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2020年2月29日

2020年2月29日 (土)

「大熊町学校再生への挑戦」⑥ 相双/大熊町立小学校の表札/地球上から2度と

  

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。2012年発刊の本です。

  

一つ疑問が解決しました。

  

137pに

「相双教育事務所」(相双=福島県相馬・双葉地区)

とありました。

相双ビューロー 大熊食堂

☝ このサイトを見て以来「相双」って何だろう?と思っていました。

わかりました。

読み方は「そうそう」でした。

   

  

引用を続けます。

   

Epson267 (162p)

この表札、いいですね。

地区の人(河東地区)のために校名が残っています。

熊町小と大野小の校名も受け継がれています。

  

私たち大熊町民のように放射線に追われ、踏むべき土も失って

しまうような境遇の人間を、日本からはもちろん、地球上から

2度と生み出してほしくありません。しかし、このような事態

を招いたのもほかならぬ人間(日本人)なのです。人間を育て

る教育の責任は大きいと考えております。

大熊町は、全町避難のなかでも、原点に焦点を当てた教育の挑

戦と実践を続けてまいります。そして、安心と学ぶ喜びに裏打

ちされた「子どもたちの笑顔」に満ちた学校を目指します。

教育は、子どもたちと人々の心に希望の灯をともし、理想を追

求し続けるいとなみです。

(213p)

 

 

「地球上から2度と生み出してほしくありません」

が印象に残りました。

大熊町が体験した非常に辛い出来事を知って、

その体験を将来誰も体験しないように

私ができることをやっていきたいです。

  

 

以上で「大熊町学校再生への挑戦」からの引用を終えます。

  

「大熊町学校再生への挑戦」⑤ 大熊中学校の現在地/JR大野駅付近避難指示解除

 

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。2012年発刊の本です。

      

旧河東第三小学校で学校再開準備を進めて1週間がたったころ、

各校の児童生徒数が確定して、予想をはるかに超える状況になり

ました。避難先近くの学校に一時的に転校したが、大熊町の学校

再開の情報を聞き、会津若松市に移りたいと望む保護者も多かっ

たからでした。このままでは教室が足りない。そこで、大熊町教

育委員会が示した対応策は、中学校を旧会津学鳳中・高等学校

(旧若松女子高校)校舎に移して再開するというものでした。こ

こは、1階を大熊町役場として借り受けていたところで、2階を

中学校として使用することになりました。

(111p 早川良一/前・大熊中学校教頭)

  

私が2月19日に訪れたのが、旧若松女子高校を利用した

大熊町役場会津若松出張所でした。

そこに大熊中学校があったか?

なかったです。

現在はどこにあるか調べてみました。

大熊町HP 大熊中学校

☝ ここで住所がわかります。

  

福島県会津若松市一箕町八幡字門田9-2

  

住所がわかればグーグルアースで迫ります。

グーグルアース 大熊町立大熊中学校

1   

ストリートビューで下りてみます。

ストリートビュー 大熊町立大熊中学校 

2   

大熊中学校は移転していました。

それはいつか?

  

大熊町立大熊中学校ブログ

☝ かなり膨大な量のブログです。

これで過去をさかのぼってみました。

見つけた!

大熊町立大熊中学校ブログ 会津若松仮設校舎の開校式

開校式をやっていました。

2013年4月9日でした。

  

  

このブログの最新記事です。☟

大熊町立大熊中学校ブログ その先の未来へ・・・

ここに次のように書いてありました。

  

大熊町では、JR大野駅周辺の避難指示が

3月5日(木)の午前0時に解除され、

3月14日(土)には、JR常磐線が約9年ぶりに

全線で運転が再開されます。

  

 

よかった! もうじきです。

「大熊町学校再生への挑戦」④ 4月5日から全職員で準備作業が始まる

  

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。2012年発刊の本です。

   

いろいろな立場の人たちの文章です。

  

会津若松市よりお借りした園舎は2010年度末まで使用され

たものであり、施設設備をはじめ、備品や消耗品まで、そのま

ま使わせていただくことになりましたので、年度初めの準備作

業の手間は、大幅に省けました。ただ、新年度の学級数は5ク

ラスでしたので、不足の2クラスは、3キロメートルほど離れ

た大田原保育所跡を借用することになりました。

園舎が2つになることで、一体感がなくなる等のデメリットは

ありますが、それよりも大熊町の幼稚園として出発できること

の喜びのほうが、はるかに大きいものでした。2011年度が

スタートしても園児数は減少し、2012年度4月までの1年

間で、園児数は(130名ほどから)92名にまで減少してし

まいました。主な原因は、家族の仕事の事情にともなう転居に

よるものであり、やむをえないことでした。

(74p 林洋一/熊町・大野幼稚園園長)

