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2022年7月

2022年7月16日 (土)

トロイの木馬の話とラオコーンの彫刻

    

今日は令和4年7月16日。

  

ここでも道草 「トロイの木馬」の話はどんな話だったけなあ(2022年7月14日投稿)

☝ この記事で紹介した動画の中で、

ラオコーンに関するところが印象に残りました。

(7分11秒からです)

木馬をトロイの城壁内に持ち込むことに対して、

神官ラオコーンが反対をします。

その途端、海から大蛇が現れて、

ラオコーンの2人の息子を噛み殺し、

ラオコーン自身も海に引きずり込まれてしまいます。

これは、トロイの王子パリスに、

最も美しい女神に選ばれなかったアテナが、

ギリシャ側に味方して、ラオコーンをおとしめたと言われています。

ラオコーンにとっては災難ですね。

  

この話が印象に残ったのは、

この彫刻☟と話がつながったからです。

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Wikipedia ラーオコオーン

  

この彫刻は有名です。

ギリシア神話のトロイ戦争の話がモチーフだったのですね。

上記のWikipediaによると、この彫刻は、

1506年に、地中から発掘されたものだそうです。

そりゃあすごい。

古代ギリシャで造られた像を真似て、古代ローマ時代に造られたものか、

古代ローマ時代独自のものかは、わかっていないそうです。

  

さらに深堀勉強。

(生徒には夏休みの宿題で、1学期に習ったことの深堀勉強を課しました。

ノート2ページです。教師も自らやらなくては・・・)

この動画が勉強になりました。


YouTube: 【出土の奇跡】楽しく解説!美術講座、天才彫刻家ミケランジェロを変えた2000年前の匠!

特に12分からのネタに注目。

この動画では、ラオコーンの彫刻を依頼したのは

古代ローマ人だという説を紹介していました。

なぜ古代ローマ人は、ラオコーンの彫刻を注文したのか。

  

ここで前記事の映画「トロイ」のシーンを思い出します。

木馬によってトロイの街は焼かれてしまうのですが、

そこから脱出した人たちがいました。

王子パリスから、トロイに伝わる宝剣を託されたのが、

アイネイアスという青年でした。

ちょい役でしたが、重要な人物でした。

  

アイネイアスが逃げ延びて、イタリア半島に行き、

古代ローマを建国したというのです。

古代ローマ人は、トロイの末裔となります。

そしてラオコーンは、先祖のトロイの人たちに

正しいことを言った神官となります。

英雄になるのです。

だから、ローマ人は、ラオコーンの彫刻を依頼したわけです。

  

ここにも面白い話をありました。

動画で勉強するのもありだと、強く思います。

  

映画「トロイ」(2004年)を観ました

       

今日は令和4年7月16日。

   

前記事のつづきのような内容。

映画「トロイ」(2004年)をさっそく観ました。

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ネタバレになる記事です。

その点、お願いします。

2004年の映画だから、すでに観た人はたくさんいるかな。

私は初めて観ました。

  

前記事で紹介した動画のような神々が登場するシーンはなく、

人間によるストーリーでした。

主役はアキレス。ブラッド・ピットが演じていました。

アキレスについては、この機会に

Wikipedia アキレウス

を熟読しました。

それを読むと、映画は、神様は出てこないけれども、

ストーリーはギリシア神話にわりと忠実だと思いました。

トロイの王子のヘクトルとの戦いは、

映画では接戦でしたが、ギリシア神話では、

ヘクトルが逃げ回っていたようです。

ヘクトルを討ち取った後に、

アキレスはヘクトルの死体をひきずって

味方の陣営に持っていくところは神話通りでした。

そこまでやらなくてもいいのにと思っていたら、

そこは神話通りだったのです。

   

そしてトロイの王プリアモスが、息子ヘクトルの死体を

返してほしいとやってくるところも神話通りでした。

プリアモスを演じていたのが、

ピーター・オトゥールだったのには感動しました。

ピーター・オトゥールの青い目はひきこまれます。

目の演技はさすがです。

  

トロイ軍とギリシャ軍の、ともに大軍がぶつかり合うシーンは

迫力満点でした。

どうやって撮影したのでしょうか。

CGなのかなあ。

何万という人数を集めての撮影なのかなあ。

 

授業で古代ギリシャ・ローマの歴史を教える時は、

今年度はすんでしまいました。

もし、また機会があった時には、

この大軍同士がぶつかり合うシーンを見せたいなと思います。

そして、トロイの木馬の話についても

紹介したいと思います。

1時間で、古代ギリシア・ローマを教えろという指導要領は、

無茶苦茶だなあと思います。

今年度は、ポンペイに関するものと、

映画「ベン・ハー」の戦車レースの映像を見せました。

これにギリシア神話を足したら、

1時間では溢れてしまいます。

  

