2018年9月17日 (月)

火が常に灯されている話/ヘスティアの祭壇

今日は9月17日。

  

昨日は勤務校の体育祭がありました。

2学期になって台風が来たりして、雨の多い日々でしたが、

幸いにも昨日は晴れ。無事に済みました。

 

開会式で聖火ランナーが運動場を走り、聖火台に火を灯します。

その時に、隣にいた同僚の社会科の先生が、

「アテネの聖火って、ずっと燃えているんですかね」

と聞いてきました。

「どうなんでしょうね」

2人で、遠いギリシャの聖火に思いを馳せていました。

実際どうなんでしょう。

調べました。  

  

結論は、オリンピックの聖火については、

毎回採火され、聖火ランナーにに引き継がれ、

大会会場に届けられるそうです。

Wikipedia オリンピック聖火から引用します。

  

古代ギリシア人にとって、火はプロメーテウスが

神々の元から盗んできたものだと考えられており、

神聖なものだった。

このため、火はオリンピアの多くの神殿に見られるのである。

火はオリンピアにあるヘスティアーの祭壇で燃え続けた。

オリンピック開催期間中は、ゼウスとゼウスの妻ヘーラーの

神殿に火がともされ、ゼウスを称えた。

近代オリンピックにおける聖火は、

かつてヘーラーの神殿が建てられていた場所で採火されている。 

  

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Otr016jpp021257300 JIJI.COM リオ五輪(2016年)・聖火リレー 写真特集より

 

こんな採火式の様子は、以前見たことがあります。

 

   

ここで気になった記述が「ヘスティアの祭壇で燃え続けた」です。

オリンピックの聖火には関係ないけれど、燃え続けている火があるの?

ヘスティアについて、調べました。

ファンタジィ事典 ヘスティアー

  

 

ヘスティアーは古代ギリシアの竈(かまど)、あるいは炉の女神。

ゼウスやポセイドン、ハーデースら6人兄弟の長女。

炉は家の中心であり、彼女は家庭を守護する女神として崇拝された。

また、生け贄を捧げる祭壇も彼女の管理下にあるとされた。

都市の神殿には彼女の祭壇があり、常に火が灯されており、

ヘスティアーは都市の守護者と考えられた。

新しい植民地を建設する際には、この祭壇から火が運ばれ、

植民地にもたらされた。 

  

 

火が常に灯されているという発想はあるようです。

以前、番組で見た比叡山延暦寺の

不滅の法灯(ふめつのほうとう)」を思い出しました。

これも火を常に灯す発想です。

いい機会なので、この番組について、次の記事で読み物化してみたい。

  

2018年9月16日 (日)

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その5

今日は9月16日。

  

前投稿の続きで、

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。

  

田部さんは沖縄戦で戦死しました。

現場は摩文仁の丘。

その最期の様子を書いた文章を引用します。

  

 

田部の部隊は、海岸まで追い詰められていた。(中略)

後方から米軍歩兵と戦車軍が迫ってくる。

海からは哨戒艇の攻撃が容赦なく行われた。

万事休す。

田部は完全に追い詰められ、もはやこれまでと思った。

(215p)

  

海は哨戒艇で埋まっているが、波の音は穏やかだった。

ゆっくりと奏でられる静かな波音が田部の記憶を蘇らせた。

やがて、その音は球場の歓声のようにも聞こえてきた。

田部は死を覚悟していた。

だが、もう一度人生最後の盗塁を決めてやろうと思った。

かつて、アメリカの観衆はスピード満点の田部の俊敏無比の

韋駄天ぶりに驚き、興奮し熱狂した。

そして、そのスリリングな走塁へ惜しみない拍手を送った。

アメリカ女性からも方々でサインを求められた。

もしかしたら、敵の米兵のなかにも、かつて球場で

田部の快足を見た者がいるかもしれない。

今一度、己の健脚を見せてやる。

そう思うと老兵は、一瞬、軽く目を閉じた。

アメリカの青い空が浮かんだ。

果てしなく広がる紺碧の空、思い出は美しい。

「タビー・ストロング・ベース」

アメリカ人は田部をこう呼んだのだ。

 

田部は海岸に向かって走り出した。

かつてアメリカの広大な大地を走りまくった頃の

自分に戻っていた。

アメリカの青空の下でおもしろいように盗塁を決めた。

二盗、三盗、ホームスチールと、小兵の田部は

大男揃いのアメリカ内野手のあいだを俊敏無比の

疾風の如くくぐり抜けたのである。

 

我が野球人生に悔い無し。田部は走った。

日米の野球ファンを魅了した生涯最後のベースランニングである。

猛然とダッシュした。加速がつく。

脚力はいささかの衰えもない。

機関銃の火のような掃射を巧みにかわした。

まずは二盗に成功。次は三塁だ。

田部は二盗よりも三盗を得意としていた。

田部は三塁も陥れた。最後は本塁である。

 

