Facebookの動画/道の落書き
今日は令和5年9月8日。
出勤前に1本。
古民具のことがあって、Facebookを本格的に始めましたが、
楽しい映像をたくさん見ることができます。
その中で秀逸だったものを、
このブログにリンクを貼って、
見られるようにしてみました。
↑ これです。Facebookのアプリが入っている人は、
見られると思います。
こんな映像です。
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今日は令和5年9月8日。
出勤前に1本。
古民具のことがあって、Facebookを本格的に始めましたが、
楽しい映像をたくさん見ることができます。
その中で秀逸だったものを、
このブログにリンクを貼って、
見られるようにしてみました。
↑ これです。Facebookのアプリが入っている人は、
見られると思います。
こんな映像です。
今日は令和5年9月7日。
前記事に引き続き、
「日中友好侵略史」(門田隆将著/産経新聞出版)
より引用していきます。
1989年(平成元年)天安門事件。
この事件は、中国共産党の改革派、胡耀邦(こようほう)が
中国の自由化、民主化を市民に訴えていたが、急逝。
自由化、民主化を望んでいた若者たちは、
胡耀邦の死を悼んで、天安門広場に集まります。
その数は10万人を超えます。
天安門広場の盛り上がりは、地方にも波及。
民主化の要求が行われました。
この状態を許さなかったのが、鄧小平(とうしょうへい)。
彼は軍隊を投入して、鎮圧を目指す。
多くの人名が失われ、その死者の数は、いまだに不明だそうです。
事件の影響は凄まじいものだった。驚愕した国際社会は、すぐに経済
制裁に向かって突き進んだ。しかし、主要七カ国(G7)の中で一国
だけ「中国への制裁」に反対する国があった。
日本である。
(269p)
日本は、中国に対して文句が言えない状況に、
中国からの工作で、作られていたのです。
日中友好絶対主義と本には書いてありました。
「日中友好」が盛んに叫ばれ、中国に多くの資金が流れ、
企業も中国に進出して、中国との関係が密になっていたのです。
天安門事件で、日本政府がそのような態度を取ったのは、
当時は知りませんでした。
私たちも日中友好絶対主義の中にいたのかもしれません。
「百年の恥辱を忘れず、偉大なる中華民族の復興を果たす」
そんなスローガンを唱える独裁者が中国に誕生したのは、二〇一二
年十一月十五日のことである。第十八回の中国共産党大会において、
習近平が正式に総書記に選ばれ、翌二〇一三年三月の全国人民代表
大会で国家主席に選出された。
日本だけでなく、中国、そして世界に悲劇をもたらす人物の登場で
ある。
(305p)
門田さんは、ここまで書いています。
習近平氏の動きは、確かに気になります。
明らかに独裁になってきました。
100年の恥辱とは、アヘン戦争から、
国共内戦で共産党が勝利し、中華人民共和国が建国されるまでの
期間を指しています。
この間に奪われた領土を奪い返す気が満々の習近平氏です。
後の歴史で、ヒトラーのように語られる人物になるやもしれません。
同じ時代に生き、どう動くのか注視したい人物となりました。
「中国はなぜ人権弾圧をやめないのか」
よくそう問う人がいる。これには、わかりやすい答えがある。
「それが中国共産党の本質ですから」
そう答えると、怪訝な表情で、
「中国共産党の〝本質"が人権弾圧なのですか」
そう再度、問われる。 ここで、こう答えるとわかってもらえるだろう。
「中国共産党に弾圧されたり、非業の死を遂げた人たちはどのくらい
いるんですか? 数千万人? 数億人? これほどの非道を続けた中国共産党
は、他者に政権を譲ることができると思いますか? もし、譲ったら、
たちまち殺されます。これまでに酷いことをやってきた分だけ、民衆の
反発はすごい。だから言論も、人権も封じて、強権で支配をつづける
しかないのです。権力を失うことは、彼らにとって物理的な死、つま
