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2012年4月

2012年4月27日 (金)

齢(よわい)

  

今日は4月27日。

  

4月10日の朝、俳優の高橋克実さんが10月にパパになることが報じられました。

高橋さんのコメント。

  

「齢51にして父親になる、という嬉しさはもちろんのことですが、

人の親として、一人の人間として、これからも精進を重ねなければ、と思いを新たにしているところです」

   

4月9日に誕生日を迎え、無事に51歳になったばかりなので、

親近感をもってニュースを見ました。

気になったのが「齢」です。「よわい」と読みますが、なぜでしょう?

調べました。

   

このサイトが参考になりました。

「日本橋で診療をおこなう歯科医のブログ 齢(よわい)の語源」=2

引用します。

歯がなくなると顎間距離(上下のあごの間隔)が短く(狭く)なり、

健康感が失われます。顎間距離が短くなると「ふけ顔」になります。

ふけ顔は弱そうに見えるでしょ?

そうなんです。

それを年齢が増すと「弱弱しく見える」ので昔の人は「齢(よわい)」の字を当てて、

「年齢を表現する字」にしたのです。

弱弱しい人を見て「もうすぐ死ぬ年齢に達したんだなー!」とかんじたのでしょうね。
   

そうなんですね~。

でも51歳で「齢(よわい)」はまだまだ。

   

人形供養/魚編に「春」で「鰆(さわら)」

   

今日は4月27日。

   

4月8日のこと。

家にあった古いぬいぐるみ、雛人形、お土産のこけしなどを、

人形供養として、岡崎市の一畑薬師へ持って行きました。

初めて行く一畑薬師でした。

すごい人で、離れた場所に駐車して、人形等が入った大きな箱を運びました。

RIMG0572 RIMG0574

なぜこんなに人が多いんだと思ったら、

「今日は大祭だからね」と言われました。

   

一畑薬師からの帰路、岡崎市内にスーパーはないかなと、

自動車のナビで調べて出向きました。

RIMG0576
  

初めてのスーパー。

ちょっとドキドキします。

どんな店構えか、どんなものが売っているか、どんな値段か?

いつも行くスーパーとは違うところ。なかなか面白い。

夕食担当なので、何かいい材料がないかと探しました。

   

見つけたのは、魚編に「春」の「鰆(さわら)」

美味しそうだし、安い!

これが夕食のメインになりました。

塩麹に漬けての焼き魚。

http://cookpad.com/recipe/1741148

漬けすぎたかなと心配しましたが、塩辛くなくおいしくできました。

レシピにあるように、まろやかな味でした。

さらに、子持ちシシャモも焼いて、4月8日の晩は魚を気持ちよく食べました。 



オルセー美術館9・・・「モントルグイユ通り 1878年6月30日の祝日」(モネ)

  

今日は4月27日。

   

前投稿のつづき。

自然光あふれる絵として紹介された1枚。

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「モントルグイユ通り 1878年6月30日の祝日」(モネ作 1878年)  81×50.5cm

  

またまた素晴らしい絵です。

こちらは木洩れ日ではなく、たっぷりの日差しがまぶしい絵です。  

1978年に何があった?

  

普仏戦争(1870~1871年)に敗れて暗くなっていたフランス。

しかし、フランスは復興し、この年万国博覧会開催にこぎつけています。

ある資料では万国博覧会開催のお祝いの絵だとありました。

Wikipediaでは、フランス革命によって誕生した共和国を讃えるお祝いとのこと。

とにかく元気になったフランスがよくわかる絵です。

 

 

 

 

オルセー美術館8・・・「ぶらんこ」(ルノアール)

      

今日は4月27日。

   

オルセー美術館に関する番組をまた見ました。

3月27日放映の「天海祐希 パリと女と名画たち」です。

 

印象派の人たちの絵に自然の光が多く描かれている理由が、

19世紀半ばに始まったパリの「大改造」にあるという話。

「大改造」前の面影を残す路地が紹介されました。

RIMG0616 RIMG0617
  

パサージュ・ド・ラ・トリニテ」という名前の路地です。

道幅は約1.8mほどの狭さ。

両側の建物は高くて陽の光が入らず薄暗かったです。

19世紀半ばまでのパリでは、

このような道が迷路のようにはりめぐらされていました。

RIMG0619

昔は家にトイレがなく、排泄された糞尿は窓から中庭や通りに投げ出されていました。

中庭には、糞尿が積もって5階まで届きそうな時もあったとのこと。

不衛生な街だったため、コレラが発生しやすく、

1849年の大流行では、1か月で人口の7%が亡くなったそうです。

  

