2019年11月12日 (火)

「函館の大火」④/火炎と打ち寄せる波の挟み撃ち

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

風の方向が変わったことで起こった惨事を書き留めます。

函館の大火 昭和九年の都市災害」は、

こまめに記録を書いてありますが、

地図に関しては、わかりにくい地図のみの掲載です。

したがって、頻繁に出てくる町名や坂名、橋名など、

所在がわかりにくかったです。

  

今回書き留める文章中に出てくる町名、浜名を

今の地名も参考にして、本の表紙の地図に

書き加えてみました。

地図の方角も上が北にしてみました。

Epson113_2  

(昭和9年3月21日)

風向きは21時に南西方向になり、さらに西南西へ廻り、

23時前から西へ変った。延焼中、局地的な旋風も生じていたが、

大局的には海峡側から吹き込んだ風が、ある時点で湾側から

吹き始めたことにある。そのため、東川町の護岸(埋立地)から

隣接する大森浜までの広大な空間は最初風上(かざかみ)に当たり、

安全地帯のように思えた。そこで、東川町、栄町、東雲町等

海岸に近い所に住んでいた市民と、警察の誘導により流れ着いた

市民がその空間に蝟集(いしゅう)したのであった。

消防組の調べではその数約1万人であった。

しかし、やがてそこが風下(かざしも)になり

悲劇が生じることになった。

(116p)

  

その時の様子を伝える文章を紹介します。

函高女1年の池田富美子さんの体験記。

  

一家四人で埋立地へ逃げました。

もう方々で火が燃えて天をこがすばかりでしたが、

私達のゐる所は大丈夫なので私は大変よい所へ逃げて来たと

思ひまして安心をいたしました。

母も「此処は大変よい所だね、なぜ皆こちらの方へ来ない(の)だろう」

といつてゐましたら、俄(にわか)かに風の向きがかはつて

火の粉がたくさん飛んできました。

あちらこちらの荷物に火がついて海へ投げてゐました。

(116p)

  

海辺に避難した人たちは、火炎と打ち寄せる波の挟み撃ちに

襲われてしまいます。

  

汐見小5年の尾崎邦さんの体験記

  

大森ですこしやすんでゐましたら、そばにあつた船に

火がつきましたので、荷物を全部そこへすてゝしまひました。

波うちぎはで四時間近く水につかってゐました。

二度も三度も波にさらわれ、後から火をかぶつて

とても苦しくて夢中でした。

(119p)

 

東川小6年の奥寺量平の体験記。

    

「ゴォー」又大浪がきた。と、僕の体がうき上った。

その時、目前にくいが立つてゐた。

僕はむちうになつてしがみついた。

そのくいこそ僕の命を助けてくれた。

もしこのくいがなかつたら僕は死んでいたかもしれない。

(119p)

  

どれだけの人が犠牲になったか?

  

護岸と浜で火と水で挟撃され、命を奪われた人の数は

353人を数えた。その他に湯の川・根崎に漂着した遺体は

325人である。

(120p)

  

聖保禄高女1年の山田芳子さんの短歌です。

  

突然に強風の向き北へ変り 

   激しき炎われらを襲ふ

 

火と風も漸(ようや)く鎮まり母と身を

   寄せ合い一夜浜辺に明かす

  

大波を被りし髪は砂まみれ

   櫛も梳(と)き得ず固まりしまま

  

母とまれ此の日の事は口閉ざし

   幾歳月を過ごし来たるや

  

姉一人妹二人を奪われし

   かの大火日のまた巡り来る 

 

(214~215p)

  

   

ここでも道草 「雪虫の飛ぶ日」⑥/函館大火(2019年10月29日投稿)

☝ 「雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6」の記述で

関心を持った函館大火。

海辺での悲劇が最も印象に残っていました。

昭和の始め、父親が生まれて3年後に、

函館でこのようなことがあったのですね。

教科書には載っていないけど、これも歴史。

「函館の大火」③/不運にも低気圧が減速して、強風が吹いていた

  

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

この本は、次のような構成になっています。

 

第一部 函館の環境

 第一章 自然環境

 第二章 都市空間

 第三章 都市社会

第二部 函館の大火

 第四章 危機管理と大火の歴史

 第五章 大火の日

第三部 鎮火とその後

 第六章 後手に回った危機管理

 第七章 荒廃と混乱

 第八章 責任と被害

 第九章 復興

 終章 大火の記録

 

