2015年4月12日 (日)

4月12日 ナシの花撮影/2015年山が笑った日

  

今日は4月12日。

  

ちょくちょくテレビ番組を見ていましたが、ここへの記録がなかったので、

今回の投稿の末尾にまとめて書いておきます。

  

昨日は久々に墓参りに行きました。

父親と娘と3人で行きました。

その時に、梨(ナシ)の花を撮影に行きました。

  

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まだ間に合いました。

梨(ナシ)の花の白さがいいなあ。

  

  

お墓のある場所からの撮影↓

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山が笑っていると思いました。

2015年4月11日が山が笑った日として認定したいと思います。

  

過去の「山が笑った日」です。

 

平成17年 4月21日

平成18年 4月21日

平成19年 特定できず

平成20年 4月19日

平成21年 4月10日

平成22年 4月14日

平成23年 4月18日

平成24年 4月16日

平成25年 4月 8日

平成26年 4月10日

平成27年 4月11日

  

娘に他の季節はどういうの?

と質問されて即答できませんでした。

過去に2回書いています。

ここでも道草 「春山淡冶(たんや)にして笑うが如し」(2009年4月23日投稿)

ここでも道草 山の四季の表情を復習(2012年4月22日投稿)

もう一度書くぞ。

春・・・山笑う

夏・・・山滴る(したたる)

秋・・・山装う/山粧う(よそおう)

冬・・・山眠る

 

なかなか覚えられませんね。

 

  

  

〇4月5日視聴 大河ドラマ「花燃ゆ 14 さらば青春」(4月5日放映)

 吉田松陰 久坂玄瑞 高杉晋作

〇4月5日視聴 「世界ふしぎ発見 日本初 ピラミッド登頂 201段全段計測」

 (2015年3月14日放映)

 竹内 海南江 クフ王 ピラミッド 考古学者 河江肖剰(ゆきのり) 

〇4月9日視聴 「ニュースウオッチ9」「NEWS23」・・ペリリュー島慰霊ニュース

 (2015年4月9日放映)

〇4月10日視聴 ドラマ「かぶき者慶次 ①」(2015年4月9日放映)

 前田慶次

〇4月11日視聴 「知恵泉 世界を変える発信力 ジャーナリスト 石橋湛山」

 (2014年10月14日放映)

〇4月11日視聴 「探Q!Aトリップ 豊橋」(2015年4月4日放映)

 市電 ウズラの卵 手筒花火 豊橋筆

ペリリュー島に関するニュース7/倉田さんの涙

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

4月9日放映の「NEWS23」(CBCテレビ)の聞き書きです。

「NEWS23」でも倉田洋二さんが紹介されました。

  

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倉田洋二さん。アンガウル島からの数少ない生還者だ。

島での戦いは1ヶ月にも及び、最後には日本兵のほとんどが、

爆弾を抱えて突撃。

およそ1200人が亡くなった。

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だが倉田さんは、洞窟に残った。

  

(倉田さん)「左半身動けなかったもので、『お前残って自決しろ』と言われて

    手榴弾1発ですよ。」

  

洞窟に残され暮らしていた時に、目の当たりにしていた光景が、

今でも忘れられない。

  

(倉田さん)「焼けた木かと思って行ってみるとね、そうじゃないんです」

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   「ハエなんです。ハエが羽化する寸前なんです」「真っ黒く」

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   「その下には必ず戦友がいるんですよ」「真っ黒ですよね」

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(倉田さん)「遺骨をなんとかしてもらいたいですね」

   「陛下のため、国のためで、みんな死んでますからね。」

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今日(9日)倉田さんは、アンガウル島で亡くなったおよそ1200人の

戦死者名簿を持ち、両陛下と言葉を交わした。

  

(倉田さん)「言いたいことはたくさんあったんですけど、

    胸が詰まって言えませんでした。」

   「来ていただいてありがたいという意志だけ伝えました」

   「両陛下の言葉をですね、アンガウルで戦死した連中に伝えたいです」  

  

