「橙書店」にて③ 「私たちとさほど差異のない人たちなのだ」
今日は令和2年1月20日。
前記事に引き続いて、「橙書店にて」
(田尻久子著/晶文社)より引用します。
Aさんは、本屋をはじめてから来るようになったお客さんだ。
年は70代後半というところか。いつもこざっぱりした服を着
て、ひょうひょうとしている。ブコウスキーやケルアックがお
好みで、浅川マキもごひいきだ。
ここはみょうな本ばっかり置いとるけん、つぶれんごつ買わん
といかん。
そう言いながら買ってくださる。売れなさそうさ変な本ばかり
を並べているから店が成り立たないだろう、つぶれないように
私が買ってあげようという意味だ。だいたいいつも一冊購入さ
れるが、買いたい本がないときは喫茶だけ利用される。煙草を
吸いながら、珈琲を一杯。
(67p)
いいですね、この雰囲気。
そのAさんが、ある時戦争の体験談を話していった。
近所の女の子が空襲で死んでしまった話でした。
爆弾は真っすぐに落ちるものだから、空襲のときは道の端に避
ければそうそう当たるものではないという。女の子はその日、
真新しい下駄を履いていた。そして、逃げる最中に、脱げた下
駄を拾いに戻って爆弾に当たった。真新しい下駄を履いていた
ばかりに、女の子は死んだ。
(中略)
Aさんは、たあ世間話だった体(てい)であっさりと帰ってい
かれた。ひとり取り残されて、下駄の鼻緒は何色だったろうか
と想像する。道端の女の子と、離れたところに転がる下駄。そ
れを見ている少年。いつもひょうひょうと話していたが、A少
年のまなこに映ったその姿はいまもなお鮮明なはずだ。少年時
代のAさんになったつもりでその姿を記憶にとどめた。
(68p)
私も本を読むことで、その姿を記憶に留めました。
本と戦争のことでたっぷり引用します。☟
戦争の本を読む、映画を見る、テレビの報道番組を観る。いま
まで、たくさんやってきたことだ。でも、面と向かって体験談
を聞くという体験は、そのどれとも違った。記憶の断片は、そ
の人とともに、私の記憶にしまわれる。少年だったAさんの見
た映像を、何十年という時を経て、Aさんの言葉とその存在で
私の眼球に映してもらった。
何かが起こったとき、居合わせた人の数だけ物語が存在してい
る。こんなふうに話してもらえることはまれだから、本を読む。
過ちを繰り返さぬよう、知りたいから読む。立場が違うと景色
も変わるから、どちら側からも見たい。戦争が起きたとき、権
力者の目と戦う兵士の目は違うものを見る。大岡昇平の『野火』
を読めば、ごく平凡な生活を送ってきた人間が人肉を食べるに
至るという行動を通して、戦場がいかに人を異常な状況に追い
込むかを脳裏に刻むことができる。
テロの続くテルアビブに住むエトガル・ケレット。彼の自伝的
エッセイ『あの素晴らしき七年』を読んだ。それまで漠然と抱
いていたテルアビブのイメージは覆され、奇妙でおかしな出来
事に笑い、見知らぬ場所に住む人たちの気持ちにいつの間にか
寄り添っている。彼らは私たちとそう変わりない。
著者の両親はホロコーストを生き延びた。生き残り二世である
彼は、戦時下の街で家族と暮らしている。息子が生まれようと
する病院には、テロで怪我をした人々が担ぎ込まれる。公園で
のママ友との話題は、子どもを将来、兵役につかせるかどうか
だ、だ。イスラエルでは、暴力を見て見ぬふりはできない。で
もその一方で、電話の勧誘をうまく断れない話や。奥様方にま
ぎれてピラィスをする話が滑稽に語られる。暴力で満ち溢れた
世界をユーモアや優しさでかきまぜながら、あるいは社会を風
刺しながら、軽快な筆致で描写していく。遠い異国の戦時下の
話なのに、親戚のおにいちゃんの話を聞いているような親近感
をおぼえる。泣いたり、笑ったりして、酒を呑みながら聞いて
いるように。そして彼らは見知らぬ人々ではなくなる。戦争を
しているのも、テロ行為に及ぶのも、私たちとさほど差異のな
い人たちなのだ。
(70p)
最後の一行のために、たくさんの文章を引用しました。
「戦争をしているのも、テロ行為に及ぶのも、
私たちとさほど差異のない人たちなのだ。」
本によって、登場人物の気持ちまで描かれていて、
考えていること、考え方はそんなに差異がないのだと
読書ではよくわかると思います。
その点の力は、映像以上のものがあると感じます。
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