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2019年12月

2019年12月16日 (月)

「インビクタス」②南アフリカの国歌について

  

今日は令和元年12月16日。

  

前投稿に引き続き、「インビクタス 負けざる者たち

(ジョン・カーリン著/八坂ありさ訳/NHK出版)より

引用していきます。

  

マンデラは長いあいだ有名であったが、顔のない存在だった。

(囚人だったため) しかし、いまやその顔は世界の隅々にま

で知れわたり、国内では、時を置かず至るところに姿を現して

いたような気がする。町から町への長旅は、大がかりなパーテ

ィか王の祭典のような雰囲気をもっていた。(中略)

ポップスコンサートの興奮とスポーツの決勝戦の熱狂、大ミサ

の厳かな熱気が入り混じっていたのはどこも同じで、闘争の中

心となったシスルおよび他の指導者とともにマンデラが壇上に

現れると、いっせいに歓声があがった。しかし、そのあとの式

はちょっと変わった順序で進行する。式次第は参加者全員が記

憶していた。

最初に壇上の司会者がコーサ語で「アマンドラ!(力を)」と

叫ぶ。集まった人びとは「アウェトゥ!(民衆に)」と応える

のだが、その声は、3回、4回、5回と連呼するうちに、だん

だん大きくなる。

それから黒人の指導者が「国歌」と呼ぶ「ンコシ・シケレリ」

の合唱。その悲しげな調べに、人びとは右の拳を高くあげ、喜

びと誇りを吹き込んだ。以前の歌声には感じられなかったこと

だ。プロの聖歌隊を思わせるみごとな歌唱は、この日のために

長いあいだ練習を重ねたかに聞こえたが、ある意味ではたしか

にそう。みな、何年間も次から次に抗議集会に出ていたのだ。

12万から20万の人びとが、歌詞を覚えていた。それだけで

はない。男性は自分たちが休んで女性だけに歌わせる箇所を心

得ていたし、女性は低く響きわたる男声にどこを任せればいい

か知っていた。

(124~125p)

  

マンデラが大統領に就任する前に、南アフリカの国歌は「ディ

ー・ステム」という曲でした。白人が政権を握っていた時代で

した。その時代に、国民は黒人解放および白人支配への抗議の

しるしとして「ンコシ・シケレリ」を歌っていました。そして、

リーダーのマンデラが解放された喜びを集会で上記のように歌

ったのでしょう。

南アフリカの国歌は、「ディー・ステム」と「ンコシ・シケレ

リ」を統合したものになったらしいけど、詳細は不明。

現在の南アフリカ国歌はこれです。いろいろな言語が登場しま

す。☟


YouTube: 南アフリカ共和国 国歌「神よ、アフリカに祝福を/南アフリカの呼び声」 日本語訳/National anthem of South Africa

  

  

マンデラが釈放された5日後に、首都プレトリアで白人による

集会が開かれた。(中略)集まった人びとは、いまにも一切合

財(いっさいがっさい)が奪われるような気がしていた。官僚

は職を、商店主は店を、農民は土地を、失うのが怖かった。そ

して、だれもが恐れたのは、自分たちの旗、自分たちの国歌、

言語、学校、オランダ改革派教会、ラグビーを失うこと。表面

下にあってすべてをゆがんで見せていたのは、犯した罪と同等

の報復を受けるのではないか、という恐怖だった。

(127~128p)

  

ラグビーの存在は、白人にはとても大きかったと、この本で映

画以上によくわかりました。

  

  

ANC(アフリカ民族会議)の一部では、自分たちの力でトラ

退治できると、いまだに信じられていた。が、マンデラはでき

はしないと思っていた。敵はあらゆる銃器、空軍、後方支援に

加え、資金にも事欠かない。マンデラの政治行動の指針は、ず

っとまえからーー刑務所にいたときからーー決まっていた。

トラを退治するには飼いならすしかないんだ。ポール・クリュ

ーガーの像の下でうなり声をあげていたアフリカーナーも、ロ

ベン島で服従させたのと実質的には同じ人間だった。

(130p) 

  

