川村たかしさんは「サーカスのライオン」の作者でした
今日は令和元年10月7日。
川村たかしさんの「新十津川物語」シリーズの第5巻である
「朝焼けのピンネシリ」(偕成社)を読み始めました。
全10巻のシリーズなので、半分までやってきました。
「川村たかし」さんの名前を聞くと、
私のように愛知県に住む身ですと、
名古屋市市長の河村たかしさんが思い浮かびます。
でも「川村たかし」さんの名は、実はもっと私にとって身近でした。
東京書籍の小学3年国語の教科書に、
教材として載っている「サーカスのライオン」の作者が
川村たかしさんだったのですね。
「新十津川物語」を4巻まで読んで、初めて気がつきました。
「サーカスのライオン 川村たかし 作・・・・」
と、子どもたちと一緒に速音読を何度もしたと思いますが、
思い浮かびませんでした。
「サーカスのライオン」(ポプラ社)から名場面を引用します。
炎に包まれたアパートから、ライオンのじんざが男の子を助けるシーン。
へやの中で、男の子は気をうしなってたおれていた。
じんざはすばやくだきかかえて、外へでようとした。
けれども、おもてはもうほのおが
ぬうっとたちふさがってしまった。
石がきの上のまどから、首をだしたじんざは、
おもわずみぶるいした。
高いのでさすがのライオンもとびおりることはできない。
じんざは力のかぎりほえた。
ウォーツ
その声で気がついたしょうぼう車が
下にやってきて、はしごをかけた。
のぼってきた男の人にやっとのことで子どもをわたすと、
じんざは両手で目をおさえた。
けむりのために、もうなんにもみえない。
見あげる人たちが、声をかぎりによんだ。
「早くとびおりるんだ。」
だが、風にのったほのおは、まっかにアパートをつつみこんで
火のこをふきあげていた。
ライオンのすがたはどこにもなかった。
やがて人びとのまえに、ひとかたまりのほのおがまいあがった。
そいて、ほのおはみるみるライオンのかたちになって、
空高くかけあがった。
ぴかぴかにかがやくじんざだった。
もう、さっきまでの、すすけた色ではなかった。
金色にひかるライオンは、空をはしり、
たちまちくらやみの中にきえさった。
(30~33p)
「サーカスのライオン」について、川村たかしさんは、
あとがきで次のように書ています。
町にサーカスがやってきたのは、3~4年前の冬の初めのことです。
わたしはもうわくわくして、小屋がけのときから、
あたりをうろつきました。
無造作においた鉄格子のはまった箱には、
動物たちがはいっていました。
上にかぶせたシートをそうっとめくると、
古びた一つの箱にぼろぞうきんをつくねたように、
ライオンが眠っていました。
やがて、いよいよサーカスが始まると、年とったライオンは
点火した火の輪の中を何回もとびました。
調教師が合図をしないうちから、もうジャンプをするのです。
鉄のわくを組み合わせた檻の中で、調教されているのは
まるで人間のようです。
演技が終わると、ライオンはまたごろりと横になっていました。
そのすがたから、
「ああ、こうして年をとっていく」
と、いうライオンの声がきこえました。
その倦怠(けんたい)にふしぎに心を魅かれました。
まるでそれは、この全体に年とったサーカス団の
象徴のようでもあり、わたしたち人間に通じる
やりきれなさにみちていました。
この絵本はそのときから小さな芽を育てていました。
そしてわたしにとって、おいぼれたライオンは、
やはり燃えて天翔(あまが)ける一塊(かい)の
炎でなければならなかったのです。 (36p)
このあとがきを読んで、川村たかしさんが
どのような気持ちで「サーカスのライオン」を書いたのか
今さらながらわかりました。
このまんま年をとって朽ちていってはダメなんだ。
言われたことだけやっていて、
あとはのんべんだらりとしていては
ダメなんだ。
そんな生き方をしてはいけない。
せめて最後は輝いてほしい。
川村さんは昭和6年生まれ。(おっと私の父親と同じだ)
「サーカスのライオン」が発行されたのが昭和47年。
およそ40歳の意気盛んな川村さんは、
サーカスのライオンに象徴される倦怠感を嫌い、
ドラマチックにしたかったと思います。
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