« 2019年11月 | メイン | 2020年1月 »

2019年12月

2019年12月13日 (金)

2019年冬長野(13)12月3日のボランティア体験

今日は令和元年12月13日。

  

昨日の記事に引き続き、12月3日のことを書いていきます。

  

ボランティア活動1日目。5人のメンバーが決まりました。

リーダーは、京都から日帰りの女性。

タイムキーパーは、ボランティア経験豊富な足山田の男性。

飯田から来たものしずかな若者。

山好き、そして冬はスキー好きの男性。

そして私。

 

簡単に自己紹介の後、装備チェック。

「長ぐつの中にインソールが入っているか」と尋ねられました。

現場では、くぎを踏んでしまうことがあるため、

丈夫なインソールを敷く必要があるそうです。

入ったいない。

それなら借りるといいということで、センターで貸してもらい

長ぐつの下に敷く。

こういうことからも、現場のたいへんさが予想されました。

山好きの人も敷いていないということで、

借りていました。

5人の中では2人がボランティア未体験者。

 

センターから被災地に出発するバスに乗り込みました。

行き先は「津野」だと言われました。

初めて聞いた地名であり、どのあたりか皆目わかりませんでした。

  

10分ほどでバスは到着。

ここからサテライトセンターまで徒歩8分。

私はここで初めて被災地を見ました。

背丈以上の水が流れたのでしょう。

1階部分が壊滅した家がいくつかあり、

柱だけで立っている家がありました。

土台ごと40メートルほど流されて、

それでも立っている家がありました。

倉庫の1階部分がつぶれ、2階部分が下まで落ちていました。 

一見して、決壊した川が運んだと思われる土が多く、

当たりの風景は、基本濃い茶色が多かったです。

前日の12月2日は大雨だったので、より濃い土の色でした。

  

サテライトセンターに5人で向かい、そこで道具を借りました、

スコップは山のようにありました。

スコップと一輪車を借りて、係の人の後に付いて、

現場に向かいました。

  

今日の仕事は、Aさんのお宅の裏庭の土の運び出しでした。

Aさんの裏庭には、コンクリートの塀があったようですが、

家と塀の間に濁流と土砂が押し寄せ、

塀がこわれてしまったそうです。

その塀は、先日松商学園高校の生徒たちが、

とりのぞいてくれたけど、土砂は残されたとのこと。

その土砂・・・雨で湿っていたため泥土を運び出すことが

私たちの仕事となりました。

  

いよいよボランティア活動が現実となりました。

「さあやるぞ」とやる気一杯で、スコップで泥土を一輪車に

いれました。泥土を持って行く場所は、Aさんの畑です。

すでにたくさんの泥土が畑に山となってありました。

家の周りの土はこうやって片付いても、今度は畑にたまった

土はどうするのだろう。重機でならしてもらうのか。

それもまた大仕事だなと、そう思いつつ、泥土を運びました。

 

川の水がどこまで泥土を運んできているか考えながら

掘っていきました。

植木鉢とかが出てくると、きっともともと置いてあったものだから、

ここまでだなと思います。

泥土はやわらかいけど、もともとの地面は固いと予想されるので、

スコップの土に触れる感触でも見当をつけました。

もちろん、Aさんにもおよその高さを聞きました。

  

畑までは50メートルくらいあって、

泥土をたくさん入れた一輪車はフラフラでした。

特に畑内は轍ができていてハンドルがとられたり、

進行方向に垂直な溝は、一輪車の写真がはまってしまって

動けなくなってしまいます。

そのような時には、廃材の板を轍や溝に載せてしのぎました。

 

「北部は重たい仕事」というのを痛感しました。

足山田の人が知恵を紹介してくれました。

一輪車の左右の持つところに、タオルの両端を巻いて、

上から手でしっかり握ります。

タオルがピンッと張るようにします。

そうするとタオルが腰部分に当たり推進力が出るというのです。

やってみたところ良好でした。

  

重たい仕事が多いので、20分ごとに休憩を取ろうと

提案されました。確かにそれがいいです。

 

厚手のビニール手袋が役立ちました。

最初は軍手のつもりでしたが、経験のある息子から、

「これを貸してあげる」と貸してくれた手袋がよかったです。

泥土を扱うので、軍手では沁みて大変だったでしょう。

   