田部は人生の締めくくりをホームスチールで決めてやろうと思った。

「タビー、ホーム、ホーム」という歓声が聞こえてきた。

投手の足が上がった瞬間、田部はさらに加速し一気に駆け抜けた。

摩文仁海岸には紺青の海が広がっていた。

日本野球界、希代の天才野球児・田部武雄は、

穏やかな平和の時代を求め、静かに消えて行った。

(215~216p)

田部さんがアメリカ遠征で活躍したのが、

1935年(昭和10年)のこと。

そして、戦死したのが10年後の1945年6月。

(日にちは不明)

たった10年で、アメリカ人の歓声を受けていた田部さんが、

アメリカ兵の撃つ機銃掃射で命を落としました。

摩文仁で追い詰められた時に、田部さんはどう思ったでしょうか。

今自分に起こっている現実を、現実と思っていたのでしょうか。

あのアメリカを憎しとは思っていなかったと思います。

なぜこんなことになってしまったのだと思い、

悪夢と思いたかったろうなと思います。

 

本の著者は田部さんのことを「薄幸」と書いていました。

活躍するのですが、「優勝」に縁が少なかった田部さん。

田部さんがそのチームを離れると「優勝」が来ていました。

巨人を解雇され、プロ野球から追放されてしまった田部さん。

そして奥さんの子どもを残しての戦死。

やっぱり無念だっただろうなあ。

  

全く知らなかった田部武雄さんの人生を知りました。

ここに書きとめることができました。

今も日本で盛り上がっている野球の歴史には、

このような野球人がいたのですね。

  

2018年9月15日 (土)

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その4

今日は9月15日。

 

9月12日の投稿の続きで、

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。

  

田部さんが華々しく活躍した時の一つが、

1935年(昭和10年)の東京巨人軍アメリカ遠征です。

  

たとえば・・・

 

10回表、(一番)田部は外角を巧く流してライト前ヒットで出塁。

初球、田部はいきなり走った。

脱兎(だっと)のごとく走り二塁ベースに滑り込んだ。

二番の矢島は左打者である。

そのために相手バッテリーはまさか田部が三盗はしないだろうと思った。

だが、田部は巧みにリードを取って三塁を陥れた。

隼のごとく三塁に滑り込んだのだ。

矢島の第四球目、本塁の砂煙が舞い上がった。

田部の姿が煙の中から出てきた。

猛烈な拍手が起きた。

試合は結局巨人軍が9対5で勝利した。

田部はヒットだろうが四球だろうが、

一塁べース上に立てば後は一人でホームに帰ってくる。

もし、田部がヒットを放ったところでトイレに立った客がいれば、

席に戻ってみるとスコアボードに1点が掲示されているのを

眺めて怪しむに相違ない。

なぜなら、矢島がそのままバッターボックスにいるからである。

投手がたった四球の球数を投げるあいだに

ベースを一巡してしまう走者がいようとは

誰が想像したであろうか。

不思議な現象に遭遇し頭が混乱しただろう。

だが、田部の快足を知れば納得するであろうし、

同時に塁間を駆け巡りホームスチールを見られなかったことを

悔しがるにちがいない。

(146~147p)

  

こんな具合です。109試合で105盗塁を記録しました。

Wikipediaには次のように書いてありました。

  

本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ

「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、

アメリカ人を驚かせ「タビー」と呼ばれた。

  

痛快じゃないですか。

アメリカ遠征時の映像と思われる動画がありました。


YouTube: 田部武雄 

和数字の背番号「三」を背負った田部さんが映っていました↓

Photo

   

 

(昭和15年)首位打者は最後まで川上(哲治)と争った

鬼頭数雄(中京商業)が獲得した。

鬼頭は快足を活かしセーフティーバンドを決めるなど、

好打で川上に競り勝った。

鬼頭は打率・321の結果を残し首位打者の栄冠を手にした。

鬼頭は中京商業夏の甲子園三連覇のメンバーである。

その後、日大で活躍した。

その鬼頭も太平洋戦争が始まると応召(おうしょう)され、

歩兵第135連隊陸軍兵長として激戦のサイパンに従軍し

消息を絶った。

米軍の猛爆撃のさなか消えたのである。

(193p)

  

私が子どもの頃に野球に夢中だったときは、

巨人軍、川上監督、王貞治選手、長嶋茂雄選手が、

プロ野球の中心でした。

川上監督が昭和15年に首位打者を争った鬼頭選手。

注目したい。

(ちなみに昭和14年、16年に川上選手が

首位打者になっています。)

  

地元愛知県勢が夏の高校野球で3連覇していて、

それが中京商業であることは子どもの頃から知っていました。

昭和6年~8年のことでした。

そのチームにいたのが鬼頭選手でした。

名古屋市生まれ。

この人の特徴の一つに、左利きの2塁手だったことがあるようです。

※参考:鬼頭数雄:左利きの内野手

今に至るも、左利きの2塁手は珍しいようです。

 

 

上記サイトによると、鬼頭選手が戦死したのは、

マリアナ諸島沖とあります。

サイパン島はマリアナ諸島の一つ。

サイパン島に向かう移動中に亡くなったのか?

