「驚きももの木20世紀」その2/母は強かった
今日は2月4日。
前投稿に引き続き、
1993年10月29日放映の
「驚きももの木20世紀 チャレンジャー爆発」をここに書き留めます。
1978年スペースシャトル計画のスタート。
宇宙飛行士を募集。
一般の人から初めて集められた。
募集したのは8000人!
その中から選ばれたのが35人。
チャレンジャー号に乗っていた7人も、その中のメンバー。
ではエリスン・オニヅカはどこで生まれ、
なぜ宇宙飛行士を志したのか?
生まれはアメリカのハワイ島コナ。
1946年生まれ。
ゲストの中村浩美さんが、「同じ年生まれ」と言っていました。
したがって、現在生きていたら71歳。
両親は日系2世。中央がエリスンさんを思われる。
オニヅカ家は、コーヒーを栽培しながら、
小さな雑貨店を経営してました。
オニヅカさんが9歳の頃、実験を行いました。
家の床下で、花火を使ってロケット実験を行いました。
床からはもうもうと煙。
しかし、母親は頭ごなしに怒ることなく、
訳を聞いてくれる母親だったと、
エリスンさんの姉や弟が証言しています。
宇宙へのあこがれがうかがわれるエピソードですが、
1961年4月12日。私が生まれた3日後。
ガガーリンは言いました。
「地球は青かった」
番組からは一時離れますが、この有名な言葉の続きがあることを
最近知りました。
「ここに神は見当たらない」です。
日本では「地球は青かった」が有名ですが、
世界では「ここに神は見当たらない」の方が有名なのだそうです。
※参考:Wikipedia ガガーリン
番組の内容に戻ります。
同じく1961年5月5日。
アメリカ、ケネディ大統領の演説。
1960年代の終わる前に、
アメリカは人類を月に着陸させ、
安全に地球に帰還させるという
目標を達成するであろう。
この言葉が、エリスンさんの心に火をつけました。
1964年。エリスンさんはハワイから出て、コロラド大学に入学。
宇宙工学を学ぶためでした。
しかし、卒業を控えたエリスンさんのもとに、
悲報が届きます。
1968年2月20日。
父親マサミツさんが亡くなったのです。
エリスンさんは悲しみに暮れ、そして悩みます。
年老いた母親をほっておいて、そのまま勉強をしていていいものか。
オニヅカ家のことをよく知るノーマン・サカタさんの証言。
オニヅカは大学をやめて、
ハワイに戻る決心をしていたようです。
でもあの時、お母さんは、オニヅカにこう言ったのです。
「小さな雑貨店のひとつぐらい、母さん一人でやっていけるよ。
余計なことを考えずに、好きな勉強を続けなさい」って。
次にナレーターの森本レオさんの語り。
母は強かった。
母の言葉を胸に、オニヅカは再び夢に向かって羽根を広げた。
この母がいたから、ハワイ初の、そして日系人初の
宇宙飛行士が生まれた。
ここが感動のシーンでした。
自分一人では、夢は成し遂げられない。
誰かの力を借りながら、自分が努力して成し遂げられるもの。
言い古されていることかもしれませんが、
実際の典型例をここで知ることができました。
エリスンさんは、ディスカバリー号に搭乗しました。
チャレンジャー号は2回目の搭乗でした。
宇宙で箸を最初に使った人物でもあります。
つづく。
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