 

映画のアキレスの最期は、トロイの王子パリスの放った矢が

踵に当たり、さらに腹部にも2本の矢を受けて死にます。

腹部に刺さった矢をアキレスは抜き取りますが、

踵の矢は抜くことができずに死にます。

踵に矢が残った状態であおむけになって死ぬアキレス。

カメラは上空から、アキレスを映していました。

アキレスは踵に弱点をもつというギリシア神話を意識した

死に方だったと思います。

  

  

ギリシア神話との違いで賛否両論があった映画のようですが、

映画がきっかけでギリシア神話の世界に関心をもつことも考えられます。

こんな映画があってもいいなと思います。


  

2022年7月14日 (木)

「トロイの木馬」の話はどんな話だったけなあ

        

今日は令和4年7月14日。

   

2018年4月28日放映の

「世界ふしぎ発見!大英博物館に秘められた卑弥呼の謎」

を見ました。

教材研究で見ました。

  

この番組の中で、ウィリアム・ゴーランドが紹介されました。

明治時代にお雇い外国人として、造幣関係の仕事をしていました。

在任中に、考古学に興味をもち、

日本の多くの古墳などを調査しました。

当時の日本は、まだ考古学への関心が高くなく、

ゴーランドの手法を真似て、考古学が始まりました。

したがって、ゴーランドは、日本考古学の父と呼ばれます。

  

そのゴーランドが、考古学に関心を持ったのは、

ハインリッヒ・シュリーマンによるトロイ遺跡の発掘が

きっかけでした。

  

ここで久しぶりに「トロイの木馬」を耳にしました。

子どもの頃に聞いた話だよな。

木馬の中に兵士が入って、敵の城の中に入って、

寝静まったところで出てきて、城を陥落させた話だったか・・・

古代ギリシャの話でした。

  

気になりました。

  

調べました。

この動画がありがたかったです。


YouTube: 【名画で読む神話】「トロイの木馬」ってどんな話?難攻不落のトロイを陥落したトロイの木馬作戦とは?


11分ほど、絵画を楽しみながら、

トロイの木馬の話を復習しました。

    

次にやりたくなったのが、映画「トロイ」を観ることです。

【名画で読む神話】のストーリーとは全く?違うようですが、

トロイの木馬は出るようです。

興味ありです。

  

  

2022年7月13日 (水)

渡来人が伝えた「かまど」の威力?

     

今日は令和4年7月13日。

   

明日は授業で渡来人について教えます。

古墳時代に朝鮮半島からやってきた渡来人は

日本に何をつたえたのか?

  

歴史の教科書に次のような記述がありました。

  

渡来人は、高温で焼いた黒っぽくかたい土器(須恵器)を作る技術や、

かまどを使う生活文化を伝えました。

(35p/新しい社会 歴史 東京書籍)

   

ここで厄介なのは「かまど」です。

かまどが生徒に伝わるかどうか。

 

ありがたいことに、いい番組がありました。

2020年8月1日放映の番組

「世界ふしぎ発見!日本のポンペイ!?

ヨロイの古墳人が語る古代群馬の謎」

  

この番組で、かまどの火が燃えているシーンがありました。

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番組の説明によると・・・

渡来人は須恵器、鉄、絹織物など

さまざまなものを日本にもたらしたが、

なかでも人々の暮らしを変えたのが、かまど。

これにより、強い火力が使えるようになり、

食生活に大きな変化をもたらした。

   

かまどはすごいものだったみたいですが、

教師がいまいちそのすごさがわかっていません。

調べました。

  

土浦発 未来への伝承 カマドのある暮らし

☝ ここが参考になりました。

  

かまどがない時には、

・竪穴住居の中心に穴を掘って炉で火を焚いて、

 煮炊きをした。

かまどができると・・・

・煙は屋外に排出する構造。

・かまどの位置は、住居の壁際になる。

・煙がないことで、室内で快適に過ごせる。

・かまどが壁際になったことで、居住空間がひろがった。

・煮炊きだけでなく、蒸す調理方法ができるようになる。

  

  

ここで疑問は煙を屋外に排出する構造とは?

蒸すことができるようになった利点とは?