19世紀に入り、産業革命が進むと、

パリに人口がどっと流れ込みました。

RIMG0620

人口は100万人を越え、生活環境も劣悪になりました。

そこで1850年にパリの「大改造」が始まりました。

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道幅も拡がり、下水道も整備されました。

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パンテノンの上階からみたパリの街並み。

大きな窓を設置して意図的に部屋に明かりを取り入れようとしています。

こうした明るい部屋を画家はアトリエとして利用していたそうです。

「大改造」によって、明るくなったパリで、

印象派の自然の光あふれる絵が生まれたというわけです。

   

この後、番組で紹介されたオルセー美術館にある絵が2つ。

その一つが「ぶらんこ」

RIMG0626
  

11724570こちら
「ぶらんこ」(ルノアール作 1876年) 92×73cm

   

これは中庭の風景だそうです。

不衛生な場所がこうも変わったのかと驚かされます。

この絵の自然の光は「木洩れ日」です。

RIMG0627
   

私の山登りの楽しみの一つは、「木洩れ日」を味わうことです。

   

番組で紹介されたもう一つの絵は、次の投稿で。

  

 

玉ねぎの切り方/イカの下ごしらえ

  

今日は4月27日。

   

今回の夕食はハヤシライスに挑戦。

そうそう、玉ねぎを切りましたが、その切り方に名前があることを知りました。

櫛(くし)型切り」です。

確かに「櫛」の形に似ています。

IL_kazari-1
http://seitengai.com/tsugegushi/home/Sshousai.asp?id=7727

   

ヤマサのHPにありがたい映像がありました。

玉ねぎのくし型切りの映像です。

玉ねぎの芯をとってから切るやり方を知りませんでした。

「ヤマサ ムービーギャラリー くし型切り」ri/   

   

他にも興味のある映像がありました。

先日イカをさばきました。

※「イカリングとポテトサラダ」

そうなると、この映像が気になります。

「ヤマサ ムービーギャラリー イカの下ごしらえ」ika/

さすが本職。

うまいもんだ。

イカの足のいぼは、口に当たるので、

取ってしまうと食べやすい・・・と言いつつ、さっさと包丁で取ってしまいます。

またイカをさばいてみたいね。   

 

 

沢村栄治8.最後/最期

  

今日は4月27日。

   

前投稿のつづき。

昭和13年(1938年) 沢村栄治さん、中国戦線へ~昭和15年除隊。

昭和15年(1940年) プロ野球に復帰。7勝1敗。

昭和16年(1941年) 9勝5敗。2度目の入隊。フィリピン戦線へ~昭和18年除隊。

              ※広瀬習一巨人軍に入団。16~17年と活躍する。

昭和18年(1943年) プロ野球に復帰。0勝3敗。

   

投手として最後に出場したのは、昭和18年7月6日の阪神戦。

1回に2死までとったが、その後ストライクが入らなくなりました。4連続四球で押し出し。

   

四球の押し出し、という屈辱的なことは、栄治にとってじつに生まれて初めての経験だった。

ストライクがどうやってもとれない。

栄治にとって辛く悲しい時間が続いた。

「針の穴を通す」とまで言われ、抜群のコントロールを誇った栄治が、一個のストライクをとれないでいた。

どうしたことだろう、巨人軍のベンチも観客席も息を呑んでじっと栄治の投球を見つめていた。

野次る者など、一人もいなかった。

異様な静けさが球場全体を覆っていった。

今、五千五百人を超えるファンは、大投手の終焉を目の当たりにして言葉を失っていた。

それは、あたかも大木がぎりっ、ぎりっと軋(きし)みながら朽ち果てていくようだった。 (264p)

   

昭和18年10月24日。「代打沢村」と監督が告げました。

阪神戦。ピッチャーは、以前ブログで書いた若林忠志投手。

第1球を投げた。

   

栄治のバットが素早く回転した。栄治は初球から打っていったのだった。

青く高い空に、ボールがゆるゆると上がった。三塁へのファウル・フライだった。

これが最後だった。すべて終焉だった。

「天才投手」として才能をうたわれ、職業野球に身を投じた栄治の戦いは、

今静かにその終わりを告げたのだった。 (268p)

   