ANCはマンデラが所属するグループ。トラは白人をさします。

白人と戦うのではなく、話をして取り込んでしまうというマン

デラの発想。仲間が殺されているにもかかわらずです。それを

27年、刑務所にいる時に気づいて実践したのです。刑務所の

27年を無駄にしなかったすごい人です。

  

  

コンスタント・フィリューンについて書かれた文章。  

  

名声を不動のものにしたのは、70年代なかごろに指揮官とし

てアンゴラに遠征していたとき。南アフリカ軍はジョナス・サ

ヴィン率いるアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)に味方

して、当地の左翼政府と戦った。これも冷戦の代理戦争のひと

つだったが、この種の争いは世界中で起きていた。アンゴラ政

府を支援したのはキューバとソ連で、UNITAには合衆国が

ついた。南アフリカがこの内戦に加わったのは、アメリカに負

けないくらい指導者が共産主義に反対していたから。そして、

アンゴラ政府がANC(アフリカ民族会議)を支援していたか

らだ。   

(136~137p)   

  

この文章を引用したのは、東西冷戦の代理戦争に最近関心が

高いからです。先日、代理戦争の一つ、グレナダ侵攻を

扱った映画「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」

(1986年)を録画しました。まだ録画したのみですが・・・・。

ここでも道草 お薦め番組3つ(2019年9月19日投稿)

この機会に、アンゴラの位置を確認します。

ここでも道草 干上がったビクトリアの滝(2019年12月14日投稿)

☝ ここで使った地図を再掲載。

Photo_2 グーグルアース アンゴラ

  

ザンビアのすぐ隣です。

頭の中で、少しずつアフリカの地図を作成中です。

                           

  

つづく                            

「インビクタス」①原作後半3分の1が映画化されていました

今日は令和元年12月16日。

  

昨晩2つのことを成し遂げました。

1つ目は、1年間放映されてきた大河ドラマ「いだてん

~東京オリムピック噺~」の最終回を見たこと。

全47回。全てを見終わることができました。

これまた印象深かった大河ドラマでした。

いろいろなところが、道草してみたいと誘ってきます。

また近いうちに書きます。

  

 

もう一つは本を読破することができました。

インビクタス 負けざる者たち」(ジョン・カーリン著/

八坂ありさ訳/NHK出版)です。

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この翻訳本が出版されたのは2009年12月でした。

この本を原作にした映画が日本で公開されたのは

2010年2月です。

  

「訳者あとがき」の最後に、次のように書いてありました。

  

2019年には、ラグビーワールドカップが日本で開催される。

本書を通してラグビーに興味をもたれる読者もおられるかもし

れない。ずいぶん先のことだが、私も十年後のそのときが楽し

みになった。

2009年11月 

                       八坂ありさ

  

2019年の今年、ラグビーワールドカップは日本にやってき

て、たくさんのにわかファンを生み出し、熱狂しました。思い

出深い1年になりました。

ラグビーW杯→映画「インビクタス」→単行本「インビクタス」

この順番で私は進めてきましたが、八坂さんが想定した流れと

真逆でしたね、きっと。

※関連:ここでも道草 ラグビーW杯決勝をきかっけに南ア共和国の歴史の勉強(2019年11月29日投稿)

 

2時間ほどの映画で、原作本のすべてを表現することは難しい

と思っていましたが、原作本を読んでやはりそうかと思いました。

全325pの本でしたが、映画で表現されていたのは、195

p以後でした。原作後半3分の1の映画化でした。映画がよか

ったと思ったら、その状態に至るまでのことを原作本で読むと、

さらにいいかと思います。

  

この本は図書館に返す本です。困ったことに、手元に留めてお

きたい文章が山のようにあります。(付箋だらけ)厳選して書

きうつしていきます。

  