  

この絵が参考になります。

B46

カマドのしくみ

  

この絵もわかりやすい。

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調査研究コラム カマドの煙突から出土する土器について考える

   

授業では下の絵を使いたい。

 

難しいのは、蒸すことの利点。

なぶんけんブログ 蒸して食べる

☝ このサイトには次のように書いてありました。

  

形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、

お酒やお茶を作る際にも欠かせない調理法です。

  

料理の経験不足はどうしようもないです。

十分理解できていない状況で授業をすることになりそうです。

  

  

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「ペリリュー・沖縄戦記」⑥ 瓶に入れられた二匹のサソリ

    

今日は令和4年7月13日。

  

前記事に引き続き、

「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ著

伊藤真/曽田和子訳 講談社学術文庫)より。

   

一息つくあいだに隊員たちは、日本兵の背嚢やポケットをあらため

て記念品になるものを探しはじめた。(中略)

みな、いいものがあったと言っては喜び、仲間に見せびらかし、と

きには戦利品を交換する。野蛮でおぞましい儀式だが、深く憎み合

う者同士が敵対する戦場では、古来繰り返されてきたことだ。戦争

がすべてそうであるように、この儀式も非文明的であり、海兵隊と

日本軍の戦闘が激しければ激しいほど、儀式は激越だった。記念品

をあさるとか敵の死体から略奪するといった単純な行為の域を超え、

アメリカ先住民が敵の頭皮を剥いだ行為にも似たところがあった。

(190p)

  

死体の金歯を取る行為も、平時ではできないことでしょう。

      

歩兵にとっての戦争はむごたらしい死と恐怖、緊張、疲労、不潔さ

の連続だ。そんな野蛮な状況で生き延びるために戦っていれば、良

識ある人間も信じられないほど残忍な行動がとれるようになる。わ

れわれの敵に対する行動規範は、後方の師団司令部で良しとされる

ものと雲泥の差があった。

(191p)

  

ロシア・ウクライナの戦争も、私たちの想像を超える残忍なことが

起こりうるわけです。  

  

  

「短いが激しい戦いになるだろう。3,4日で片がつくと考えてい

る」ーーーペリリュー島攻略作戦が開始されるとき、師団長の言っ

た言葉だ。われわれはもう15日も戦っていたが、終わりは見えな

かった。

(199p)

  

著者は結局1か月戦闘に参加して、ペリリュー島を去ります。

  

担架を運ぶときは、手榴弾のなかでも燐光弾や発煙弾を投げて煙幕

を張り、ライフル兵の援護も受けるのだが、敵の狙撃兵はできるか

ぎりの速さで担架手を狙い撃ちしてきた。日本兵は、戦闘のあらゆ

る局面同様、この点でも容赦なかった。

岩だらけの起伏の激しい地形にペリリュー島の酷暑が加わるため、

担架一つに負傷兵一人を乗せて運ぶのも四人がかりだった。中隊の

全員がほぼ毎日、交代で担架手を務めなければならなかった。危険

このうえない重労働だということで、全員の意見が一致いていた。

(206p)

   

著者は戦場の様子を細かく書いています。

担架手が狙われるなんて驚きです。でも攻撃しやすい対象です。

   

陸軍の戦車隊はよくやった、というのが海兵隊員の評価だった。今

回の攻撃では、戦車は海兵隊のライフル兵と行動を共にした。いわ

ば相互支援だ。戦車は洞窟の入り口に乗りつけ、至近距離から75

ミリ砲を撃ち込んだーーー「ドーン、ズドッ」。戦車の機関銃も鳴

りやむことがないように思えた。ライフル兵のつかない戦車は、日

本軍の地雷を抱いた決死攻撃に破壊されるのが必定だった。ライフ

ル兵はライフル兵で、戦車の援護に大いに助けられた。

(216p)

  

日本兵の攻撃方法に驚かされます。

地雷を抱いた決死攻撃。どれだけの若い命が亡くなったことか。

   

軍事的優秀さを求めるひたむきさにかけては、日本軍もアメリカ海

兵隊に劣らなかった。したがって、ペリリュー島での両軍は、二匹

のサソリが瓶に入れられたようなものだった。一方が息の根を止め

られ、もう一方がそうなる寸前だった。真に優秀なアメリカ兵の集

団でなければ、勝つことはできなかっただろう。

(247p)

  

ここで有名な言葉に出合う。

「二匹のサソリが瓶にいれられたようなもの」

この言葉は、この本が最初だったのだろうか。

ペリリュー島での日米の戦いを表現している言葉として、

ずっと頭に残っている言葉です。

  

先にも書いたけど、この本は第一部のペリリュー戦記は読みました。

この本は、一度図書館に返して、後日再び借りて、

第二部の沖縄戦記を読もうと思います。

「ペリリュー・沖縄戦記」⑤ トーチカをめぐる攻防戦

      

今日は令和4年7月13日。

  

前記事に引き続き、

「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ著

伊藤真/曽田和子訳 講談社学術文庫)より。

          