泥土の中から、1万円札がでてきたときには、大騒ぎしました。

もちろんAさんに渡しました。

  

仕事時間は午前10時くらいから始めて12時までやって

昼ご飯でした。

家の表の庭で食べました。

お湯が沸かされていて、お茶を飲んでくださいと勧められました。

Aさんは、奥さんでした。

ニコニコして、今日はありがとうございますと声をかけてくれました。

その明るさに救われました。

  

 

洪水の時には、庭で飼っていた烏骨鶏の親、

3羽のうち2羽が死んでしまい、1羽が生き残ったけど、

水害のショックのせいか、卵を産まなくなってしまったそうです。

8羽いたひなは、飼っていた籠ごと流されてしまったけど、

流れた先で奇跡的に生きていたそうです。

1羽の親鳥と8羽のひなは、現在は近くの小学校で

飼ってもらっているそうです。

  

  

休憩中に、遠くの山に雪が降っているように見えました。

山好きのメンバーが、「あれは苗場方面」だと教えてくれました。

Aさんが、「山に3回雪が降ると、里に下りて来る」という言葉を

教えてくれました。

雪が降る前に、少しでも片づけたいとも言っていました。

  

 

午後の仕事は午後1時から2時半です。

重労働なのでちょうどいい時間ですが、

ここで仕事の内容を相談して変えました。

泥土を掻き出す範囲をもう増やさずに、

今日やった範囲の中を丁寧にきれいにしようという方針です。

足山田の男性の提案ですが、とてもいいと思いました。

泥土の積もった範囲は広いです。

時間内に全て片付けるのは無理なことです。

なので、今までやった範囲は、とにかく薄皮をはぐように

きれいに泥土をはがし、土の中から出てきたコンクリや

植木鉢の破片などは分別して捨てる作業です。

 

こうすることで、どこまで作業が進んだのかが明確になり、

次の日に他のボランティアが来た時に、どこからやればいいか

明確になります。

Aさんにも、今日のボランティアがどこをやってくれたかが

わかって、報告しやすいです。

なにより!私たちが「今日はここをやった」と目に見えてわかるので、

達成感がありました。

  

  

作業終了。Aさんに喜んでもらい、ホッとしてサテライトセンターに

戻りました。

やっぱり、午前10時~午後2時半でできたことは

微々たるものだと思いました。

この微々たるものを毎日積み重ねていくしかないのだなと実感です。

  

現場で使った道具の水洗い。長ぐつの水洗い。

長ぐつについた泥土は、なかなかしつこかったです。

水圧で落としたと思ったけど、ふと見ると落ちていない。

泥土の中で何度も踏ん張って仕事をしたので、

泥土はしっかりはりついていたようです。

 

手洗い。うがいもしました。

何が落ちているか、舞っているかわからない被災地です。

これも必要なことと思いました。

  

 

津野のバス停からバスに乗った時の会話で、

今日の被災地は、堤防が決壊したすぐ近くだったことを

教えてもらいました。

そうだったんだ。

だからあの惨状だったんだと思いました。

 

  

行きと同じルートで戻りました。

柳原総合市民センターにもどり、

長野運動公園東側駐車場まで今日のメンバー5人で移動。

駐車場で別れました。いい出会いでした。

平日に同じ時間の使い方をしたメンバーとの別れは淋しかったですね。

  

山好きの人が、12月5日に登るといい山を紹介してくれました。

小淵沢の日向山です。

景色がよく、登山道がふかふかしていて、心が温かくなる山だよと。

実際に12月5日には登りました。

  

 

つづく

 

2019年12月12日 (木)

開会式で放鳥されたハトの行き先は?

