「肢体不自由児たちの学童疎開」引用2/疎開は戦闘配置・松本校長の信念
今日は8月27日。
前投稿のつづき。
8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」から。
空襲が行われるであろうという予想から、
東京都は昭和19年1月に、大都市の工場や家屋の疎開を決定します。
空襲に備えて、一部の木造住宅密集地の建物を壊したり、
工場の移転を行ったそうです。
建物を壊す映像もありました。
この辺りは、関東大震災を体験した地域ならではの発想なのでしょうか。
あらかじめ建物を壊していたというのは、初めて知りました。
ナレーターの話:
さらに(昭和19年)6月、閣議決定で大都市の児童たちを
学校ごとに地方に集団疎開することを決めます。
その実施要領により、東京都など対象の都府県が疎開の手はずを整えることになりました。
宿泊施設、移動手段、引率教職員の体制、疎開先での教育内容を整え、
そして経費の一部も国が工面したのです。
ところが、国が推し進めるこの学童疎開の対象から外される子どもたちがいました。
「集団疎開参加不適当疾病異常標準」なる文書です。
とんでもない文書です。
1.伝染力濃厚なる疾患
2.喘息
3.癲癇
4.夜尿症
そして5番目に書かれているのが「肢体不自由」です。
光明学校の子どもたちは、肢体不自由児。
したがって集団疎開に不適当とされたのです。
なぜこんな文書ができたかというと、当時の国の疎開に対する考え方が反映されています。
上田誠一:
疎開によって人的にも物的にも、いわゆる戦闘配置を整えて、
国家戦略の増強に寄与せしめることを狙っておるのであります。
疎開は人的な戦闘配置なのです。
いずれ戦争参加させるための子どもたちを育てる目的だったのです。
なので、戦争に参加できないできないであろう肢体不自由児は
不適当とされたのです。
ある意味、分かりやすい理由です。そして残酷です。
ナレーターの話:
光明学校のあった世田谷区では、
国民学校33校のすべてが長野県や新潟県に疎開が決まりました。
唯一光明学校だけが取り残されていました。
当時の光明学校校長、松本保平(やすひら)さんは、強い危機感を抱きました。
何とか光明学校も集団疎開に入れてもらおうと、東京都に直接掛け合います。
その時の様子を、松本校長は手記に書いています。
「肢体不自由児とともに~松本保平遺稿集~」
都の学務課に相談しても全くのお手上げ。
一般学校の疎開事務に忙殺されて、光明までは手が回りかねるという。
同じ学校でありながら、肢体不自由児学校は都の厄介者か。お荷物か。
カメラは、「遺稿集」の文字「厄介者か」「お荷物か」までアップに映していて、
インパクトがありました。
松本校長の憤りがにじみ出ています。
私は思わずこまめに撮影しました。
熱血漢の松本校長は動きます。
この松本校長の信念が語られています。
ナレーションの話:
松本校長には肢体不自由児の教育について、ある信念がありました。
1個の生命が顧みられないところに、すべての個性は軽んじられる。
教育は、すべての者の教育である。
肢体不自由児も教育を受けることによって有能な社会人となる。
今は当たり前のことだと思います。
時代が進歩したのでしょう。
しかし、肢体不自由児が集団疎開不適当される時代に、
この信念は孤高だったと思います。
今の時代、この信念が当たり前になったのは、
松本校長のように考えて行動した人がいたからでしょう。
特別支援教育に携わる者は、知っていないといけない歴史だと思いました。
(つづく)
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