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2023年1月28日 (土)

「教科書では絶対に教えない偉人たちの日本史」前半

    

今日は令和5年1月28日。

  

もう1本。

この本を読みました。

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「教科書では絶対教えない偉人たちの日本史」

(倉山満著/ビジネス社)

  

う~ん、読んだと言っても、途中までです。

面白かったのですが、時間がなかったです。

295pのうち、190pで断念。

明日の朝、図書館にこっそり返します。

(なぜ”こっそり”かはご想像にまかせます)

そしてまた借りて、続きを読もうと思います。

先日の「沈黙する教室」もそのパターン。

ちょっと読書計画が破綻気味です。

  

中学校の社会科教師としては、気になる題名の本でした。

「教科書では」「絶対に教えない」は変な日本語ではないかな。

教科書が教えるのではないのです。

教えるのは教師です。

もっとシンプルに「教科書には絶対に載っていない」なら

意味がわかります。

それならこの本の内容も合点がいきます。

教科書には載っていない興味深いことが書いてありました。

   

辛酉年(しんゆうのとし)一月一日、神武天皇は大和の橿原宮(かし

はらのみや)で即位し、天皇となります。

明治時代、「辛酉年一月一日」を陽暦に直すと「紀元前六六〇年二月

一一日」にあたると計算され、二月一一日を紀元節としました。紀元

節は神武天皇の即位をお祝いする日であり、日本の国が誕生した日で

す。第二次世界大戦後の昭和二三(一九四八)年、紀元節が廃止され、

昭和四一(一九六六)年に、二月一一日を「建国記念の日」として今

に至っています。

(18p)

  

もうじき2月11日ですが、こんな歴史があります。

以前聞いた事がある話ですが、認識できました。

確かに、教科書には載っていない内容です。

今回は漢数字をそのまま引用してみました。

  

ところで、中大兄皇子が暗殺したのは蘇我蝦夷・入鹿親子だけではあ

りません。その後も政敵や皇子をこれでもかと殺しています。

大化元(645)年には自分の異母兄・古人大兄皇子(ふるひとのお

おえのおうじ)を謀反の疑いで殺害します。入鹿は古人大兄皇子を皇

位につけようとしていました。大化5(649)年には岳父・蘇我倉

山田石川麻呂に謀反の疑いをかけ自害させます。白雉5(645)年

に叔父・孝徳天皇が崩御するのですが、中大兄皇子にいびり殺された

ようなものです。そして、斉明天皇4(658)年には孝徳天皇の皇

子・有間皇子(ありまのみこ)を処刑しています。

暗殺に始まり、暗殺に終わる。それが中大兄皇子です。

(42p)

  

叔父との間に何があったのか気になります。

続きが書いてありました。

  

叔父の孝徳天皇は中大兄皇子に殺害されませんでした。しかし、二人

の仲はとてつもなく悪く、孝徳天皇は中大兄皇子にいびり殺されたも

同然です。

孝徳天皇の皇后は、中大兄皇子の実の妹・間人皇女(はしひとのひめ

みこ)です。中大兄皇子は実の妹と不倫関係にあったのです。中大兄

皇子が難波宮から飛鳥宮に帰ると言ったとき、孝徳天皇は難波宮に残

ると言い出します。中大兄皇子をはじめ、間人皇女も、皇極上皇も全

員が飛鳥宮に帰っていってしまいました。孝徳天皇は一人難波宮に残

り、崩御します。まるで孤独死でした。

(42~43p)

  

歴史の教科書だと、中大兄皇子はヒーローっぽい扱いです。

蘇我氏を倒して、大化の改新を進めた人です。

そのイメージが壊れる話です。

私は、「白村江」(荒山徹著/PHP研究所)を読んで、

すでに中大兄皇子のイメージは壊れています。

※参考:ここでも道草 「白村江」① 高句麗の戦いの歴史(2020年2月26日投稿)

  

大海人皇子は天智天皇が崩御した直後に決起し、672年に壬申の乱

を起こします。そして大友皇子を首つり自殺に追い込みます。大友皇

子は明治時代の追諡(ついし)により第39代弘文天皇と呼ばれます

が、本当に即位したかどうかはわかりません。

673年に、大海人皇子は第40代天武天皇として即位しました。

(46p)

  

追諡とは「死後におくり(諡)名を贈ること」でした。

明治時代になって、即位が認められて、名前がついたのか。

大友皇子が天皇になったかどうかは気になっていたこと。

こういう経緯があるんだ。  

  

ユーラシア大陸では、チンギス・ハーンが率いるモンゴル帝国は

領土をどんどん拡張していました。1235年にはモンゴル帝国

の「世界征服計画」が立てられ、さっそくヨーロッパへの殴り込

みが開始されます。通ったところは軒並み征服しながら、西へ西

へと進撃し、1241年、ポーランドまで達しました。ポーラン

ドと神聖ローマ帝国の連合軍が立ち向いましたが、連合軍はモン

ゴル軍に惨敗でした。後世、この戦いはドイツ語で「死体の山」

を意味するワールシュタットの戦いと呼ばれ、モンゴルに対する

強烈な恐怖が語り継がれていきます。

(108p)

  

いつかしっかり、ワールシュタットの戦いを調べたくなりました。

でも今晩は寝ます。

 

他に引用したい文章はあるけど、諦めます。

  

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