  

今日は令和元年12月12日。

  

寝る前にもう1本。

  

12月8日放映の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の

オープニング曲の一場面です。

Rimg2375  

1964年東京オリンピック開会式の映像。

多くのハトが放たれ、飛んでいる姿が一瞬映っています。

このシーンに関係のある記事と出合いました。

 

12月10日朝日新聞夕刊です。

Epson157

Epson158  

印象に残った文章です。☟ 

 

開会式でハトを飛ばすと知って応募した。

開会式前日、近所の集合場所の神社まで、訓練した5羽を持って

行った。

翌日は家族4人でテレビの前に陣取った。入場行進、聖火の点火、

ハトの放鳥、ブルーインパルスが描く五輪・・・。開会式の終わ

りまで見守ると、バタバタとトタン屋根から音がした。

「帰ってきた」。屋根に上がって巣箱を眺めると、5羽が仕事を

終えて羽を休めていた。

  

とても面白い体験です。8000羽のハトは、開会式の後、それ

ぞれの家に戻っていったんだ。そういう裏方があったことが知れ

た記事でした。

  

  

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~

いよいよ12月17日の放映が最終回です。

1964年東京オリンピックの開会式が描かれます。

毎週、元気を与えてくれた大河ドラマ。

見届けたいです。

 

 

2019年冬長野(12)プリント「ボランティア活動をはじめる前に」

 

今日は令和元年12月12日。

  

12月3日のことを書きます。

被災地でのボランティア活動初体験の日です。

駐車場は長野運動公園東側駐車場でした。

広い駐車場でした。

午前9時前には着いて、車を駐車しました。

この時点で、まだ被災地らしいところは見られませんでした。

 

周囲の人たちの様子を見て、上着はカッパにしました。

長ぐつもさっそく履きました。

スコップも持って、皆の行く方向について行きました。

1列に並んでいました。

バスを待つ列でした。

  

マイクロバスが来て乗り込みました。

10分ほどで着いたのが柳原総合市民センター。

ここが長野市北部ボランティアセンターでした。

まだ被災している場所を目にしていません。

あのテレビ映像で見た被災地をいつ目撃するのか、

ドキドキしていました。

  

バスから降りたら、係の人が初めての人とそうでない人で

別れて並んでくださいと指示されました。

係の人は、他県から応援に来た社会福祉協議会の人でした。

何と初めての人は3人ほど。

他の20数人の人たちはボランティア経験者でした。

 

初めての人にはプリントが配られました。

ボランティア活動をはじめる前に」というプリントでした。

印象に残った文章を引用します。

  

〇助けてあげたい!というボランティアの気持ちと、不安でた

まらない被災者の気持ちには温度差があります。相手のペース

でゆっくり話す、尋ねる際はリーダーが代表で聞くなど配慮し

てください。

 初めての者にとって、緊張する内容です。

  

〇活動中の写真や動画の撮影は禁止です。

被災した家の写真がネット上にアップされて、その家がその

盗難の被害にあったそうです。どんな写真をアップしたんだ?

  

〇お昼・飲み物は持参。

お昼は出ないですか?」と被災者に尋ねた人がいたとのこと。

  

〇早くやるより、丁寧な仕事を心掛けましょう。  

説明を聞いてなるほどと思い、実際に活動してみて、

この考え方は大事だと思いました。

  

〇依頼者に確認を取りながら作業を進める。

〇一人で作業をしない。

〇チームリーダーの指示に合わせる。

〇タイムキーパーを決めて、30~45分ごとに休憩をとる。

  

  

〇北部方面は重たい作業が多い状況です。無理せず休憩を取り

ながら安全な活動をお願いします。

私は北部でした。気をつけました。

   

説明を聞いて、いよいよ活動が始まるぞと思いました。

  

この後、グループ分けでした。

5人グループがつくられました。

  

つづく

2019年冬長野(11)各地から来たボランティアとの交流は楽しい

  

今日は12月12日。

   

12月11日朝日新聞朝刊の「声」のページにあった意見

 

ボランティア頼みでいいのか

               NPO法人役員 栗原辰司

 10月末から11月末にかけて、宮城、長野、千葉の台風

被災地でボランティア活動に参加した。宮城では住宅敷地の

泥かき。長野では畑の片付けや出荷できなくなったリンゴを

木から落とす作業。「年寄り1人ではどうにもならなかった。

助かった」と言われたが、先の展望をもてずにいるように感

じた。

 ボランティアは被災者の背中を押す役割を果たしていると

思う。だが、被災者の今後の困難と比べると、微力と感じて

しまう。しかも人数が足りず、今でもボランティアを待ち望

んでいる人が大勢いる。

 困難が大きい時こそ国や自治体の出番ではないか。復旧に

必要なら人を雇ってでも支援すべきではないのか。皇室の一

代に一度の行事に20数億円かけ、戦闘機に何兆円も使う余

裕があるなら、その一部でも回してほしい。

 とはいえ、各地から来たボランティアとの交流は楽しいし、

人間の優しさや良心を信じていいと実感する。今後もできる

だけ参加していきたい。 

  