り惨殺をもたらすのです。
彼らはルーマニアのチャウシェスクや、リビアのカダフィ、イラクの
フセインたちの末路を知っています。だから、絶対に権力を手放すこ
とができない。弾圧をつづけ、権力を永遠に維持しつづけなければな
らない理由がそこにあります」
アメリカの中国専門家は、この本質を理解できなかった。そのために、
〝騙されつづけた四十年 "があったのである。そして、オバマのあとを
受けた大統領、ドナルド・トランプの登場によって、米中の激突は凄
まじいものになっていくのである。
(328p)
私がこの本を読んで一番印象に残ったのは、この文章です。
中国共産党が、民主化・自由化を恐れ、人権弾圧を続ける理由は、
自らが作った体制によるのです。
今まで漠然としていたものが、くっきり見えた感覚です。
中国では、反日教育がつづき、台湾では日本との交流・交友を促進す
るための教育がおこなわれている。日中国交正常化と日華断交—同時
になされた国家の決定は、長い年月を経て、揺るぎのない「民間交流」
という要素が加わって、まったく逆の「友好」現象を創り出したので
ある。
日本、そして台湾への「侵略」を中国に諦めさせるには、何をすべき
か。強固な友情で結ばれた日本人と台湾人。凶弾に斃れた安倍晋三元
首相は、「台湾有事は日本有事」と言いつづけた。中国の侵略をいか
に諦めさせるか ―それは、まさに安倍元首相が最期まで考えつづけた
テーマだ。
廖承志らの対日工作が創り上げた日中関係をいかに正常なものにする
かは、日本がいかに抑止力を高め、侵略許すまじの気迫を持つかにか
かっている。本書が日本人にそのことを思い起こさせる一助になるな
ら、これほど嬉しいことはない。
(371p)
あのパンダブームの頃の、日中友好絶対主義の考えは遠くなり、
日本人の中国に対する好感度は、現在、とても低い。
私も、かつては中国に行ってみたいと思った時がありました。
ちょうど、日中友好絶対主義の時代でしょう。
でも今は、見事なまでに行きたいとは思いません。
私の中国への好感度は低いです。
中国共産党に対する感情からきているものなのか。
すぐ隣の国、台湾と中国。
ちゃんと見ておこう。
情報を得ておこうと思いました。
以上で「日中友好侵略史」の引用は終了。
明日、図書館に返しますが、
実は延滞しています。
このブログに引用しなくては、返せませんでした。
すみません。
今日は令和5年9月7日。
前記事に引き続き、
「日中友好侵略史」(門田隆将著/産経新聞出版)
より引用していきます。
台北は怒りと哀しみに満ちていた。
日本が台湾を切り捨て、中国と国交を結ぶそのことが「既定路線であ
る」と台湾全土で捉えられていた。最も親密な関係にある日本と断交
することの「絶望」と「哀しみ」は、台湾の人々にとって想像もつか
ない。
台湾国民は、もともと台湾に住んでいた「本省人」と、蒋介石と共に
戦後、大陸から台湾へ逃れてきた「外省人」と、大きく二つに分けら
れる。人口比でいえば、圧倒的に本省人が多い。ほぼ九割を本省人が
占め、外省人は一割にも満たない。
しかし、蒋介石と共に大陸からやってきた国民党が台湾の政治、経済、
社会すべてを握り、本省人が進出できる分野は極めて限られていた。
常に日本に親近感を抱いてくれる本省人に比べ、外省人は大陸を失陥
した経験を持つだけに、その原因をつくった日本に憎悪を隠さない人
もいた。
その上、自分たちを台湾に追いやった共産中国に、今度は日本が国を
結ぶために尻尾をることなど、許しがたいものだった。外省人を中心
に激しい 「怒り」と、それとは異なる本省人の日本との縁が切れる”
という深い「哀しみ」が台湾中を覆っていたのである。
(179〜180p)
1972年の日中国交正常化は、
それまでの日本と台湾との国交断絶を意味していました。
そりゃあ、当たり前・・かもしれませんが、
当時、中国と国交が正常化することはいいことだと思い、
台湾にまで、関心が至っていなかったと思います。
台湾の本省人にとって、中国の国共内乱以後、
