2024年9月16日 (月)

「さまたげる」は「妨げる」 「阻む」は「はばむ」

   

今日は令和6年9月16日。

  

クイズ番組で、解答者がアナウンサー経験者。

漢字の問題で、「さまたげる」を描きなさいが出て、

解答者の方は、困っていました。

  

私は「阻」の字が浮かんで、「阻たげる」と考えて、

奥さんに言いました。

でも正解は「妨げる」

奥さんに、「違うじゃん!」と言われました。

そうだよね、全く思い浮かびませんでした。

「妨害」の「妨」で、「妨(さまた)げる」ですね。

  

じゃあ、最初に浮かんだ「阻」の訓読みは何か調べました。

かくなび 「阻」正しい漢字の書き方・書き順・画数

音読みは「ソ」

「阻害」(ソガイ)

訓読みは「はば-む」でした。

「はばむ」

意味は同じだと思いますが。

  

意気阻喪(いきそそう)という四字熟語があるそうです。

「元気がなくなり、気力が失せ、意気込みや勢いも衰えること」

だそうです。goo辞書

   

じゃあ、実際に「阻む」を使っている動画を

ピックアップします。

そこまで言って委員会NP 9月8日

Img_7536

自民党総裁選挙。

政治系YouTuberで、このネタは盛り上がっていますね。

2024年9月15日 (日)

本「日本海軍はなぜ過ったか」⑤ 特攻 十死零生(じっしれいせい)の作戦

   

今日は令和6年9月15日。

  

前記事に引き続き、

「日本海軍はなぜ過ったか」

(澤地久枝、半藤一利、戸髙一成/岩波書店)

から引用していきます。

  

半藤

鳥巣さんは、特攻の問題をかなり追及していましたね。

澤地

鳥巣さんは頑張ったとは思いますよ。

半藤

頑張ってましたよね。答えのほうは曖昧模糊としたものになってまし

たけれど。特攻については明らかに、海軍が先に決めているんです。

この点だけは、陸軍より海軍が先ですよ。しかも、昭和一九年二月で

す。とにかく早くから考えだしていた。

戸髙

その春には特攻のプランができているんですよ。

半藤

そうです。 飛行機に爆弾積んで突っこませる神風特攻ではなくて、

「回天」や「震洋」、「桜花」などの特攻兵器については、昭和一

九年二月ころに、黒島亀人――この人は、開戦時に連合艦隊の作戦

参謀だった人ですが――という軍令部の二部長、つまり戦備担当の

部長が、特攻兵器の研究をやっているわけです。ですからそのとき

に、澤地さんがおっしゃるように、出したなり帰ってくる手段を持

たないような兵器を、責任のある人が作戦として構想しているので

す。 本当に非人間的です。

そして、それを、海軍中央は平気で認めているんですよ。

(128p)

    

半藤

それがどんどん計画として進むわけですよね。真珠湾攻撃で「甲標

的」という特殊潜航艇を五隻出しましたが、開戦前、山本五十六は

それを許可しなかったんです。帰る手段がない、と。帰る手段がな

い作戦計画はありえない、十死零生というのはありえない、あって

はならないと。帰る手段がない作戦は、指揮する人間として命令し

てはならないことである。責任ある人間のやることではない、とい

うので許可しなかった。責任のとれない作戦は命令すべからず、こ

れは、いくら戦争とはいえ、基本の常識です。 ところが、それを

パッと無視して、昭和一九年二月に特攻兵器を作りはじめるわけで

す。しかも、システムとしてです。 これが変なんだ。

戸髙

自分が決めたという意識を誰も持っていない。これは組織が決めた

んだ、そういう意識だからできるんです。

半藤

だからできるんだね。「俺じゃないんだ」とみんな思っている。

澤地

自分の息子がそれに行くんだ、ということを考えない。そういうふ

うに考えたら、「なんてひどい作戦だ」と誰もが思うはずですよね。

(131〜132p)

  

特攻という作戦も、組織が決めたことで責任逃れして、

実行してしまう。

戦争の恐ろしさです。

特攻隊については、「大西瀧治郎という中将だけに責任を被せるの

ではなくて、組織としてやったことですから、そこのところはきち

んとやるべきですよ。話だけは反省会でもちょこっと出ていました

けど、残念ながら、きちっとそれこそ反省をしていませんね。」

(半藤/140p)とありました。

  