サイパン島での戦いは1944年6月15日から7月9日。

鬼頭選手が亡くなったのは1944年7月となっていて、

日にちは不明。

もう少し詳しく書いたサイトはないか調べました。

このサイトがよかった↓

職業野球異色列伝 鬼頭数雄

首位打者争い、戦死のことが詳しかったです。一部引用。

 

鬼頭と川上の首位打者争いがあったのは昭和15年のことだ。

この年のリーグ打率は2割0分6厘、チーム打率1位の巨人は2割3分7厘

という数字が如実に物語る通り、稀に見る「投高打低」のシーズンで、

一説によれば「最も粗悪なボール」を使ったとされる。

戦時下体制の影響から、連盟規定に沿う正規の使用球を作製できず、

使い古したボールや質の悪い代替品で作ったボールを用いて

公式戦をおこなっていたのだ。

このような状況下にありながら、鬼頭と川上は

シーズンを通して打率3割台を維持し続けた。

シーズン開幕の3月から対決の火ぶたが切られた。

中盤戦を終えた8月までの成績は、1位・鬼頭の3割2分4厘9毛に対し、

2位・川上は3割2分4厘6毛と、たったの3毛差。

球史初の〝厘〟と〝毛〟の差を争う死闘を展開、

川上をして「いっそのこと軍隊に入ったほうがマシだ」と

言わしめたほど熾烈を極めた。

そして、抜きつ抜かれつの大熱戦の末、

鬼頭が首位打者のタイトルを掌中に収めた。

だが、今日に至るまで「打撃の神様」に勝利した実績は語り継がれず、

歴史の影に埋もれたままである。

昭和17年2月、歩兵第18連隊第7中隊に入営し、

その後は歩兵第135連隊に配属。

昭和19年7月、マリアナ諸島サイパン島に消息を絶つ。

白木の箱には「鬼頭数雄」と書かれた、

薄くて小さい木板が1枚だけ入っていたという。

  

  

歴史の影に隠れて私には見えていなかった鬼頭選手を、

天才野球人 田部武雄」を読んだことで、

日の当たる場所に引っ張り出すことができました。

  

  

    

 

2018年9月14日 (金)

父親に米寿のお祝いが届く

今日は9月14日。

  

昨日、地区の民生委員の方が来訪。

父親に米寿(88歳)のお祝いを届けてくれました。

地元の市社会福祉協議会からいただきました。

お祝い金と、白木箸とお茶でした。

添えられた手紙には、

「長年にわたり、社会にお尽くしいただきましたことに、

心から感謝」とありました。

ありがたいことです。

今使っている箸は、だいぶ使い古してきていたので、

さっそく朝食から使うことにします。

   

先日87歳になった父親。

まだ88歳ではないがと思いましたが、

「数え」であるから88歳でした。

 

「米寿」を調べました。

豆知識PRESSより一部引用します。

 

米寿の「米」という漢字を分解すると、

八(ひっくり返して)、十、八となり、

末広がりの八が2つ重なることで大変めでたい年とされ、

昔からお祝いをされてきました。

  

米を分解すると八十八になることから、

米寿は数え年で88才を迎える年にお祝いをします。

  

数え年では、生まれた年を1才と考え、元日に1つ年を取ります。

このため、最初から満年齢よりも1才ほど多く年を重ねています。

つまり、生まれた年を0才と数え、

誕生日に1才年を取る満年齢にあてはめると、

米寿は87才に迎えることになります。

  

米寿では、金色、もしくは金茶色、

黄色のちゃんちゃんこや座布団、扇子、頭巾など

用意してお祝いします。

お祝いの贈り物として、ちゃんちゃんこや扇子を

贈る方が多いようですが、同様に金色や金茶色の衣類や

日用品を贈る場合もあるようです。

さらに、米寿にちなんでお米に

纏(まつ)わる物を贈る方もいらっしゃるようです。 

  

  

そうか、このようなお祝いを用意するんだなあ。

父親は”ぼけ”がこのところひどくなり、

身体も思うように動けません。

いろいろな病院に通い、

朝昼晩、薬を飲んでいる生活です。

家の中には転倒しないように補助具がいろいろ増えました。

デイケアサービスも使うようになりました。

我が家にはすっかり「介護」という言葉が浸透しています。

子どもの世話がすんだら、次は親の世話とはよく言ったものです。

実感する日々です。

  

それでも父親は頑張って生きています。

生き延びています。

毎日新聞を読んでは、必要なことをノートに視写しています。

たいしたものです。

やっぱりお祝いするべきことだと思いました。

考えないとなあ。

数えだから、今年中に。

 

Photo 京扇子の井ノ口松寿堂

 

こんなのいいなあ。でもちょっと高価。

 

2018年9月12日 (水)

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その3

今日は9月12日。

  

再び田部武雄さんの話に戻ります。9月9日以来。

  

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。

  