過酷な歴史を歩んだのだと思いました。
日本との関係改善をなにより望んでいたのは、中国の側である。しかし、
次章で詳述するように日本は、そんな中国の実情をなにひとつ掴んでい
なかった。ただ「手柄」に目が眩んだ政治家によって、「日中国交正常
化」という歴史的出来事に向かって突っ走っていたのである。
必要な調査や研究を怠り、中国の工作によって掌で転がされ、「ことこ
こに至っていた」のだ。
この手法は、実際に田中訪中でもいかんなく発揮される。 赤子の手が
ひねられるがごとく、日本は中国共産党の術中に嵌っていく。 それは、
その後の五十年、現在もつづく。今では中国のために働く政治家やマス
コミの方が主流になっているが、そのことは後述する。
(203p)
手柄に目が眩んだ政治家の代表が田中角栄氏でした。
日中国交正常化という歴史的事件は、
中国主導のものだったんだなとこの本で思いました。
その後、中国からパンダがやってきて、
日本は未曾有のパンダブームとなり、日本人は浮かれました。
日本が命脈をぎりぎり保ったのは、台湾を自分の領土と主張する中国
に対して、その立「理解」し、「尊重」するものの、「認めた」わけ
ではない、ということである。
簡単にいえば、「あなたの主張は尊重するし、理解していますよ」と
いうことであって、れを「承認」するわけではない、ということだ。
日本側は、そこだけは譲らなかった」のである。
(244p)
日中国交正常化の話し合いの中で、日本は、
台湾が中国の一部であることは認めなかったのです。
ここらが外交の難しいところなんだと思いました。
続く
今日は令和5年9月7日。
前記事に引き続き、
「日中友好侵略史」(門田隆将著/産経新聞出版)
より引用していきます。
17pで初登場するのが廖承志(りょうしょうし)
この人が、日本に対する中国の工作の中心人物でした。
廖承志と接した日本人は、その人柄に惹かれ、
いつの間にか親中派になっていきました。
この本の中での重要人物です。
(松村)記念館を出ると大きな記念碑が目に飛び込んできた。高さ三
メートル、幅一メートル余、厚も五十センチ以上はある石碑だ。隣の
松村記念公園の敷地の一角である。近づくと、その石に見事な文字が
刻まれているのが見えた。
友 誼 長 在 廖承志
一九八三年
日本と中国の長き友誼(ゆうぎ)を願う思いが込められた慶承志の言
葉である。松村への承志の感謝と尊敬が凝縮されたものだ。
廖承志は松村を突破口に着々と自民党の中に中国シンパを構築してい
った。その工作の手は、同時に野党の側にも及んでいく。
ターゲットは新興の宗教政党・公明党だった。
(46〜47p)
廖承志は、自民党に親中派を作ろうと、松村謙三議員を中国に招き、
実際に親中派にしました。
そして公明党を次の狙いにしました。
公明党の親中は、廖の裏工作があったのです。
中国はその後、池田(大作)に百二十以上の名誉教授や称号などを贈
りつづけ、今も創価学会・公明党を「思うがままに動かすことに成功
している」とされる。
池田が身元引受人となって創価大学が受け入れた海外留学生第一号の
程永華(ていえいか)は、二〇一〇年に駐日中国大使となったことは
記憶に新しい。 公明党は後述するように、これを嚆矢(こうし)に国
交正常化に大きな役割を果たす。 現在、公明党が「中国の代弁者」で
あるのは、はるか半世紀以上前から始まった中国共産党の「対日工作」
によるものであることを日本人は自覚すべきだろう。
こうして周恩来と慶志の「創価学会工作」は見事に成果を挙げるのである。
(64p)
第二次世界大戦以後の内戦もあり、文化大革命もあり、
中国はボロボロの状態でした。
でも中国共産党は、そんな中国の窮状はひた隠し、
戦後復興している日本の資金を援助してもらおうと、
日本を味方にしていくのです。
その前にやらなくてはならなかったのは、
中国と日本の国交を始めることです。
日本は、戦後、台湾の中華民国と国交を持っており、
中華人民共和国の中国とは国交がなかったのです。
続く