 註

 証人リスト

 状況推移表

 あとがき 

 

  

いよいよ第五章より引用します。

 

大火のあった日、日本海を低気圧が北上していました。

 

18時、それは函館の西側の日本海を通過して

北西方向の寿都(すっつ)沖約50キロメートルに達し、

発達して966ヘクトパスカルに達した。

(69p)

 

そこまで時速90km~63kmというスピードで、

日本海を北東方向に進んでいた低気圧が、

18時までは時速17km、18時から20時までは時速5kmと

急減速しました。

Epson112b (70p)

Epson112a (71p)

  

原因は低気圧が高圧帯に行く手をはばまれ、転進を模索して

手間どったから、と思われる。その間、急減速していた

18時から20時の間の18時53分頃、

函館で火災が発生したのであった。

要するに、気圧が速度を減速させ、ほとんど停滞している時であり、

同じような烈風がくりかえし長時間吹続(すいぞく)するという

最悪の条件下にあった時である。それは函館にとって極めて運の

悪い状況であった。

(69~72p)

  

ゆっくりではあるが低気圧が移動したことで、

函館に吹いた風は、方向を変えます。

最初は南南西でしたが、南西になり、西南西になり、

最後は西風になります。

この方向の変化が、大惨事を招きました。

風速は19時には22m、その後は24m内外だったそうです。

瞬間最大風速は40m近いと推定されています。 参考:72p

  

函館の大火には、強力な低気圧が関係していたのです。

低気圧は気温も変化させます。

  

気温も追い打ちをかけた。21日午前中は正午まで5度以下であった。

それが午後上昇し始める。13時に6.7度になり、

17時には8.3度まで上昇する。

その後気温は次第に下降し、出火直後の19時には7.3度、

24時には1.4度に下降する。

22日3時、気温はマイナス0.4度、

火炎の延焼が止む6時にはマイナス1.7度になる。

海に入ったり、川に落ちて濡れた人や烈風で着衣を

剥ぎ取られた人には厳しい状況であった。

(72~73p)

  

  

函館の大火による惨事は複数の場であり、

本にも描かれています。

その中で、風向きが変わったことで起こった

大森浜での悲劇を、ブログに書き留めておきたい。

  

つづく

「函館の大火」②/函館の消防

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

函館の消防について書きます。

  

函館は火事の多い町でした。

 

たとえば、明治2(1869)年から昭和9(1934)年まで

66年間に100戸以上を焼失した火災は26件生じている。

その中、1000戸以上を焼失した火災は10件である。

(中略)

26件の火災の中で、明治40(1907)年の大火、

大正10(1912)年の大火、

昭和9(1934)年の大火を函館の三大大火と言う。

(57p) 

  

したがって消防の近代化は進んでいました。

その中心になったのが勝田彌吉。

勝田は、大正8年、アメリカ製のポンプ自動車を導入。

大正11年には全国に先駆けて市内全域に火災報知機を

110基設置しました。

  

しかし、勝田組頭はそれに満足せず、函館の火災を具(つぶさ)に

検討して、多くの原因・理由を析出して改善に心がけている。

好例がある。函館では、水道は日本で二番目に早く建設されたが、

たちまち給水量の不足を告げ、拡張工事にもかかわらず、

慢性的な水不足に陥っていた。そのため、明治40年近くから

時間給水や断水を余儀なくされ、明治40年の大火も

大正10年の大火も火災は断水中に生じたものであった。

そこで水の有効利用が考えられ、消火栓、火防専用水道、

防火井さらに地下式水槽の設置が推進された。

彼は消防手の健康と疲労を考えて勤務規定の改正にも踏み切り、

昼夜の別なき数日の連続勤務から隔日勤務へ改めたのであった。

その結果、大正10年の大火以来無大火のまま10年が経過したのが

評価され、昭和6年函館消防組は大日本消防協会より

表彰状と表彰旗を授与されたのであった。

(59~60p)

防火意識も高かったです。

  

昭和9年2月には盛大な防火キャンペーンも行われていました。

  

その日、組合は火の用心のビラを、注意書を各戸へ配布し、

各町で一斉にパトロールを行い、各所に60本の立看板をたて

市民に注意を喚起したのだった。

さらに、音楽隊を先頭にした宣伝旗のパレード、

水管消防車を先頭に防火キャンペーンの関係者が分乗する

自動車のパレードも行われた。

厳冬の寒気を切り裂く一大スぺクタクルであった。

その時配布された防火のキャンペーン歌(井上金之助作詞)は

 