   

NHKのニュースでは、

「もう何十年も経っていますからね、涙も枯れてますから」

と言っていた倉田さん。

でも戦友の無残な死に方を思い出して、涙を流していました。

枯れるわけないですよね。たくさん泣いてこられたと想像します。

蛆虫として人肉を食し、戦友の体表で羽化するハエ。

ハエは残酷です。

死体だけでなく、弱っている体にもハエは卵を産むそうです。

  

  

天皇陛下がペリリュー島に行ったことが注目される理由が、

倉田さんの言葉の中にありました。

兵隊たちは、天皇陛下のため、国のために戦うと口にしていたということです。

命をかけた天皇陛下が慰霊に来たことは、やっぱり特別なのです。

  

7回に渡って書いてきました。

誕生日の日に、ペリリュー島のみならず、アンガウル島のことが

勉強できました。

ここにもしっかり記録したぞ。

ペリリュー島に関するニュース6/土田さんの忘れられない記憶

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

4月9日放映の「NEWS23」(CBCテレビ)から聞き書きします。

  

あの凄惨な戦闘から70年が経った。

パラオ訪問中の天皇皇后両陛下は、太平洋戦争の激戦地、

ペリリュー島の地を踏まれた。

両陛下が訪れたのは、戦後日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」

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日本から持ってきた白い菊の花束を供えると、

しばらくの間、深く拝礼された。

 

両陛下と言葉を交わした土田喜代一さん。

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海軍上等兵として、この島で戦い生き残った数少ない人物だ。

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両陛下からは、

「ペリリュー島を訪れるのは14回目ですね、どうぞお元気で」

と声をかけられたという。

 

(土田さん)「おそらく(犠牲となった)1万名が非常に喜んでいると思いました。

    この日を忘れることはないだろうと思った70年の今日の日だと思います」

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1944年の9月、アメリカ軍が上陸。

圧倒的な戦力を前に、絶望的な戦いを強いられたという。

日本軍は、島内に500もの洞窟陣地を構築し、ゲリラ戦を展開。

土田さんには、どうしても忘れられない記憶がある。

  

(土田さん)「『よし 今から戦車攻撃』『希望者3名だ。希望者は手をあげろ』と

    言われ・・・」

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爆弾を抱えて、敵の戦車に突っ込む肉弾作戦の命令。

3人の希望者が募られ、すぐに2人が志願したが、もう1人が現れない。

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すると、友人が志願。

その後、爆音が響いた。

  

(土田さん)「やっぱり毎日思い出さんと、寝きれないかたちですね」

   「(友人が)戦車攻撃に行って死んだこと、思い出すと涙が出ますね」

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日本からはるか遠く離れた南の島で散った1万人あまりの命。

最後まで戦い生き残ったのは、土田さんを含む34人だった。

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戦闘終結後も、土田さんらは、アメリカ軍が終戦を知らせようとしても信じず、

2年近くも洞窟に潜んでいたという。

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(土田さん)「ペリリュー島というのは、こういう戦いの島であったということを、

    世の中に知らせることができて、私たちには非常にうれしいです。」 

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土田さんのおかげでもあります。

土田さんの発言が、私にペリリュー島での戦いの凄惨さを教えてくれました。

  

「NEWS23」でも、倉田洋二さんのことが紹介されていました。

次の投稿で書きます。

  

ペリリュー島に関するニュース5/父親の記憶がない遺族、戦車地雷

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

下記の投稿で、田中恭子さんのことを書きました。

ここでも道草 ペリリュー島に関するニュース2/両陛下の9日の動き(2015年4月11日投稿)

