2010年5月25日 (火)

ベルリン・フィル指揮者に佐渡裕さん

フルトヴェングラーやカラヤンのことを調べる機会があって、

彼らが指揮をしていたベルリンフィルハーモニー管弦楽団のことも知りました。

指揮者にとっては憧れのオーケストラ何だろうなと思いました。

     

来年の5月に、そのベルリンフィルハーモニー管弦楽団の定期公演に、

日本人指揮者佐渡裕(さどゆたか)さんが、指揮をするというニュースを見ました。


YouTube: ☆ベルリン・フィル指揮者に佐渡裕さん

     

調べた後だけに、このことがすごいことだとちょっとわかります。

ほぼ1年後。

楽しみです。

    

カラヤンがなりたがっていたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者。

今は誰なのだろう。

いい機会なので調べてみました。

   

わかりました。

2002年より、サイモン・ラトル(1955年~)でした。イギリス人。

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2010年5月24日 (月)

「歴史秘話ヒストリア 吉備真備」

NHK「歴史秘話ヒストリア 奈良の魔法使い

~日本を救った遣唐使・吉備真備~」(5月19日放映)を見た。

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4月始めにドラマ「大仏開眼」を見たが、

そのドラマの主人公も吉備真備でした。

   

今年は平城遷都1300年ということもあって、

注目されているのでしょう。

  

そんな今だから、本物を見るチャンスがあることが、

番組を見ていてわかりました。

奈良国立博物館で開催中の「大遣唐使展」で、

「吉備大臣入唐絵巻」の一部が展示中とのこと。

展覧会は6月20日(日)まで。

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全く今まで知らなかった絵巻ですが、

番組の紹介がうまくて、興味を持ちました。

アメリカのボストン美術館所蔵の絵巻だけに、

本物を見られる貴重な機会となる。

さあ、どうしよう。日帰りで奈良まで行くか!

2010年5月23日 (日)

軟骨の唐揚げを最初に注文

自分で始めておいて何ですが、

「国分寺・国分尼寺シリーズ」を終えれてホッとしています。

普通のブログに戻ると言った感じ。

    

昨晩は、久々の方と飲み会。

もう今年度で引退の年とのこと。

そうなるんだ。

昔、社会科の先輩教師としてアドバスや励ましをたくさんもらった方です。

自信をもらったなあ。

出張先で久々に会って、

今度飲むか、という話になって、その時に日も場所も決めました。

    

昨晩飲んだ場所は、焼き鳥屋。

Index

   

    

     

   

2か月に一度くらいしか行かないのに、

昨晩はビックリすることがありました。

    

軟骨の唐揚げを最初に頼んだのですが、

もう一回食べたくなって、また頼みました。

店員の女の人が、「軟骨の唐揚げ、お好きですね」と返してくれました。

「え?」

「いつも、ビールと軟骨の唐揚げ、とん平焼きを最初に注文しますよね」

「え?」

いやはや驚きました。

まさにその通り。

昨晩はまさにその通りの注文。

そして、言われてみればいつもその注文。

さすがプロ。若くてもあなどれず。

ちゃんと覚えられているんだ。

    

若い人たちばかりが切り盛りしているお店。

店員さんもどんどん変わっているのではという先入観もあり、

こちらは店員さんの顔をちっとも覚えていませんでした。

それなのに、注文も覚えられていてビックリ。

いい気分にさせてもらいました。

また行っちゃうだろうな。

   

    

軟骨の唐揚げって、いいですよね。

ビールとこれで十分。

国分寺・国分尼寺下見18(最終回)/三河国分寺塔

(前投稿のつづき)

ずっと三河国分尼寺について書いてきました。

今回は三河国分寺のことを書きます。

建物の配置予想図は次のようです。

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現在、この遺跡の上には500年ほど前から別のお寺があり、

遺跡は下に埋もれたままです。

三河国分寺跡の大きな特徴は、塔が建っていたことでしょう。

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50mの高さの五重塔(あるいは七重塔)があって、

その塔が建っていた基壇が高く残っています。

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石碑の右の奥にあるのが基壇。礎石も見られます。

奈良や京都でおなじみの塔が、こんな地元にもあったなんて驚きです。

     

石碑の左の八幡公民館の裏手にはすごいものがありました。

    

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遺物の瓦を根っこに取り込んだ椿です。

こんなことがあるんだ。

   

   

   

以上で、ずっと書いてきた「国分寺・国分尼寺下見」シリーズは一度終了です。

タイムアップです。

これらの調べたことが明日の見学、

それだけでなく、将来も役立ってほしいと思います。

平成17年に三河国分尼寺跡が史跡公園になったことから、

毎年豊川市内の小学校6年生が見学に無料で行けるようになりました。

久々の6年生担任で、初めてこの機会を得ました。

でも何もわかっちゃいませんでした。

それで調べることに。

資料がある程度蓄積することができました。

資料置き場的なブログの使い方です。

    

わずかに残っているものと復元されたものから、

子どもたちが1250年ほど前を想像する体験をさせたいです。

国分寺・国分尼寺下見17/ずっと埋没していた遺跡

(前投稿のつづき)