マンデラは刑務所で2年ほどアフリカーンス語を学ぶ。その間

はあらゆる機会をとらえ、習熟度をあげることに努めた。「す

こしもためらわずに、アフリカーンス語であいさつしたり、看

守に通じるか試してみたりしました。ほかの囚人には不信の念

や心理的な抵抗があったのですが、ネルソンにはそれがなかっ

た。アフリカーナーのことをほんとうにしりたかったのでしょ

う。看守たちは、ネルソンが求めた役割を充分果たしましたよ」

言語の習得に役立っただけではなかった。マンデラは看守を至

近距離で観察できる敵ととらえ、ひとつの目標をみずからに課

したーーー看守たちにはたらきかけて、自分への扱いに敬意を

もたせてみよう。それがうまくいけば、いつか広い世界ですべ

ての白人を相手に同じことができるのではないか、その確率は

高くなるはずだ、と考えたからだ。

(52p)

  

この発想を思い浮かべて実行したのがマンデラ。

  

世相に敏感になったジャスティスは、アフリカーナーにとって

どれほどラグビーが重要なのかを理解する。教会を除けば、ラ

グビーはなによりもアフリカーナーの宗教心に結びついていた。

彼らが信じるのはオランダ改革派と呼ばれるプロテスタントの

一派だが、教会を離れたところで信仰していたのはラグビー。

(68p)  

 

アパルトヘイトは言うまでもなくきわめて非人道的な政策だが、

スプリングボクスはその象徴として、実によく機能した。チー

ムの緑のジャージが機動隊や国旗および国家、黒人にとって憎

むべきものになったのは、そのためだ。

(69p)

  

マンデラが刑務所で学んできたことのひとつに、長期的なもの

の見方である。それは差し迫った恐怖に目を奪われず、遠い目

標にしっかり視線を定めておくことだった。

(87p)

 

映画の中でもマンデラのこの考え方が出てきました。マンデラ

の強みは、長期的にものが見ることができたことだと思います。

  

つづく

2019年12月15日 (日)

20191205報告③ 日向山復路10枚

  

今日は令和元年12月15日。

  

日向山登山。復路で出合った景色の写真10枚です。

  

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☝ とにかく気持ちのよい登山道でした。

  

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☝ 樹間から見えた富士山。本当は頂上のビーチからも見ることが

できたのですが、事前勉強不足でできませんでした。また行きたい

理由です。

  

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☝ タイヤを使った土留めは。この登山道の特徴でした。

  

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☝ 登山道の高速道路みたいな道です。

  

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☝  兀岳では、豚コレラを広めないために靴底を洗いましょうと

呼びかけていました。ここでは他の理由で靴底をきれいにして帰

ろうと呼びかけています。けっこう、靴底は影響力があるのかな。

   

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☝ 新しい案内板 お気に入りの写真。

 なぜか案内板がひきたつ写真です。 

  

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時々立ちどまって、大きく深呼吸していました。

もちろんフィトンチッドを体内に入れるためです。

もうじきゴールになってしまう頃は、

特に深呼吸をたくさんしてました。

  

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☝ 最後はまた落ち葉道。

  

Rimg2295 

1時間30分ほどかけて下山。今回もいい登山でした。

紅葉と雪山の間の山らしい景色でした。

報告終了。

  

 

  

20191205報告② 日向山往路13枚

  

今日は令和元年12月15日。

  

前記事に引き続き、12月5日に登った日向山の報告です。

推薦してくれた人は、登山道がふかふかしていて、温かい

気持ちになれる山だよと勧めてくれました。

石がごろごろしているわけでなく、花崗岩の崩れた真砂土

が積もった道だそうです。そして現地に行って、さらに

ふかふかの理由がわかりました。多くの落ち葉です。

いい景色がたくさんありました。写真をたくさん撮りました。

その中から往路・頂上13枚。帰路11枚を厳選して載せます。

出発は午前9時10分頃でした。

  

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☝ この景色だけでも、来たかいがあったと思いました。

こんないい道をカサカサ音を立てて歩きました。

  

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☝ いいでしょ? 紅葉はもうないけど、落ち葉の登山道も気持

ちがいいです。

 

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☝ 矢立台駐車場 ここに駐車して登ると、1時間短縮できます。

しかし、あの落ち葉道を十分に堪能できません。

  

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☝ こんな土留めがあちこちにありました。

 

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☝ 葉っぱが落ちていて、圧倒的に日向が多かったのですが、

日陰には霜柱がありました。

  

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☝ この植物の名前がなかなか覚えられません。「サル・・・」

までは浮かびますが、その続きがダメです。

調べました。

ここでも道草 サルオガセ(2012年10月8日投稿) 

サルオガセ」!