その田中さんについては、4月9日の朝日新聞夕刊に記述がありました。

ペリリュー島の記事は、1面に大きく載っていましたので、

4分割してスキャナしました。

載せてみます。

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田中さんの記事は4つ目です。

「遺族」と言いますが、田中さんのように、

父親の記憶がない遺族もいるわけです。

その田中さんは父親の姿を追って、月日を重ねてきたようです。

自分は昨年やっと知ったペリリュー島の戦いは、

このような遺族を生み出していました。

  

  

土田喜代一さんは、「瓶の中の2匹のサソリ」発言をした人として、

とても印象に残っています。

ここでも道草 「ペリリュー」その2/瓶の中の2匹のサソリ/砲身の細い戦車(2015年8月19日投稿)

 

その土田さんが、また印象に残る話をしています。

 

「決して忘れることのできない光景」と話すのは、

地雷を手に米軍の戦車に向かっていった1等兵の姿だ。

周囲がおじけづく中、

「行って参ります!」と真っ先に手を挙げた。

「彼の勇気に命を救われたのです」

  

強烈な体験です。

そりゃあ、忘れられない体験です。

その場に居合わせたら、と考えると背筋が寒くなります。

しかし、こうやって土田さんが生き残ったから伝えられた話です。

きっと戦場では、勇気ある行動がたくさんあったと思いますが、

それを目撃した人も死んでいては、結果埋もれていってしまいます。

無念なことだと思います。

  

  

戦車地雷について調べました。

「九三式戦車地雷」がヒットしました。

「あんぱん」と呼ばれた地雷でした。

次のサイトが参考になりました。

鎮魂の旧大日本帝國陸海軍 旧軍関連収載品

このサイトを開いてスクロールしていくと、

たくさんの写真とともに紹介されています。

Wikipediaには、気になる記述がありました。

  

本地雷は対戦車用途を主眼とする。

開発は昭和4年(1929年)6月1日に始まった。

研究のための審査が行われ、結果はできるかぎり軽量化を目指すこととなった。

昭和8年(1933年)4月から本格的に研究がおこなわれ、

同年5月、伊良湖射場にて爆薬を使用し威力と薬量を算出した後略)

 ・・・・「九三式戦車地雷」(Wikipedia)

  

「伊良湖射場」は「陸軍技術本部伊良湖試験場」のことのようです。

その気になれば行くことができる場所です。

ここに訪問した人の報告があります↓

寄る辺ない軍事遺産の旅 陸軍技術本部伊良湖試験場

また行きたい場所が増えました。

試験場の中枢施設があった場所は、小中山児童公園となっているそうです。

Photo

レ点の場所が、小中山児童公園のある場所です。

 

  

土田さんは、4月9日の「NEWS23」でも、この体験について語っています。

次の投稿で書きます。

2015年4月11日 (土)

ペリリュー島に関するニュース4/初めて知ったアンガウル島の戦い、日本とパラオ

  

今日は4月11日。

  

前投稿のつづき。

  

4月9日放映の「ニュースウオッチ9」を見ました。

天皇皇后両陛下のペリリュー島訪問で、

きっと新情報が入手できると思っていました。

それは見事に当たりました。

ペリリュー島から10kmしか離れていないアンガウル島でも、

悲惨な戦いがあったことを初めて知りました。

日本軍1200名のうち生き残ったのは50名。

その中の一人、倉田洋二さんが取材されていました。

  

アンガウル島で、倉田さんは、

アメリカ軍が上陸してきた時に迎え撃つ、砲撃部隊でした。

「70発しか弾がなかったんで、大事に戦争しました。」

という倉田さんの発言は心に残りました。

70発が無くなった時のことを考えたら、大切に使わざるを得なかったのでしょう。

そしてそれは現実になります。

倉田さんは”玉砕”には参加せずに生き残ります。

  

生き延びていることが申し訳ないと思っている倉田さんは、

1200名の戦友の名前を調べ上げて名簿を作りました。

その名簿を見ながら、「中山」「白神」の事を語る倉田さん。

その人たちの人生はそこで終わってしまいました。

ちゃんとその人たちは存在していたよと伝えたくて、

倉田さんは戦友の話をするのだと思います。

後で「小野」についても語り、

ニュースでは3名の戦友の名前が紹介されました。

本当は全員の話をしたいのではないでしょうか。

  