今日は令和5年9月7日。
9月4日の記事の続きです。
「日中友好侵略史」(門田隆将著/産経新聞出版)
からの引用をしていきたい。
冒頭は、昨年7月8日に起こった安倍晋三元首相が背後から
銃撃されて命を落とした話から始まりました。
以下、OCRのアプリを使って、大量に引用します。
「はじめに」の文章ですが、著者のなぜ書いたかが
よくわかる文章でした。
たしかなのは、安倍晋三元首相は、覇権国家・中国にとって「最大の
難敵」だったという事実である。(中略)
習近平中国国家主席、いや、中国共産党にとって「安倍晋三」ほど厄
介で、巨大な壁は、ほかに存在しなかったからだ。
防衛省や自衛隊の幹部と情報交換していると「安倍さんほど"本気の危
機感"を持っていた政治家はいなかった」という話が返ってくる。そし
て「自由主義圏の首脳たちの認識を変え大戦略まで変えてしまった政治
家こそ安倍さんだ」と。
まさに中国が安倍を嫌がった理由がそこにあった。
今では自由世界の基本戦略となっている「自由で開かれたインド太平洋」
戦略。アメリカにも、欧州にも、中心的な戦略として受け入れられてい
るこの基本構想を、ほかの言葉で言い換えるなら、「対中包囲網戦略」
である。まさに「ABJD包囲網」なのだ。(※Jは日本)
アメリカのオバマ大統領をはじめ、ヨーロッパの首脳たちが、それまで
疑いなく信じていた 「中国は責任ある大国として付き合っていける」と
いう考え方を根本的に変えたのがこの安倍構想である。
「中国をみくびってはいけません。 中国共産党が目指すものは何か。そ
の本質は何か。 このままでは日本も、世界も大変なことになります」
世界のリーダーたちは、安倍の〝"本気の危機感"に次第に揺り動かされ
ていった。口で言うだけでなく、支持率がたとえ十ポイント以上、下が
っても、安倍は危機に真っ向から向き合うために「平和安全法制」を成
立させ、世界の指導者たちを驚愕させた。オバマを説得し、さらにその
あとのトランプ大統領も説得に成功した。 まだ大統領就任前にトランプ
邸に乗り込み、中国の脅威について話し込んだのだ。初対面なのに、話
のほとんどを中国問題に費やし、なおかつ安倍はトランプを取り込んだ」
のである。
安倍が首相に返り咲いた二〇一二 (平成二十四)年、ほぼ同時に国家の領
袖になった習近平は最初からこの厄介な敵・安倍晋三と対峙しなければ
ならなかった。安倍が着々と進める対中包囲網に対して、指をくわえて
見るしかなかった習近平の焦りは相当なものだっただろう。
中国の横暴を放置するなら、日本の防衛、そして地域の平和と安定は維
持できない。 南シナ海の力による現状変更に止まらず、習近平は必ず台
湾を併合しようとする安倍晋三の〝本気の危機感"は、吉田茂以来の「軽
武装 経済重視」国家として歩んできた戦後日本を「根本から変えた」の
である。
前述のように二〇一五年九月、「平和安全法制」を成立させ、日米同盟
をそれまでの片務的なものから双務性のあるものに進化させた安倍は、
これまでにないアメリカの信頼を獲得し、明確に安全保障政策を国家の
「一丁目一番地」に据えた。そして二〇二二年、ロシアのウクライナ侵
略という戦後秩序の破壊がおこなわれた中、防衛費をGDP(国内総生産)
比二パーセントへと導く道筋を着実に整えていった。
だが、東アジアのみならず世界の安全保障に欠くことのできない政治家
・安倍晋三は、考えられないほど杜撰な奈良県警の警備によって「命を
奪われた」のである。
私は、本書で七十年前から始まり、現在に至る中国共産党の「対日工作」
の実態を描かせていただく。 日本の政界、官界、財界、マスコ 日本の
主要分野は、ほとんど中国の工作で自在に操られ、自由民主党ですらお
よそ八割を「親中勢力」が占めると言われている。そこまで築き上げる
のに中国共産党がどれほど努力し、執念をもって「対日工作」をつづけ
たか、私は詳細にお伝えしたい。その過程で籠絡されていった日本の政
治家や経済人の情けないありさまを、しっかりと脳裡に焼きつけて欲し