  

ボランティア活動に参加した時のことを書きたいと思っていて、

もう1週間以上が経ってしまいました。

この記事は、いいきっかけです。

この記事の方のように、自分が2日間にやったことは、

微力だと感じました。

そして各地から来たボランティアさんたちとの交流は

楽しかったです。

どの方もよく働きます。わざわざやってきた人たちだから、

当然かと思いますが、感心します。人助けのために頑張ると

いう時間の使い方をしている人たちが、こんなにいるんだなと

うれしくも思いました。

働いたのは火曜日、水曜日。平日の真っただ中。

一緒に働いた人たちは、私よりも年下の方が多かったです。

私は病気休職中の参加でしたが、他の人たちもきっと

いろいろやりくりして参加されたことと思います。

  

つづく

2019年12月11日 (水)

知れば知るほど、素晴らしい人/中村哲さん

今日は令和元年12月11日。

  

昨晩放映された「クローズアップ現代+ 中村哲医師 貫いた志

昨晩見て、今晩も見ました。

亡くなられて知った人ですが、にわかファンとなりました。

知れば知るほど、素晴らしい人です。

番組の写真です。まずは基礎勉強。☟

Rimg2367 

  

中村哲さんの言葉、文章です。☟

  

Rimg2338

Rimg2340

Rimg2373  

あの同時多発テロの時に、こう考えていた人がいたのですね。

現地にいたからこそでしょう。

私には全く思いが浮かばなかったことです。

 

 

 

Rimg2343

Rimg2344

Rimg2345

Rimg2346  

下痢で亡くなる。

ここでも道草 11月19日は「世界トイレの日」でした(2018年11月20日投稿)

この記事を思い出しました。

日本では下痢で亡くなることはなかなか想像できません。

でも想像しなくてはなりません。

  

「医者100人より、水路1本」

これも実体験からの言葉。    

  

  

Rimg2347

Rimg2348

Rimg2349

Rimg2350   

だれも好んで戦争をしていない。命をかけない。

安心して食べていけることが、何よりも大きな願い、望み」 

治安が悪い中で、この考え方を通したことが素晴らしい。  

  

   

Rimg2351

Rimg2352

Rimg2353  

「世界平和」のための戦争。

何かおかしいぞと思っていましたが、中村哲さんは、とっくに

解答を持っていました。

    

  

Rimg2354

Rimg2355

Rimg2358   

みんなが安心して暮らせることが、何よりなんですよね。

ここんところが、中村哲さんの基本です。

   

 

 

Rimg2359

Rimg2360

Rimg2361

Rimg2362  

ヘリコプターの機銃掃射で、危険な目に合っていました。

それでも作業を続けていました。

  

 

 

Rimg2363

Rimg2364

Rimg2365

Rimg2366  

 

 

Rimg2368

Rimg2369  

 

 

Rimg2370

Rimg2371

Rimg2372  

基本ですね、やっぱり。

今日の朝日新聞朝刊のコピーです。 

(クリックして拡大して読んでみてください)

Epson160  

我々より先に無名の先駆者がたくさんいる。それは脈々と続い

ている。だから小さくても大きくても、いいと思ったことをま

っすぐ続けること。

  

 

印象に残る言葉がたくさんあります。

言葉だけでなく、実行しているから、言葉に重みがあります。

現場に出向いて活動するところも見倣いたいです。

長野市のボランティア活動に参加したのは、

ささやかだけど、私にとってはいい出発点になりました。

(次の記事からボランティア活動に参加した時のことを

書いていこうと思います)

  

記事の中に出てきた「医者、用水路を拓く」を読んでみようかな。

  

今晩は夜ふかしをしました。

でもこの記事を書きあげたかったです。

明日からもいいと思ったことをやるぞ。

「さよならテレビ」はどんな映画なのだろう?