昭和9年10月15日、千葉県の谷津球場では、

第二回日米野球に備えて結成された全日チームが

練習に入った。

このチームは日米野球の期間だけ参加する選手と

日米野球が終了したあと発足するプロチーム(職業野球)、

つまり巨人軍と契約する選手に分かれていた。

契約第一号が三原脩、第二号が苅田久徳、

第三号が早稲田の未完の大器中島治康だった。

この中島の契約には早大関係者は驚いた。

ほとんど実績のない中島がなぜという声も聞かれた。

だが、この未完の大器は日米野球以後、

大きく開花するのである。

そして、慶應義塾大学への進学が濃厚だった

京都商業の沢村栄治も将来を高く評価され中退し、

巨人軍と契約した。

(115p)

  

巨人軍創立時の話は面白い。

その「巨人軍」という名前は、次のようにして生まれたようです。

あの鈴木惣太郎さんが関わります。

巨人軍の当初の名前は「大日本東京野球倶楽部」

ニックネーム「東京ジャイアンツ」誕生の話は、

この本よりもWikipedia レフティ・オドールがわかりやすかったので、

引用します。

  

現存するプロ野球チームとして最古の球団「大日本東京野球倶楽部」が

結成されたが、相手となるチームがいなかったため、

1935年(昭和10年)、同球団はアメリカ遠征を行った。

最初に訪れた地・サンフランシスコでシールズを率いていたオドールは、

対戦相手にチームのニックネームがないことに気づき、

大日本東京野球倶楽部のマネージャーをしていた鈴木惣太郎に、

ニックネームをつけることを提案。

その一案として、当時全米でヤンキース、ドジャースと

人気を分け合っていたジャイアンツを提案し、

鈴木もその案をチームに持ち帰り、了承される。

大日本東京野球倶楽部は1935年のアメリカ遠征を

「東京ジャイアンツ」というニックネームで行うこととなった。

 

  

そして次は「巨人」という名前誕生。

これは再び「天才野球人 田部武雄」より引用。  

アメリカー東京間の国際電報での連絡の場合、

「大日本東京野球倶楽部」という長い名称では、

交渉が煩雑になるという理由から

「東京ジャイアンツ」を日本語にして「東京巨人」にした。

(128p)

 

昭和10年のことでした。

それからずっと今まで「巨人軍」です。

電報で打つのに、短い名称が必要だからできた名称が

きっかけだったのですね。

何事も最初はささいなことですね。

重みは時の経過が作ります。

   

 

田部さんは、昭和10年の1月20日に契約をしています。

そして巨人軍は2月にアメリカ遠征をスタートさせます。

  

背番号はオドゥールのアイデアによって

和数字のものが用意された。

この和数字の背番号はアメリカの野球ファンを驚かした。

このときの背番号「三」が田部だった。

栄えある巨人軍初代背番号三の栄誉に浴したのである。

プロ野球発足前とはいえ、巨人軍初代背番号三は

紛れもなく田部武雄である。

そしてそれが、中島治康、千葉茂、長嶋茂雄の「永久欠番」へと

名選手の系譜が形成されていったのである。

(126p)

アメリカ遠征時の写真を載せます。

Image012 沢村栄治記念館HP

アメリカ遠征に向かう船上での写真です。

左から4番目が田部さんです。

右から5番目が沢村栄治さん。

 

つづく

2018年9月11日 (火)

道草の扉がまた開いた・・・「三笠の沈没・浮揚」「尼港事件」

 

今日は9月11日。

  

また道草の扉が開かれた?

  

今日、9月11日の「今日は何の日」を調べ始めました。

授業で使うためです。

いつもの「今日は何の日~毎日が記念日~」で調べました。

今日は何の日~毎日が記念日~ 9月11日

「警察相談の日」「公衆電話の日」でした。

う~ん、「公衆電話の日」は使えるなと思って、

さらにスクロールして、他のところを見てみました。

  

「歴史」コーナーを見ました。

過去の9月11日に起こった歴史的な出来事が書かれています。

何気なく見ていて、目がとまったのは1905年。

「今日は何の日~毎日が記念日~」の写真です。

Photo  

「1905年戦鑑「三笠」が佐世保港内で弾薬庫の爆発事故により沈没。

 339人が死亡。」

 

なにい!そんなことがあったの?

沈没したの?

でもおかしいぞ。現在「三笠」は横須賀港に、

記念艦として保存されています。

実際にストリートビューで、船内まで探索できます。

ストリートビュー 記念艦「三笠」

Photo_3

  

「三笠」と言えば、日露戦争の日本海海戦で、

バルチック艦隊を打ち破った連合艦隊の旗艦として有名。

その時に「三笠」に乗って艦隊を指揮していたのが、

東郷平八郎連合艦隊司令長官でした。

Bridge 世界三大記念艦「三笠」HP

「三笠」が保存されている理由は、

やはりこの日露戦争での活躍だと思います。

実際、「世界三大記念艦『三笠』HP」の「キッズページ」の説明には、

次のように書いてありました。

 

三笠ってどんな船?