  

  

夢のような1年が、夢のように過ぎました。

「これは、まぼろしではないのか」と、幾たび思ったことか。

今、私たち大熊町民は、子どももおとなも、1人の例外もなく、

「想定外の地」で、「想定外の時間」を過ごしています。故郷

大熊町にもどれたとしても、失った時間は取りもどせるわけで

はありません。しかし、現在の一瞬一瞬は、決して「仮の日々」

ではなく、紛れもなく「ほんものの人生」を生きているのです。

子どもたちと過ごす日々もまたしかりです。日々の保育は、ほ

んものの時間であり、「真剣勝負」の時間です。子どもたちや

職員とともに、今この時を精いっぱい生きていこうと思ってい

ます。明日を信じて。

(77p 林洋一/熊町・大野幼稚園園長)

  

こういう思いだったんだなと思って読みました。

  

  

学校としての全町避難後の最初の大きな仕事は、教職員や児童

の避難先の確認です。まず、全教職員の避難先を調べ、全児童

の避難先確認を全教職員が分担しながら行いました。

町として集団で避難している避難所へ行けば手がかりも大きい

と判断しましたが、行こうと思ってもガソリンが手に入らず、

バスや電車も止まり、困難をきわめました。確認作業はほとん

ど携帯電話で行われ、職員の通話料金も大きく跳ね上がりまし

た。全児童の避難先確認をおえるまでにかなり時間がかかりま

した。

(84p 大清水久雄/前・大野小学校校長)

  

このことに限らず、震災後に学校立ち上げにあたって

さまざまなことが行われていたことを、この本で初めて知りました。

  

  

4月5日、幼稚園、小・中学校の全職員が、体育館に集合し、

町教育委員会教育総務課の指導主事から、これからなすべきこ

との指示を受けて、いよいよ学校再開の準備です。学校は、業

者の手できれいに磨かれ、寒さの厳しい地域なので、ストーブ

が急ピッチで設置されていました。しかし、他の物は一切あり

ません。でも、驚いたことには、6日には、地域の方々が、4

年ぶりに使用することになった学校の環境整備のために一生懸

命作業してくれました。花壇を作ったり、樹木を剪定したりし

て、子どもたちや我々を大歓迎しようとしている姿に感銘しま

した。地域の方々も、「1度廃校になってしまった私たちの校

舎がよみがえり、とてもうれしく思っています」ということで

した。会津若松市、河東地区のみなさんの心温まる歓迎を受け、

新任地での不安も薄れ、大きな希望がわいてきました。

(85p 大清水久雄/前・大野小学校校長)

  

廃校した学校が、地域の人たちの協力を得て復活するという、

ドラマチックなことがあったのですね。

指導主事さんが体育館で話したことは、

指導主事さんの記述にありました。

   

「御覧のとおり、何もありません。ゼロからの出発です。いつ

までここにお世話になるのか、いつ帰れるのかわかりませんが、

大熊町が用意してくれたこの河東第三小学校で、子どもたちが

笑顔を取りもどし、安心して、楽しく学べる学校をつくるべく、

一致団結してがんばりましょう」と話して、早速、作業に入っ

てもらいました。

(140p 鈴木恵一/大熊町教育委員会教育総務課指導主事)  

   

  

つづく

「大熊町学校再生への挑戦」③ 4月16日に合同入学式の実施 

  

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。

  

3月26日、改めて星教育長の案内で(会津若松)市内の廃校

を見せていただきました。できれば、いわゆる間借りではなく

校舎、体育館、校庭が自由に使えること、また入学する児童・

生徒数を各学年40名として、小1から中3までの9学年で計

360名と予測し、それに見合う器の廃校を希望したからです。

旧河東第三小学校が私の心を動かしました。360名が学ぶこ

とが可能な校舎ですし、体育館、校庭も備わっていました。さ

らにダメを押されたのが、校庭のまわりに広がる豊かな田園風

景でした。それは、大熊町の小・中学校周辺を似た風景であり、

ここなら子どもたちも違和感なく学校生活に入ることができる

と思えたのです。「学校は日当たりよりも周囲の風景がたいせ

つ」ーーーこんなことばを思い出しておりました。借用する学

校が決まりました。

(47p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

廃校を利用していたことを、今回の旅行で旧県立若松女子高にあった

教育委員会に訪れて初めて知り、この本を読んでいきさつを知りました。

少しでも早く学校を立ち上げるためにはいいアイデアです。

すでに3月26日。被災後2週間で決まっていました。

  