   

  

パラオの日本統治の歴史が気になります。

調べました。

  

次のサイトが参考になりました。

ねずさんのひとりごと 日本とパラオ 歴史を超えた友情 

読みがいのあるサイトでした。

そこに日本統治について書いてありました。

引用します。

そのドイツが、第一次世界大戦で負けた後、

パリ講和会議において国際連盟が結成され、戦勝国である日本が、

ドイツ領であったパラオを含むミクロネシアの島々一帯の統治を

委ねられることになったのが、大正8(1919)年のことです。

パラオが、日本の「委任統治領」となったのです。

  

第一次世界大戦の結果、日本が統治することになったのです。

その統治のやり方がよかったことで、パラオは親日派なのだそうです。

このサイトを読むと、そのいきさつがよくわかります。

  

もしかしたら偏りのある内容かもしれませんが、

統治時代の日本人が行ったこと、

ペリリュー島で、住民を逃がして戦ったこと、

国旗にまつわる話などを読むにつれ、

日本人はパナマで頑張ったんだなと思わせられます。

誇りに思えます。

語られていることが真実であるといいなと思います。

    

サイトで紹介された映像もオススメです。

日本とパラオ ~歴史を越えた友情~
YouTube: 日本とパラオ ~歴史を越えた友情~

  

さらにこれも↓ ほぼ同じ内容ですが。

日の丸とパラオの国旗の由来
YouTube: 日の丸とパラオの国旗の由来

  

パラオの国旗です↓

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いい勉強ができました。

  

ペリリュー島に関するニュース3/アンガウル島の戦いの生残者倉田さん

  

今日は4月11日。

  

前投稿のつづき。

4月9日の「ニュースウオッチ9」より。

聞き書きです。

  

今日の慰霊には、激しい地上戦で生き残った

2人の元兵士の姿もありました。

その1人、倉田洋二さん、88才。

手に一冊の名簿を携えていました。

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名簿に込められた思いを取材しました。

 

倉田さんが手にしたのは、ともに戦った戦友の名前を綴った名簿です。

両陛下のパラオ訪問に合わせて、自ら調べて作りました。

  

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(記者)「名簿には何人の方が載ってらっしゃるんですか?」

(倉田さん)「1200人。」

    「中山。鹿児島県人で気の弱い男でね、機関銃で足を撃たれて、

     気力を失って・・・」

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    「白神。迫撃砲で撃たれて即死ですよね。目の前でやられたからですね。」

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    「生きている者だけが陛下にお会いしたんじゃ、申し訳ないですから。

     だから彼らも会わしてやろうと思って。」  

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(※パラオを歩く倉田さんの映像)

(倉田さん)「お、敷地が見えてきた。」

(※その敷地は、倉田さんが以前働いていた海洋生物の研究機関跡地)

 

太平洋戦争が始まった昭和16年。

倉田さんは日本統治下のパラオにあった、

海洋生物の研究機関に勤めていました。

  

(倉田さん)「”パラオ恋しや”という歌があるんですよね。」

  

(※”パラオ恋しや”が流れ、当時のパラオの映像や写真が映る)

歌詞:海で生活(くら)すなら、パラオ島におじゃれ~

  

(倉田さん)「島に来るなら、パラオにおじゃれ と、

    それくらいパラオは、繁栄した街でしたね。

    眼鏡屋さん、自転車屋さん、お酒やさんまで

    さまざまでしたね。」

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当時2万5千人あまりの日本人が暮らしていたパラオ。

太平洋諸島を管轄する中心地でした。

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昭和19年9月。そのパラオにアメリカ軍が上陸。

研究者だった倉田さんも召集され、パラオ南部の島、

アンガウル島に配属されていました。

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配属していたのは、上陸した敵を迎え撃つ砲撃部隊でした。

  