  

今日は令和元年12月11日。

  

12月10日朝日新聞夕刊に気になる記事がありました。

Epson159  

映画「さよならテレビ

どんな映画なのだろう?

 

2018年9月に地元東海テレビで放映された

ドキュメンタリー番組の映画化。

う~ん、放映された時には気がつかず、録画していません。

 

このブログを読んでいただいたらわかると思いますが、

テレビ番組をいかに教育に活かせないかなあと

考えている私にとっては気になる映画です。


YouTube: 映画「さよならテレビ」予告編(プロデューサー:阿武野勝彦/監督:圡方宏史)

 

とりあえず行動。

「劇場鑑賞券をお願いします」とハガキに書いて

送ることにしよう。  

どんな映画なのか、実際に見に行って確かめたいですね。

 

2019年12月10日 (火)

小説「出口のない海」⑦回天を伝えるために死のうと思う

  

今日は令和元年12月10日。

  

前投稿に引き続いて「出口のない海」 (横山秀夫著/講談社)

から引用します。

  

出撃の時に、回天のハッチは、外にいる整備員が閉めます。

  

  

「ハッチ閉めます。ご成功を祈っています!」

「伊藤、これまでありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました! --閉めます・・・!」

ゴクンと重い音がしてハッチが閉じた。

鼓膜に密閉の圧が掛かる。

(242p)

  

鼓膜に密閉の圧が掛かる

この一行が素晴らしい。緊迫感が伝わります。

  

  

  

沖田は顔を上げた。

「でも一つだけ聞かせてください。祖国防衛ではなく、ならば

並木少尉はなんのために死ぬのですか」

「それをずっと考えてたんだ」

並木は遠くを見つめた。

「俺はな、回天を伝えるために死のうと思う」

「伝える・・・?」

並木は頷いた。

「勝とうが負けようが、いずれ戦争は終わる。平和な時がきっ

とくる。その時になって回天を知ったら、みんなはどう思うだ

ろう。なんと非人間的な兵器だといきり立つか。祖国のために

魚雷に乗り込んだ俺たちの心情に憐れむか。馬鹿馬鹿しいと笑

うか。それはわからないが、俺は人間魚雷という兵器がこの世

に存在したことを伝えたい。俺たちの死は、人間が兵器の一部

になったことの動かしがたい事実として残る。それでいい。俺

はそのために死ぬ」

(272~273p)

  

これは作者がこの作品を書いた主題でもあると思います。

  

  

ボレロが聞きたくなった並木は、休暇に陸に上がった時に、

沖田と一緒に国民学校を訪れます。音楽室に行って、

そこにいた女教師に、ボレロを聴かせてほしいと頼みます。

女教師は、ここにはレコードはないが、女学校に行けばあると言って、

自転車で出かけます。女教師は、2人が特攻隊員だと知っていて、

どうにかしてあげたいと思ったのです。

並木と沖田は、音楽室で待つことになります。

  

 

外で音がした。見ると自転車が倒れていて、膝を擦りむいた女

教師が立ち上がるところだった。構わず小走りでこちらにやっ

てくる。

「すみません、お待たせしちゃって」

女教師は肩で息をしていた。

「大丈夫ですか」

「あ、平気です。でも・・・・」

女教師は顔を曇らせた。

「なかったんです。ボレロのレコード」

「ああ、いいんです。お気持ちだけいただいて帰ります。本当

にありがとうございました」

並木と沖田は折り目正しく挨拶をして音楽室を出ようとした。

その背に声が掛かった。

「あの・・・オルガンではいけませんか」

並木は振り向いた。

「オルガン?」

「うまく弾けるかわかりませんけど・・・」

女教師は黄ばんだ楽譜を握りしめていた。

並木と沖田は明るい顔を見合わせた。

「ぜひ、お願いします」

足踏み式のオルガンからボレロが流れ始めた。女教師は何度も

つっかえ、何度も弾き直した。だがそれは胸に響いた。どんな

有名な交響楽団が奏でるボレロより心に残った。

(273~274p)

 

この小説を読むと、「ボレロ」が聴きたくなりますよ。

きっと。


YouTube: Bolero (Gergiev)

  

  