山本五十六さんの言葉が印象に残ります。

「帰る手段がない作戦は、指揮する人間として命令し

てはならないことである。責任ある人間のやることではない。」

平時なら当たり前のことですが、戦争中でも踏みとどまらないと

いけない考え方です。

本「日本海軍はなぜ過ったか」④ 軍隊は抑止力 戦争をしないための力

  

今日は令和6年9月15日。

  

前記事に引き続き、

「日本海軍はなぜ過ったか」

(澤地久枝、半藤一利、戸髙一成/岩波書店)

から引用していきます。

  

半藤

古賀さんという人はどちらかというと、米内光政、山本五十六、井

上成美の〝海軍三羽がらす"の系統に入っているんですよ。しかも堀

悌吉さんとも仲のいい、手紙ものべつ交換しているような、そうい

う提督のはずなんですね。その方が、山本さんが死んだあと連合艦

隊司令長官になって、山本さんがしたような航空戦のことなんて考

えないような、大艦巨砲による艦隊決戦を考える。あんなに開明的

だと言われていた人が、やはり、いざとなると日本海海戦になっち

ゃうんだ。

(60〜61p)

  

作戦を考える上層部の頭が古かったというわけです。

航空戦の時代なのに、いざ自分が司令官になって考える時に、

ずっと過去の勝利、日本海海戦の戦法で考えてしまったのです。

  

 

半藤

あの当時のことをよく調べますと、組織というのは不思議なくらいに、

少し飛び抜けて一歩進んだ人はいらないんです、邪魔なんですね。 排

除の論理というか、阻害の論理というか、「俺たち仲良くやってんだ

から、おまえ、そんなつまんない変なことを言うな」というような、

排除の精神が動くんです。どこの会社や組織でもそうだと思います。

なかには盆暗(ぼんくら)でも偉いことを言う奴もいるけれど、そう

いうのではなくて、きちんとした勉強をして素質的にも優れた人がい

たにもかかわらず、海軍としての組織は排除するんです。軍人という

のは、仲良しクラブでまとまっていく、つまり、余計なことをやるな

よ、という考え方が強いんです。そういう意味では、この反省会も、

ちょっと残念なんですよね。もうちょっと一歩、突っ込んでくれれば

いいんですけど、たぶん、過去の経緯などご存知でないところがある

んでしょうね。

ある意味、条約派はやっぱり、一つ飛び出て先が見えていた方々だっ

たと思いますよ。留学もされてますしね。たとえば、山本五十六や嶋

田繁太郎と同級生の堀悌吉さんは、フランス文学は原書で読んでいる

くらいのものすごい知識人ですね。

それから有名な話ですけど、艦隊派の連中がヒトラーを信奉して、

「ドイツはすごい、『マインカンプ(我が闘争)』を読んだらものすご

い、あんな素晴らしい男はいない」なんて言っていると、 井上成美

さんが「馬鹿、もっとよく読め。その本は日本をクソ味噌にけなして

るんだ。ヒトラーは日本人なんか認めていないんだ」と言った。「そ

んなことは書いていない」と艦隊派が言い返すと、「俺は原書で読ん

でるんだ」と。みんな、日本の悪口はカットされている日本語の翻訳

で『我が闘争』を読んでいるだけなんです。

つまり、堀さんにしろ井上さんにしろ、組織より先に進んでいる、

優れているんです。こういう人たちはいらないんですよ。それで、

井上さんを邪魔なヤツだと排除する。そういう、仲良しクラブなんで

すね。

(83〜84p) 

  

条約派の方が、先が見えていたのですね。

こういう人物を排除したことから、

日本は戦争に進んでしまったのでしょう。

戦争を始めた理由は、たくさんあると思いました。

  