昭和19年10月2日。沢村栄治さんのもとに3度目の召集令状が届く。

11月13日。京都・伏見連隊に入営。

12月1日。沢村栄治さんが所属する輸送船団が、門司港からフィリピンへ向かう。

12月2日。輸送船が、アメリカ潜水艦の魚雷を受ける。沢村栄治さん戦死。

   

   

大人の都合と戦争によって、野球で十分に活躍できなかった沢村さんの人生を勉強できました。

 

沢村栄治7.卒業証書が届いていたなら

  

今日は4月27日。

   

前投稿のつづき。

昭和12年。プロ野球2シーズン目。

沢村栄治さんの成績は、1年で33勝(春季24勝秋季9敗)。投球回数384回、奪三振335、与四球123、防御率1,38。

しかし、優勝は大阪タイガース。

昭和13年。沢村さんは1回目の召集で陸軍に入ります。

   

軍隊においては、基本的に学歴に関係なく本人の努力次第で昇進できる、とされてきた。

しかし、甲幹と呼ばれる士官クラスへの道は、大学、専門学校を卒業した者のみに開かれていた。

中学を中退した栄治に、その資格はなかった。

それは常に戦いの最前線に送られることを意味していた。

入団のとき、「卒業証書をもらえるよう努力してみる」と言った球団幹部の言葉を

栄治は忘れてはいなかった。

しかし、その後巨人軍から卒業証書の話は出なかった。

このことは栄治は口にすることはなかった。

今となってはあまり意味のないように、栄治は思い込んでいたからだ。

だが、仮に卒業証書が栄治のもとに届いていれば、三度も戦線に駆り出されることはなかった。 (229p)   

   

ここが特に引用したかった文章です。

大人の都合で中退をさせられ、そして3回も召集させられ、戦死した沢村栄治さん。

最後まで面倒を見るといった巨人軍が、結局沢村さんを首にしています。

黒鉄ヒロシさんが、

「プロ野球好きの人は、沢村の歴史をなぞるべきだと思います」と言いました。

それをきっかけに本を読んでみました。

大人の都合に振り回された沢村栄治さんが見えてきました。

生き残って、そんな大人を見返してほしかったと思います。

沢村さんの戦死を、大人たちはどう見たのだろう。  

    

正力松太郎は、栄治の活躍を後世に伝えようと、「沢村賞」を創設した。

この賞は、連盟の選定する最優秀投手とは別個に、勝率、防御率にとらわれず、

栄治に匹敵する豪速球投手を表彰する、としている。 (283p)

  

これって、大人の都合で若者を振り回した贖罪の気持ちもあるのだろうか。

   

   

Wikipediaにはこう書いてありました。   

中学卒業後は慶応大学への推薦入学がほぼ決まっていたが、

正力松太郎が巨人入りを強引に口説き、「一生面倒をみる」とまで言ったという。

巨人は戦地から負傷して帰った沢村を解雇して顧ず、

また3度も召集を受けたのは学歴が中学校卒に止まったからという説をとれば、

巨人入りは沢村の運命を決定づけたと言える。

沢村は巨人から解雇を告げられた際、流石に気落ちし、

父親に「大投手などと煽てられていい気になっていた、わしがあほやったんや」と語ったが、

自分を責めるだけで正力や巨人に対する恨みごとは言わず、入営時には笑顔を見せていたという。

   

この文章の出典は「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」です。

次はこの本を読んでみたい。

 

沢村栄治6.昭和11年巨人軍優勝/洲崎球場

   

今日は4月27日。

  

前投稿のつづき。

昭和11年がプロ野球が始まった年です。

沢村栄治さんの成績は、

試合数19、13勝3敗、完投11、投球回数138回と3分の1、奪三振123、防御率1,17。

この年は東京巨人軍と大阪タイガースでの優勝決定戦が行われました。

3試合で2勝した方が優勝。

沢村さんは3連投の活躍で、東京巨人軍がプロ野球初年度を優勝で飾りました。

  

優勝決定戦の舞台になったのが、洲崎球場。

現在の住所で東京都江東区新砂というところらしいです。

「洲崎球場跡」という碑が立っているようです。

「野球場Walker」html

   

沢村栄治とその時代」には、洲崎球場がこう書かれています。

  

潮の香りに包まれたのんびりした風景であった。

収容人員は6千人。内・外野席とも木造の板張りだった。

時おり、板と板の隙間から冷たい潮風が吹き込んでくる。

洲崎球場は、海抜わずか60センチの埋め立て地にあった。

スパイクシューズで強くこねると貝殻が出てくる。

満潮時には海水が押し寄せ、試合が中断されることもあった。

このとき選手たちは細長い猪牙船(ちょきぶね)に乗って避難した。

グランドはもちろんのこと観客席の一部までが水びたしとなってしまった。 (200p)

  

すごい球場もあったもんだ。プロ野球のスタートに間に合うように急いで作られた球場。

満潮の時?高潮の時ではないのかな?

