第一竪坑(シャフト)を見に行く3.インクライン/疏水の完成
今日は9月15日。
前投稿に引き続き、昨年の8月28日放映の「歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす
~千年の都 復興ものがたり」から。
シャフトの建設には苦労があったことを書いてきました。
琵琶湖疏水について、もう一つ問題が生じました。
そのことを書きます。
いくつかのトンネルが掘られましたが、
トンネルの京都側出口から先が急勾配になることがわかりました。
このままでは、荷物を積んだ船が、勢いがつきすぎて転覆してしまいます。
そのために導入されたのが、「インクライン」と呼ばれる施設です。
その仕組みを、番組ではわかりやすく説明してくれました。
まず急勾配の手前に船溜まりを作り、別に水路を作って水を逃がします。
船は船溜まりでいったん陸に上げられ、滑車で動く台車に載って、
ゆっくり急勾配を下りていきます。
急勾配の下で、船を再び水に浮かべ、京都の町をめざします。
当時世界最長のインクラインによって、船は荷物を積み下ろしすることなく、
安全に急勾配を登り下りできるようになりました。
着工から5年たった1890年(明治23年)4月、全長20㎞、延べ400万人が従事した、
琵琶湖疏水はついに完成しました。
田邊朔郎の言葉
「工事で亡くなった仲間たちに、見事に完成したこの疏水を見せてやりたい」
田邊朔郎にとって、疏水工事の犠牲者に対する思いは死ぬまで消えませんでした。
琵琶湖疏水の完成によって、京都には大量の物資が
安全かつ迅速に運ばれるようになりました。
年間5万隻の船と22万トンの物資が疏水を行きかい、
京都復興の牽引力となっていきました。
この琵琶湖疏水を使って、日本初の事業用水力発電も行われました。
その電力によって、日本初の電車も京都に誕生しました。
京都の工業は、いち早く近代化に成功しました。
インクラインの施設の横には、田邊朔郎が自費で立てた石碑があります。
その石碑には、琵琶湖疏水の工事で命を落とした17人の名前が刻まれていました。
田邊は、尊い犠牲の上で成し遂げた疏水工事を、自らの原点として、
生涯忘れることはなかったそうです。
この番組で、琵琶湖疏水のことがよくわかり、特にシャフトに行って見たいと思いました。
(つづく)
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