ふ~疲れた。でも引用したい文章は全て書きうつしました。

ミニ財産になりました。

本の返却期限は今日まで。間に合いました。

小説「出口のない海」⑥怖い言葉「最後は一人になるんだな」

 

今日は令和元年12月10日。

  

前投稿に引き続いて「出口のない海」 (横山秀夫著/講談社)

から引用します。

  

並木らがボートに乗り込み伊号潜水艦に向かうと、見送る基地

隊員は岸壁に鈴なりだ。(中略)

岸壁、島、山、追い掛けて来るくるボート。すべて、人、人、

人で埋め尽くされている。

並木は胸に熱いものを抱きながら、潜水艦の外ラッタルを駆け

上った。厳粛な儀式は並木の心を死の決意に導いた。大勢の人

々の見送りの声は闘争本能に火をつけた。男にとって最高の死

に場所。よくそう口にしていた沖田の気持ちが今ならわかる。

これほどまで一人の人間の存在を、その死を、大きく見せてく

れる門出が他にあるだろうか。

(219p)

  

  

このように書きながら、次のページでは、潜水艦上に一人残っ

た並木の心情を対照的に描いています。

  

海はまた静まり返った。

たった今まで胸にあった興奮が嘘のように冷え切っている。

いっときの幻だったのだろうか。

並木は甲板に立ち尽くした。他の搭乗員が艦内に下りていく。

が、並木は動かなかった。

頬に風を感じていた。

身を切るような孤独感が襲ってきた。力の抜けた手を離れた桜

の枝が、甲板の縁に滑って海に落ちた。

後方の波間に遠ざかっていくその枝を見つめた。

ーーー最後は一人になるんだな・・・・。

野球部の仲間と別れ、家族と美奈子と別れ、とうとう沖田や隊

のみんなとも別れた。そして最後はたった一人回天に乗る。

一人で死ぬ。(中略)

美しい海。母なる海。だがそれは、二度と陸地を踏むことを許

さない、出口のない海でもあった。

(220~221p)

  

「ーーー最後は一人になるんだな・・・・」

怖い言葉だなと思います。

並木に限らず、たくさんの別れの後に死は来るんだよなあ。

長生きはしたいけど、長生きすることで孤独感は増すことでしょう。

死も怖いけど、孤独感も怖い。

回天での死は、それ以上ない恐怖の死に方です。

  

小説のタイトル「出口のない海」は221pに登場。

  

  

並木は孤独感を振り払おうと、次のようなことをしようとします。

  

並木は手早く発進用意を済ませ、胸ポケットから三枚の写真を取り

出した。よく見えるように機械の隙間に挟む。(中略)

 

3枚の写真は、美奈子の写真、家族の写真、出征前の最後の試合の

メンバーの写真。

  

近づいた。いよいよだ。

発進したら、写真の中のみんなの名を一人一人呼ぼう。呼びながら

敵艦に突っ込もう。そう決めていた。佐久間の名も呼ぶ。北の名も

呼んでやろう。

ありがとう。さようなら。みんなに、そう言いながら突っ込もう。

ーー俺は一人じゃなかった。俺はいつだって素晴らしい人たちに囲

まれていた。俺は・・・・俺はみんなと・・・。

(254~255p)

  

  

小説「出口のない海」⑤回天隊という紛れもない現実の中にいる

 

今日は令和元年12月10日。

  

前投稿に引き続いて「出口のない海」 (横山秀夫著/講談社)

から引用します。

ただ、まだ「出口のない海」を読んだことなくて、これから読

んでみたいと思っているのでしたら、私のブログを読むのを止

めた方がいいです。今から出撃シーンが出てきます。手に汗を

握る展開です。どうなるんだ!とドキドキします。すごい小説

なのです。私のブログを読んで、筋が見えてから読むとそこん

ところが楽しめません。止めましょう。

  

 

 

並木は聞いてみたくなった。

「沖田ーーーお前、早く出撃したいか」

真顔が向いた。

「もちろんです。明日行けと言われれば喜んで行きます」

「明日でもか」

「ええ。早ければ早いほうがいいです。それに、このままじゃ、

姉たちだって殺されてしまいますからね」

「ん。そうだな・・・・」

死ぬのは怖くないのか。喉まで出かかった質問を並木は呑み込

んだ。どれほど打ち解けても、それだけは言えない。たった一

つ存在する特攻隊基地のタブーだ。

(159p)

