が志願して「回天」に搭乗

 

今日は令和元年11月19日。  

  

昨日、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)を読み終えました。

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全10巻の「新十津川物語」の8巻目です。

  

図書館に返却する本なので、手元に残しておきたい文章は

いつものように書き留めておこうと思います。 

山口県の大津島に、主人公のフキの孫、中崎浩次郎が赴任します。

そこは新兵器「回天」の秘密基地でした。

浩次郎は志願しての赴任でした。

  

「よし。わたしは当隊指揮官、坂倉少佐である。貴様たちは

きょうこれから、おれの部下になる。数千人の中からえらび

ぬかれた精鋭ときくが、いままでの教育隊とちがって、

実施部隊、戦闘部隊である。なにごとにも、いのちがけで

立ち向かうように。」

浩次郎はわけもなく、小さくふるえた。すぐそばに死がある

という実感だった。司令のことばがさりげないだけに、

ぎくっとするような重みがあった。いままでことばの上で

わかってはいたものの、死ぬということはまだ自分のそばには

きていなかった。だが、ここにはもう足もとに生と死の

別れ道がある。

(38p) 

  

フキの家族が「回天」にかかわります。人間魚雷の「回天」。

それにかかわった人たちは「死」をどう感じたのでしょうか。

川村さんはここで「すぐそばに死がある」と表現しました。

少佐の話の続きです。☟

  

「貴様たちには、この兵器にのってもらう。回天という。

いまは機密保持のために『丸六』といっているが、

いうまでもなく人間魚雷だ」  

少佐はあたりを見まわした。

「数日まえ、これをつくりだしたひとり、黒木大尉

(だいい/海軍では、とくにダイイとよんだ)が訓練中殉職した。

わらわれは黒木のしかばねをこえてゆかねばならん。

当隊はまだ発足したばかりだが、海軍首脳部の回天によせる

期待は絶大である。回天、すなわち天をめぐらす起死回生の兵器、

戦いの流れをかえるという意味を考えれば、貴様らは日本の

苦境を打開する尖兵(せんぺい)である。」

(39p)

  

「回天」がなぜ生まれたかが語られています。

もう少し「回天」の説明部分を引用します。

  


人間魚雷回天が試作されたのは、昭和19年2月に、日本軍の

敗戦がほぼ確実になってからである。潜水学校を卒業した

黒木博司と仁科関夫のふたりの士官の発案である。

巡洋艦から発射される九三(きゅうさん)式魚雷を改造した

もので、頭部に1.55トンの火薬をつめ、人が操縦する。

ただし、帰還することははじめから考えられていなので、

中からハッチをひらくこともできない。いちど発射してしまえば、

生きて還えることは万に一つもないしくみになっていた。

(40p)

  

中からハッチをひらくことができないのは、ショックでした。

狭い空間に閉じ込めあっれて、自分では出られない状況は、

計り知れない恐怖だった思います。

  

「回天」と言えば、小説「出口のない海」(横山秀夫著/講談社)が

忘れれられません。実際に自分が「回天」を操縦しているかのように

思わせる小説でした。

残念ながら映画は、そこまで表現できませんでした。

41tvq170jfl__sy445_ amazon  2006年製作

  

小説「出口のない海」をこれを機会に再読してみようかな。

2019年11月18日 (月)

次こそ見逃さない!「ETV特集 静かで、にぎやかな世界」

  

今日は令和元年11月18日。

  

11月15日の朝日新聞朝刊の記事です。

Epson117  

ドキュメンタリー番組「ETV特集 静かで、にぎやかな世界」を

制作したディレクターの長嶋愛さんを紹介した記事。

  

この番組が放映されたのは、2018年5月26日

再放送があったのが、2018年11月24日

再々放送があったのが、2019年5月5日

私の「録画したい番組メモ」によると、2018年5月26日

3番組録画していますが、この番組は見逃しています。

2018年11月24日も3番組を録画していますが、

この番組は録画していません。

2019年5月5日は、日曜日で、大河ドラマ「いだてん 

第17話 いつも2人で」のみ録画していました。

  

せっせと毎日録画している身としては、こういうのが残念。

番組表を見て、限られた情報でいい番組を見極めて録画する。

そんな能力をつけたいと思っています。

  

記事の引用。

 

ある日、訪れたろう学校で「輝いている先輩」と紹介された。

「あの子たちにうそをつきたくない」

  

いいきっかけが長嶋さんに訪れて、それを活かしました。

ここがいいなと思いました。

  

  

残念ながら3回もスルーしてしまった「ETV特集 

静かで、にぎやかな世界」ですが、もう一回、

私にチャンスをください。次は見逃さない。

Etv もっとNHKドキュメンタリー

  

  

 

 

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