天声人語2本 お助け橋の町/公園は都市の肺
今日は令和2年5月23日。
休職中に毎日、朝刊に目を通すことを
するようになりました。
我が家は朝日新聞です。
最近書き留めておきたい「天声人語」が連続してありました。
実行します。
5月20日朝刊「天声人語」
東京・日本橋浜町(はまちょう)で生まれ育った稲崎知伸(いな
ざきとものぶ)さん(54)は、天保年間から続く表具屋の6代目。
額装や掛け軸、びょうぶ絵を扱う職人である。同じ町内にある東横
インのために何かできないかと考えた▼コロナの感染拡大による病
床不足を解消するため、軽症者らを受け入れると決めたホテルだ。
ところが東京都内第1号として公表されると、にぎやかだった隣接
の公園から子どもたちの姿がぱたりと消える。SNSには不安をあ
おるような投稿があふれた▼六つの商店街を束ねる立場の稲崎さん
は、仲間に相談。患者と医療従事者を励ます旗や幕を作ることにす
る。「快癒祈願 せっかくこの下町に来て頂いたのに、何も出来な
いのは心苦しい」「もう少しの辛抱。力を合わせて困難を乗り切り
ましょう」。そんな言葉をホテルの部屋から見えるところに掲げた。
「地域の皆さんに、心配は無用です。落ち着きましょうと呼びかけ
る意味も込めました」▼ウイルスが世の中を一変させて久しい。感
染者の名前や住まいを暴いたり、病院勤務者の子どもとの接触を避
けたり、ぎすぎすした雰囲気は各地でなお消えない▼東横インの周
辺を歩く。目の前の隅田川にかかる新大橋は、地元で「お助け橋」
と呼ぶらしい。1923年の関東大震災で奇跡的に焼失せず、大勢
が橋の上で難を逃れたことにちなむ▼下町っ子が練った言葉はこう
結ばれる。「是非お身体(からだ)を治してから、またいらしてく
ださいませ」。お助け橋の町ならではの心意気である。
新大橋に興味をもち調べました。
大震災当時は下のような鉄橋でした。
現在、新大橋は架け替えられ、
この写真の鉄橋の一部は、何と地元の愛知県明治村にありました。
こういう歴史を知って、訪れたい。
県内なので、緊急事態宣言中でも行けるぞ。
5月21日朝刊「天声人語」
7歳と5歳の子どもが父親と公園にいると、警察官に職務質問さ
れたーー。本紙の「声」欄に先日、そんな投稿が載った。「自粛中
に遊んでいる」との通報があったという。この春、公園の光景が各
地で一変した▼そもそも公園は何のためにあるのか。近代史を調べ
て驚いた。明治時代、政府が初めて公園を造ったのは主に防疫のた
めだった。コレラの伝染は空気中の湿って汚れた「瘴気(しょうき)
」によるものと考えられ、土地を乾かすには空間を開放するのが良
策とされた▼「公園は都市の肺である」。伝染病に苦しんだ欧州で
唱えられた説が、維新後の日本にもたらされる。「公園は腐を転じ
て鮮となす」「精神の洗濯場、空気の転換場であれ」。文豪幸田露
伴も著書で熱く訴えた▼なお多くの人々が巣ごもり生活を送る都市
部では、公園は数少ない憩いの場である。とりわけ子どもたちには
貴重な居場所だ。「立ち入り禁止」のテープが巻かれた遊具は、見
るたび悲しい。こぞって使用禁止とされたのは自治体の横並びゆえ
か▼「批判を恐れた行政が過敏に反応した結果かもしれません」と
話すのは立教大の小野良平教授(57)。公園の歴史や設計に詳し
い。「そもそも公園はゆとりの場。だれもがふらりと立ち寄って、
ボーッと過ごすことができる空間であってほしい」▼行く先として
公園しか浮かばないのに、行くのがはばかられる。百五十余年前に
「都市の肺」として生まれた場所で、深呼吸も自由にできないのは、
皮肉な話であろう。
「公園は都市の肺である」
この歴史を思い出させたい。
今だからこそ。
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