(倉田さん)「70発しか弾がなかったんで、大事に戦争しました。」

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   「弾がないから、(陣地?砲台?)を捨てて、

    山奥に入ったということですね」

(※山奥の陣地らしき場所に立つ倉田さんの映像)

(倉田さん)「最後は皆(アメリカ兵)が攻めてきて銃撃戦・・・・」

    

2万人あまりのアメリカ兵に対して、日本軍は1200人。

倉田さんの目の前で、多くの戦友が命を落としていきました。

  

(倉田さん)「もう、(砲弾が)雨あられですね。」

   「修羅場ですね。殺してくれとかね、水をくれとかね、

    周りから声がかかって・・・」

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   「小野っていう、一等兵で優しい兵隊がいましてね、

    おばあちゃんの話ばかりしていたけど、

   (自決の時に)”おばあちゃん万歳”と言ってましたよ。」

   「アンガウルで亡くなってから、埋めてもらったという人なんか、

    まずいないと思いますね。埋められるだけ幸せだと思っています。

    みんな野ざらしですからね。」

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アメリカ軍上陸から、およそ1ヶ月後、日本軍は最後の突撃を仕掛けます。

しかし、その直前に砲撃で重症を負った倉田さんは、

突撃に参加できませんでした。

  

(倉田さん)「玉砕ですね。動ける者はみんな総攻撃をするというので、

    集まれというので集まったのが、

    倉田は動けないから置いてきぼりをくって、

    引きずってでも連れて行ってくれればですね、

    一緒に行けたと思うんです。でも行けなかったですね。」

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その後、飢えに耐えながら、4ヶ月の間島内をさまよい、

アメリカ軍の捕虜になりました。生き残ったのは、およそ50人だけでした。

  

戦後、倉田さんは、東京都の職員となり、海洋生物の研究を続けました。

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海ガメの研究で、高い評価を得た倉田さん。

その傍らで、パラオへの思いは消えず、定年退職を迎えた後、

移住を決意します。

亡くなった戦友の近くで、慰霊を続けたいと思ったからです。

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戦後、島には遺族などによって、20余りの慰霊碑が建てられました。

しかし、70年が経ち、日本からの訪問が激減する中、

多くが野ざらしになっていました。

  

そのため、遺族の了解を得て、慰霊碑を一箇所にまとめる移設を

自費や寄付金で進めています。

  

(倉田さん)「この島で亡くなった戦友たちのですね、

    安住の地を一刻も早く作りたい、その願いだけです。

    生き残った者のそれは役目だと思っています。」

   「日本からいろいろな人がみえて、南海のこんな小島にも、

    戦った兵士たちがいるんだということを、

    記憶を呼び起こしてくれたらありがたいですね。」

  

そして、今日、戦友の名簿と一緒に(両陛下の慰霊に)出席した倉田さん。

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両陛下は、アンガウル島に向かって深く頭を下げたあと、

倉田さんに、「大変でしたね。ご苦労様でした」と声をかけられました。

  

(天皇陛下に向かって倉田さん)「本日はありがとうございました。

    戦友に代わって、厚くお礼を申し上げます。」

  

(倉田さん)「もう何十年も経っていますからね、涙も枯れてますから、

    俺一人生きていて申し訳ないと思っています。」

   「両陛下の言葉をですね、アンガウルの戦死した連中に伝えたい」

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倉田さんは今後も戦友の慰霊を、力の限り続けていきたいと話していました。

  

  

以上で、「ニュースウオッチ9」の聞き書きは終了。

このニュースについては次の投稿で触れたい。

  

   

 

ペリリュー島に関するニュース2/両陛下の9日の動き

  

今日は4月11日。

  

