グラバー親子2代の物語 その2
(前投稿のつづき)
グラバーの息子倉場富三郎(くらばとみさぶろう)のこと。
全く知らない人だけに、彼のやったことは興味深かったです。
父親のグラバーが、活躍の舞台を東京に移しましたが、
富三郎は、東京から長崎に戻り、最期まで長崎で過ごしました。
父親がイギリス人、母親が日本人であることから、
富三郎は、日本人と外国人の架け橋になることを目指しました。
長崎内外倶楽部を仲間と設立し、交流の場を設けました。
また日本人画家を雇って、長崎でとれる魚類の精巧な絵を描かせました。
20年かけて作られたその魚類図譜は、「グラバー図譜」と呼ばれ、
日本の四大図譜の一つです。
テレビの画像を2枚載せます。
彼の人生を狂わせたのは、戦争でした。
グラバーが東京に移った時に、グラバー邸は他の人に貸していました。
長崎に戻った富三郎は、しばらくして再びグラバー邸に戻り、
妻ワカともに過ごしていました。
長崎の造船所では、戦艦大和と同型の武蔵の建造が進められていました。
軍部はその建造を隠すために、大きな倉庫を作りました。
しかし、その倉庫を越えて、武蔵を見ることができたのが、
丘の上のグラバー邸でした。
倉場富三郎は、グラバー邸を出ていかざるをえなくなりました。
昭和14年のことでした。
40年苦楽をともにしたワカが亡くなったのは昭和18年。
戦争が激しくなってくると、父親が敵国イギリス人だったことから、
スパイと疑われました。
昭和20年8月9日、午前11時2分。
長崎に原爆が投下され、富三郎が愛した長崎は灰燼に帰します。
希望を失った富三郎は、終戦直後の昭和20年8月26日に自ら命を断ちます。
この番組でグラバー親子のことを勉強できました。
これだけ知ると、グラバー邸に行きたくなります。
昔(30年近く前)長崎を訪れた時には、無知でした。もったいなかった。
参考:「ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム」
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