  

「死ぬのは怖くないのか」を言えない状態が続く生活。辛いか

ったろうなと思います。

  

  

歩数で測った線まで離れる。振り向いて、ポケットから寄せ書

きのボールを取り出す。親指と人差し指の間に挟み込む。

サイドスローからボールを送り出した。

ボッ。毛布がへこむ。

ボールを取りに行き、線まで戻り、また投げる。

ボッ。

死を覚悟した。自棄(やけ)っぱちに流れる時間も過ぎ去った。

しかし、だからといって送別会で流したあの涙が自分の本心だ

ろうか。

心静かに、そしてお国のためにと、喜んで死ねるだろうか。

ボッ。

送別会の涙は乾いていた。夢の中の出来事のように思える。

本当に死ぬのが恐くないのか。みんな、本当にそうなのか。

俺だけなのか・・・・。俺だけが生きることに未練を持ってい

るのか。

ボッ。

わかっている。もう生きることを考えてはいけない。確実な死

が約束されているのだから。

明日に夢を持ってはいけない。その夢はどう足掻(あが)いて

も実現できないのだから。

でも・・・・。

魔球を完成させたい。完成させてから死にたい。ちっぽけなこ

とでいい。自分がこの世に生きていたという証を残したい。

ボッ。

ーーーいいだろ、それぐらい・・・。

(164~165p)

  

先に出撃するの隊員たちの送別会に出席した並木は、

隊員たちの清々しい顔に感動して涙します。

その後の、シーンです。映画でもあったけな。

  

本当に上手な文章表現だと思います。

アプリ「OCR」を使えば、文章を写真に撮って、文字化でき

ます。でも、一字ずつうっていきたい文章なので、OCRを使

っていません。一字ずつうった方が、身になるという古い考え

の持ち主です。それと、労力がかかるので、本当に残したい文

章を精選できます。

  

 

並木も佐久間も回天隊という紛れもない現実の中にいる。恐い、

とひと言漏らしたら終わりなのだ。死にたくないと人に縋(す

が)ったら、もうこの現実の中にいられなくなってしまうのだ。

たとえ、地球上にどれほど自由で愉快で希望に溢れた世界があ

るのだとしても、たった今、ここに回天隊は存在し、並木も佐

久間もその只中にいる。男なら喜んで死ねという世界で、寝起

きし、飯を食い、息をしている。

(185p)

  

この文章を読んで思い出したのが、堀川城(浜松)を家康に攻

められて自害した土豪、山村修理の辞世の句。

ここでも道草 「直虎紀行」/堀川城跡 山村修理の辞世の句(2018年1月21日投稿)

  

「安穏に、くらせる人は、幸せよ」

  

世の中には安穏と暮らしている人はいるが、

今の自分は死ぬしかないことを言っていると思います。

それが現実。

それは運命なのでしょうか。

そこに至るまでは、自分で決断してきた積み重ねのはずですが、

死を目前とすると、こう思うだろうなと思います。

  

     

出撃の朝は明けた。微風。快晴。(中略)

美奈子がくれた千人針は行李の中に残した。弾に当たらぬお守

りは必要ない。自分自身がその弾なのだ。

部屋を出る時、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。も

う二度と見ることのない空っぽの部屋が、故郷の景色のように

懐かしく感じられた。

(218p)

 

誰かに呼ばれたような気がして振り返った

こんな体験したよなあということを文章化してしまっています。

 

 

つづく

小説「出口のない海」④あまりに完璧な自爆特攻兵器

 

今日は令和元年12月10日。

  

前投稿に引き続いて「出口のない海」 (横山秀夫著/講談社)

から引用します。

   

馬場大尉が重々しく言った。

「天を回らし、戦局の逆転を図る。名付けて回天である。弾道

に搭載する1.6トンの炸薬は、いかなる戦艦、空母といえど

も一撃で轟沈(ごうちん)可能だ。この回天が何十基、いや何

百基と敵艦に襲い掛かり、ことごとく敵艦を海に葬るのだ」

大量の爆薬・・・・。潜望鏡・・・・。

並木はすべてを悟った。

ーーーそういうことだ。俺たちは魚雷の目になって敵艦に突っ

込むんだ。

(136p)