4月9日、このブログへのヒット数が急増していました。

どうしたのかなと思って調べたら、

昨年夏に調べたペリリュー島の記事を読んでいる人が多かったです。

9日の天皇皇后両陛下ペリリュー島慰霊で、

「ペリリュー島」へ関心が高まっていることを、こんなところで感じました。

  

慰霊で訪れた4月9日。

2つのニュースを録画しました。

聞き書きをしてみます。まずは「ニュースウォッチ9」(NHK放映)より。

  

戦後70年の節目に、パラオを訪れていた天皇皇后両陛下は、

今日、激戦地のペリリュー島で慰霊碑に花を供えて、

戦没者の霊を慰められました。

両陛下は、予定された日程を全て終え、帰国の途につかれました。

  

戦後70年。激戦地のペリリュー島は、特別な朝を迎えました。

日本政府が建てた慰霊碑です。(※慰霊碑の全体が映る)

ペリリュー島の人たちが、大切に守ってきました。

(※地元の人が掃除している映像が映る)

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天皇皇后両陛下は、ヘリコプターで島に到着されました。

 

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慰霊碑の前には、元日本兵や戦没者の遺族などが集まりました。

 

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午前11時前。日本から持参した白い菊の花を供えられました。

天皇陛下は、昨日、出発を前に、

「悲しい歴史があったことを、

わたくしどもは決して忘れてはならないと思います」

と述べられていました。

ペリリュー島で最後まで戦って生き残った永井敬司さん(93)です。

(※日本の自宅でテレビを見る永井さんが映る)

高齢のため、国内で慰霊の様子を見守りました。

(永井さん)戦友のことを思うと、陛下が行かれたことは

  大層ありがたいことだし、英霊も一区切りついたと思いますよ。」

   

向かいに見えるのは、およそ10km離れたアンガウル島です。

同じく日本軍がほぼ全滅した島に向かって、頭を下げられました。

 

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両陛下は、この後、元日本兵や遺族らの前まで歩き、

言葉をかけられました。

胸元に、亡き父親の写真を掲げた人もいました。

 

(※ペリリュー島で父親が死亡した田中恭子さんの映像)

(田中さん)「はるばるお訪ねいただいて、この上なくうれしゅうございますと、

    お答えしました。父には”よかったですね”と申し上げたい。」

  

両陛下は、近くにあるアメリカ軍の慰霊碑も訪ねられました。

お二人で整えた花輪が立てかけられますと、黙祷を捧げられました。

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そして日本軍とアメリカ軍とが激しい戦闘を繰り広げた

オレンジビーチの付近まで歩いて、多くの人が犠牲になった砂浜に向かって、

一礼されました。

  

(※説明役を務めた菊池正雄さんの映像)

(菊池さん)「ここで激しい戦争があったんですよとお話をさせていただきました。

  ここで亡くなられ多くの犠牲者、遺族の方は、

  本当に喜んでいることと思います。」

  

この地で戦没者を追悼するのは、天皇陛下の長年の思いでした。

    

   

以上がニュース冒頭の部分の聞き書きです。

両陛下の9日の動きのあらましです。

このニュースで初めて知ったのが、「アンガウル島」のこと。

ニュースの後半で詳しく説明してくれました。

後の投稿で書きます。

田中恭子さんについては、新聞記事も引用して、これまた後の投稿で。

今回はここまで。

  

2015年4月 9日 (木)

雪のようなサクラ/”どうにかなる”通勤

 

今日は4月9日。

  

出勤時に通勤路で撮ったものです↓

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サクラの花びらが雪のように積もっていました。

自転車から降りて撮影しました。

やり残しの仕事を朝、学校でやろうと思っていました。

少々焦っていましたが、この景色を見たら、撮影しないとね。

  

   

忙しい時に自転車通勤はちょっと迷います。

自動車で行くと、朝学校で15分余分に仕事ができます。

でも、自転車通勤をする時は”開き直り”の練習です。

自転車通勤をして15分の仕事をしなくても「どうにかなる」と

自分を言い聞かせて家を出発します。

心の病の前科者?にとって、この「どうにかなる」と開き直る態度は

大事な生き方なのです。

これができないことも潰れる理由の一つです。

  