明治35年(1902年)、日本海軍が

イギリスに注文して造った戦艦です。

明治37年~明治38年の日露戦争において、

ロシアは遠くヨーロッパのバルト海から

大艦隊(バルチック艦隊)を派遣しましたが、

明治38年5月27日、東郷平八郎司令長官(とうごうへいはちろうしれいちょうかん)

ひきいる連合艦隊が、これを対馬沖に迎え撃ち、

大海戦(日本海海戦)が行われました。

「三笠」は連合艦隊の旗艦として、つねに先頭に立って勇敢に戦い、

歴史上例を見ない圧倒的な勝利に大きく貢献しました。

この大勝利により戦争を止めようと言う話し合いが進み、

同年9月にアメリカ大統領の仲介で、

ポーツマスにおいて日露講和条約が結ばれました。

世界三大記念艦「三笠」HP キッズコーナーより

  

  

現在横須賀にある戦艦が、1905年9月11日に沈没していました。

沈没した戦艦が、なぜ横須賀にあるんだ?

もう好奇心のアンテナがビンビン反応しました。

  

Wikipedia 三笠(戦艦)を見ました。

  

沈没した後のことが書いてありました。

 

(1905年)10月23日の海軍凱旋式は

戦艦敷島が三笠に代わって旗艦となった。

三笠は予備艦とされ、1906年(明治39年)8月8日浮揚

佐世保工廠で修理され1908年(明治41年)4月24日

第1艦隊旗艦として現役に戻った。 

   

「浮揚」の文字を大きくしてしまいました。

沈没した戦艦を、浮揚させたのですね。

【浮揚】=浮かび上がらせること

そして1908年に復活していました。

ビックリです。

 

  

Wikipediaを読んでいて、さらにビックリしたのは、

復活した「三笠」に起こった出来事です。

1920年のこと。

 

1920年の尼港(にこう)事件の際は砕氷艦見島と

ニコラエフスクに救援に向かったが

堅氷に阻まれ入港できなかった。

このため約700名の日本人と数千名のロシア人は

救助されることなく赤軍パルチザンに惨殺された。

  

尼港事件」とは何だ?

こんな虐殺事件のことを私は知りませんでした。

「三笠」が入港できなかったために、

多くの人名が失われた?

「赤軍パルチザン」とはどんな人たちなんだ?

なぜ、歴史の教科書に載っていなかったのだろう。

とんでもない出来事だと思う。

  

 

ニコラエフスクとは、ロシアにある都市名。

現在はニコラエフスク・ナ・アムーレ。

漢字では「尼港」と表記されます。

Yahoo地図で表します。

Photo_2  

「三笠」が関わった「尼港事件」に興味をもちました。

いずれ調べたいです。

  

 

そしてWikipediaを読むと、戦艦「三笠」はその後紆余曲折して、

記念艦「三笠」となり、今に至っていることがわかりました。

 

  

今回、偶然にも「三笠」が、

339人の犠牲を払って一度は沈没した戦艦だったことを知りました。

バルチック艦隊を迎えたときでも、

「三笠」では113名の死傷者を出しています。

そんな船であることを踏まえて、

心して記念艦「三笠」にいつか乗船したいです。

  

次のサイトでも、沈没のことが勉強できました。↓

知っていましたか?近代日本のこんな歴史 連合艦隊旗艦「三笠」 ~沈没とその後~

このサイトに載っていた写真です。

P01l  日本海海戦で後部マストを破損した戦艦「三笠」

 

  

 

そして「尼港事件」

この事件についても知りたい。

 

 

道草の扉はまたまた開かれました。  

20180901報告その2 獨鈷抛山千手寺の境内でロケ地チェック

 

今日は9月11日。

  

前投稿に続き、京都府亀岡市にある

獨鈷抛山千手寺(とこなげさんせんじゅじ)に行った時の話。

それでは7月12日放映のドラマ「遺留捜査」の写真を載せて、

その後に私が言った時の写真を載せていきます。

ドラマの写真は、この↓記事に載せた写真です。

ここでも道草 7月12日放映「遺留捜査」のロケ地探し/山門からの遠景(2018年7月16日放映) 

  

 

7月12日「遺留捜査」

Rimg3137  

7月16日の記事でも、糸村刑事が近づいている石灯籠は

本当は存在しないことを証明しています。

現地でも確認しました。

Rimg0330 

物干し竿もなかったです。

  

  

7月12日「遺留捜査」

Rimg3140

写真の右にイチョウの木があります。

同じ場所で私が撮影した写真↓

 

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Rimg0333

Rimg0334  

イチョウの大きな幹の下から、幼木が生えて茂っていましたが、

行ってみたら、それらの幼木は切られていました。

  

  

7月12日「遺留捜査」

Rimg3143  

私が撮影した写真↓

Rimg0329

ね、同じ場所でしょ。

こんなことがうれしい。

  

  

7月12日「遺留捜査」

Rimg3138  

しかし、この場所がわからなかった。残念。

でもまた行く理由になります。

  

  

 

7月12日「遺留捜査」

Rimg3136  

この山門はお気に入りです。

もちろん撮りました

Rimg0323

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Rimg0343  

この山門は鐘楼門です。その証拠写真↓

Rimg0320

Rimg0322

  

  

7月12日「遺留捜査」

Rimg3141

その山門でのシーン。

人物のシルエットがいいですね。

  

私の撮影↓

Rimg0345

Rimg0344

山門越しに景色が見えていたらいいのですが、

この日の天気はダメでした。

 