そのときはもうアムトラックがゴトゴトと近づいてくるところだっ

た。まさに歓迎すべき光景だ。アムトラックが位置につこうとした

とき、日本兵がさらに数人、一団になって走り出してきた。銃剣付

きのライフルを握っている兵もいたが、やはり、片手でライフル、

片手でズボンという格好の兵も何人かいた。今度は私も当初の驚き

はなく、仲間の銃やアムトラックの機関銃に遅れをとらずに済んだ。

日本兵はひとかたまりになって、熱く焼けた珊瑚礁に倒れ込んだ。

むき出しの足がからみ合い、ライフルが落ち、ヘルメットが転がる。

われわれは憐れみを感じるどころか、いい気味だと気持ちが高揚し

た。われわれは幾度となく銃弾と砲火を浴びせられ、あまりに多く

の戦友を失ってきて、追い詰めた敵に同情する段階は過ぎていたの

だ。

(186~187p)

   

著者を含むアメリカ兵が、トーチカに潜む日本兵を追い込みました。

排気口から手榴弾を投げ入れたり、窓から機銃を撃ったりするのですが、

まだトーチカの中には日本兵が残っていました。

何人残っているのかがわかりません。

上記の場面は、そのトーチカから脱出をこころみた日本兵を

撃ち殺した場面です。

敵に同情する段階は過ぎていました。

  

アムトラックという水陸両用の軍用車から、

トーチカに向かって75ミリ徹甲弾を3発発射しました。

トーチカを貫通して、穴を開けました。

  

埃がおさまってもいないうちに、砲撃で開いた孔に日本兵が一人、姿

を現すのが見えた。死を覚悟した様子で、手榴弾を投げようと片手を

振りかぶる。

私はすでにカービン銃を構えていた。日本兵が現れると同時に、胸に

標準を合わせて引き金を引く。一発目が当たった瞬間、その顔が苦痛

にゆがんだ。膝ががくっと折れる。手榴弾が手から滑り落ちた。アム

トラックの砲手も含めて、私の周囲にいた全員が兵に気づいて発砲し

はじめた。兵は一斉射撃を受けて倒れ、足元で手榴弾が爆発した。

あっという間の出来事だったにもかかわらず、握ったカービン銃に視

線を落として我に返る瞬間があった。たった今、自分は至近距離から

一人の男を殺した。私の撃った弾丸が男に当たったとき、その顔に浮

かんだ苦痛の表情がありありと見てとれたことがショックだった。戦

争がきわめて個人的な問題になった。男の表情が私を恥じ入らせ、戦

争と、それに伴うあらゆる悲惨さに対する嫌悪感で胸がいっぱいにな

った。

しかし、次の瞬間、敵兵に対してそんな感情を抱くのは、愚か者のセ

ンチメンタリズムだ、という自覚が湧いた。それまでの戦闘経験のお

かげだった。この私がーーー海兵隊のなかで最も古く、勇猛で知られ

る歴戦の第五海兵連隊の一員である私がーーー自分に向かって手榴弾

を投げようとした敵兵を撃ち殺したからといって、恥じ入ってとはど

うしたことか。なんと馬鹿なことを。仲間に読心術の心得がないのが

ありがたかった。

(187~188p)

  

このトーチカを囲んでの攻防戦は、私には印象深い。

著者の心の揺れ動きがわかります。

そして、この場所に火炎放射器を抱えたアメリカ兵が到着します。

   

ウォークマック伍長が火炎放射器を持って近づいてきた。

伍長は背負ったタンクの重みに前屈みになり、助手を一人連れてわれ

われの射撃線から前に出ると、トーチカに近づいていった。二人がト

ーチカから15メートルほどに近づいたところで、われわれは射撃を

やめた。助手がしゃがんだ姿勢のまま手を伸ばして、火炎放射器のバ

ルブを開けた。ウォーマック伍長が、放射器のノズルを75ミリ砲の

開けた孔に向けて、引き金を引く。ゴーッという音とともに炎が躍り、

孔に吸い込まれていった。何人かのくぐもった悲鳴が聞こえ、ついで

に静寂が訪れた。

我慢強い日本兵も、火炎に焼かれて死ぬ苦痛には、さすがに悲鳴を抑

えきれなかったようだ。しかし、彼らが白旗を揚げる可能性はなかっ

た。同様の状況に置かれたとしたら、それはわれわれも同じことで、

日本軍と闘うかぎり、降伏は選択肢になかったのだった。

(188~189p)

トーチカという閉鎖空間で、火炎放射器の炎に攻められた日本兵は、

恐怖だっただろうと思います。痛ましい気持ちになります。

  

しかし、その恐怖の火炎放射器を扱う兵隊は、命がけのようです。

  