平成11年~13年で閉鎖。伝説化した球場。

沢村さんも伝説化しているので、似合っている球場です。

(次の投稿につづく)

 

 

沢村栄治5.京都商業中退/参考記録

  

今日は4月27日。

  

昨日の投稿のつづきで沢村栄治について。

沢村栄治とその時代」(東京書籍)から引用。

   

慶応大学に進み、腰本監督のもとで思いっ切り野球をやりたいという栄治の気持ちが、

父の賢二には痛いほどわかっていた。

本来なら息子のその気持ちを叶えさせてやるのが父親であるわしの役目だろう、と賢二は考えた。

しかし、相変わらず商売はうまくいっていなかった。

栄治を大学にやる余裕など今の賢二にはとてもなかった。

そういうことを慮(おもんばか)る息子だということも知っていた。

このことが賢二の心を重くしていた。 (中略)

栄治は1か月前の話を思い出していた。

それは、読売新聞運動部長である市岡忠男が栄治に言ったものだ。

「沢村君、君の将来のためにも京商を卒業したいという気持ちは十分すぎるほどわかる。

そこで、どうだろう。私が辻本校長とかけあって卒業免状をもらえるよう頼んでみよう」

栄治は訝(いぶか)しげに、

「本当にそんなことができるのですか」

と市岡に訊いた。

「病気で休んでも卒業免状は出ると聞いている。もらえるよう、努力してみよう」

と市岡は答えたのだった。

・・・・・栄治は、とりあえず職業野球に入り、後で大学に行けばええ、と考えた。 (96-97p)

   

ベーブルースをはじめとするアメリカメジャーチームとの対戦のため、

高校を中退させてまで沢村栄治さんを投げさせようとした大人の都合。

結局卒業免状は手に入らず、沢村さんは中卒。それが沢村さんの運命を変えてしまいます。

   

栄治は、京都商業を中退した。この中退が、この時点ではまったく想像もできなかったことだが、

栄治にとって後に起こる悲劇の原因となったのだった。 (99p)

    

昭和 9年(1934年)アメリカメジャーリーグチームと対戦。その時のチームがもとで、大日本東京野球倶楽部が結成。

昭和10年(1935年)大日本東京野球倶楽部、アメリカを転戦する。その後国内を転戦。

昭和11年(1936年)大日本東京野球倶楽部は「東京巨人軍」に正式改称。

             7球団による日本職業野球連盟が発足。巨人軍はアメリカ転戦後にリーグに参加。

  

昭和11年7月1日の日本職業野球結成記念東京大会から、

日本のプロ野球は公式記録とされています。

しかし、沢村さんは、それまでの2度のアメリカ転戦、国内転戦でかなり投げています。

沢村さんを見たいために観客が集まってきたので、沢村さんが投げる回数が増えます。酷使されました。

   

二度にわたるアメリカ遠征。そしてその間に行われた国内遠征での栄治の成績は54勝20敗。

勝率0,843という驚異的なものだった。

わずか1年3か月足らずの間に栄治が残したものである。

しかし、600個を超す奪三振などの数々の記録は、

リーグ戦が始まっていないため、すべて参考記録として残るのみだった。

公式記録には一切カウントされていない。 (184p)

  

もちろん、同世代の野球選手は同じことと言えば同じですが、

酷使された記録が公式記録に残らないのは残念なことだと思います。

実際、私も、アメリカでこんなに試合をしていたなんて、この本を読むまで知りませんでした。

「沢村賞」の投手なのに、プロ野球で活躍した期間が短いとも思っていました。

誤解していました。 (つづく)

 

 

教室に扇風機

  

今日は4月27日。復帰まであと5日。

   

2か月余りの学校に行っていないといろいろな変化があります。

  

職員室の水屋の蛇口に浄水のために器具がついていました。

職員玄関に近い階段の下はいろいろ物が置いてありましたが、

すっかりきれいに片付いていました。

最大の変化は、教室に扇風機がついたことです。

いや~驚きました。

昨年度から聞いていましたが、実際に設置され、もう景色になじんでいました。

すぐに気がつきませんでした。

気温が上がってきました。

扇風機を使う日も近いでしょう。

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