  

その他、境内で写した写真です↓

Rimg0321

   

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Rimg0338

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Rimg0340  

お守りを売っていました↓

Rimg0341

Rimg0341a

私は黒の獨鈷(とっこ)型のお守りを買いました。

Rimg0342

1000円でした。 

  

  

Rimg0337  

   

キミヤーズの塾の時間が迫ってきたので、

お寺から去ることにしました。

Rimg0347

↓ 再び私の自動車が見えてきました。Rimg0348

これが駐車スペースです↓

Rimg0349  

傍らにはこんな看板がありました↓

Rimg0350  

以上で、獨鈷抛山千手寺に行った報告終了。

 

2018年9月10日 (月)

20180901報告その1 獨鈷抛山千手寺の参道を自動車で走る

 

今日は9月10日。

  

前投稿に引き続き、田部武雄さんの話にしようと思いましたが、

9月1日のことをまとめておきたい気持ちが上回りました。

  

この日はキミヤーズ塾に行く日でしたが、

いつものように早朝に道草をしました。

今回は京都府亀岡市に行き、ドラマ「遺留捜査」のロケ地に行きました。

7月12日放映の「遺留捜査」です。

ここでも道草 7月12日放映「遺留捜査」のロケ地探し/山門からの遠景(2018年7月16日投稿)

上記記事に掲載した写真を再びここで載せつつ紹介していきます。

  

獨鈷抛山千手寺(とこなげさんせんじゅじ)の参道の入口に着いたのは、

午前8時30分少し前でした。

ここに到達する前に道に迷いました。

ナビが示す道で進むと、どうにも道が狭く、

こりゃあ違うぞと思うような道でした。

もう無理と思って引き返し、うろうろしていたら、

千手寺の方向を示す看板があり、そちらに進んで行き着けました。

この展開は、どこかで見たような・・・・

出かける前の下調べで見た下のサイトです。

Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてII 獨鈷抛山 千手寺(2017年8月14日参拝)

この方も、ナビが示す道を進んで、狭い道を走り、

行き止まりで引き返しています。

この方のナビ通りに行くと大変だという教訓を、

私は活かせませんでした。無意識に読んでいました。

  

もしかしたら、いずれ役立つこともあるかと、

私が走った道を地図に落としました。

Yahoo!地図です。

Photo  

「大井IC」は京都縦貫自動車道のインターチェンジです。

四角の枠の部分をアップで示します↓

Photo_2  

初めて千手寺に行こうとして、

事前勉強でこのサイトに来られた方は、

狭い道を通らずに、ズバリ上の地図の緑の道を

進んで参道入口にたどり着いてください。

  

  

参道入口です。

Rimg0301

Rimg0302

Rimg0303  

上記サイトの方は、参道が狭いので徒歩で向かっています。

15分ほどかかるそうです。

8月の暑い日に歩いたので、疲れてしまったようです。

こう書いています。

  

車に乗らなかったことを後悔した。(泣)

  

確かに車一台しか通れなさそうな参道ですが、

上記サイトの方はこうも書いています。

  

車だと対向車よ来ないでくれ、と願う道だけど、

経験上、こんな参道は滅多に対向車には出合わない。

結果的に車に乗っていれば余裕だったと思う。

  

この部分はとても参考になりました。

キミヤーズ塾に行く時間も迫っていたので、

自動車で参道を走りました。

絶対対向車に出会わないと思っていました。

上記サイトの方から得た自信です。

  

Rimg0304

Rimg0305

↑ こんな参道を走って、寺に向かう階段の下にある駐車スペースに

自動車を駐めました。

(駐車スペースは後で写真を載せます)

 

さあ、獨鈷抛山千手寺に来ました。

階段を登るぞう。

Rimg0306  

階段を登って振り返ると、亀岡市が見えるはずですが、

あいにくの天気で、真っ白でした。

見下ろすと、私の自動車が見えました。

Rimg0308  

 

一つの階段を登ると、平らな場所があり一休み。

もう一つの階段が見えます。

Rimg0309

↑ この場所はロケで使われていた場所です。

その写真↓

Rimg3133_2  

   

 

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Rimg0312  

 

登り切って、山門を見ます。

Rimg0313  

ここで説明を読みました。

Rimg0314

Rimg0315

Rimg0316  

山門をくぐります。

両側には仁王像。 

Rimg0317

Rimg0318  

そして札がかかっていました。

Rimg0319

 

ここが7月12日の「遺留捜査」では

こうなっていました↓

Rimg3135  

「円刻寺」という寺の名前の札があります。

そして仁王像は隠されています!

なぜ仁王像は隠された?