われわれの歓声に送られて、ウォーマック伍長と助手は大隊指揮所に

戻っていった。戦場のどこかで戦闘が停頓して、呼び出しがくるのを

待つのだ。行動中に命を落とすことも大いにあり得る。火炎放射器の

砲手というのは、海兵隊の歩兵が選び得る任務のなかで、最も望まし

くないものと言っていい。ゼラチン状のガソリンをおよそ26キロも

詰めたタンクを背負って、敵の砲火のなか、太陽に照りつけられなが

ら起伏の激しい地形を前進し、洞穴やトーチカの開口部めがけて火炎

を放射する。生き延びる可能性のきわめて低い任務だが、みな、見事

な勇気をもって遂行していた。

(189p)

   

安全な戦争なんてないんです。

2022年7月12日 (火)

通算8200本目の投稿/「ペリリュー・沖縄戦記」④ 味方も殺す戦場

     

今日は令和4年7月12日。

 

前記事に引き続き、

「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ著

伊藤真/曽田和子訳 講談社学術文庫)より。

   

9月18日、われわれ第五連隊第三大隊がいったん後方へ下がるた

め東へ移動しているとき、仲間の一人が悲しそうに言ったーーー「

なあ、スレッジハンマー。第一連隊のやつに聞いたんだが、彼らは

銃剣を構えてあのいまいましい尾根に正面攻撃をかけているが、ど

こから撃たれているのかもわからず、肝心のニップの姿すら見えな

いらしい。このことを教えてくれた若いやつはほんとうに落ち込ん

でいたよ。とても生きて帰れるとは思えないからな。どうみたって

馬鹿馬鹿しいじゃないか。あんなことを続けてても何にもならん。

みすみす虐殺されてるようなもんだ」

「そうだな。どっかの見栄っ張りの士官がもう一つメダルでも欲し

いんだろうよ。おれたち歩兵はそのために戦場で倒れるんだ。士官

は勲章をもらって、国へ帰って、大いに英雄扱いされる。英雄だな

んて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。部下の兵士を殺されておいて、

どこが英雄なんだ」と別の古参兵が恨みごとを言った。

まさに恨めしいことこのうえなかった。顔見知りの仲間のなかで、

ふだんなら人一倍楽観的な者でさえ、いずれわれわれ第三大隊もあ

の恐ろしい尾根の攻撃に投入されるに違いないと、確信していた。

そしてそれをひどく恐れていた。

(149~150p)

   

歩兵なら思うであろう内容の会話です。

死んでいくのは、前線の歩兵です。

  

私は胸ポケットに国際ギデオン協会の小さな新約聖書を入れていた

が、初めのころはずっと汗で濡れっぱなしだった。日本兵は緑色の

ゴムでできたポケットサイズの袋を持っており、折り畳んで持ち運

べるこの防水性の袋に家族の写真や手紙類など私物を入れていた。

私は日本兵の遺体からその袋を一つ「失敬」し、新約聖書のカバー

にした。おかげでこの小さな聖書はペリリュー島から沖縄戦終了ま

で、私とともに無事に雨と泥をくぐり抜けた。

(151p)  

  

このエピソードのように、米兵は日本兵の遺体からいろいろなもの

をかすめ取っています。今回のように実用品として。

ある時は記念品として。そしてある時は金歯をもぎ取ります。

戦場では、平時では考えられないことが行われます。

  

  

ある晩、アメリカ兵たちがひそんでいる時に、

一人のアメリカ兵が騒ぎ出しました。

恐怖のストレスが限界を超えて、騒ぎ出したのです。

仲間が止めようとしても止まりません。

鎮痛剤のモルヒネを打っても効きません。

このままでは、ひそんでいる場所が日本兵にわかってしまい、

砲撃をうけるのは必至です。

殴っても、騒ぎは止まりません。

塹壕用のシャベルで叩けという指示があって、実際に行われました。

静かになりました。

  

このまま永久に明けることがないのではないかと思われた闇が薄れ、

待ちかねた夜明けがついに訪れたとき、われわれは誰もが神経を擦り

切らせていた。私は昨夜の事件について真相を見極めようと、数歩離

れた指揮所の壕まで出向いていった。男は死んでいた。遺体はポンチ

ョを掛けて掩蔽壕(えんぺいごう)のわきに横たえてある。ヒルビリ

ーをはじめ、ハンクや指揮所の面々の精悍な顔に刻まれた苦悩と心痛

の色が、夜のうちに彼らが味わった恐怖を物語っていた。(中略)

誰だってあのような状況に置かれれば、同じことをするしかなかった

ろう。哀れな戦友の命を奪ったのがこの男たちだったのは、たまたま

のことにすぎないのだ。

(160p)

  

この出来事は、8年前の記事を思い出させます。

ここでも道草 「ペリリュー」その5/味方も殺す戦場(2014年8月19日投稿)