いと思う。
政治家・安倍晋三は、中国支配の日本政界にあってこれに疑問を呈し、
真っ向から勝負し、卓越した理論と独特のキャラクターで親中派が自由
に動けない政治状況をつくろうとした。
私は、同じ思いを共有し、この本を書き上げた。しかし、本書を最も
読んで欲しかった安倍元首相は、この世にいない。
安倍の死で、台湾への中国の軍事侵攻の危険度は確実に上がった。 平
和を愛する多くの人々の努力によって押しとどめられてきた中国によ
る台湾軍事侵攻は、「あるかないかではなく、いつあるかの問題」とな
っている。
したたかな中国共産党は、いま現在もあらゆる工作を、日本で、台湾で、
そして全世界で展開している。そのやり方はどんなものなのか、防ぐに
はどうしたらいいのか、多くの日本人に本書を手にとってもらい、過去
の日本でどんなことがあったのか、その目で確かめて欲しい。
そして政治家・安倍晋三が、なぜそうまでして中国と対峙しようとした
のか、是非、知っていただきたい。本書は、日本政治史上、比類なき功
績を残した安倍晋三元首相に捧げる日中友好の「侵略史」である。
多くの読者に安倍元首相の、そして私の"本気の危機感"を共有していた
だけたなら、本書を世に問うた意味があるのではないかと思う。
(2〜5p)
どうでしたか。
私は安倍首相の凄さを知っていませんでした。
森友問題での安倍首相の国会答弁がきっかけで、
公務員が公文書の改ざんを上司に言われ、
それを苦にした公務員が自殺した件で、
安倍首相へのイメージは悪くなっていました。
対中国で、習近平を相手に、中国の覇権拡大を防ぐ動きを、
世界の首脳を巻き込んで行っていたのですね。
門田さんが言うことだけに、そうなんだと思いました。
ここの文章が特に印象的でした。
「日本の政界、官界、財界、マスコ 日本の主要分野は、ほとんど中国
の工作で自在に操られ、自由民主党ですらおよそ八割を「親中勢力」
が占めると言われている。そこまで築き上げるのに中国共産党がどれ
ほど努力し、執念をもって「対日工作」をつづけたか、私は詳細にお
伝えしたい。その過程で籠絡されていった日本の政治家や経済人の情
けないありさまを、しっかりと脳裡に焼きつけて欲しいと思う。」
自由民主党ですら八割が「親中勢力」であることに驚くし、
公明党も、中国側の工作で、今やどっぷり親中派となっています。
今までやってこなかった視点で、政治を見るようになってきました。
福島の処理水の海中投棄において、中国が強烈に反対しています。
そんな中国に、公明党の山口委員長、
日中友好議員連盟会長の二階俊博氏が、
中国に交渉に行こうとしましたが、門前払いを食らいました。
中国は、親中派の大物の顔を潰しました。
中国は、親中派の人たちに期待するのは、
中国が有利になるように動く時だけでした。
中国のやることに、とやかく言わせる気はもともとなかったのでしょう。
この本を読んだ後だと、最近の出来事が理解できます。
続く
今日は令和5年9月5日。
朝の小学生の登校時。
毎週火曜日はスクールガードのおじさんです。
昨年の10月から始めたので、もうすぐ1年です。
いつもは、スクールガードの制服を着て、
帽子を被り、赤色灯を持って出かけます。
今朝は、スマホをポケットに入れて出かけました。
スマホは持参しないタイプの人間で、
家に置いたままのことが多く、家族に叱られていました。
しかし、昨年くらいから変わってきました。
理由は2つ。
①昨年度、町内会長をやったから。
市役所や町内会の人たちや、今まで縁がなかった団体さんまで、
いろいろな人から電話が来るようになったので、
なるべく早く対応したほうがいいと思ったからです。
②デジカメを諦めて、スマホで写真を撮るようになったから。
画質もそんなに悪くなく、iPhoneで撮った写真は、
自動的にiCloudに入り、その写真を使ってiPadでブログを書くのが、
とても楽になったからです。
私の大きな生活の変化です。
今朝もカメラを持ってスクールガードに行って良かったです。