守れ守れ火の用心 火事は身の損国の損

我等の愛する函館を 護りて火災を征服せ

火事の名所と謡われた 昔の汚名を雪げかし

  

と火災の克服を呼びかけている。

(61p)

  

   

そんな函館市で、昭和9年(1934年)3月21日に、

再び大火に見舞われてしまったのです。

しかし、その日でも消防への信頼は厚かったです。

  

函中2年の中原八郎は「僕は安心して居た。火は大分遠いらしいし、

消防は全国に誇るものだ、きっと消すに違ひない」と確信していた。

(64p)

2019年11月11日 (月)

「函館の大火」①/「蟹」と「工船」

 

今日は令和元年11月11日。

  

この記事に書いたこと。☟

ここでも道草 「雪虫の飛ぶ日」⑥/函館大火(2019年10月29日投稿)

 

この本が読んでみたくなりました。

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)

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2017年刊行で、新しい本であることが魅力。

図書館に置いていないのが残念。

買って読むか迷っています。

でもきっと好奇心に負けます。

  

  

やっぱり好奇心に負けて、購入しました。

中古で購入。3600円の本が2493円(送料含)で

手に入りました。

そして読みました。

勉強になりました。

昭和9年(1934年)3月21日の函館の

大火に関する詳細な本です。

  

さっそく引用していきます。

  

函館山の山頂からは眼下に市街地が広がり、南は下北半島、

津軽半島を望み、道内有数の景勝地をなしている。

夜景は日本三大夜景(函館、神戸、長崎)、

世界三大夜景(函館、香港、ナポリ)のひとつとして有名である。

しまし、夜景は函館山が市民に開放された現在についてのみ

言えることである。昭和9年の大火当時、函館山には

明治32(1899)年以来設置された

函館要塞(後に津軽要塞と改称)があり、

民間人は立入り禁止であった。

そのため、美しい景観は知られていなかった。

(5p)

  

函館山が、市民に開放されたのは昭和21年(1946年)の

12月のことでした。参考:Wikipedia 

   

   

(函館港の)特色は青函航路の拠点港であったことにある。

元々それは日本郵船が始めたが、実情に即していなかったので、

明治41年鉄道院が新造船を投入して青函連絡船の運航を

開始した。

(18p)  

  

青函連絡船は、上記の通り明治41年(1908年)から、

昭和63年(1988年)まで運航していました。

参考:Wikipedia

そうかあ、平成時代には運航してなかったのですね。

私は1985年に乗船しました。あれは昭和だったんだ。

まあそうか。

    

   

函館は大正·昭和期には変ることなく出稼者の中継基地であった。

季節的には春、秋に賑わう。出稼者は出身が道内、東北、

北陸の諸地方に集中している。(中略)

沿岸漁業が衰退したため、出稼漁夫·雑夫は

北洋漁業へ活路を求めて転進した。

そうした北洋漁業へ出漁する船の出航地は多くが、

関係者の集散しやすい交通の要衝、函館であった。

(29p)

  

工船は船中に缶詰工場を備える大型船だが・・(略)

(36p) 

   

出稼ぎの人たちは、沿岸漁業で鰊(にしん)や鰯(いわし)を

獲っていましたが、不漁になると、遠くオホーツクの海や

ロシア近くの海にまで出かけて行きました。

獲れるものは鱈(たら)、鱒(ます)、鮭(さけ)、

そして蟹(かに)等でした。

  

「蟹」と「工船」で思い出すのが、小林多喜二の小説「蟹工船

小説が発表されたのは昭和4年。

函館の大火の年に近いです。

知っていますが、まだ読んだことがない小説。

近々読もうかな?

  

  

「函館の大火 昭和九年の都市災害」は、大火当時の函館が

どのような都市であったかを細かく紹介しています。

今回は、そこからの引用です。

11月11日は「介護の日」

今日は令和元年11月11日。

   

1が四つ並ぶ今日は、いろいろな記念日です。

5年前の記事です。☟

ここでも道草 今日は11月11日/記念日が目白押し(2014年11月11日投稿)

  

「第一次世界大戦停戦記念日」

昨年は、第一次世界大戦(1914~1918)が終了して

ちょうど100年だったので、ヨーロッパで大きな祝典があり、

社会科の授業でも紹介しました。

    