戸髙

海軍はとくにメカニカルというか、個人の能力だけでは戦えない組織

なので、組織のほうに責任があって、個人にはない、という意識がず

っとありますね。ですから、何か失敗しても「それは部署の失敗であ

って、私の責任ではない」というセンスが根底にある気がします。や

はり責任というものは、どこかの段階で個人に行かなければいけない

ものだと思いますし、そういったところがないものだから、何があっ

ても、どんな失敗をしても、「これはまずかったねぇ。でも直接は、

私の責任じゃないから」とみなどこかで思っているんですよ。こうい

った感覚がどんどん、被害を拡大している。真剣味が足りなかったと

ころですね。

半藤

私もそう思いますけれど、海軍は、というよりむしろ、軍隊というも

のの責任ですよね。軍隊というものの、それを指揮をする人たちが、

末端の人たちのことなんか全然考えない。それこそ、一銭五厘の葉書

で連れてこられる。

澤地

「軍馬より、おまえらのほうが安い」と。

半藤

まさにその言葉が示すとおりなんですね。海軍がどうのこうのではな

く、軍隊というものがそういうものなんだ、ということだけは、はっ

きりと言える。そしてそれは、これからもそうだと思います。

戸髙

末端の兵隊のことを考えて戦争はできませんから。そういう意味で、

だからこそ、戦争はしてはいけない。戦争というものは、開戦決意を

した瞬間に、国家指導の敗北だと思います。武力衝突を回避しながら、

自国の意思を通すというのが外交であり、国家間の戦いですよ。戦争

をしないためのはずの軍隊が戦争をしてしまったら、それ自体が敗

北だと思いますね。

半藤

そう思わないといけませんね。軍隊そのものは抑止力として、戦争を

しないための力としての存在であるのに、それを、軍隊のほうが率先

して自らの判断で「戦争だ」と言うのは、そのときに、負けたんです。

(123〜125p)

  

この文章には、教訓が2つありました。

責任は個人が取らなくてはいけない。

そして、軍隊は抑止力であって、戦争をしないための力だということ。

日本が軍隊を持つことは、やはり正当なのです。

本「日本海軍はなぜ過ったか」③ 対英米感情になっていった理由

   

今日は令和6年9月15日。

  

前記事に引き続き、

「日本海軍はなぜ過ったか」

(澤地久枝、半藤一利、戸髙一成/岩波書店)

から引用していきます。

   

澤地

そもそもなぜ、日本海軍は仮想敵国をアメリカとしたんでしょうか。

半藤

日露戦争が終わったあと、日本帝国は大躍進して強国の仲間入りを

しました。では、このあとどういう軍備を整えていくか、明治四二

年に決めたのです。 本当は資源もないし、国力もないし、人間の数

だって少ない、生産力も劣っている、強国でも一流国でもない。で

も、意識としては一等国。その一等国としての軍備をどう整えてい

くか問題になったときに、明治天皇の前で陸軍は、ロシアを仮想敵

国として軍備を整えると決めました。

それともう一つの要素を加えれば、第一次世界大戦に日本は、実際

には大した戦闘に参加しませんでしたが参戦し、同盟国のイギリス

の要請に基づいて、地中海まで艦隊を出しました。そのときの日本

海軍に対するイギリスの扱い方が、どうもよくなかったようですね。

日本を小僧っ子扱いした。自分たちの思いからすると、イギリスに

はうまく上手に使われちゃった、という感じだったようです。アン

グロサクソンに対して不信感が生まれた。

澤地

山口多聞も、地中海で駆逐艦に乗っていました。でもイギリスにし

てみれば、日本が参戦してくることはないのに、何か火事場泥棒み

たいな感じがしたのではないですか。

(42〜43p)

  

第一次世界大戦に、日本が参戦したのは知っています。

中国の青島(チンタオ)での戦闘を思い出します。

地中海まで出かけて行ったことについては、うろ覚えでした。

地中海で戦死者が出ているのかどうか。

澤地さんが聞いています。

  

澤地

それで戦死者は出していないんですか?