  

このいきさつに興味をもちました。

 

でも今晩はここまで。つづく。

 

指導案をつくるぞ。

 

  

あの映像を使った授業の指導案を

いよいよ作ることにしました。

ここでも道草 6分前に想像できない災害(2016年3月29日投稿)

↑ この記事紹介したあの映像です。

2018年9月 9日 (日)

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その2

 

今日は9月9日。

  

前投稿に続いて、

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。

 

昭和5年秋、大リーグ通の鈴木惣太郎は『読売新聞』紙上に

「米国の野球はどう動く」という記事を連載した。

鈴木は群馬県の伊勢崎市で生糸の貿易会社に入り、

小松商店のエージェントとしてニューヨーク駐在中に

大リーグの試合に足繁く通った経験があり、

アメリカ野球に通じていた。

大リーガーの野球にすっかり魅了され、『横浜貿易新聞』に

「アメリカ野球通信」を送り続けた。

それが昭和4年、『米国の野球』という本になり出版された。

これが、日米野球を計画していた読売の目にとまった。

鈴木は読売の嘱託をなり、紙面を通じてペンを執り

アメリカの大リーグ事情を紹介した。

大リーグ招聘(しょうへい)のために本格的な動きが

始まったのである。

(82p)

  

鈴木惣太郎氏は以前から興味をもっていた人。

ここでも道草 巨怪伝・・・沢村栄治/死んでしまえば仇花(2012年4月29日投稿)

この記事でも、次のように書いていました。

 

プロ野球スタートのことを勉強していて、印象に残った人が1人います。

鈴木惣太郎

機会があったら、この人についてもっと調べてみたい。

  

少しだけ調べが進みました。

  

昭和6年11月2日、試合に先立ってアメリカ選抜チームの歓迎会が

日比谷公会堂で開催された。

そして、古関裕而(こせきゆうじ)が作曲した「日米野球行進曲」が

披露された。

(88p)

この曲はyoutubeで聴くことができました。


YouTube: 歌う日本野球・日米野球行進曲(昭和6年)

このyoutube画面を見てあれと思いました。

Photo 「評伝 古関裕而」(菊池清麿著)

今回の「天才野球人 田部武雄」の作者と同じです。

ついでに著者菊池さんについて調べました。

Wikipedia 菊池清麿

私より1年先輩の1960年生まれ。

音楽史に詳しい方のようです。なるほど。

  

  

試合はあっという間に逆転され8対5。

ひっくり返された。

そして8回、全米チームはエースのグローブが登場した。

この年、アメリカン・リーグで31勝4敗、その快速球の前に、

宮脇、伊達、三原と連続三振。

強打者伊達のバットはピクリとも動かなかった。

続く杉田屋、夫馬、清水も連続三振だった。

これで六者連続三振、わずか21球で早稲田ナインは

仕留められた。

これが世界最高峰の投手が投げる「スモークボール」の威力である。

この日はラジオの全国放送。

松内省三アナウンサーの「グローブ投げました。あっ、ボールが見えません」

とはあまりに有名な言葉である。

(92p)

  

  

ただここで疑問。

松内省三アナウンサーのことを調べようとしても見つからず。

似た名前の松内則三アナウンサーならいました。

さらには似ているかなと思える河西三省アナウンサーもいました。

もしかしたら混ざった名前ではないかと想像します。

間違っていたらすみません。

  

グローブ投手については、ここ↓を読むと勉強になります。

とらまる王国 「スモークボール」、と呼ばれた剛速球。史上最高の左腕投手、レフティ・グローブ(1)

とらまる王国 「スモークボール」、と呼ばれた剛速球。史上最高の左腕投手、レフティ・グローブ(2)

52976044 とらまる王国

日本人がバットにボールを当てられるだけで、

怒っていたそうです。

その辺が納得できるお話が書いてあります。

  

なかなか田部さんのことを引用しませんが、

でも田部さんはそれぞれの現場にいた人です。

田部さんの足跡を知ることは、

職業野球が始まる前の、大学野球が盛り上がっていた時の様子が、

よくわかってくるのです。

沢村栄治さんを追いかけていても出てこなかった大学野球が、

田部さんの話ではよく出てきました。

沢村さんも憧れて慶應大学に入ることになっていたことも

思い出します。

  

次は都市対抗野球の話です。

都市対抗野球の創成期にも田部さんは関わりました。

  

都市対抗野球は橋戸信の発案によって昭和2年に始まった。

各都市を代表するクラブチームが競いあう大会という発案からだった。

橋戸は早稲田の学生時代、アメリカ大リーグチームが

地元にフランチャイズ制を採用していたことに

ヒントを得たと云われている。

(102p)

  

第1回の優勝チームは満州倶楽部でした。

第2回は同じく満州にある大連実業団。

第3回は満州倶楽部。

都市対抗野球は最初は満州のチームが強かったそうです。

田部さんも以前は大連実業団に所属していましたが、

第1回大会の予選で満州倶楽部に敗れ出場できませんでした。

田部さんが出場したのは第6回大会。

昭和7年です。

  

田部は東京倶楽部の一員として第六回全日本都市対抗野球大会に

姿を現した。

舞台は明治(大学)時代に快速を飛ばして走りまくった神宮球場。

神宮は田部の庭みたいなものである。

宮武の打棒と田部の盗塁への野球ファンの期待は高まっていた。

田部はよく神宮の外苑でランニングをしていた。

おそらく世界的なスプリンター吉岡に勝負を挑んだのも

この頃ではなかろうか。

オリンピック前の大事な時期に田部の果たし状を受けた吉岡も凄い。

(103~104p)

