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2019年7月20日

2019年7月20日 (土)

プリンスメロンとマクワウリ「あちらを立てればこちらが立たず」

今日は令和元年7月20日。

  

今までマクワウリのことを書いたことがあります。

ここでも道草 マクワウリを初めて食べてみました「これはメロンだ」(2017年8月2日投稿)

ここでも道草 7月5日放映「カンブリア宮殿」6.アンデスメロンの誕生/生産量日本一の茨城県(2018年8月3日投稿)

ここでも道草 日めくりより/「マスクメロン」の「マスク」の由来(2019年6月19日投稿)

  

マクワウリの名前の由来は、

岐阜県にある地名「真桑(まくわ)」です。

現在、岐阜県本巣市の中にあります。

真桑小学校のHPを見ていたら、次のような記述がありました。

  

真桑小学校HP まくわうりにまつわる歴史

  

昭和37年頃、マクワウリとヨーロッパ系メロンを交配し、

「プリンスメロン」が誕生しました。

プリンスメロンやネットメロンの普及により、

マクワウリの人気が下がっていきました。

  

なるほどなあと思います。

プリンスメロン等の誕生に貢献したけど、

その分、知名度が下がってしまったんだ。

世の中、すべて丸くおさまることは難しいです。

あちらを立てればこちらが立たず」ですね。

  

  

真桑小学校HPには、

マクワウリが読まれた俳句や川柳も紹介されています。

HPの写真を載せます。

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こうやって読まれるということは、

それだけ昔は、マクワウリが身近だった証拠だと思います。

 

「瓜二つ」の「瓜」もマウワウリらしいです。

もし、マクワウリが手に入ったら、

真ん中で切断して、切り口が本当にそっくりかどうか

試してみたいですね。

 

実は、近々「真桑」に行こうと思っています。

  

 

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その3/寺尾正・寺尾文姉妹

 

今日は令和元年7月20日。

  

前投稿に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

人見絹枝と同じように、当時オリンピック候補として

名があがっていたのが、寺尾正(きみ)・寺尾文(ふみ)姉妹です。

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世界と戦える数少ない女子選手でした。

人見絹枝にとっては、ライバルであり友人でもありました。

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ナレーター:強さと美貌が相まって、やがて寺尾姉妹は

  マスコミに大きく取り上げられる人気者となります。

  雑誌の表紙を飾るなど、その扱いは、陸上選手の枠を

  超えるものになっていきました。

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  そのさなか、事件が起こります。

  オリンピックを半年後にひかえた昭和3年の正月、

  寺尾姉妹をモデルにした恋愛小説が発表されたのです。

  「娘が見世物にされた」

  小説を読んだ姉妹の父親は激怒します。そして、

  「年頃の娘をこれ以上、興味本位の視線に

   さらしておくことはできない」

  と、姉妹を強引に陸上競技から引退させたのです。

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Wikipediaを読んだだけでは見えてこなかったことが、

番組で紹介されていました。

こんなことがあったのですね。

父親がなぜ引退をさせたか共感できるようになりました。

 

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ナレーター:寺尾姉妹を失えば、自分ひとりで

  世界と戦わなくてはならない。

  人見はすぐさま姉妹の家を訪ね、

  考え直すように父親を説得しました。

  「2人には何の罪もありません。」

  「オリンピックで活躍すれば、女子陸上界に対する

  世間の見方も変わるはずです。」

  しかし、思いは届きませんでした。

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  人見はオリンピックをめざし、

  切磋琢磨してきた最大の仲間を失ったのです。

  

  

人見絹枝の発言を聞くと、当時の女子陸上は、

世間からはおもしろおかしく見られていたと想像できます。

今のように選手を尊重したり応援したりする雰囲気では

なかったのでしょう。

寺尾姉妹がオリンピックに出場できなかったのは

とても残念なことでした。

  

人見絹枝のことを調べていて、

寺尾姉妹の出来事を知ったのはよかったです。

その時代を表す出来事だと思います。

  

つづく

  

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その2/人見絹枝デビュー

 

今日は令和元年7月20日。

  

前投稿に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

近代オリンピックが始まったのは、

1896年(明治29年)です。

第1回は男子の種目しかありませんでした。

日本だけでなく、スポーツは男性がするものだという雰囲気が

世界にはあったのです。

第2回大会から女子の種目としてテニスが始まり、

第4回大会からアーチェリーなども女子種目に加わりました。

でもまだまだ限られた種目のみでした。

男子と同じ種目で競い合いたいという声は

だんだんと高まっていき、1926年(大正15年)8月に、

2年後に行われる第9回アムステルダムオリンピックから、

女子陸上競技が行われることが決定しました。

  

