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2019年7月21日 (日)

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その4/100m敗退 800mへの参加

 

今日は令和元年7月21日。

  

前日に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

人見絹枝に対する批難中傷がありました。

次のようなハガキが届きました。

Rimg2417

「男か女か」

「日本婦人の個性を破壊」

という言葉に目が行きます。

Rimg2418 それらの批難中傷に対して、新聞記者として

人見絹枝は、あの文章を書いたのです。

 

いくらでも罵(ののし)れ

私はそれを甘んじて受ける

しかし、私の後から生まれてくる

若い選手や日本女子競技界には

貴方等のような者に

指一つ触れさせない。

  

昭和3年(1928年)5月20日。

オリンピック日本代表選考会100m決勝で、

人見絹枝は世界新記録を樹立します。

Rimg2419

日本中の期待が高まりました。

  

いよいよアムステルダムオリンピック開幕です。

女子の参加選手は、人見絹枝ただ一人。☟

Rimg2420

☝ 昭和3年(1928年)6月1日のことです。

  

この番組では、人見絹枝の手記がたびたび紹介されます。

出発の際の手記を載せます。

  

私はすべての私情を捨てた。

再びこの大阪に帰るまでは

親も社も親しい友のことも

すべてのことを忘れよう。

そして唯一つのこの戦いのために

自分の最後の努力を注ごう。

Rimg2421

  

  

 

アムステルダムオリンピック開幕は、

昭和3年(1928年)7月28日でした。

7月29日から陸上競技スタート。

日本男子陸上は3種目で敗退。

7月30日は女子陸上100m予選。

人見絹枝の番です。

その日の朝の朝食で、陸上競技総監督の

竹内広三郎が次のように言ったそうです。

  

人見さん、あなたが日の丸を

揚げてくれなかったら、

もう日本選手には、

日の丸も君が代も与えられない

どうか今日の100メートルは、

そのつもりで

ベストを尽くしてください。

  

いやあ、プレッシャーですね。

実際、人見絹枝は朝食を食べれずに競技に参加したそうです。

大河ドラマ「いだてん」でも総監督がプレッシャーを

かけるシーンがありました。

総監督は総監督で、プレッシャーをかけられていたのでしょう。

   

100m予選の時の写真です。☟

Rimg2422  

びっくりです。

当時は、スタートブロックではなくて、

穴を掘っていたのですね。

Rimg2423  

準決勝。2位までに入らなければ、決勝進出ができません。

予選の記録では、人見絹枝がトップでした。

しかし、結果は4位。決勝に進めませんでした。

Rimg2424  

落胆した人見絹枝ですが、悩んだ挙句、

7月30日その日のうちに

800mへのエントリーを竹内広三郎総監督に申し出ます。

その時の様子を、織田幹雄は次のように書いています。

 

いまだ一度も走ったことのない

苦しい800メートルに出て

世界の強豪を相手に

走ろうというのだから、

その無謀さには、竹内さんならずとも、

反対せざるを得なかった。

しかし、人見さんの決意は固く

このままでは日本に帰れぬと

泣いて訴えたので、

出場を認めるほかなかった。

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つづく 

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