741年の聖武天皇の指示(詔勅/しょうちょく)によって

8世紀後半に建てられた国分寺・国分尼寺ですが、

300年ほどの運命で、歴史からその姿を消しました。

跡地にはそれぞれお寺が建てられ、

かつて国分寺・国分尼寺があったことは忘れ去られ、

現在に至っていました。

大正9年に、この地を訪れた学者が、

地名に目をつけました。

八幡町忍地(にんじ)。

忍地から「尼寺(にじ)」が連想され、

ここに国分尼寺があったことを推理しました。

ここから始まりました。

この地名と、すでに発見されていた礎石から、

大正11年に三河国分尼寺跡は、三河国分寺跡とともに、

国の史跡に指定されました。

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※指定した日を刻んだ国分尼寺跡の石碑    

    

     

     

昭和42年に発掘調査が行われ、

かつての国分尼寺の様子が判明しました。

平成11年~17年に、豊川市は保存整備事業を実施しました。

中門と回廊の一部を復元。

跡地は史跡公園として開放されました。

傍らには「三河天平の里資料館」が作られ、

展示や映像によって古代三河国の概要を解説しているほか、

最新の発掘調査情報を発信しています。

http://www.geocities.jp/shimizuke1955/2670mikawakokubunji.html

    

      

「三河天平の里資料館」に掲示されている絵が素晴らしい。

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三河国分寺・三河国分尼寺があった頃の風景予想図です。

今と違って家も少なく、見通しが聞いた頃、

国分寺も、国分尼寺もとても目立った建物だったのだろうなあ。

国分寺・国分尼寺下見16/掘立小屋

(前投稿のつづき)

豊川市の国分尼寺の建造物配置図です。

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金堂を奥に進んでいくと、右手に経蔵(きょうぞう)。

お経が納められている蔵です。

左手には鐘楼(しょうろう)。鐘つき堂です。

そして回廊をつなぐ形で講堂があります。

ここは今の学校の教室のような役目の建物。

その裏手にあるのが尼坊(にぼう)。

尼僧たちが寝起きしていた場所です。10人くらいの尼僧がいたそうです。

     

注目は北方建物

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この建物だけ、他の建物や廊下と作りが違います。

何が違うかと言うと、礎石を使わずに、地面に穴を掘って柱を立てて作る建物でした。

よく耳にしていましたが、こういう建物を掘立小屋(ほったてごや)と言うのですね。

(掘って立てる柱を使った小屋→掘立柱小屋→掘立小屋)

  

礎石の上に柱を立てて建てる建造物は、

横からの力によってずれてしまう可能性があります。

何でこんな建て方をするのかと思っていました。

Wikipediaで調べて、次の説明でちょっと解決しました。

結論は、限られた建物には礎石による建て方をしていたが、

多くの建物は、この掘立式による建て方をしていたようです。

そうですよ、地震・台風の被害に襲われやすい日本には向いていない建て方だと思います。

   

飛鳥~奈良時代

日本で掘立柱建物がつくられ続けた理由

中国大陸や朝鮮半島では早くから礎石・土台建物が

住居建築においても普及していたにもかかわらず、

日本では移入されてのちも限られた建物にしか用いられなかった。

その理由として次の2点が指摘されている。

   

1.自然災害の多い気候

律令時代の寺院・宮殿・官衙などの礎石建物は

礎石上に柱を固定させずに据え置くため、

柱径を太くして瓦屋根の重みで建物全体を安定させる必要があり、

また、柱上の屋根との接点に複雑な組物をおいて

地震や台風の横力を分散させる柔構造の建築である。

それに対して掘立柱建物は柱の足元を地中に固定し、

柱上に直接桁を置き、草・板・樹皮で葺いた軽い屋根を載せる剛構造であり、

この構造は柱の太さに関係なく地震・台風にある程度耐えることができ、

建築費が安上がりで技術的にも簡略な方法による大量生産が可能である。

  

2.日本民族の保守性と木材資源の豊かさ

寺院などの公共的な建築には中国大陸伝来の立派で華やかな礎石建物を採用する一方、

日常生活の場である住居には大陸様式ではなく、

弥生時代以来の伝統的な生活スタイルを保つために、

伝統的で簡素な形式の掘立柱建物を採用した。

掘立柱建物の場合は災害によって倒壊しても、

上記のような利点や木材調達の面から

再建が礎石建物に比べてはるかに容易であったものと理解される。

※参考Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%98%E7%AB%8B%E6%9F%B1%E5%BB%BA%E7%89%A9      

    

建造物配置図によると、掘立柱塀と言うのがあります。

どんな塀が想像がつきます。

一部復元されていました。

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国分尼寺跡敷地の北のはずれから撮影した写真を載せます。

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国分寺・国分尼寺下見15/金堂の須弥壇(しゅみだん)

(前投稿のつづき)