課題の1つは、入園・入学式をいつ、どういう形で行うかという

ことです。

立ち上げ作業が進むにつれ、入園・入学式はできるだけ早いほう

がよいという意見と、準備がある程度進んでからのほうがよいと

いう2つの意見が出ておりました。

教育委員会としては前者の意見を採りました。大きな地震、津波

にあい、そして原発事故で自分の家も、自分たちの学校も捨てざ

るをえなくなった子どもたちです。子どもたちには、それまで習

っていた先生方や友だちと会うことがたいせつであり、このこと

が心のケアの側面からも重要ととらえていたからです。

また、「校舎があり、先生がおり、読む本があれば学校教育はで

きる」との思いも前者を採る後押しもしたのです。

4月7日に(会津若松市の)星教育長と相談。4月16日に、会

津若松市文化センターをお借りして、幼稚園、小・中学校合同の

入学式を行うことを決めました。

(51~52p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)  

  

4月16日に合同入学式!素晴らしい早さだと思います。

準備のために、たくさんの人が動いたことは、この本に書かれていました。

それはまた後で。

  

  

2学期から中学生には寄贈された自転車を生かし、自転車通学

を認めることにしました。自転車通学は「初雪まで可」という

のは(会津若松)市内の中学校に同じです。

(53p)

  

大熊町がある浜通りに比べて、会津地方は雪の多いところ。

「初雪まで可」というルールは雪国らしいなと思いました。

「大熊町学校再生への挑戦」② 会津地方が学校復活の候補地になる

  

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。

  

「大熊町」は、(中略)旧大野町と旧熊町村が合併し、195

4年に生まれました。

(28p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

そのため、大野小学校と熊町小学校の2校が

あることがわかりました。

  

避難は大混雑が予想されましたが、消防団をはじめ関係者の適

切な活動もあり、、住民は整然とバスに乗り込んで次々と田村

市方面へ避難しました。自家用車ではなくバスでの避難であっ

たこと、町民が個人の荷物を持参することなく、着の身着のま

まで避難したことが、その主な理由です。「2,3日で帰れる」

と、すべての町民が思っていたからにほかなりません。私もそ

の1人でした。

ここに至っても「原発は安全」との神話は生きていたのです。

こうして、全町民が自分の町、自分の家を離れての避難生活に

否応なしに入っていったのです。

避難所としての中心となる田村市体育館で、夕食の配給が始ま

ると、食パン1枚とペットボトル1本の水を求めて、町民の列

が続きました。町民にとっては避難民としての現実を直視させ

られた場面でした。体育館にはこの日、約1700名が入りま

した。

(26p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

全町避難後の2011年4月22日には、20キロ圏内が「警

戒区域」に法律で指定され、自分の町にも自分の家にも、帰る

自由が奪われてしまいました。今も大熊町は2011年3月11

で時間が止まったままで、人っ子ひとりいない状態が続いてい

す。

(30p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

(3月18日)最後には町長は次のように話しました。

「ともかく4月から学校を立ち上げよう。いっさい条件はつけ

ないから、学校を立ち上げてほしい。教育長も『大熊の子ども

は大熊で育てる』といつも言っているのだから、今こそそれを

実行するときだと思う」

そして、こうつけ加えたのです。

「大丈夫!学校を立ち上げれば町民もついてくる」

全町避難という町民の生活を根こそぎ奪ってしまう大混乱のな

かでも、町長の「教育重視」にブレはなかったのです。町長の

ことばは私に勇気を与えてくれましたし、学校立ち上げへひと

すじの光を見出した瞬間でもありました。

(34p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

  