    

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☝ 頂上 三角点  2時間ほどで到着。

  

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☝ 日向山は、頂上の先に素晴らしい場所があります。

  

   

ビーチです。☟

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☝ 遠くは甲斐駒ヶ岳。

  

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☝ 雲がかかっていますが、雄大な八ヶ岳連峰です。

  

登る時に、少し一緒に登った人がいました。

その方は、私より少々年齢は上で、すでに退職されています。

お父さんと2人暮らしで、そのお父さんは93才だそうです。

「大正生まれですか?」と聞いたら、

「大正15年です」と教えてくれました。

お父さんは元気で、デイサービスなどは利用していなそうです。

残念ながら奥さんは亡くなられたそうです。

もし奥さんがご存命なら、この山も一緒に登られたでしょうね。

日々の食事とか世話がたいへんだろうなと想像しました。

この日は、妹さんにお父さんの世話を頼んで山に来たそうです。

「いつ登るかは自由なので、天気を見て今日は登りに来ました」

とのこと。

確かにこの日は素晴らしい日でした。

 

   

 

  

2019年12月14日 (土)

20191205報告① 「はくしゅう」って何だ?

  

今日は令和元年12月14日。  

  

12月5日に登った日向山(ひなたやま)のことを書いて

いこうと思います。

  

12月3日に、一緒にボランティア活動をした、

地元長野の山好きの人に勧められた山です。

他の長野の人たちが「その山って、”はくしゅう”だよね」

「そうそう、”はくしゅう”だよ」と言っていたのが耳に残っていました。

  

 

「はくしゅう」って何だ?

後になって疑問に思いました。

調べてみました。

  

Wikipedia 白州町

かつて山梨県にあった町だったのですね。

北巨摩郡白州町。

現在は北杜市に含まれています。

ここでも道草 甲府市・甲斐市のマンホールカード入手(2019年10月19日投稿)

☝ ここで利用した地図を再び掲載します。☟

Atmap2 山梨の市町村合併情報

  

少しずつ山梨県の勉強をします。

前記事のアフリカと同様に、山梨県の市町村地図は苦手です。

  

  

日向山は旧白州町にあります。

自動車は尾白川渓谷駐車場に置いて登り始めました。

駐車場にあった地図です。☟

Rimg2191  

地図の一番上の赤点線が今回往復したコースです。

どんな景色を見たのか、次の記事で紹介します。

 

 

干上がったビクトリアの滝

 

今日は令和元年12月14日。

  

12月13日朝日新聞朝刊の記事です。

Epson166

観光地としても由々しきことですが、発電ができないとか、

水不足による不作ということも問題です。

  

この機会に、正確にビクトリアの滝、ジンバブエとザンビアの

位置を確認しておきたいです。

私の中のアフリカの地図は非常に曖昧です。

グーグルアース ビクトリアの滝 ザンビア ジンバブエ

Photo_2  

グーグルアース ビクトリアの滝

Photo_3  

※関連ニュース


YouTube: 環境問題深刻 干上がったビクトリアの滝...ペットボトルの波

  

 

2019年冬長野(16)やっと手に入れた千曲市のマンホールカード

  

今日は令和元年12月14日。

  

昨日「2019年冬長野」シリーズは終了と書きながら、

もう一つ書き忘れていたことを思い出しました。

 

2日間のボランティア活動がすんだ後、

娘に頼まれていたマンホールカード入手のために

動いていました。

手に入れたいマンホールカードは、旧更埴(こうしょく)市の

カードです。現在は千曲市に含まれます。

マンホールカードがもらえる場所は、千曲市更埴文化会館。

ナビで調べて向かいました。

 