同じく、シャベルで味方兵士を殴って殺した証言があります。

同じ出来事でしょう。

そして、この出来事は、ドラマ「ザ・パシフィック」でも

描かれています。

戦争の悲惨さを示す出来事です。

今回のタイトルは、8年前と同じにしました。

  

今晩はここまで。

「ペリリュー・沖縄戦記」③ 志をもった青年の死

     

今日は令和4年7月12日。

    

前記事に引き続き、

「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ著

伊藤真/曽田和子訳 講談社学術文庫)より。

    

大砲や迫撃砲を集中的に浴びせられるのは恐ろしいとしか言いよう

がない。しかし、身を隠すすべもない開けた場所で集中砲火に身を

さらすのは、経験したことのない者には考えも及ばない恐怖だ。ペ

リリュー島の飛行場を突破する攻撃は、私がこの戦争全体を通じて

味わった体験のなかでも最悪のものだった。間断なく炸裂する砲弾

のすさまじい爆風と衝撃ーーーその苛烈さは、ペリリュー島と沖縄

で直面したどんな恐ろしい体験をも超えていた。

(126p)

  

かつて、ペリリューの戦いをドラマに描いたものを見ました。

その時にも、この飛行場を突破するシーンは印象に残っています。

  

ここまでの作業を終えて一服していると、その晩の合言葉がタコ壺

からタコ壺へと口伝えで全員に周知される。合言葉にはかならず「

L」の文字を含む言葉が選ばれた。日本人が最も苦手とする発音だ

からだ。

(127p)

  

日本軍は、夜の闇にまぎれて、アメリカ軍のいる場所に侵入して、

ナイフを使って襲ってくるのです。

それに備えて、アメリカ軍は合言葉を周知したのです。

「L」の発音が苦手であることを、アメリカ兵は知っていたのですね。

  

  

「スレッジハンマー、おまえ、戦争が終わったら何をするつもりだ

?」と、向かいのベッドから戦友が訊いてきた。頭の切れる、知的

好奇心の強い若者だった。

「わからないよ、オズワルト。おまえは何をするつもりなんだ?」

「脳外科医になりたいと思ってる。人間の脳って実に驚くべきもの

で、すごく惹かれるんだ」

しかし、オズワルトの夢は実現することなくペリリュー島で戦死し

た。

(82p)  

  

ロバート・オズワルトがひそんでいた浅いタコ壺の前を通った。オ

ズワルトが殺されたというのはほんとうかと、近くにいた兵士に訊

いてみた。悲しいことに、ほんとうだった。オズワルトは頭部に致

命傷を負ったという。人間の苦しみを少しでも癒すために脳の神秘

に挑みたいと、オズワルトは脳外科医を志していた。その明晰な頭

脳が、ちっぽけな金属の塊によって無惨にも破壊されてしまったの

だ。こんな無駄があっていいものか。国民の最も優秀な人材を台な

しにしてしまうとは、組織的な狂気ともいうべき戦争は、なんと矛

盾した企てだろうか。

(131~132p)

   

志があったのに、たった一発の銃弾によって、

その志は無になってしまいます。

どの兵士だって、そうだったと思います。

人材を台なしにしてしまう戦争は、やっぱりいいことはないのです。

  

  

われわれが動きを止めると、日本軍は砲撃をやめた。しかし三人で

も固まろうとしたり、一人でも動き出そうものなら、ただちに敵の

迫撃砲が火を噴いた。部隊全体が動きはじめると、大砲が砲撃に加

わる。ペリリュー島の日本軍の攻撃は見事なまでに無駄がなく、ど

の兵器を使うときも、決してむやみに撃ってくることはない。日本

軍は、われわれに最大限の損害を与えられるタイミングを狙いすま

して撃ち、チャンスが去るとただちに砲撃を停止する。

(134~135p)

   

肌で感じた戦場の様子がよくわかります。

  

 

突然、大きなはっきりした声が、きっぱりと言うのが聞こえたーー

ーー「おまえは生還する!」(中略)

世間では、天の啓示の声を聞いたとか幻影を見たとかいう話には懐

疑的な人が多い。私とてそうだった。だからこの謎めいたことは誰

にも話さなかった。しかしあの夜、私はペリリュー島の戦場で、た

しかに神が私に語りかけた声を耳にしたのだ。そう信じた私は、戦

争が終わったら有意義な人生を歩もうと決意した。

(142~143p)

   

著者は「おまえは生還する!」という天の声を聞きました。

そして生き残って、この本を書きました。

天の声は本当だったのか。

  

  

つづく

「ペリリュー・沖縄戦記」② 頭上を砲弾が飛んできて爆発する戦場

     

今日は令和4年7月12日。

   