戸髙

かなり出ていますよ。いまでも地中海のマルタ島には、海軍が派遣し

た第二特務艦隊の戦死者の碑があります。駆逐艦「榊(さかき)」が

敵の潜水艦の魚雷で、艦首を切断するような瀕死の大被害を受けたん

です。ですからそういう意味で、日本側としてはかなり頑張ったのに

あまり評価がされなかった。そういうような意識はありました。

それと、アメリカが日英同盟を嫌うんですね。マハンなどは、代表作

の『海軍戦略』などで、日本とアメリカが衝突したらイギリスはどう

いう態度をとるのか、と、露骨に不信感を表しています。同盟関係と

はそういうものなんですね。それでアメリカは、日英同盟を破棄させ

ようという運動をしたわけです。そういったことが重なって、日英同

盟がなくなってしまう。 日英同盟を破棄したあとの日本は、最も重

要だった欧米との外交のパイプを失い、本当に世界から孤立してゆく

ことになりました。

半藤

大正11年のワシントン軍縮会議での条約調印と同時に、アメリカの

裏工作が効いて、日英同盟は破棄された。その途端にイギリスは日本

を、敵と言わないが、小馬鹿にしはじめる。それまで日本人のイギリ

スへの留学があったのを全部シャットアウトするとか、イギリスの態

度が、海軍からすれば許し難いほうに変わっていく。ですから昭和に

なって、海軍軍人のなかで反英感情がどんどんわいてきます。当初ア

メリカに対しては、仮想敵国と言っていましたが、それほど強い反米

感情はなかったと思いますね。しかし、イギリスとアメリカはのべつ

くっついていますから、いつの間にか、反英感情が反米感情になり、

戦争が始まる直前には、「反米英」と「米」が上に来てしまった、と

いうふうに変わるんです。

(44〜46p) 

  

まずは、地中海の戦闘に注目したいです。

乗り物ニュース 10th 乗り気じゃなかった? 日本艦隊ヨーロッパ派遣の残響 マルタ島の慰霊碑が物語る世界の評価

このサイトで勉強ができました。

駆逐艦「榊」の写真もありました。転載します。

Img_7529

文章を引用します。

  

当時、連合軍の護衛艦艇は商船が魚雷で攻撃されると、自分も攻撃を

受ける危険性が高いため生存者を救出しませんでした。しかし日本か

ら来た第二特艦隊は、逆に救出を積極的に行ったことから、連合国の

商船サイドから船団護衛を直々に要望されることもあったそうです。

  

連合国はイギリス、フランス、イタリアですが、フランス、イタリアは、

商船を守ることに消極的でした。

イギリスと日本の2国が守っていたそうです。

  

船団護衛を始めて間もない1917(大正6)年6月に、駆逐艦「榊」が

オーストリア=ハンガリーの潜水艦U-27から雷撃を受けます。「榊」

は艦首を失ったほか、艦長以下59名が戦死しました。かろうじて「榊」

は沈没を免れ、イギリス駆逐艦の手助けを得て近くのクレタ島まで曳

航され、たどり着きました。「榊」の戦死者はマルタ島に埋葬された

ことから、彼の地には現在も慰霊碑が残っています。

第二特務艦隊の作戦は、第1次世界大戦の終結まで続きました。彼ら

は連合国の間で高く評価され、このことは終戦後に設立された国際連

盟で、日本が常任理事国になるきっかけの1つにもなったのです。

  

遠く離れた異国の地で、59名が亡くなっているのですね。

作戦は第一次世界大戦終結まで続いたので、

さらに戦死者は出たのではないでしょうか。

命を落として、歴史からも忘れられたら、

浮かばれません。やっと私は知りましたよ。

Wikipedia 第一次世界大戦の犠牲者

このサイトによると、日本人の戦死者は

450人でした。

他のサイトでは、300人というのが多かったです。

  

  

「乗り物ニュース」のサイトでは、イギリスは日本海軍が来てくれて

ありがたかったような記述でしたが、

本当はどうなんでしょうか。

  

そして日英同盟を破棄された後の、イギリス、アメリカの態度。

どうだったのか。

これからはこの視点でも見ていきたい。

  

本「日本海軍はなぜ過ったか」② 軍令部総長 伏見宮博恭王

  

今日は令和6年9月15日。

  

前記事に引き続き、

「日本海軍はなぜ過ったか」

(澤地久枝、半藤一利、戸髙一成/岩波書店)

から引用していきます。

  