そしたら驚きのことがありました。

ナビ通りに更埴文化会館に来たのですが、開館している気配が

ありません。なぜかなと思って扉のところに行くと、

次のような貼り紙がありました。

Img_0647  

更埴文化施設は台風19号で浸水被害を受けていました。

そう言えば、ボランティアを一緒にやった上山田の人が、

避難所が浸水して大変だったと話していたことを思い出しました。

ここがまさに現場だったんだ。

Photo ☝ 毎日新聞 

記事を一部引用します。

 

千曲川が市中心部を流れる千曲市は、台風19号による氾濫で、

長野市に次ぐ甚大な被害を受けた。29日に開かれた定例記者

会見で、台風19号の被害状況を発表。避難所になっていた更

埴文化会館「あんずホール」は大量の土砂が流れ込み閉鎖に追

い込まれた。岡田昭雄市長は「周辺市町村への避難も検証が必

要かと思う」と述べ、市外に避難する「広域避難」を検討して

いることを明らかにした。

  

さあ困った。マンホールカードは入手できないのかと思ったら、

説明には続きがありました。

Img_0648  

市役所に行けばもらえる!

ナビで調べて、出かけましたが、そこには古い建物があり、

これまた閑散としていました。

思い出しました。

そういえば、千曲市市役所は最近新しくなったと、上山田の人が

言っていたことを。そしてその場所は、更埴文化会館のちかくだ

ったと。まさかあの時の何気なく話していたことが、今に活きる

なんてビックリ。

更埴文化会館付近に戻ったらすぐにわかりました。

立派な市役所が建っていました。

Img_0649  

時刻は午後4時50分。間に合いました。

もらってきたカードの写真です。

Epson162

 

Epson163_2 

アンズの花と実が目立つデザインです。

座標で示されたマンホールのみあんずの花に近い色を

施してあるとのこと。どこなんだろう?

グーグルアースで座標をうちこんで調べましたが、

不明でした。

ちなみ次の記事は、長野に行っている時に見かけた記事。

12月3日読売新聞地域欄の記事です。

Epson164  

佐久市に行く時には、この記事を思い出そう。

 

2019年12月13日 (金)

激戦地ペリリュー島「最後の生還者」逝く

 

今日は令和元年12月13日。

  

ペリリューに関する記事に出合いました。

後で示しますが、このブログで「ペリリュー」を書いた最後は

いつなのか調べました。

ここでも道草 「上皇」は「太上天皇」の略称(2017年5月8日投稿)

☝ この記事がラストでした。2年半ぶりです。

これを機会に、この記事を読み直し、さらに2015年の記事

を読みました。こうやって、機会あるごとに読み直すことで、

記憶にとどまっていくのだと思います。

書いただけでなく、読み直すことが重要だと思うこの頃です。

  

2015年の記事で名前を載せた永井敬司さん。

ここでも道草 ペリリュー島に関するニュース(2015年4月9日投稿)

ここでも道草 ペリリュー島に関するニュース2/両陛下の9日の動き(2015年4月11日投稿)

ペリリュー島での激戦、最後の生還者であった永井さんが亡く

なったという記事です。12月11日の朝日新聞夕刊です。

(読むときはクリックして拡大してください)

Epson161  

一部引用します。

  

部隊がほぼ全滅した後も、永井さんはマングローブの木の上に組

んだやぐらに仲間と身を潜めた。ゴミ捨て場で、英語ができる仲

間が何か印刷物を見つけた。「日本が降伏したらしい」。だが、

確認はできず、1947年5月になってようやく、33人の戦友

とともに日本に戻った。

  

あらためて、ペリリュー島で戦った人たちの終戦は、1945年

ではなくて、2年後であったことを再確認しました。

戦争はダメです。

 

2019年冬長野(15)自分がボランティア体験をした場所

  

今日は令和元年12月13日。

  

前記事に引き続き、ボランティア体験の話です。

  

2日間働いてから、どこで働いていたのか、地図で調べました。

2 googleマップ  

私が2日間働いたのは津野地区でした。

バスから降りて歩いてサテライトセンターに行きました。

そこから、現場に向かいました。

決壊したおよその場所を地図に示しましたが、本当に近いです。

参考までに当時のニュース動画。


YouTube: 決壊した千曲川 過去最高の水位 上流は最多の雨(19/10/16)