前記事に引き続き、

「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ著

伊藤真/曽田和子訳 講談社学術文庫)より。

   

しかしあの戦いのさなか、海兵隊員たちは間違いなく、心の底から、

激しく日本兵を憎んでいた。こうした憎悪を否定したり軽視したり

するなら、私が太平洋の戦場で生死を共にした海兵隊員たちの固い

団結心や熱烈な愛国心を否定するのと同じぐらい、真っ赤な嘘をつ

いていることになるだろう。

日本兵もまた、われわれアメリカ兵に対して同様の憎悪を抱いてい

たに違いない。ペリリュー島と沖縄での戦場体験を通じて、私はそ

う確信した。彼らは狂信的な敵愾心(てきがいしん)を抱いていた。

つまり、日本兵たちは、戦後の多くのアメリカ人にはーーーひょっ

として現代の多くの日本人でさえーーーほとんど理解できないほど

強烈に、自分たちの大義を信じていたのだ。

海兵隊員の日本兵に対する憎悪と、日本兵の大義に寄せる火の玉の

ような熱い思いは、両者のあいだに容赦のない、残忍かつ凶暴な戦

闘をもたらした。それは、太平洋を舞台にした戦争特有の、理性の

かけらもない、原始的な憎しみのぶつかり合いだった。このような

殺し合いは世界に類がない。戦場の部隊がどのようなことに耐え抜

いたかを理解するためには、海兵隊が戦った戦争のこうした様相を

十分に考慮しなければならない。

(59~60p)

  

容赦のない、残忍かつ凶暴な戦闘。

これを体験した著者が、日本人がアメリカ兵を憎んでいたこと、

大義を信じていたことを肌で感じたのでしょう。

  

  

火炎放射器の話。

  

まるで家の庭にホースで水を撒くように簡単に、地獄の炎のような

火炎を自由に噴射できるのだーーーそう思うとうまく標的に命中さ

せた興奮もさめてしまった。敵を銃弾や砲弾の破片で殺害するのは、

残酷ではあるが、戦争では避けることができない現実だ。しかし相

手をこうして焼き殺すというのは、考えただけでも身の毛もよだつ

恐ろしい行為だった。それでものちに私は、この火炎放射器なしに

は日本兵を島の陣地から一掃することはできないという事実を、思

い知らされることになった。

(62p)

  

ペリリューでの戦いの記述で、火炎放射器でトーチカに潜む

日本人を焼き殺すシーンがありました。

恐怖だっただろうなと思いました。

  

  

「今のはこっちのですかね、それとも敵の?」砲弾が頭上を飛ぶた

びに私はスナフに訊いた。

砲弾が飛んできて、爆発するーーーそこには情け容赦もない。遠く

から空を切って接近してくるのが聞こえるだけで、全身の筋肉が硬

くこわばった。恐怖に押し流されまいとして、なんとかふんばって

みる。そんなとき私は、どうしようもない無力感に襲われた。

砲弾の甲高い咆哮がいよいよ間近に迫ると、私は歯をぎりぎり言わ

せて食いしばった。動悸がし、口が渇き、自然と目が細くなる。全

身を汗が流れ、呼吸は乱れて短い喘(あえ)ぎに変わり、息が詰ま

るのを恐れてつばも飲み込めない。あとは祈ることしかできなかっ

た。

(115p)

  

砲弾が頭上を飛びかうなんて、想像もしたくない状況です。

こんな気持ちになるのだと、伝わってきました。

    

  

だが突然、日本軍の機銃弾が頭上を襲った。これほどの狭い範囲に

これほどの猛烈な機銃掃射が加えられるのは見たことがなかった。

曳光弾の閃光が走り、われわれが迫撃砲を設置した窪地の上、30

センチもないあたりで銃弾がはじける。われわれは地面に仰向けに

横たわったまま、機関銃の連射音がやむのを待った。

ふたたび機関銃が火を噴き、そこへ第二の機関銃が加わる。三人目

もいたかもしれない。青白い曳光弾の光が何本も頭上を流れていく

(わが軍は曳光弾は赤かった)。飛行場のあたりから撃っているら

しい。敵の十字砲火は少なくとも15分は続いた。まさに猛射とい

うにふさわしかった。

(118p)

  

これもすごい体験です。

仰向けに寝た上を機関銃の銃弾が流れていったのです。

曳光弾の色が、日本とアメリカでは違ったことを知りました。

  

つづく

「ペリリュー・沖縄戦記」① ジャップが壕に飛び込んできた時に役立つナイフ

     

今日は令和4年7月12日。

   

この本を半分読みました。

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「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ著

伊藤真/曽田和子訳 講談社学術文庫)

  