  

吉岡選手との競争については、前の方のページに書かれていました。

  

吉岡(隆徳)は神宮の外苑で練習をしていた。

そこへ田部が現れ、練習中の田部に競争を申し込んだのである。

吉岡はそれを受けた。

吉岡も神宮の盗塁王・田部武雄のことは知っていた。

いくら田部が天才的なランナーと言っても、彼は野球選手である。

吉岡は100メートルを10秒3。

スタートダッシュは弾丸のように速く50mなら世界のトップである。

その吉岡に100メートル競争を挑むなど正気の沙汰ではなかった。

結果はどうであったか。

何と田部は50メートルまでは競ったが、あとは離されたというのである。

これは、明大で共に活躍し阪神タイガースの強打者としても活躍した

松木謙次郎の証言にもある。(中略)

世界レベルの陸上ランナーとスタートからその前半を

ほぼ互角に走るのだからいかにトップスピードが速いかがわかる。

(36p)

  

吉岡隆徳さんは1909年生まれ。

田部武雄さんは1906年生まれ。

ほぼ同年代の人たちだったのですね。

いいエピソードです。  

 

続く

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その1

今日は9月9日。

  

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)を

読みました。

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以前もこのタイトルで記事を書きました。

ここでも道草 「それぞれの街に、沢村さん」高木正雄さんのこと(2018年8月28日投稿)

その2人目はこの本で描かれた田部武雄さん。

  

本から引用していきます。

  

昭和2年、田部は広陵中学に復学した。(中略)

田部は、この春の選抜出場の時点で20歳を超えていた。

当時、春の選抜野球は在学年数や年齢制限がなかったので、

出場は可能だった。

20歳を越えた青年が甲子園に出場することは

現代なら到底考えられないことである。

ここにも戦前のおおらかさが感じられる。

(24p)

  

田部さんは1906年(明治39年)生まれです。

  

1929年(昭和4年)、

田部さんがいた明大野球部は、アメリカ遠征に出る。

遠征の帰りにヨーロッパを漫遊しています。

  

明大ナインはスイスでのアルプス越えで湖水の美感に感嘆し、

イタリアに入った。

ローマで古代遺跡を見学し、登山電車の歌で知られる

ヴェスヴィオ火山に登った。

この火山の噴火によって一瞬にして廃墟となった

ポンペイの町を見て大自然の脅威をつくづく思い知らされた。

(57p)

  

びっくり、明大ナインはベスビオ火山に登り、

ポンペイの町を訪れていました。

1944年にベスビオ火山は噴火して、

登山電車は破壊されています。

その噴火以後、ベスビオ火山は噴火していません。

明大ナインは、噴火しているベスビオ山を見ているかも。

   

  

初戦を落とした明治は2回戦の雪辱に燃えていた。

だが、この慶明2回戦(5月18日)が大きな波紋を

引き起こすことになるのである。

(中略)

事件の舞台は8回の裏、慶應の攻撃である。

6対5で明大がリード。1点を追う慶應、一死、一、三塁。

打者は牧野を迎えた。

明治の八十川は三塁に牽制するとみせかけて一塁へ牽制球を投げた。

プレートを外している。

ところが、これは審判会議では、

この投球動作をボークとみなすと決めていた。

しかも、その新ルールが早慶両校のみにしか伝達されていなかったという

不手際があった。

八十川の牽制の後、慶應ベンチのダッグアウトから腰元監督が

「ボーク、ボーク」と叫ぶ。

浅沼主審はマウンド上の八十川にボークを宣告した。

これに明大側は怒った。

八十川は軸足をプレートから外しているからボークではない。

岡田監督をはじめ明大ナインは浅沼主審を取り囲み抗議をした。

田部もボークの場合の投球動作を見せ、浅沼に抗議した。

確かに、三塁へ牽制しようとし一歩踏み出し、

さらに連続動作でグルリと一転して一塁に投げればボークだが、

以前の牽制動作ではボークになると知っていたから、

この時の八十川は軸足を完全にプレートから外していた。

どこへ投げようと自由なのだ。

この浅沼と田部は後に巨人軍内部でも対立する。

因縁の二人だった。

(73~74p)  

  

「八十川ボーク事件」をWikipediaで調べてみました。

Wikipedia 八十川ボーク事件

1931年(昭和6年)のことでした。

Wikipediaに興味深いことが書いてありました。

 

なおこの事件の主要人物・八十川胖、田部武雄、小川年安は、

広島広陵中学(現・広陵高校)のチームメイトである。

八十川の行った牽制は、現在もよく見られ

今ではランナーがほとんど引っかかることはないが、

元々田部が最初に始めたもので八十川はこれをまねたものである。

またキャッチャーである小川も同様の牽制を得意とし、

阪神時代これを“ツバメ返し”と呼んだとされているが、

現在はこの呼ばれ方はされていない。

  

あの牽制のやり方は、田部さんの考案だったのですね。

遺産をちゃんと見ていました。

  

  

つづく

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