戸髙

(前略)その大枠として、海軍全体が悪者にされるのは嫌なんです

ね。だから、この話についてはそうだ、と。たとえば千早正隆さん

は、じつはあの通りなんだ、海軍はアメリカを舐めきって、作戦を

立てていたんだと私に言ってくれたこともあります。

そういうふうに、海軍の人たちには、海軍を守りたいという気持ち

と、やはり事実を残したいという気持ちのなかで一つの葛藤があっ

たんですね。それで、晩年になってやはりどこかで残しておきたい

という気持ちが、反省会という形でまとまったんだと思っています。
 

半藤

戦後もここまで時間が経ってくると、皆さんがかなり素直になって

きたんですよね。私たちが会ってる時代はものすごく頑なな人がい

ましたが、それが今度は、反省会のテープを聞きますと、アレアレ、

この人ずいぶん素直に発言しているなぁという人もいますね。

(18~19p)

  

海軍反省会の出席者の、心の迷いを書いてあるところ。

自分のためには、やってきたことを正当づけたいです。

でも、後の人たちのためには、本当のところを残したい。

そう思うんですね。そうですよね。

  

戸髙

この世代は、実施部隊の人が少ないのは当然で、みんな死んでいるん

ですよ。中小艦艇の艦長クラス、中佐の古手くらいの世代は、戦死率

が非常に高いので、本来反省会にいてしゃべったらいいような人はず

いぶん亡くなっていますね。船が沈むときは、艦長は一緒に沈むのが

当たり前という時代の人たちだから。

澤地

そうです。ですから、反省会は生き残りエリートの会議だなという感

じがしますね。

(24p)

  

そうなんです。

士官や参謀の生き残りの人たちなので、戦場で戦った人ではなく、

命令を下した人たちが、海軍反省会の出席者でした。

でも、こういう人たちだから告白できることもあります。

なぜ戦争を始めたか、なぜ特攻を始めたかなど。

  

半藤

(前略)しかも伏見宮様という人は、千早正隆さんに聞いた話ですが、

格好のいい海軍軍人が好きでねぇ。スタイルのいい、背のすらっとし

て、いかにも見栄えのする海軍軍人が好きで、能力があるとか無能と

かは関係ない。格好いいやつを自分のまわりに置きたがるんだ、と言

ってましたけどね。そこに出てくるのが及川古志郎や嶋田繁太郎さん

とかであるわけで、兵学校同期生の山本五十六に言わせれば「お目出

度い嶋はん」というくらいにお目出度い人が、大臣になる。そういう

意味で、伏見宮様の影響については、この反省会のなかでも言ってい

ますよね。

(37p)

  

この伏見宮様は、この本で初めて知った人です。

好戦的な方のようです。

調べてみます。

Wikipedia 伏見宮博恭王

伏見宮家というのがあって、皇室の宮家の一つ。

この本に出てくる伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)は、

25代目当主。

日露戦争の黄海海戦に参加。

後に艦長や艦隊司令長官を務めるなど、

実戦経験が豊富な皇室軍人でした。

  