今日は「介護の日」でもあります。

厚生労働省が2008(平成20)年に制定。

5年前の11月11日の記事を書いた時に比較して、

「介護」という言葉は、私にとってうんと身近になりました。

父親の介護は、当初は予想外のことが多く、

たいへんでした。

認知症、風呂の世話、下の世話などなど。

ビックリ、ショック、あ然、うんざり等の

感情の連続でした。

でも今はだいぶ介護に慣れました。

経験を積んで、父親のすることが想定内になってきたので、

気持ちに余裕が出てきたかな。

  

父親を寝かす世話をしたついでに、

同じ布団にもぐりこんでみることもします。

きっと子どもの頃はやっていたことです。

「じゃまだなあ」と父親に苦笑いされますが、

しばらく居続けます。

何十年かぶりに父親に甘えているかもしれません。

  

    

いつ父親とのお別れが来るかはわかりませんが、

楽しく付き合っていきたいと思っています。

  

 

2019年11月10日 (日)

20191106報告 南沢山・横川山③/頂上からの景色

  

今日は令和元年11月10日。

  

前投稿に引きつづき、登山報告。

  

いい天気でした。

横川山山頂からの景色です。

 

御嶽山・乗鞍岳・北アルプス

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ピンボケだけど、穂高岳・槍ヶ岳が見えました!

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中央アルプス

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北アルプス

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富士見台・恵那山

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贅沢させてもらいました。

下山は午後2時25分頃。

5時間半ほど山の中にいました。

   

 

  

帰路の道路で見た景色。

カラマツが黄色く色づき、夕日が当たってきれいでした。

撮りたい時には、駐車できない場所でした。

やっと駐車できて撮った1枚。

もっといいところがたくさんありました。

Rimg2241  

色づくということは、葉が落ちるということですよね。

松なのに?

Wikipediaによると、カラマツは「落葉松」という別名がある

落葉針葉樹でした。今頃知りました。

  

  

以上で報告終了。

20191106報告 南沢山・横川山②/頂上へ

  

今日は令和元年11月10日。

  

前投稿に引きつづき、登山報告。

  

紅葉の中を歩く。

Rimg2162  

頂上が近づくと、紅葉のピークは過ぎて、

葉っぱがない木が増えました。☟

Rimg2165   

  

信州山歩き地図Ⅳ 里山編」絵地図です。

Epson111c_2  

絵地図にある「斜めになったカエデの木2本」は

楽しみでした。見逃さないようにしようと気をつけていました。

 

そしたらわかりやすかったです。

これなら見逃さないです。☟

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信州山歩き地図Ⅳ 里山編」絵地図です。

Epson111d  

南沢山まで0.4km」の看板は落ちていました。残念。☟

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☝ かろうじて?読めます。

  

  

南沢山頂上。

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南沢山から横川山への道で見ました。☟

Rimg2180

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もうすぐ横川山頂上。☟

Rimg2190

13年ぶりの横川山頂上からの景色は次の記事で。

  

  

つづく。

 

20191106報告 南沢山・横川山①/絵地図と比べながら歩く

今日は令和元年11月10日。

   

ここでも道草 「薬のやめどき」その2(2019年10月31日投稿)

この記事で引用した文章。

  

(抗不安薬の)減薬の前にやるべきこと

(中略)

そして何より、毎日6000~8000歩、歩くことだ。

歩くことでセロトニンの代謝が向上し、不安が和らぐことが

証明されている。

 

毎日は無理ですが、毎週山に行って歩いています。

これは、自分の病気にはいいはずと思って、

正々堂々?実行しています。

でも、昨日は不調でした。

奥さんと買い物に出かけましたが、

車から出ることができませんでした。

こんなに休ませてもらっているのに、

まだ治っていないのかと思いながら、

昨晩は布団にもぐって寝ました。

  

 

今回の登山は、久々奥さんと登りました。

長野県南部にある南沢山・横川山。

先日登った兀岳・夏焼山に近いです。

”あの本”がまた使えます。

信州山歩き地図Ⅳ 里山編」(中嶋豊著/信濃毎日新聞社) です。

 

この本に掲載されている登山道の絵地図が素晴らしい。

今回もその絵地図を片手に、絵地図に描いてあるものが、

実際にあるかどうか確認しながら歩きました。

私にとっては性に合ったこと。楽しみました。

  

朝日を浴びた紅葉。☟

Rimg2126  

落ち葉がよかった。☟

Rimg2127  

家から登山口まで3時間ほどかかりました。

よく冷えた朝で、車の気温表示が−1℃を示しました。

この秋(もう冬?)初めてのマイナスです。

  

