「アメリカ人が伝えるヒロシマ」を読む その2
今日は6月26日。
前投稿に引き続いて
「アメリカ人が伝えるヒロシマ」
(スティーブン・リーパー著/岩波書店)から引用します。
幼少期は日本で過ごしましたが、7歳から青年期にかけては
アメリカで育ちました。
37歳で来日するまでは普通のアメリカ人でした。
「普通の」とは「ヒロシマ・原爆・平和」というキーワードに
特別な関心はなかったという意味です。
(3p)
原爆投下は自国で起きたことではないし、
犠牲になった多くの人は日本人だから、
「普通のアメリカ人」はそうなのでしょう。
こうやって書かれてみて、そのような実態だと知りました。
さらにスティーブン・リーパーさんの
次のような文章も興味を持ちました。
来日したさんは、1985年当時、
広島で自動車業界のコンサルタント・翻訳・通訳の仕事をしていました。
今、考えると恥かしいのですが、
当時の私は広島にいるのに原爆資料館へ
自ら足を運ぼうとは思いませんでした。
友人に連れられて入ったことはありましたが、
完全に「落とした側」からの視線でしか見ていませんでした。
街が激しく破壊されたこと、想像を絶する熱風、
放射能の恐ろしい影響、いずれも、「受けた側」の苦しみについて
考えることができなかったのです。
後に、私はその経験から、
人間の思考についてあることを学んだような気がします。
「人間には、他者の苦しみは知っていても、
その苦しみを思いやることを拒否する一面がある。
それはその人が生きていくために必要な能力かもしれない。
しかし、とても危険であり、恐ろしく悲しい能力でもある」と。
人間の、こうした負の能力は誰にでもあります。
たとえば、アフリカで多くの人が飢えて苦しんでいる現実を
私たち(特に先進国)は知っています。
内戦などで不条理に多くの人が命を落としている現実も
私たちは知っています。
しかし一方で、私たちは平気でぜいたくな食事を口にでき、
レジャーなどを楽しみに生きていくことができます・・・・。
そして、こうした感覚の延長線上に、「戦争」という行為までもが
可能になるという構造があります。
人間とは?戦争とは?を考えるとき、
こうした人間の心の実相を知っておくことも大切だと思います。
(5p)
アメリカ人の元広島平和文化センターの理事長経験者の
気づいたことは貴重です。
オバマ大統領のプラハでの演説についても書いています。
オバマ大統領の就任があり、
(核廃絶に)希望を持てるムードが表出します。
オバマ大統領は2009年に、プラハで核兵器廃絶に向けた演説を行い、
大きなニュースになりました。
一番の核保有国のリーダーが、
「核兵器をなくしましょう」というメッセージを明確に口にしたことは、
とても刺激的でした。
私自身も当時、(中略)全米原爆展を終え、
手応えを感じていた時期でしたので、
新たな期待を膨らませていたように思います。
(40p)
当時は広島平和文化センターの理事長であり、
アメリカ本土での全米原爆展を成しとげていた
スティーブン・リーパーさん。
核廃絶への期待は高まりましたが、それを打ち砕いたのが、
2010年のNPT(核拡散防止条約)再検討会議でした。
そして結局、オバマ大統領のもとにあるアメリカをはじめ、
核兵器保有国はどこも、21世紀の間に核兵器を廃棄する
つもりがないことが露見したのでした。
つまり、総論(核兵器の危険性・核兵器はいずれ廃絶)は
よかったものの、廃絶への具体論になると、
保有国は、やはり拒否反応を明確にしたわけです。
(40p)
広島を訪問したオバマ大統領の次の言葉が思い出されます。
「私が生きている間に
この目標(核なき世界)は達成できないかもしれません」
※ここでも道草 オバマ大統領と「核なき世界」(2016年6月20日投稿)
「私が生きている間」どころか21世紀中に廃棄するつもりなはい・・・・
まだ21世紀が始まって間がない時に、
今世紀中の廃棄は無理と言う雰囲気があったのですね。
しかし新しい動きをスティーブン・リーパーさんは、
本の中で紹介してくれていました。
2010年以降、「核保有国が参加しなくても前進しよう!」という
核廃絶への動きが活発になってきているそうです。
「核なき世界」「核兵器の廃絶」
私が生きているうちの実現を望みます。
私に何ができる?
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