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2026年4月27日 (月)

「大関和物語」⑤ 6年ぶりに復習「ゼンメルワイス」

    

今日は令和8年4月27日。

  

4月25日の記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

手洗いが衛生の基本であるということが認識されるようになった歴

史は浅い。オーストリアのウィーン総合病院に勤めていた医師セン

メルヴェイス・イグナーツが手洗いの重要性を提唱したのは、

一八四〇年代のことである。

センメルヴェイスは、出産後の母親の命を奪う産褥熱(さんじょく

ねつ)の原因が、赤ん坊を取り上げる際の医師の不潔な手にあると

考え、病棟の医師たちに手洗いを励行する。その結果、産褥熱の死

亡率は劇的に減った。しかし、当時はまだ科学的な裏付けがなく、

彼の主張はなかなか受け入れられなかった。さらに、自分たちの手

が不潔だと指摘されたことに腹を立てた医師たちからの激しい反発

に遭う。負けじと各地の病院をまわり、手洗いの重要性を訴えるセ

ンメルヴェイスは危険人物と見なされるようになる。最終的には、

精神病院へ強制入院させられ、失意のなか四七歳で亡くなった。死

因は精神病院で衛兵から受けた暴力だと言われている。フランスの

細菌学者ルイ・パスツールが、細菌と病気の関係を突き止め、セン

メルヴェイスの主張に科学的根拠を与えるのは、彼の死後二〇年を

経た一八八〇年代半ばであり、和が看護婦になった頃のことである。

つまり、ナイチンゲールが著書において手洗いの重要性を説いたこ

とは、かなり先進的だったと言える。ナイチンゲールにせよ和にせ

よ、現場の看護婦たちは経験的に手洗いの重要性を感じ取っていた

のだろう。(178〜179p)

  

ナイチンゲールが活躍したのはクリミア戦争。

1853年〜1856年の戦争。

その後、1859年にナイチンゲールは「看護の覚書」を出版。

その本の翻訳本「看護の栞」が日本で出版されたのは、

1913年。

大関和さんは、もっと早くこの本を読んでいることになるので、

英語本を読んだのでしょう。

これでいろいろ辻褄が合います。

  

手洗いを推奨した医者については、以前本を読み、記事にしました。

ここでも道草 「ゼンメルワイスの闘い」① 産褥熱/今でこそ「感染防護の父」ですが・・(2020年3月12日投稿)

「大関和物語」では「センメルヴェイス」でしたが、

6年前に読んだ本では「ゼンメルワイス」でした。

なので同じ人か?と思ってしまいました。

外国人の名前は難しい。

  

明治二七年八月、日清戦争が始まる。日本赤十字社は広島、松山、名

古屋など各地の陸軍予備病院に看護婦を派遣した。先述のとおり、日

赤は戦時救護を目的に設立されており、日清戦争が最初の本格的な活

動であった。

このとき、戊辰戦争の会津鶴ヶ城籠城戦を戦った新島八重は、日赤の

篤志看護婦として広島陸軍予備病院に赴任している。八重は夫新島襄

の亡きあと、日赤の正社員となっていた。彼女は看護婦たちに、「敵

なればとて、傷を受くる者、仁愛の心をもって助けよ」という陸軍大

将大山巌の訓示を伝えている。同病院へは、宇品港(現広島港)をと

おして日清両国の傷病兵が連日一〇〇人以上運び込まれ、看護婦たち

が不眠不休の看護を行った。戦場ではないため、戦いに巻き込まれる

ことはなかったが、四人の看護婦が伝染病により殉職している。八重

は半年間の命懸けの看護が認められ、ほかの篤志看護婦らとともに、

皇族以外の女性として初めて叙勲を受ける。賊軍扱いされた旧会津藩

士やその家族たちにとって、八重の叙勲には特別な意味があった。

新島八重、そして皇族の小松宮妃頼子といった上流階級の女性たちが

篤志看護婦として活動したことにより、看護婦に対する賤業視が一気

に払拭される。そして、看護婦といえば従来の「看病婦」ではなく、

トレインド・ナースを意味するようになり、一転して憧れの職業とな

った。また、戦場から持ち込まれた伝染病が国内に蔓延したことから、

看護婦の需要が高まり、全国で次々と派出看護婦会が設立された。

日清戦争は開戦翌年の明治二八年には終結したが、この年、全国のコ

レラ患者はおよそ五万五〇〇〇人。うち四万人が死亡。腸チフス患者

は三万七〇〇〇人。うち八〇〇〇人が死亡した。この数字は、日清戦

争における日本兵の戦死者およそ一万三五〇〇人を大きく上まわって

いる(『医制百年史』)。戦死者も、その九割が脚気や赤痢などの病

死であった。(192〜193p)

  

新島八重さんの、大河ドラマでは十分に語られなかった功績が

わかりました。看護婦を見る目も変えることができたのですね。

日清戦争の戦死者のうちの病死の多さ。

明治28年の伝染病での患者の死亡率の異常な高さ。

今以上に病気が怖い時代だったと思います。

  

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