ここからは動画で勉強。


YouTube: 【伏見宮博恭王の生涯】海軍の影のボス。海軍部内で神格化されていた皇族軍令部総長。条約派、艦隊派。

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海軍が始めた特攻という作戦を誰が考案したのかは、

正確には特定できていないようです。

その責任は、個人になく、海軍という組織だったようです。

やはり誰も、無謀な特攻という戦法の責任者になりたくなかったのでしょう。

そんな海軍の中で、特攻を進めた一人が、

伏見宮博恭王でした。

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Img_7515  

戦前の皇族は、陸海軍の軍人へ進むのが一般的だった。

そうなんですね。

今では全く想像がつかないです。

博恭王のお父さんは陸軍に入り、西南戦争、日清戦争、日露戦争に

従軍したそうです。

お父さんが陸軍だったので、博恭王は海軍を選びました。

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日露戦争に従軍して、名誉の怪我もしたことで、

博恭王は、海軍の中で重要なポストに位置するようになります。

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ロンドン海軍軍縮会議の結果によって、

海軍上層部は分裂します。

結果に賛成の条約派、不服とする艦隊派です。

博恭王は艦隊派の考えに賛成でした。

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海軍を統率するのは、政府の海軍省なのですが、

海軍の中の軍令部が強くなり、海軍省の言うことを聞かなくなります。

その軍令部総長になります。海軍省トップの海軍大臣と、

肩を並べるような地位になっていました。

博恭王は、条約派を排除して、艦隊派のメンバーで、

上層部を構築していきます。

ドイツ、イタリアとの三国同盟も主導して、

事態は、対米英となりました。

海軍を太平洋戦争に導いた中心人物とも言えます。
 

1943年に博恭王は、軍令部総長を辞します。

この動画では、陸海軍のトップに皇族がいることを

昭和天皇が良しとしなかったと説明しています。

戦争責任を皇族に負わせたくなったと考えられます。

しかし、軍令部総長を辞した後も、

博恭王は海軍に対して発言し続けました。

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博恭王の考え方は、対英米の戦争は、早期開戦、早期講和でした。

海軍大臣に、博恭王を信頼する嶋田繁太郎が就任。

嶋田大臣は、戦争反対の考えでしたが、博恭王に説得されて、

戦争遂行に決断します。

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この本を読んで知った人物ですが、重要な人物でした。

戦後、博恭王は戦犯にはなりませんでした。

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まさにこの本に出てくる「海軍反省会」で俎上に登ったのです。

  

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終戦翌年に、薨去されました。

享年70歳。

  

勉強になりました。


  

本「日本海軍はなぜ過ったか」① 録音テープが無駄にならなかった

   

今日は令和6年9月15日。

  

この本を読みました。

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アマゾン

「日本海軍はなぜ過ったか」

(澤地久枝、半藤一利、戸髙一成/岩波書店)

  

ここから引用していきます。

 

「海軍反省会」との出会い

「軍令部にいた海軍軍人たちが、戦後密かに集まり、「反省会」と

いうものを開いていたのだけど、その録音テープが何十時間分も家

にしまってある」

二〇〇六年四月、東京・渋谷のNHKの近くにある居酒屋で、私の隣

に座っていた戸髙一成氏は、箸を止め遠くを見るような顔で、ボソ

ッと呟いた。

「軍令部」「密かに」という言葉とともに、戸高さん以外聴いた人

がいないという数十時間の「録音テープ」の存在に、私は思わず興

奮し、戸高さんの肩を抱きかかえるようにしてお願いした。

「戸高さん、そのテープを是非聴かせてください。 一緒に番組をつ

くりましょう」

それまでも私たちは、戸高さんをNHKに招いて定期的に勉強会を開

いていたが、この日もそれが一段落し、いつものように場所を近く

の居酒屋に移し歓談していた。

戦時中の歴史には、多くの空白がある。終戦直後、連合軍が日本を

占領する前に、軍部が重要資料の多くを焼却したためだ。 「その空

白を、反省会のテープが埋めてくれるのではないか」と私は期待し

たのである。この時、同席していたディレクターの右田千代、カメ

ラマンの宝代智夫、編集スタッフの小澤良美も全く同じ気持ちであっ

たと思う。

そして、このスタッフが中核となって、それから三年後に放送され

るNHKスペシャ「日本海軍 400時間の証言」(全三回)と、この本の

ベースとなった特集番組「日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか」

を制作することになった。

(iii ~iv)

  

NHKの藤木達弘さんの文章です。

私の見ている政治系YouTuberは、NHKなんて見ない方がいい、

嘘ばっかり流しているから良くないと、常々言っています。

でも、この記述の番組スタッフの動き、考え方はいいなと思います。

「海軍反省会」は、戦後35年経って始まった、

海軍の士官・参謀たちが、戦争中にどんなことがあったのか、

自分たちが存命中に残しておこうと考えて、

定期的に集まって、実際に何が起こっていたのかを

明らかにしようとした会のようです。

この本を読んで初めて知りました。

  

1980年(昭和55年)から始まった海軍反省会は、

11年間、130回余り行われました。  

しかし外部の人を入れなかった反省会、

その様子を録音したテープも、聞く人はいませんでした。

でも、2006年(平成18年)に居酒屋での会話から、

世の中に出ることになったのです。

そして2009年のNHKスペシャルに繋がります。

NHK、すごいよと思います。

  

次は、録音テープを持っていた戸髙さんの文章です。

  

