「ミャンマー現代史」④ スーチーの父親アウンサン
今日は令和4年12月6日。
前記事に引き続き、
「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)
より引用します。
スーチー政権には、多数派の意思を政治に反映させる意味での民
主化を進める意思はあっても、それと少数派の包摂を両立させるバ
ランス感覚には欠けていたといえる。スーチーの民主主義とカリス
マに依存した民主化運動が抱える限界だったのかもしれない。
(162p)
スーチー政権下で、少数民族との武力衝突が増えた理由です。
「包摂」とは?
調べていたら「社会的包摂」という言葉に出合いました。
意味は次のように書いてありました。
「社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や
摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り
込み、支え合う考え方のこと。」
つまり、スーチーは、少数派を取り込むという高度な民主主義では
なかったということです。
そりゃあ、難しいよ。
クーデターに反対する市民の姿を目の当たりにして、大義は民主
化勢力にあると多くのひとは感じただろう。クーデターは失敗した
と思っているひともいるはずだ。ところが事態は、期待した成り行
きとは乖離したまま、現在にいたる。
市民に暴力を振るってまで、軍はミャンマーの何をどうしたいの
か。スーチーはなぜクーデターを防げなかったのか。民主化勢力に
勝機はあるのか。国際社会は事態をなぜ収束させられないのか。こ
れからこの国はいったいどこに向かうのか。
こうした疑問が浮かんでも、答えがなかなか見つからない。そん
な困惑する事態が、もう一年半以上も続いているのである。本書は
これらの疑問に答えたい。
(ⅲ はじめに)
引用の順番がめちゃくちゃですが、
「はじめに」に書かれた文章です。
中学校の授業で、東南アジアを教えている時に、
「ミャンマーでは、軍がクーデターを起こして、
軍事政権が民主主義の政権を倒しました」
程度は話しましたが、
それ以上のことを知らない自分がいました。
そんな時に見かけたこの本。飛びつきました。
クーデターなんて、今の時代、成功するわけがないとも
思っていましたが、ミャンマーの状態は一向に変わりません。
どうなっているんだと思っていました。
この本では、軍事政権は5年以上、10年とか続くと予想しています。
この本を読むと、そうなのかなと思えます。
日本とは事情が違うのです。
その事情が見えてきました。
時代はイギリスの植民地だったころのミャンマーの話です。☟
英領インド全体で進んでいた自治制度の拡大にともなって、ミャ
ンマーでも自治や独立を求める機運が高まった。しかし英国は、自
治についてはある程度認めても、独立を付与する気はなかった。独
立を求めるひとびとは不満を溜めていく。その結果、1930年代
に入って、若い政治活動家たちの運動が急進化、左傾化していった
のも不思議なことではなかった。彼らは暴力革命を通じてでも既存
の支配構造を変えることを目指した。その代表的な政治勢力がタキ
ン党(正式な組織名は「我らビルマ人協会」)である。タキン党の
若きリーダーがアウンサン。スーチーの父親だ。
(17p)
独立の機運が高まったミャンマーでしたが、
問題がありました。
ビルマ人が多数を占めていましたが、他の民族が厳然といました。
さらにはインドや中国からの移民も多かったのです。
同じ国民だという国民意識が、広がらなかったのです。
1942年に日本軍がミャンマーに侵攻した。日本軍は、英国の
統治下では抑え込まれていたナショナリズムの発露を許容し、とき
に煽って、自身の統治に利用しようとした。日本軍政下とその後の
対日抗争で高揚したナショナリズムは、日本の敗戦後に復帰した英
国が抑えきれるものではなく、また、大戦で疲弊した英国に、アジ
アの広大な植民地を維持する国力は残っていなかった。独立運動を
主導したアウンサンは、このチャンスを逃さず、一気呵成に英国政
府との交渉を進めた。そして、1948年1月4日、ミャンマーは
独立する。
独立はナショナリストたちの長年の夢の実現ではあったが、まっ
たくの見切り発車だった。しかも、肝心のアウンサンが独立直前に
政敵によって暗殺されてしまう(1947年7月19日)。独立交
渉の牽引役で統合のシンボルになりえた指導者を、この新興独立国
は失ってしまった。
(19p)
スーチーが、民主化の先頭に立たされたのは、
父親のアウンサンの影響です。
そのアウンサンが、どんな人物で、どんな死に方をしたのかがわかりました。
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