阿智村のふるさと村自然園の受付で、1人200円を支払って

許可証をいただいて、奥の駐車場へ。

登山口は、この駐車場の傍らにあります。

駐車場から見える紅葉もよかったです。☟

Rimg2130  

登り始めは午前8時50分頃でした。

信州山歩き地図Ⅳ 里山編」絵地図です。

Epson111a 

実際の「中間点まで1km」です。☟

Rimg2136

   

紅葉です。

Rimg2138

Rimg2141 

紅葉も注目しましたが、ヤドリギも気になりました。

Rimg2142  

立派なヤドリギでした。

  

  

紅葉が続きます。

Rimg2144

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信州山歩き地図Ⅳ 里山編」絵地図です。 

Epson111b

沢コース分岐です。

Rimg2155  

太い倒木の間を通る」です。

Rimg2230  

倒木はコケに包まれていました。

Rimg2231  

平坦で快適な道 右に大岩2つ」です。

Rimg2229  

こうやって確認するのが楽しい。

  

  

つづく

  

  

    

 

水にぬれると透明になる花はある?

今日は令和元年11月10日。

  

昨晩、またクイズ番組でいい勉強をしました。

フジテレビ系列の「超逆境クイズバトル!! 99人の壁」です。

99 クイズ99人の壁HP

水をかけると花が透明になる植物があるかないかという問い。

ないと思ったのですが、ありでした。

その植物の名前は、

サンカヨウ

覚えたいですね。

  

バラと小さなガーデンづくり 透明な花サンカヨウってどんな花?

ここから引用します。

  

漢字では「山荷葉」と書きます。「荷葉」とは「蓮の葉」をさすそうで、

山に咲く蓮のような葉をもつ花」といった意味合いをもつ名前です。

蓮というよりは蕗の葉のようですが、とにかく大きな葉をもつ山の花です。 

  

写真も1枚転載。

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クイズ番組がまだまだ多いなあと思いますが、

クイズ番組のおかげで、

日本人が昔学習したことを復習したり、

新しいことに知的関心をもったりする機会にはなるなあと思います。

  

サンカヨウについては、この動画も見ごたえがあります。

山登りに行った時に、見逃さないようにしたい。

そのためにもじっくりと見ました。


YouTube: サンカヨウ前編(芽出し~開花) 山野草140


YouTube: 山野草141 サンカヨウ後編

 

2019年11月 9日 (土)

椿森林軌道のインクライン

今日は令和元年11月9日。

  

この本を読みました。

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amazon 

「特撰森林鉄道情景」(西裕之著/講談社)  

 

前投稿でも書いたように、

金とく」で森林鉄道に関心を持ちましたが、

山好きにとって森林鉄道に関心を持つことは

必至なことだと思いました。

 

この本には、全国各地の森林鉄道の写真が

どっさり載っていました。

そのほとんどが、白黒写真です。

もうとっくの昔に、森林鉄道の運営は終了しているからです。

かつて、山の中に線路が敷かれ、たくさんの材木を積んだ貨車が

動いていたのですね。

大杉谷森林鉄道にあったインクラインも、あちこちにあったようです。

一番印象に残ったのが、秋田県の男鹿半島にあった

椿森林軌道のインクラインの写真。

この1枚だけ転載しちゃいます。すみません。

Epson110  

添えられた文章も引用します。

 

この線の特徴は、集落の背後に急な斜面が立ちはだかっているために、

漁港の貯木場からすぐにインクラインで台地状の中腹部に上がって、

ある程度の水平軌道で伐採地まで向かうという線形である。

(43p)

  

漁港の名前は椿漁港。

グーグルアースで見ると、この港は今もあるようです。

そして「集落の背後に急な斜面」は今もあることが

わかります。

ただインクラインがどこにあったのかは、不明です。

グーグルアース 男鹿半島 椿漁港

Photo  

調べると、インクラインがあった可能性のある場所を

駆け上がった方がおられました。

廃線レポート 椿森林軌道  <第一回/>

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いるのですね、こういう人。

椿森林軌道の跡を克明にたどることを試みる人が。

素晴らしい。

2005年の報告でした。

特撰森林鉄道情景」は2014年の刊行。

きっとこの本のインクラインの写真を見て、

感激されただろうなあ。

最近の写真

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楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

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