平成一八(二〇〇六)年、知り合いのNHKの藤木達弘プロデューサーと

時々行っていた、日本海軍の歴史に関する勉強会の時、たまたま海軍

反省会の話題になり、テープを保存していることを話した。 藤木氏の

反応はビックリするほどで、その場でテープを貸すことを約束した。

藤木氏は、「戸髙さん、絶対そのテープ、聞いては駄目ですよ。もし

も劣化していて、膜面が剥離などしたら、再生不能になります。NH

Kの技術担当者に複製をつくらせますから」と言った。しかし、「私

が持っているのは、反省会全体の最初のほうだけで、幹事が代わった

あとのテープは持っていません」と話すと、「何とか探せませんか」

と言うので、後日、反省会の後半の幹事をしていた平塚氏の電話番号

をディレクター(当時)の右田千代氏に伝えた。

まもなく、右田氏から、「戸髙さん、連絡とれました。 平塚さんは

お元気です。 戸髙さんのお名前を出したら、懐かしがっていました」

と知らせがあった。平塚氏には随分お世話になっているので、久しぶ

りにお邪魔することにし、右田氏と平成一九(二〇〇七年八月、平塚

氏宅を訪ねた。

平塚氏には長らくお目に掛かっていなかったが、九二歳とは思えない、

しっかりした話しぶりだった。話題が海軍反省会に及ぶと、「実は、

私が幹事をした回のテープは全部保存している」と言われた。 そし

てしばらく考えて、「戸高さん、資料は全部貴方に託す。もう私が持

っていることはない」と、私たちを書斎に案内された。平塚氏の机の

下から、厳重に梱包されたダンボールが引き出された。中には一一〇

本のテープが収められていた。

平塚氏にとっても、海軍反省会の資料の保存は最後の任務であったの

だろう。テープを私に渡すことを決めたあと、氏はほっとした表情に

なられた。

(xviii ~xix)  

  

録音テープが劣化している可能性があるとのこと。

2006年のことだから、テープは1980年以後のもの。

古いものでは26年間のブランクがあることになります。

そうか、古いテープは、簡単に再生しようとしては

いけないんだ。

私の家の納戸にある録画テープは、

40年以上前のものがあり。

ちょっとその点が気になった文章でした。

  

戸髙さんとNHKは、できるだけたくさんの録音テープを集め、

それを聞いて、番組を作りました。

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」3本。

2009年放映。大反響だったようですが、私は見たのか?

  

当時録画したかどうか調べてみました。

録画していませんでした。

そうだよなあ、全く覚えがないもんな。

  

DVDで販売はしているようです。

10480円。

悩むところ。

  

  

オケラの頭部にある4本の突起の役目は?

   

今日は令和6年9月15日。

  

7月29日に捕まえて、水と餌をあげないと、

すぐにでも死んでしまうと言われていたオケラ。

水苔を買ってきて飼育。

ニンジンと昆虫ゼリーを与えてきました。

ありがたいことに、2学期まで生き延びて、

通級教室の子どもたちに見せることができています。

もうほとんどの子どもに見せました。

  

見せるだけでなく、オケラを両手で包み込むように

持たせました。

オケラは、手の中で、脱出に必死になります。

両前足を使って、指と指の間をこじ開けようとします。

小さい虫なのに、その力はなかなか強いです。

そんな力強さを子どもに体験させたいと思いました。

実際、体験できていたと思います。

  

教室で、仕事をしていたら、ニンジンの横に、

オケラが顔を出しました。

すぐに録画。


YouTube: 2024年9月6日 水苔の中からちょっと顔を出したオケラ

Img_7506

Img_7505

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この映像で、オケラの頭部には4本の突起があることに

気がつきました。

この突起はどんな役に立つのでしょうか。

ネットで調べた限りでは、不明です。

  

このサイトには、4本の突起が鮮明に写った写真がありました。

昆虫の表情 ケラ・オケラ

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Img_7510

このサイトでは、この突起について次のように書きています。

  

口の近くに先端がへら状になっている触手があります。これはどのよう

な働きをするのか分かりませんが、水をなめたり、土を除けたりするの

かなあと思いました。

   

へら状?