明けて3月18日、「いっさい条件をつけない」と町長に言わ

れて、動きやすかったのは事実ですが、学校立ち上げの条件を

考えました。

1つは、原発事故の先が見えない現状では田村市(原発から30

キロ)やその周辺では、再避難の必要に迫られる可能性があるた

め、80~100キロは原発から離れたところにしたい。

2つめは、学校を立ち上げれば、保護者、家族もいっしょに移動

することになるので、少なくとも3000人以上の町民を受け入

れてくれる「器」を有する自治体にしたい。

この2つのことをふまえて、私は廃校も多い会津地方が適地では

ないかと判断しました。

(35p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

  

実際に2泊3日の旅行で、大熊町~会津若松市は自動車で走っています。

遠いと感じましたが、その遠いが大事だったわけです。

「大熊町学校再生への挑戦」① 3月12日の朝の全町避難

 

今日は令和2年2月29日。

4年に1度の閏日。

おまけの日。

本当は京都での研修会(キミヤーズ塾)に参加する予定でしたが、

新型コロナウィルスの流行のため延期となりました。

おまけであり、予定が突然空いた日。

こういう日は道草日和。

ブログに記事を多めに書きたいと思います。

  

本をまた読みました。

大熊町教育委員会の方に紹介してもらった本です。

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大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)

  

印象に残った文章を引用していきます。

この本が出版された年月日も重要です。

2012年8月25日です。

東日本大震災が起こってから1年余りが過ぎた頃です。

  

  

地震、津波被害と、避難した3キロ圏内の住民への対応を続け

て、(3月)12日の朝を迎えました。町民の生活を根こそぎ

変えてしまう朝でした。

午前6時前、国から1本の電話が町長に入りました。

「原発が心配なので、10キロ圏内の住民を避難させてほしい。

あくまでも念のためです。」。さらに「これは内閣総理大臣の

指示ですから、よろしく」と言って電話は切れました。

10キロ圏内となると、大熊町のほとんどが入ってしまいます

(地図参照)。子どもを含め、すべての町民が町を離れなけれ

ばならなくなるのです、災対本部はざわめきました。

Epson266 (18p)

一方、11日の夜から不思議なことが起こっておりました。茨

城県から当町へ次々とバスが入ってきていたのです。その数は

70代以上になっていまいました。国からはこのバスを使って

避難しろとのことでした。国はすでに前夜からバスを準備して

避難させる準備を着々と進めていたのだと思っています。そし

て、混乱を避けるために、夜明けを待って当町へ避難指示をし

たとしか考えられません。

(25~26p 竹内敏英氏/大熊町教育委員会教育長)

    

次の日(3月12日)の早朝、「帰宅難民」になった子どもを、

保護者に渡し、朝食時に学校への集合時間を話し合っていると、

タイベックスに身を包んだ集団が体育館に近づいてきました。

同じくして、バスでの避難命令が出されました。すると、県外

のバスが、わき出るように体育館に近づいてきました。乗車し

た車窓から、地区民が集会所に列をなして集まるようすが見え

ました。

これが避難生活の始まりでした。

(95~96p)(根本修行氏/前・熊町小学校校長)

    

翌(3月)12日午前6時ごろ、突然、多くの車が校庭に入っ

てきました。「10キロ圏内に避難指示が出た」「全町避難」

「バスが迎えに来るので、そのバスで町外に避難するように」

とのこと。対応にあたっていた町役場職員や消防団員、我々に

は、連絡が入っていない。それどころか「バスは来る」「来な

い」と情報が錯綜し、一時混乱しました。

午前7時ごろ、バス十数台が校庭に入ってきました。茨城県内

の社名が書かれているバスに分乗し、自分も最後のバスに乗車

しました。「どこに向かえばよいのか?」運転手から質問され、

避難指示すら知らされていない自分への質問に驚きました。「

とにかく、前のバスを追って西へ」。バスは田村市方面へ向か

いました。この時点でも、バスに乗った町民を含め、まだ、深

刻な状況を理解していませんでした。せいぜい1~2日程度、

安全が確認されるまでの一時避難だと感じていました。

しかし、運転手との次の会話で、非常事態であることに気づか

されました。「何時に茨城を出て来たのですか?」「昨夜の10

時ごろに招集がかかり、11時に出発した」とのことでした。

(108p 早川良一/前・大熊中学校教頭)

  

   

2011年3月12日の朝の様子が書かれた文章を引用しました。

突然の避難指示であり、それほど長期にならないで

大熊町に戻れると思ったため、きっと持ち物も少なかった予想できます。

  

つづく

 

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