「白村江」① 高句麗の戦いの歴史
今日は令和2年2月26日。
また400p越えの本を読破しました。
「白村江」(荒山徹著/PHP研究所)
小説に登場した人物は、実際にいた人たちであり、
その人たちがそれぞれ意思を持って行動し、
絡み合い、一つの大きな歴史的な事件を
かたちづくっていきました。
白村江の戦いの直後は、
日本はあたふたしているイメージでしたが、
この小説そのイメージが覆されました。
白村江の戦いの理解が深まって良かったです。
気になった文章を、いくつか引用します。
新羅(漢族)の金春秋が高句麗に援助を求めに侵入。
高句麗の宰相の泉蓋蘇文(せんがいそぶん)の
息子泉男産(せんだんさん)が高句麗の歴史を語る場面です。
「あなたがた漢族の目には、扶餘族の国である我が高句麗など
半島の侵略者として映じることでしょう。しかし高句麗もまた、
血みどろの被侵略の歴史を負っているのです。初代王は王莽(
おうもう)の新を対手に奮戦し討死を遂げ、後漢とはしばしば
干戈(かんか)を交えました。曹魏に王都を攻め落とされ、前
燕(ぜんえん)には王宮を焼かれたのみか前王の墓を暴かれて
屍を奪われた。そして隋帝の親征を迎え撃ったの僅か30年前
のことです。そのようにして我が国は、周辺諸民族を未開野蛮
と夷狄視(いてきし)する尊大な中華王朝の侵略を受け続け、
手傷を負いつつ、これを敢然と撥ねつけてきました。中華の矢
面に立って、半島を防衛する守護者としての役割を果たしてき
たのです。」
(89~90p)
蘇我蝦夷が息子の入鹿に、
建設中の巨大な2人の墓を見せた時の会話です。
(入鹿)「正直申し上げて、わたしともあろう者が、今はひた
すら圧倒されております」
「莫迦(ばか)め」叱るように云いながら、蝦夷は嬉しそうだ
った。「墓の主が気後れしてどうする。ともかく、これが我ら
の力だ。力というものは、誰の目にも見えるよう可視化してお
かねばならぬ。蘇我には迚(とて)も敵(かな)わぬーーーー
常にそう思わせておくのが肝要だ」
「統治の第一条というやつですか」
「もちろん、力をひけらかすだけが能ではない。目に見えぬか
ら恐ろしい、という力もある」
「第二条、と」
「要するに車の両輪だ。可視と不可視、その二つの力を併用し
てこそ支配というものは上手くゆく。覚えておけ」
(116~117p)
今も、蝦夷と入鹿の墓と思われる墳墓が2つ並んでいます。
その墳墓の前で語られたと思われるセリフです。
蝦夷が、入鹿がかくまっている百済の王子、豊璋(ほうしょう)
について語る場面。
「奢侈華美な百済の王宮で、乳母日傘(おんぼひがさ)で育て
られたひ弱な幼子だぞ、死んでしまうのではないか」
(126p)
「奢侈(しゃし)」が登場!
※ここでも道草 難読漢字「紙垂」「奢侈」(2020年1月16日投稿)
☝ ここで話題にしました。
こうやって頻繁に目にすることで、記憶に残ります。
「乳母日傘」は漢字四字熟語。昔の参考書にはなかったなあ。
意味は「子供、特に幼児が必要以上に過保護に育てられること。
乳母に抱かれ、日傘をさしかけられるなどして、
ちやほやされながら大切に育てられる意から。 引用:goo辞書
つづく
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