私には、綿棒状に見えますが、この人のように

よっく見たらへら状なのでしょうか。

このサイトの方も、この突起の役目について

断定していません。

動画を撮ったことで、興味を持ったことです。

2024年9月14日 (土)

アレチヌスビトハギの花を咲かせてしまった/11年ぶりのツルボ

   

今日は令和6年9月14日。

  

私の町内会の地区にある公園で、

アレチヌスビトハギが繁茂して、

秋の一斉草取りで、アレチヌスビトハギのひっつき虫に

ひどい目に遭った人がたくさんいました。

2年前のことです。

 

そこで昨年から撲滅を目指して活動開始。

今年は、春にアレチヌスビトハギが発芽した頃から

公園に通って、アレチヌスビトハギを取ってきました。

地下に潜む地下系は、葉っぱを茂らすことで、

光合成をさせて、栄養のデンプンを貯蓄します。

その光合成をさせないことで、地下茎は栄養不足になり、

次第に枯れていくだろうと考えました。

毎週くらいに通っていましたが、

アレチヌスビトハギはあちこちで発芽して、

いつの間にか大きくなっています。

これはキリがないのかと思いましたが、

8月になって、様子が変わってきました。

明らかに、本数が減ってきたのです。

地下茎が諦めて、今年は発芽させなくなったのかなと思いました。

  

9月1日には、町内会の電子回覧板で「勝利宣言」までしちゃいました。

しかし、久々、今日行ってみたら、愕然としました。

他の草に隠れて見逃していたアレチヌスビトハギが成長していて、

中には花を咲かせているものもあったのです。

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今年は1本も花を咲かせないし、もちろんひっつき虫である実も

つけさせないと思っていました。

やられました。

5本も咲いていました。

悔しかった!

全部、抜いてきました。

こうなったら、次週の土日も公園に行きたいです。

土日が雨予報なら、休みの木曜日に行きます。

  

アレチヌスビトハギは、今から花を咲かせて

実をつける季節。

あのひっつき虫を今年は一つも見ないで済むことを目指します。

  

  

  

上の写真を見てもらうとわかると思いますが、

アレチヌスビトハギを取るのが中心で、

他の草はあまり取れていません。

1人の力はたいしたことがありません。

9月29日は、地区の人たちが一斉に出ての

環境美化活動の日です。その日に期待。

  

  

そんな草の中で、気になった花を発見。

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下からだんだん花が咲いていく花。

ツルボです。

ここでも道草 H25 8月の花々5 ツルボ

2014年4月13日の記事です。

ここに、「2013年8月21日撮影 設楽町」の

ツルボの写真がありました。

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これは確か、設楽町のきららの里付近で撮った覚えがあります。

  

11年ぶりのツルボとの再会でした。

2024年9月13日 (金)

スズムシ 羽根の動きのスロー映像

    

今日は令和6年9月13日。

  

スズムシが8月から絶好調。

毎晩よく鳴いています。

残暑が厳しいけど、スズムシは秋を感じさせてくれます。

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スズムシギャラリー幼虫版

  

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スズムシギャラリー成虫版

スズムシのオスは、羽根を立てて、

こすり合わせることで、あの音を出しています。

口で鳴いているわけではないのです。

  

その鳴いているのは、録画成功して、

その映像を子どもたちに見せています。

でも世の中には、スローで映像をアップしてくれている人もいます。

2本転載します。同じ人の作品です。


YouTube: 【音ありスロー動画】スズムシ鳴く


YouTube: 【音ありスロー動画】スズムシ

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どうしてこすり合わせることで、

こんな音があるのでしょう。

不思議です。
  

2024年9月12日 (木)

久々のビールのシール集めを始めます/MYサン生ジョッキ

   

今日は令和6年9月12日。

  

今日は「秋味」を3本買いました。

これで今年通算18本となりました。

今年の「秋味」はここまでにしようと思います。

なぜなら、気になるビールのコマーシャルがあったからです。


YouTube: サントリー生ビール『MYサン生ジョッキ』篇 15秒 山﨑賢人 上白石萌音 坂口憲二 サントリー CM

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ジョッキに名前を刻める。

これは魅力的です。

「全員当選」が嬉しいですね。

シールを1枚1枚集めて、

ジョッキをもらいたいなあと思いました。

ビールを買って、ビールについているシールを集めるのは、

昔もやったけど、久々かな。

  

目標は48点。

応募締め切りは11月26日。

最近の写真

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