虹を撮ることができました。
この虹、数分で消えてしまいました。
今日の朝は、ラッキーなスタートでした。
今日は令和5年9月4日。
久々、本の話。
この本を読みました。
「日中友好侵略史」(門田隆将著/産経新聞出版)
安倍晋三首相については、森友問題における発言を見て、
あまりいい印象を持っていませんでした。
しかし、この本で門田さんは、侵略してくる中国の壁の役目を
安倍首相が担ってきていたのだと言います。
その安倍元首相が殺されたことは、日本にとって大きな痛手だと言います。
日本を利用して、十分利用したら、態度を豹変させる中国。
覇権国家をやめることができない中国共産党。
やめた時には、中国共産党が物理的に
殺される日だと思っているからです。
それだけ、中国共産党は、ひどい弾圧をやってきたからです。
政権から下りたら、命はないのです。
この発想は、この本で学びました。
世の独裁者の多くが、政権を下りたときに、
悲惨な目に遭っているのを、中国共産党は知っているのです。
この本で知った新しい視点は、私にはスッと入ってきました。
中国は、長い年月をかけて、日本を利用してきたのです。
中国の怖さを感じた本でした。
もう少し、この本について書きたいけど、
今晩はもう遅いので、また明日。
今日は令和5年9月3日。
校区に鍛冶屋がまだあるかどうか。
9月1日はこれを確認することも宿題でした。
2009年にはあったはずです。
これは8月31日の記事です。
記事の最後に、「松尾かじや」のことに触れています。
その記事から飛ぶことができる2009年の記事からの引用。
「松尾かじや」の創業は大正8年、現在は茂さんと長男の哲明さんが
2人で工場を切り盛りしている。
2009年はこの状態でした。
それから14年。
今も存在するかどうか。
整体に行った後に、豊川市牛久保町の細い道を、
自動車をゆっくり走らせて、目を配りました。
そして、見つけました。
予想外に新しい建物でした。
でもちゃんと存在しました。
感激です。
また後日連絡をとって、いろいろなものを見せてもらおうと思っています。
また楽しみが増えました。
今日は令和5年9月3日。
キアゲハの幼虫が蛹になったのは、
8月25日でした。
それから10日。
キアゲハが羽化しました。
8月27日に買ったマクロレンズの出番です。
キアゲハが赤面するぐらい?
接近して撮影しました。
いかがでしょう。
お気に入りの写真はありましたか。
老眼の肉眼では、決して見ることができない毛並みなども、
写真に撮ることで、見ることができました。
羽根の胴体よりにある毛は、とっても格好がいいです。
この毛は、羽根の付け根を保護するためらしいです。
※参考:kankitanenkitaのブログ キアゲハ/成虫・体のつくり
マクロレンズを買って良かったです。
今日は令和5年9月3日。
前記事で書いたことを実行しました。
小倉トーストを食べてきましたよ。
お店は豊川市のカフェmoe(モエ)です。
こんな小倉トーストでした。
さらにアップ。
期待通りの甘さでした。
柔らかくて、食べていると垂れてきました。
小豆の甘い味と、トーストの味が合わさって、
これこれ、この味と思いながら食べました。
前記事に載せた10年以上前の写真と比べて、
パンの厚みが増したかなと思います。
フォークがパンの下に挟んであるのは、
なぜだろうと疑問に持ちました。
喫茶店慣れしていない私には、不思議でした。
観葉植物が驚きの成長。
天井まで届き、そこから横に伸びています。
これってつる性の植物でしょうか。
そうでなければ、こんな細い幹で、
全体を支えて直立できるとは思いません。
大きな葉っぱでした。
隣の席に、大学生風の男女4人が座りました。
聞こえてきました。
「コーヒー飲むと、眠れなくなっちゃうんだよな」
「食後は寝たいのに、寝れなくなっちゃう」
そんな会話で、大爆笑していました。
支払いを済ませて外へ。
出入り口の傍の水の入った鉢に、バラが浮いていました。
こんなお店でした。
2階に上がる階段もおしゃれでした。