ペリリュー島に関するニュース3/アンガウル島の戦いの生残者倉田さん
今日は4月11日。
前投稿のつづき。
4月9日の「ニュースウオッチ9」より。
聞き書きです。
今日の慰霊には、激しい地上戦で生き残った
2人の元兵士の姿もありました。
その1人、倉田洋二さん、88才。
手に一冊の名簿を携えていました。
名簿に込められた思いを取材しました。
倉田さんが手にしたのは、ともに戦った戦友の名前を綴った名簿です。
両陛下のパラオ訪問に合わせて、自ら調べて作りました。
(記者)「名簿には何人の方が載ってらっしゃるんですか?」
(倉田さん)「1200人。」
「中山。鹿児島県人で気の弱い男でね、機関銃で足を撃たれて、
気力を失って・・・」
「白神。迫撃砲で撃たれて即死ですよね。目の前でやられたからですね。」
「生きている者だけが陛下にお会いしたんじゃ、申し訳ないですから。
だから彼らも会わしてやろうと思って。」
(※パラオを歩く倉田さんの映像)
(倉田さん)「お、敷地が見えてきた。」
(※その敷地は、倉田さんが以前働いていた海洋生物の研究機関跡地)
太平洋戦争が始まった昭和16年。
倉田さんは日本統治下のパラオにあった、
海洋生物の研究機関に勤めていました。
(倉田さん)「”パラオ恋しや”という歌があるんですよね。」
(※”パラオ恋しや”が流れ、当時のパラオの映像や写真が映る)
歌詞:海で生活(くら)すなら、パラオ島におじゃれ~
(倉田さん)「島に来るなら、パラオにおじゃれ と、
それくらいパラオは、繁栄した街でしたね。
眼鏡屋さん、自転車屋さん、お酒やさんまで
さまざまでしたね。」
当時2万5千人あまりの日本人が暮らしていたパラオ。
太平洋諸島を管轄する中心地でした。
昭和19年9月。そのパラオにアメリカ軍が上陸。
研究者だった倉田さんも召集され、パラオ南部の島、
アンガウル島に配属されていました。
配属していたのは、上陸した敵を迎え撃つ砲撃部隊でした。
(倉田さん)「70発しか弾がなかったんで、大事に戦争しました。」
「弾がないから、(陣地?砲台?)を捨てて、
山奥に入ったということですね」
(※山奥の陣地らしき場所に立つ倉田さんの映像)
(倉田さん)「最後は皆(アメリカ兵)が攻めてきて銃撃戦・・・・」
2万人あまりのアメリカ兵に対して、日本軍は1200人。
倉田さんの目の前で、多くの戦友が命を落としていきました。
(倉田さん)「もう、(砲弾が)雨あられですね。」
「修羅場ですね。殺してくれとかね、水をくれとかね、
周りから声がかかって・・・」
「小野っていう、一等兵で優しい兵隊がいましてね、
おばあちゃんの話ばかりしていたけど、
(自決の時に)”おばあちゃん万歳”と言ってましたよ。」
「アンガウルで亡くなってから、埋めてもらったという人なんか、
まずいないと思いますね。埋められるだけ幸せだと思っています。
みんな野ざらしですからね。」
アメリカ軍上陸から、およそ1ヶ月後、日本軍は最後の突撃を仕掛けます。
しかし、その直前に砲撃で重症を負った倉田さんは、
突撃に参加できませんでした。
(倉田さん)「玉砕ですね。動ける者はみんな総攻撃をするというので、
集まれというので集まったのが、
倉田は動けないから置いてきぼりをくって、
引きずってでも連れて行ってくれればですね、
一緒に行けたと思うんです。でも行けなかったですね。」
その後、飢えに耐えながら、4ヶ月の間島内をさまよい、
アメリカ軍の捕虜になりました。生き残ったのは、およそ50人だけでした。
戦後、倉田さんは、東京都の職員となり、海洋生物の研究を続けました。
海ガメの研究で、高い評価を得た倉田さん。
その傍らで、パラオへの思いは消えず、定年退職を迎えた後、
移住を決意します。
亡くなった戦友の近くで、慰霊を続けたいと思ったからです。
戦後、島には遺族などによって、20余りの慰霊碑が建てられました。
しかし、70年が経ち、日本からの訪問が激減する中、
多くが野ざらしになっていました。
そのため、遺族の了解を得て、慰霊碑を一箇所にまとめる移設を
自費や寄付金で進めています。
(倉田さん)「この島で亡くなった戦友たちのですね、
安住の地を一刻も早く作りたい、その願いだけです。
生き残った者のそれは役目だと思っています。」
「日本からいろいろな人がみえて、南海のこんな小島にも、
戦った兵士たちがいるんだということを、
記憶を呼び起こしてくれたらありがたいですね。」
そして、今日、戦友の名簿と一緒に(両陛下の慰霊に)出席した倉田さん。
両陛下は、アンガウル島に向かって深く頭を下げたあと、
倉田さんに、「大変でしたね。ご苦労様でした」と声をかけられました。
(天皇陛下に向かって倉田さん)「本日はありがとうございました。
戦友に代わって、厚くお礼を申し上げます。」
(倉田さん)「もう何十年も経っていますからね、涙も枯れてますから、
俺一人生きていて申し訳ないと思っています。」
「両陛下の言葉をですね、アンガウルの戦死した連中に伝えたい」
倉田さんは今後も戦友の慰霊を、力の限り続けていきたいと話していました。
以上で、「ニュースウオッチ9」の聞き書きは終了。
このニュースについては次の投稿で触れたい。
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