Photo_2

☝ この写真の大きな屋根の建物が長沼体育館。その右下にある

のが現在のサテライトセンターです。

 

12月4日に、私が撮った写真を並べます。現在修復された堤防は、

ブルーシートが被さっています。

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ここをほぼ堤防の高さの濁水が流れたのかと、想像しました。

 

  

堤防付近の被災地です。☟

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サテライトセンター入口には、この旗がありました。☟

Rimg2188

 

一緒に働いたメンバーの一人から、体験してみて学校では

どう教えますか?と聞かれました。

体験してみて思ったことは、復興は簡単ではないということ。

決壊によって流出した泥土は大量でした。

泥土を片付け、家を改築再建して以前ようにするには時間が

かかると感じました。

 

でもメンバーに、1カ月前の同じ場所の写真を見せてもらうと、

山のようにゴミが積まれていたのが、だいぶ片付いていました。

まだ道半ばですが、ボランティアの人たちがたくさん働いてい

る姿を見ると、確実にいい方向には向かっているよなとも感じ

ました。ボランティアの人たちがいる風景は、今は地元の人た

ちの励みになっていると思います。

   

  

以前、長沼小学校のことを記事に書きました。

ここでも道草 ニュース/劇「桜づつみ」が避難行動につながった(2019年11月26日投稿)

長沼小学校はどこにあるんだろうと思っていましたが、

地図を見て驚きました。

バスを乗り降りした場所の、道をはさんで反対側でした。

なんてこった。

無知はもったいない。そう思いました。

 

  

12月3日・4日にボランティア活動をしてきたことを

まとめました。5日は山に登りました。

山梨県の日向山です。

したがって「2019冬長野」シリーズは今回で終えます。

2019年冬長野(14)12月4日のボランティア体験

  

今日は令和元年12月12日。

  

前記事の続きで、ボランティア体験2日目の12月

4日のことを書きます。

   

朝の駐車場で、3日に一緒に働いた足山田の男性と再会しまし

た。その方の考え方で、今日は別グループで働きましょう、新

しい出会いを楽しみましょうということで、別れ別れになりま

した。今日はどんなメンバーになるだろうか。どんな仕事をす

るのだろうか。昨日の経験で、現場にはスコップがたくさんあ

ったので、自分のスコップは自動車に残しました。

  

今回も5人グループができました。リーダーはじゃんけんで決

めました。一番勝った人がリーダー。

今回のメンバーは、高田純次風のお坊さん(リーダー)。

アメフト体験者で何度も長野のボランティアに来ている男性。

富士見町から来た明るい女性。

作業で絨毯取り外しを根気よく一緒にやった女性。

自分は2番目に勝ったので、タイムキーパー役をやりました。

  

 

被災地に向かうバスに乗った時に、係の人から、行き先は

津野」だと言われます。偶然です。でも行きたい場所だったので

今度はじっくり見るぞと思いました。

1日目はとにかく作業することで精一杯だったので、

2日目が与えられたのは幸運だと思いました。

   

今回の作業場所は、1日目とは違う家でした。

どの家もたいへんそうだけど、この家は特にたいへんそうだと

思っていた家でした。家の1階部分は、水流で多くが流され、

柱のみが残っているような状態でした。

庭にあった2階建ての倉庫は、1階部分がつぶれて、

2階部分が落下し、堤防側からの水の勢いで斜めになっていました。

何かのはずみで、倒れて来るのではと思われる状態でした。

  

持ち主のBさんは男性でした。私と一緒ぐらいか、

少し上の年齢だと思います。

作業は、家の裏側の片づけでした。

1日目と同じような仕事かなと思いましたが、今回の家は、

決壊して流れてきた川の水が、一度家の中に入って、ガラス戸を

ぶち割って裏庭に出てきています。

したがって、泥土の中に、家の中にあったものとか、

割れたガラス片が含まれていました。

屋根瓦も屋根から落下して、散在していました。

  

泥土を運びながら、中に入っているいろいろなものを取り出して

分別する作業でした。

ガラスの破片が多かったです。

ガラス戸を流水(いや泥を含むので濁水ですね)が

ぶち割ったシーンが想像できました。

茶碗などの瀬戸物、ブリキなどの金属などがありました。

入れ歯もありました。

壁の板と思われるものもありました。

家の壁まで濁水は破壊しました。

 

瓦はどうするか?