今日は出張があるために自動車通勤です。

天気が悪く、出張も多くて、4月の自転車通勤は、まだ2日です。

3月31日 花を楽しめた日でした/サクラ カリン ハナモモ他

  

今日は4月9日。

  

花の写真がすっかり少なくなってしまった「ここでも道草」ですが、

今日はたくさん載せます。  

  

2015年3月31日に撮影したものばかりです。

  

  

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勤務校を下った場所にある梨(ナシ)畑。

毎年観察している場所です。

もうじき咲きそうでした。

実は6日に他の用事のついでに寄って見たところ、しっかり咲いていました。

残念なのは、デジカメを持っていなかったこと。

もう一度行って写真に収めたい。

  

  

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ナシ畑の近くに咲いていたハナモモ。

いつの間にかハナモモも咲いていました。

近づいてアップ撮影。

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この近くでヒメオドリコソウも見かけました。

毎年群生している場所です。

今年も出会えました。

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勤務校からの帰路。桜(サクラ)が見事だったので途中停車して撮影。

  

  

これがきっかけであちこちでサクラの撮影をしました。

  

Rimg1232z 通勤路のお気に入りのサクラのひとつ。

撮っていたら、近所の人と話ができました。

電線があるために、左手の方は剪定したとのこと。

確かに枝ぶりはアンバランス。

同じことが、国道1号線に覆いかぶさるようにしてあったサクラ。

こちらも剪定されてこうなっていました↓

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Rimg1238 ↑これは神社のサクラ。

この神社には他に何本かのサクラがあります。

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紅白のハナモモを楽しませてくれる場所にも寄りました。

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今年もご馳走様です。

  

  

  

Rimg1239 ↑通勤路で気になっていたサボテンも撮影。

  

   

カリンも咲いていました。

これも毎年鑑賞している場所です。

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次は実になったらまた観察です。

ただ、ここは近所の犬が吠え出すので、ゆっくり観察できないのが難。

  

  

  

3月31日は夕方お出かけして、またサクラのいい場所に行きました。

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平成26年度最終日。天気が良く、花が楽しめた日でした。

  

   

ペリリュー島に関するニュース

  

今日は4月9日。

  

昨日、両陛下はパラオへ行きました。

あちこちのニュースでそのことを伝えていました。

宿泊したのはちょっと前に書いたように、

海上保安庁の巡視船「あきつしま」です。

ここでも道草 天皇皇后陛下が泊まられる巡視船

昨晩のニュース「Nスタ」(CBCテレビ)で映ったパラオでの「あきつしま」です↓

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今頃(9日午前2時30分)、両陛下は「あきつしま」船内でお休みのことと思います。

9日はいよいよペリリュー島訪問です。

  

 

ペリリュー島のことがニュースに出る頻度が上がると思い、

最近はニュースを気にしていました。

7日晩の「NEWS23」(CBCテレビ)より。

  

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昨年12月に厚労省が行った遺骨収集作業を様子が紹介されました。

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洞窟で戦った日本兵が使ったものが、あちこちにあったそうです。

70年前に、命を落とした人たちが実際に使ったであろう食器や靴。

当時、どのような若者が使っていたのだろう。

物だけが時代を生き抜いてきました。

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まだ収集されない遺骨はたくさんあるそうです。

  

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昨年行われた焼骨式↑

このように行われるのだと初めて知りました。

日本兵は遺灰となって日本に戻るのでしょう。

  

  

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戦車には弾痕がありました↑

  

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日本兵で生き残ったのは、たった38人。

生き残ったのは運でしかありません。

たくさんの戦友の死を目の当たりにした38人の1人

永井敬司さんの言葉は重たい↑

  

  

今日のニュースも注目して、

ペリリュー島に関する情報を集めたい。

  

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