金堂跡の一段高くなったところを須弥壇(しゅみだん)と言います。

この壇の上に本尊などの仏像が置かれていました。

イメージが抱きにくいですよね。

唐招提寺金堂大修理の時の写真がありました。

※「唐招提寺 保存修理事業現場公開」

http://sendo.fc2web.com/flame02/20040911toushoudaiji/toushoudaiji.htm

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この写真の仏像の下のあるのが須弥壇です。

豊川市の国分尼寺もこんな感じだったのではないでしょうか。

    

     

須弥壇は、須弥山(しゅみせん)をかたどったものだそうです。

須弥山とは、仏教の宇宙観による「宇宙の中心をなす巨大な山」のことです。

   

奈良時代までは、唐招提寺や国分尼寺のように低い台でした。

しかし、平安時代になってだんだん高くなっていったようです。

※参考「YAHOO!百科事典/須弥壇」

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%A3%87/

    

    

国分尼寺の須弥壇の上に阿弥陀三尊像があったようです。

※参考「国府物語」http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/mikawa.html

阿弥陀三尊(あみださんぞん)とは、仏像を置く時の形式。

中央に阿弥陀如来。

阿弥陀如来の右手に観音菩薩。左手に勢至(せいし)菩薩。

法隆寺の阿弥陀三尊像はこれ。

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そこにはないものを想像することが社会科は大事です。

子どもたちに、基壇と礎石、そして須弥壇しかない現場で、

どれくらい想像できるか期待したいです。

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そのためには、

ほぼ同じころに作られた唐招提寺金堂が参考になるわけです。

※国分尼寺が741年の聖武天皇の指示受けて8世紀後半に作られたもの。

※唐招提寺は759年が始まり。

2010年5月22日 (土)

国分寺・国分尼寺下見14/本物の金堂跡の礎石

(前投稿のつづき)

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国分尼寺の金堂跡の礎石です。

その説明板を見ると魅力的なことが書いてあります。

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本物がある。    

1250年ほど前に国分尼寺が作られた当時の礎石が目の前にある。

そして写真に撮りました。

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これがそうですよ。

月曜日は子どもたちに触らせて、

想像力を働かさせたいです。

   

   

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基壇によって、一段高くなった金堂跡。

その中でさらに一段上の場所があります。

「須弥壇(しゅみだん)」と言われる場所です。

仏像を安置する台座です。

須弥壇は「須弥山(しゅみせん)」からきたものですが、

次の投稿で。

       

国分寺・国分尼寺下見13/南大門→中門→金堂

いよいよ月曜日に豊川市の国分寺・国分尼寺の見学が迫ってきました。

今だに下勉強ができていない。勉強、勉強。

     

国分尼寺はこんな姿だと予想されています。

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※「三河天平の里資料館」の資料

    

    

       

復元想像図の右の入り口が「南大門

南大門から左右に築地塀(ついじべい)が伸びています。

今、南大門と築地塀はなく、

南大門のあった場所には、位置を示すプレートがあります。

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南大門を入ると「中門

これは復元されていて、このブログでも写真を載せました。

中門から左右に回廊が一部復元されています。

      

      

さてその奥。

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石垣によって一段上に上がった所があります。    

「基壇(きだん)」と呼ばれる場所です。

そこは、お寺で最も重要な仏像(本尊/ほんぞん)が安置されている

金堂(こんどう)があった場所です。

豊川市の国分尼寺の金堂は、基壇の大きさから考えて、

かなり大きいものだったようです。

奈良の唐招提寺の金堂に匹敵するようです。

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唐招提寺金堂の写真です。

こんなのが建っていたかと思うとわくわくします。     

上に載せた復元想像図の金堂も立派です。

   

     

金堂があったことを示す発掘物は礎石です。

柱の下に敷かれた礎石は、長い歴史の中で埋没し、

寺の森の木々の下に隠れていました。

とことん埋没していました。

昭和42年の発掘当時の写真(下の2枚)を見ると、

この過去の遺跡がよくぞここまで復元されたなあと思います。

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これが今の金堂があった基壇の写真。

もう森はまったくありません。

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この基壇の上に金堂が建っていました。(次の投稿につづく)

2010年5月19日 (水)

国分寺・国分尼寺下見12/硯(すずり)

  国分尼寺があった場所からそう離れていない場所に三河国府跡があります。

そこから発掘されたもので、ユニークなものは硯です。

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右奥の硯が、「羊形硯(ひつじがたすずり/ひつじがたけん)」の復元したもの。

全国で7つしか出土されていない貴重な遺物から復元したものです。

(手前にあるものが出土されたものだと思います)

当時日本にはいなかった羊。

西から伝わってきたものだと想像できます。

  

そして左奥にあるのが円面硯(えんめんけん)

ひっくり返して、お皿として利用したい形。

よく硯だとわかったなあと思います。

こんな豪華な形もありました。

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あと「風字硯(ふうじけん)」という硯もあるそうです。

   Abc2009053002      

      

    

    

※「博物館百科事典」http://abc0120.net/words03/abc2009053002.html

    

几(ふうこう)という字に似ているのでこの名があるそうです。

今の硯に似ています。

    

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