けっこう大量でした。

分別して捨てるか、それとも泥土と一緒にするか。

リーダーは、泥土と一緒でいいのではと考えて、

Bさんに打診しました。

Bさんは、お疲れ気味の表情で、「どうせ片づけるのが

たいへんになるから、土といっしょくたにしてください」と

少々投げやりに言われました。

被災から1カ月半。その心労が伝わってきました。

「わかりました!」「そうします!」

こちらは、張り切って答えました。

こちらは元気よく働くことで、

Bさんに少しでも貢献できたら思いました。


昼ごはん。

5人でサテライトセンターへ行って、食べました。

そしたら、Bさんもやって来ました。

「一緒にどうですか」と誘って、一緒に食べました。

Bさんはテーブルにやってきて、座る間際に一言、

「あんなところ(家)で食べたくない」とつぶやきました。

少し皆沈黙。

1日目のAさんは気丈にふるまっていましたが、

住んでいた家が壊滅状態では、そりゃあ心は安定しないですよね。

でも、その雰囲気を壊そうと、みんなで明るい話をしました。

アメフトの話とか、筋肉の話とか?

Bさんは親戚の家に泊まって、通っているそうです。

 

  

この昼休みの最中に、私は教師であること、

社会科教師であることを活かしました。

活動中には撮影してはいけないと説明を受けていましたが、

教師として必要であることをグループのメンバーに言って、

「いいよ。撮影してきたら」と賛同を得て、撮影しました。

サテライトセンターは、決壊した堤防をすぐ横にありました。

1日目に気づかなかったのが不思議なくらいに近かったです。

すでに堤防は改修され、ブルーシートがかけられていました。

その堤防を撮影したり、堤防付近の被災地を撮影しました。

その写真は次の記事に載せます。

  

午後からの仕事は、家の表にまわり、倒れそうな倉庫の前で、

泥土のなかにあるものをほじくり出して分別する仕事でした。

倉庫から濁水によって押し流されたものがあり、

こちらもいろいろありました。

 

厄介だったのは、数本のコードとビニール、絨毯、ブリキが

絡み合ってできあがった大きな塊です。

濁水に揉まれて揉まれてこうなってしまったのでしょう。

コードをほどこうにも、がっちりかみ合ってしまいほどけません。

コードの中は金属の線が入っていて、スコップの先で切断しようと

しても、なかなかできませんでした。

  

そしたらBさんがハサミを持ってきてくれました。

そのハサミはすごい。

金属の入ったコードが切断できるのです。

これはいい。

調子に乗って、どんどん切って、コードをほどき、

絡まっていたビニール、絨毯、ブリキも外すことができました。

厄介な場所がデーンとしていた場所が、スッキリしました。

「このハサミ、とってもよく切れました」と言って

Bさんにハサミを返しました。ニコッと笑ってくれました。

  

  

2日目の活動も終わりました。

肉体労働が多く、体は疲れました。

でも被災した人たちは、こんな生活をずっとやってきたんだよな、

疲れるよ、心身ともに。そんなことを思いつつ、

これで終わりではなく、また長野市にきて働きたいと思いました。

珍しくやり始めたこと。続けたいと思いました。

  

   

1日目、Aさんが「また来てくださいね」と去り際に言っていました。

そうだよなあ、まだやることはあるので手伝いたいし、

復興して普通の生活に戻ったところも見たいよなと思いました。

Bさんにも、去り際に「ありがとうございました」と

頭を下げられました。

いえいいえ、たいしたことができませんで、すみません。

(元気出してくださいね。)と言いました。( )内は

言ってません。

  

  

つづく

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