 

人見絹枝がデビューしたのは、大正12年でした。

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☝ 初めて出た競技会で、人見絹枝はいきなり日本新記録を出します。

当時の平均を大きく上回る身長と、

抜群の運動神経で、人見絹枝はいろいろな種目で記録を更新します。

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☝ 大正14年には、三段跳びの世界新記録を樹立。

 

19歳になった人見絹枝は新聞社に入社。

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ナレーター:その新聞社は陸上選手育成に積極的で、

  スポーツ記者に選手を採用していました。

  人見にとっては、働きながら練習できる理想的な職場でした。

  

 

アムステルダムオリンピックの女子陸上種目は以下の通り。

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人見絹枝が得意とする走り幅跳び、三段跳びはありませんでした。

人見絹枝は、短距離走に照準を合わせて練習をするようになりました。

海外のやり方にならって、コーチを専属でつけての練習でした。

当時の女子陸上は、競技の前だけ練習をするのが普通でしたが、

人見絹枝は1年中練習を行いました。

結果は出てきました。

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☝ 昭和2年。100m、50mで世界タイ記録を出します。

そして200mでは世界新記録を出しました。☟

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人見絹枝は、一躍オリンピック金メダル候補として

世界の注目を浴びるようになりました。

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出ました、この笑顔。

その時歴史が動いた」でも、この笑顔が登場です。

  

  

いよいよアムステルダムオリンピックとなるわけですが、

その前に、寺尾正・文姉妹に関する出来事がありました。

この姉妹に何が起こったのだろうと、

疑問に思っていました。

ここでも道草 「いだてん紀行」(2019年7月20日投稿)

想像を上回ることが、この姉妹に起こっていました。

 

次の記事で書きます。

  

つづく

  

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その1/メダルは2000年に発見された

 

今日は令和元年7月20日。

  

さっそく見ました。

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2004年8月18日放映「その時歴史が動いた

奇跡の銀メダル 人見絹枝 日本女子初メダル獲得の時」を

さっそく見ました。15年前に録画したのを見ました。

録画したということは、人見絹枝さんに関心はあったのです。

さっきは「さっそく」と書きましたが、

正しくは「やっと」見ましたですね。

やっぱり勉強になりました。

全ては無理ですが、できる限り書き留めておこうと思います。

司会者・ナレーターは松平定知アナウンサー。

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何歳になられたのかな?

調べたら1944年(昭和19年)11月生まれ。74歳。

番組放映当時は59歳! 今の私と1歳違いだ。

ゲストは、「いだてん紀行」と同じでした。

有森裕子さん。

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年齢を調べるのはやめました。

  

 

番組冒頭で銀メダルが紹介されました。

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松平アナウンサーがこう言いました。

松平:今日の主人公(人見絹枝)、(メダルの)持ち主の

  めいごさんが、4年前に家の中から見つけ出したもので

  ございまして・・・

 

笑っちゃいました。

どこか見えるところに飾ってあったわけでなく、

しまい込まれていたのでしょうか。

  

「めいご」とは?

ここが引っ掛かったので調べました。

漢字だと「姪御」

意味は「他人の姪を敬っていう語」とありました。

なるほど。

引用:デジタル大辞泉

「姪」は自分の兄弟姉妹の娘のこと。

前記事の「いだてん紀行」では、

人見絹枝さんのお姉さんの孫が、メダルを紹介していました。

15年前のことだから、そのお孫さんのお母さんだと予想します。

紛失せずに発見されてよかったです。

  

有森裕子さんは人見絹枝さんと同郷で、

有森さんの祖母が、人見さんと同じ学校で、

人見さんが先輩だったそうです。

 

 

少しずついきましょう。

今回はここまで。

つづく

  

「いだてん紀行」/人見絹枝を継いでいく者たち

今日は令和元年7月20日。

  

前投稿に引き続き、 7月7日放映の大河ドラマ

いだてん~東京オリムピック噺~26 明日なき暴走」より。

「いだてん紀行」を聞き書きしていきます。

 

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ナレーター:日本女性初のオリンピックメダリストとなった、

  人見絹枝。プレッシャーと孤独の中で、勝ち取ったメダルは

  女子スポーツ界の大きな一歩となりました。

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  新聞記者でもあった人見は、国際大会に出場する傍ら、

  後進の育成にも取り組み、年間200以上もの講演を

  こなしました。

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人見茂雄(人見絹枝の姉の孫):後輩のために、

  後輩を引っ張っていかないといけないと(※思っていて)

