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2010年7月23日 (金)

グラバー親子2代の物語 その2

   

(前投稿のつづき)

グラバーの息子倉場富三郎(くらばとみさぶろう)のこと。

全く知らない人だけに、彼のやったことは興味深かったです。

父親のグラバーが、活躍の舞台を東京に移しましたが、

富三郎は、東京から長崎に戻り、最期まで長崎で過ごしました。

父親がイギリス人、母親が日本人であることから、

富三郎は、日本人と外国人の架け橋になることを目指しました。

長崎内外倶楽部を仲間と設立し、交流の場を設けました。

また日本人画家を雇って、長崎でとれる魚類の精巧な絵を描かせました。

20年かけて作られたその魚類図譜は、「グラバー図譜」と呼ばれ、

日本の四大図譜の一つです。

テレビの画像を2枚載せます。

Rimg0011 Rimg0014   

   

    

       

    

    

彼の人生を狂わせたのは、戦争でした。

グラバーが東京に移った時に、グラバー邸は他の人に貸していました。

長崎に戻った富三郎は、しばらくして再びグラバー邸に戻り、

妻ワカともに過ごしていました。

長崎の造船所では、戦艦大和と同型の武蔵の建造が進められていました。

軍部はその建造を隠すために、大きな倉庫を作りました。

  • Rimg0015 Rimg0017     

    

   

    

      

しかし、その倉庫を越えて、武蔵を見ることができたのが、

丘の上のグラバー邸でした。

倉場富三郎は、グラバー邸を出ていかざるをえなくなりました。

昭和14年のことでした。

        

40年苦楽をともにしたワカが亡くなったのは昭和18年。

    

戦争が激しくなってくると、父親が敵国イギリス人だったことから、

スパイと疑われました。

     

昭和20年8月9日、午前11時2分。

長崎に原爆が投下され、富三郎が愛した長崎は灰燼に帰します。

希望を失った富三郎は、終戦直後の昭和20年8月26日に自ら命を断ちます。

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この番組でグラバー親子のことを勉強できました。

これだけ知ると、グラバー邸に行きたくなります。

昔(30年近く前)長崎を訪れた時には、無知でした。もったいなかった。

      

参考:「ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム」

http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol61.html

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