ペリリューでの戦いと沖縄での戦いを生き残った

アメリカ軍兵士の体験記。

こんな激しい2つの戦いを生き抜いた人が体験したことは

どんなことなのだろうと思って読み始めました。

今晩までで、ちょうど半分を読みました。

ペリリューの戦いで生き延びて、船に乗ってペリリューを

離れていくシーンまで読みました。

今回は読むのが遅くて、図書館に本を返す日が迫っています。

一度返して、後日また借りて、沖縄での戦いを読みたいです。

引用していきます。

   

私はアメリカ第一海兵団第五連隊第三大隊K中隊の一員として、中

部太平洋にあるパラオ諸島のペリリュー島と、沖縄の攻略戦に参加

した。本書はその訓練期間と戦場における体験を記したものである。

戦史でもなく、また、私一人だけの個人的な体験談でもない。私と

いっしょに戦争という深淵に吞み込まれていった戦友たちのために、

彼らに代わって語り継ぎたい、そう思って書いたものだ。戦友たち

が評価してくれることを願っている。

(3p)

  

「はしがき」の冒頭の文章です。

戦友に代わって語り継ぎたいという発想は共感できます。

この戦友の中には、戦争で命を落とした人もたくさんいると思います。

生き残った者の責任として、語ったのだと思います。

    

ほとんどの者が歩兵に指名され、キャンプ・エリオットかキャンプ・

ペンドルトンの基地へ向かった。だが、仲間の手を借りてトラックに

乗り込んだそのとき、なぜこれほど多くの者が歩兵部隊に所属するこ

とになったのか、その理由に思いいたった者は皆無だった。実のとこ

ろ、われわれはこの先、死傷者が右肩上がりに増えているライフル中

隊あるいは前線部隊の補充要員として、太平洋の戦場へ送られること

になっていたのだ。最前線で戦う運命がわれわれを待っていた。われ

われは、まさしく砲弾の餌食となるべき一兵卒にすぎなかったのだ。

(28p)

  

訓練が行われる前、まだ戦場の大変さは、わかっていなかったのです。

   

訓練は徹底を極めたが、初めて実弾を扱ったときはかなり緊張した。

丘の中腹に並べられた空のドラム缶に向かって発射したところまでは

よかった。だが、前方180メートルほどのところで最初の一発がド

カーンと鈍い音を立てて炸裂したとき、私はすぐに、自分がなんとも

恐ろしい兵器を取り扱っていることに気がついた。弾着点から雲のよ

うな黒煙が上がる。鋼鉄の破片が飛び散り、8メートル×16メート

ルほどの範囲で塵の煙を舞い上げた。3発続けて撃ち込むと、約32

メートル四方の範囲に鉄片が飛散した。

「あんなに鉄片が飛んできたら、ジャップもかわいそうなもんだな」

と、気の優しい仲間の一人がつぶやく。

「そのとおり。ずたずたになる。だが敵もすばやく撃ち返してくるこ

とを忘れるな」と軍曹が言った。

そこが戦争と狩猟の違いだと、私は思った。

(34~35p)

   

兵器の怖さ、戦争の怖さが伝わってくる文章でした。

   

  

われわれは「ケイバ―」と呼ばれるナイフのことも学んだ。少人数ご

とに塹壕にひそんで夜をやり過ごすには欠かせない、海兵隊員の友だ。

ケイバ―社が製造しているこの強力なナイフは、幅4センチ弱、刃渡

り18センチほどの刃を備えており、13センチほどの把手(ハンド

ル)は、革を固く重ねたレザーワッシャーでできている。上部ハンド

ガードの刃の側には「USMC」(合衆国海兵隊)の文字が刻印され

ている。大きい割に軽く、見事にバランスがとれたナイフだ。

「歩兵部隊が携帯しているーーーあるいは携帯するのが望ましいーー

ー見てくれのよいナイフの数々についてはいろいろ聞いているだろう。

投げナイフ、短刀、短剣だのだ。だが、ほとんど役立たずだ。このケ

イバ―も、ジャップを切り裂くより、携帯口糧の缶詰を開けるのに使

うほうが多いかもしれない。しかし、いざジャップが壕に飛び込んで

きたら、ほかのどのナイフよりも頼りになる。頑丈で、最高のナイフ

だ。敵がドイツ軍なら戦闘ナイフなど必要ないだろう。しかしジャッ

プが相手となると話は別だ。戦争が終わるまでには、自分か、隣の壕

にいるやつが、侵入してきたジャップ相手にきっとこのケイバ―を使

うことになるだろう。それは保証してやる」。実際、教官の言うとお

りだった。

(37p)

  

最後の一文が印象的でした。「実際、教官の言うとおりだった」

そこには、狭い塹壕で格闘し、殺されていった日本人兵士が浮かびます。

  

つづく

   

 

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