  今、それは有森さんがずっとやってくださっているゆうか、

  引き継いで(くれています。) ※聞き取れずに予想

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ナレーター:人見絹枝以来、64年ぶりに女子陸上に

  メダルをもたらした有森裕子さんは、女子スポーツ発展のために

  生涯をささげた人見を、深く尊敬しています。

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有森裕子:物事を変えていくって難しい。それはいつの時代も

  そうだと思うんですが、もっと幅広く自分がしてきたことを活かして

  やれるこって、まだあるんじゃないかなと思いつつも・・・

  そこにいつも「まだできるよ」といつも(私に)

  言ってくるのが人見さんだな(と思います)。

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ナレーター:普及活動で、無理を重ね、24歳で亡くなった人見絹枝。

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有森裕子:スポーツをしている私たちが、歴史あるその道をつくった

  人たちを、教えながら、伝えながら、忘れず、次世代の人たちを

  育てていきたいかなあと思います。

  当たり前に今ある道ではないと。  

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いい笑顔です。

  

Wikipedia 人見絹枝から引用します。

  

当時、国内での女子陸上への偏見は厳しいものであり

それをうかがわせる例がいくつも存在する。

●人見が陸上を始めた頃、周りの人々から冷たい目で見られたと、

 本人が述懐している。

●オリンピック出場を決めていた人見の実家にも

 「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」

 「日本女性の個性を破壊する」などといった文面の書簡が

 送られて来ていたという。

 それに対して人見は女子陸上競技に関する記事にて

 「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。

 しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や、

 日本女子競技会には指一つ触れさせない」と書いている。

●短距離走の日本記録を保持していた寺尾正・文姉妹の実家に出向き、

アムステルダムオリンピックへの出場を説得したが、

寺尾の家族の意向により、寺尾姉妹の出場は叶わなかった。

これも、女子陸上への世間の偏見が一因であると言われている。

  

「いくらでも罵(ののし)れ!」のセリフにこもる熱は高い。

  

「寺尾正・文姉妹」に興味を持ちました。

どんなことがあったのか詳しく知りたいです。

また調べます。

  

我が家には、人見絹枝さんの番組が2本あります。

その時歴史が動いた」(2004年放映)、

英雄たちの選択」(2016年放映)があります。

まだ見ていません。

「いだてん」でいい機会をもらったので、見てみよう。

  

「いだてん」/人見絹枝 800m走決勝の走り

今日は令和元年7月20日。

  

昨日は終業式。

いよいよ夏休みのスタートです。

私はもう少し前から休んじゃいましたが。

  

今回は7月7日放映の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~

26 明日なき暴走」での人見絹枝のことを書きます。

  

1928年アムステルダムオリンピック。

人見絹代は、100m世界記録保持者として参加しますが、

100mでは4位となりメダルを逃します。

これでは日本に帰れないと考えた人見絹代は、

まだ競技で走ったことがない800mへのエントリーを

監督に申し出ます。

監督は反対しますが、人見絹代はこう言います。

「男は負けても帰れるでしょ、けど女は負けたら帰れません。

負けたらやっぱり女はダメだ、男の真似をして走っても

役に立たないと笑われます。日本の女子選手全員の希望が、

夢が、私のせいで絶たれてしまう、お願いします、

やらせてください」

監督は、800mのエントリーを許可します。

  

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人見絹枝は、800m決勝前日の気持ちを

次のように書いていました。

「私の体にどうか明日一回走る力を与えてくださいませ」

 

1928年8月2日。800m決勝。

(8月2日と言う日は後に重要な日となります)

その様子は、ドラマ撮影と当時の映像を織り交ぜて

表現されました。

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☝ クラウチングスタートの人見絹枝。

 

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☝ 最初は短距離のように走りトップを走りますが、

監督らからペースを落とすように指示を受けます。

  

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☝ 指示に従って、ペースを落とし6位をキープして

2周目に入りました。

やはり慣れない800m。苦しくなってきました。

  

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☝ その時、監督らから「腕を振れ」という指示。

腕を振り始めた人見絹枝は、次々に順位を上げます。☟

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☟ 2位にまで上がり、トップのラトケを追います。

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ラトケに続いてのゴールで、

人見絹枝は女子初のオリンピックのメダル、

銀メダルを獲得しました。

  

400m2周でのドラマが、新旧の映像で

よくわかりました。

  

つづく

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