  

 

川棚の魚雷艇訓練所にいた頃、「震洋(しんよう)」という特

攻兵器を見た。ベニヤ板に貨物自動車のエンジンを取り付けた

だけの、お粗末な船だった。これに爆薬を積み込み、水上を走

って敵艦に突撃するのだという。ただし、そのまま自爆してし

まうのではなく、敵艦に接近したところで搭乗員は海に飛び込

んで逃げる。だから水泳の達者な者を搭乗員に選んでいる。そ

んな説明を聞かされた。

  

それは気休めには違いない。敵艦に接近してから海に飛び込ん

でも、爆発の威力から逃れることは難しい。しかも敵との戦闘

のさなか、味方のいる海岸に泳ぎつくなど不可能だろう。だが、

気休めとはいえ、ともかく建前は自爆兵器ではない。死を覚悟

して行く「決死隊」であっても、必ず死ぬ「必死隊」ではない。

同じようでいて、二つの間には天と地ほどの開きがある。

  

必ず死ぬとわかって行くのでは、もう人間ではいられない。そ

れは機械の一部だ。歯車だ。自分自身に対する確実なる死の宣

告は、人としての感情を捨ててしまわねば成立しえない。

やはり川棚にいた頃、回天は改良されているらしいとの噂を耳

にした。一型には脱出装置がないが、いま開発中の二型には付

いているのだという話だった。そんな根も葉もない噂に縋りつ

く思いでこの光基地に来た。だがーーー。

全ての希望は断ち切られた。回天は、あまりに完璧な自爆特攻

兵器だった。

(139p)

  

 


回天の形が、ほぼ魚雷であったことで、

「全ての希望は断ち切られた」のでしょう。

  

  

海がちかい。波の音が聞こえる。

ーーーなぜ、俺はこんなところにいるんだろう・・・・。

たった1年前にはグランドにいた。毎日みんなで野球をしてい

た。剛原や、小畑や、津田や、みんなで泥だらけになって白球

を追いかけていた。ボレロで冗談を言い合い、一球荘で喧嘩を

し、グラウンドで心を一つにした。なのに今は散り散りだ。み

んなバラバラにされて、自分一人ここにいる。一人で回天に乗

り、一人で死ぬ。

(140p)

  

並木の心の機微が、とても上手に表現されていると思いました。

死ぬほどの苦境ではなけど、辛い時にはこう思う時があります。

さすが、作家です。

  

  

並木と起きたが親しくなったのには、もう一つ理由があった。

いま二人の間をちょこまか行ったり来たりしている「カイテン」

である。

茶色の毛の子犬だ。まだ目が見えないようなのを沖田がどこか

らか拾ってきた。食糧事情が悪い昨今だ。犬にまで食べさせる

余裕はないと飼い主に捨てられたのだろう。カイテンという名

に並木は反対したのだが、沖田はひどく真剣な顔で言ったもの

だ。救国の兵器の名を付けてどこが悪いんですか。こいつだっ

てきっと喜びますーーー。

 

基地では誰もが「回天」をあまり口にしない。そもそも軍の機

密だから軽々しく口にできないし、だからではないが、普段は

「的(てき)」とか「艇(てい)」とか呼んでいる。心のどこ

かで、その名を避けているところがあるのかもしれない。回天。

それは死を意味する言葉でもあるからだ。

「カイテン、メシだぞぉ!」「おーい、カイテン、カーイテー

ン!どこだぁ!」

こうなるともう、回天は本当に救国の兵器なのだろうかと疑わ

しくなる。並木は内心苦笑しつつ、そんな沖田とともにカイテ

ンの世話をするのが日々の楽しみになっていた。

(157p)

 

とてもユーモアのあるエピソードだと思う。

実際にあった話なのか、横山秀夫氏の創作か。

ちなみに「漫画で読める 出口のない海」にはなかった話です。

  

  

つづく

最近の写真

  • Img_5653
  • Img_5650
  • Img_5649
  • Img_5647
  • Img_5615
  • Img_4213
  • Img_4211
  • Img_4210
  • Img_4208
  • Img_4206
  • Img_4016
  • Img_5397

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