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2015年4月11日 (土)

ペリリュー島に関するニュース3/アンガウル島の戦いの生残者倉田さん

  

今日は4月11日。

  

前投稿のつづき。

4月9日の「ニュースウオッチ9」より。

聞き書きです。

  

今日の慰霊には、激しい地上戦で生き残った

2人の元兵士の姿もありました。

その1人、倉田洋二さん、88才。

手に一冊の名簿を携えていました。

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名簿に込められた思いを取材しました。

 

倉田さんが手にしたのは、ともに戦った戦友の名前を綴った名簿です。

両陛下のパラオ訪問に合わせて、自ら調べて作りました。

  

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(記者)「名簿には何人の方が載ってらっしゃるんですか?」

(倉田さん)「1200人。」

    「中山。鹿児島県人で気の弱い男でね、機関銃で足を撃たれて、

     気力を失って・・・」

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    「白神。迫撃砲で撃たれて即死ですよね。目の前でやられたからですね。」

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    「生きている者だけが陛下にお会いしたんじゃ、申し訳ないですから。

     だから彼らも会わしてやろうと思って。」  

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(※パラオを歩く倉田さんの映像)

(倉田さん)「お、敷地が見えてきた。」

(※その敷地は、倉田さんが以前働いていた海洋生物の研究機関跡地)

 

太平洋戦争が始まった昭和16年。

倉田さんは日本統治下のパラオにあった、

海洋生物の研究機関に勤めていました。

  

(倉田さん)「”パラオ恋しや”という歌があるんですよね。」

  

(※”パラオ恋しや”が流れ、当時のパラオの映像や写真が映る)

歌詞:海で生活(くら)すなら、パラオ島におじゃれ~

  

(倉田さん)「島に来るなら、パラオにおじゃれ と、

    それくらいパラオは、繁栄した街でしたね。

    眼鏡屋さん、自転車屋さん、お酒やさんまで

    さまざまでしたね。」

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当時2万5千人あまりの日本人が暮らしていたパラオ。

太平洋諸島を管轄する中心地でした。

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昭和19年9月。そのパラオにアメリカ軍が上陸。

研究者だった倉田さんも召集され、パラオ南部の島、

アンガウル島に配属されていました。

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配属していたのは、上陸した敵を迎え撃つ砲撃部隊でした。

  

(倉田さん)「70発しか弾がなかったんで、大事に戦争しました。」

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   「弾がないから、(陣地?砲台?)を捨てて、

    山奥に入ったということですね」

(※山奥の陣地らしき場所に立つ倉田さんの映像)

(倉田さん)「最後は皆(アメリカ兵)が攻めてきて銃撃戦・・・・」

    

2万人あまりのアメリカ兵に対して、日本軍は1200人。

倉田さんの目の前で、多くの戦友が命を落としていきました。

  

(倉田さん)「もう、(砲弾が)雨あられですね。」

   「修羅場ですね。殺してくれとかね、水をくれとかね、

    周りから声がかかって・・・」

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   「小野っていう、一等兵で優しい兵隊がいましてね、

    おばあちゃんの話ばかりしていたけど、

   (自決の時に)”おばあちゃん万歳”と言ってましたよ。」

   「アンガウルで亡くなってから、埋めてもらったという人なんか、

    まずいないと思いますね。埋められるだけ幸せだと思っています。

    みんな野ざらしですからね。」

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アメリカ軍上陸から、およそ1ヶ月後、日本軍は最後の突撃を仕掛けます。

しかし、その直前に砲撃で重症を負った倉田さんは、

突撃に参加できませんでした。

  

(倉田さん)「玉砕ですね。動ける者はみんな総攻撃をするというので、

    集まれというので集まったのが、

    倉田は動けないから置いてきぼりをくって、

    引きずってでも連れて行ってくれればですね、

    一緒に行けたと思うんです。でも行けなかったですね。」

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その後、飢えに耐えながら、4ヶ月の間島内をさまよい、

アメリカ軍の捕虜になりました。生き残ったのは、およそ50人だけでした。

  

戦後、倉田さんは、東京都の職員となり、海洋生物の研究を続けました。

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海ガメの研究で、高い評価を得た倉田さん。

その傍らで、パラオへの思いは消えず、定年退職を迎えた後、

移住を決意します。

亡くなった戦友の近くで、慰霊を続けたいと思ったからです。

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戦後、島には遺族などによって、20余りの慰霊碑が建てられました。

しかし、70年が経ち、日本からの訪問が激減する中、

多くが野ざらしになっていました。

  

そのため、遺族の了解を得て、慰霊碑を一箇所にまとめる移設を

自費や寄付金で進めています。

  

(倉田さん)「この島で亡くなった戦友たちのですね、

    安住の地を一刻も早く作りたい、その願いだけです。

    生き残った者のそれは役目だと思っています。」

   「日本からいろいろな人がみえて、南海のこんな小島にも、

    戦った兵士たちがいるんだということを、

    記憶を呼び起こしてくれたらありがたいですね。」

  

そして、今日、戦友の名簿と一緒に(両陛下の慰霊に)出席した倉田さん。

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両陛下は、アンガウル島に向かって深く頭を下げたあと、

倉田さんに、「大変でしたね。ご苦労様でした」と声をかけられました。

  

(天皇陛下に向かって倉田さん)「本日はありがとうございました。

    戦友に代わって、厚くお礼を申し上げます。」

  

(倉田さん)「もう何十年も経っていますからね、涙も枯れてますから、

    俺一人生きていて申し訳ないと思っています。」

   「両陛下の言葉をですね、アンガウルの戦死した連中に伝えたい」

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倉田さんは今後も戦友の慰霊を、力の限り続けていきたいと話していました。

  

  

以上で、「ニュースウオッチ9」の聞き書きは終了。

このニュースについては次の投稿で触れたい。

  

   

 

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