沢村栄治7.卒業証書が届いていたなら
今日は4月27日。
前投稿のつづき。
昭和12年。プロ野球2シーズン目。
沢村栄治さんの成績は、1年で33勝(春季24勝秋季9敗)。投球回数384回、奪三振335、与四球123、防御率1,38。
しかし、優勝は大阪タイガース。
昭和13年。沢村さんは1回目の召集で陸軍に入ります。
軍隊においては、基本的に学歴に関係なく本人の努力次第で昇進できる、とされてきた。
しかし、甲幹と呼ばれる士官クラスへの道は、大学、専門学校を卒業した者のみに開かれていた。
中学を中退した栄治に、その資格はなかった。
それは常に戦いの最前線に送られることを意味していた。
入団のとき、「卒業証書をもらえるよう努力してみる」と言った球団幹部の言葉を
栄治は忘れてはいなかった。
しかし、その後巨人軍から卒業証書の話は出なかった。
このことは栄治は口にすることはなかった。
今となってはあまり意味のないように、栄治は思い込んでいたからだ。
だが、仮に卒業証書が栄治のもとに届いていれば、三度も戦線に駆り出されることはなかった。 (229p)
ここが特に引用したかった文章です。
大人の都合で中退をさせられ、そして3回も召集させられ、戦死した沢村栄治さん。
最後まで面倒を見るといった巨人軍が、結局沢村さんを首にしています。
黒鉄ヒロシさんが、
「プロ野球好きの人は、沢村の歴史をなぞるべきだと思います」と言いました。
それをきっかけに本を読んでみました。
大人の都合に振り回された沢村栄治さんが見えてきました。
生き残って、そんな大人を見返してほしかったと思います。
沢村さんの戦死を、大人たちはどう見たのだろう。
正力松太郎は、栄治の活躍を後世に伝えようと、「沢村賞」を創設した。
この賞は、連盟の選定する最優秀投手とは別個に、勝率、防御率にとらわれず、
栄治に匹敵する豪速球投手を表彰する、としている。 (283p)
これって、大人の都合で若者を振り回した贖罪の気持ちもあるのだろうか。
Wikipediaにはこう書いてありました。
中学卒業後は慶応大学への推薦入学がほぼ決まっていたが、
正力松太郎が巨人入りを強引に口説き、「一生面倒をみる」とまで言ったという。
巨人は戦地から負傷して帰った沢村を解雇して顧ず、
また3度も召集を受けたのは学歴が中学校卒に止まったからという説をとれば、
巨人入りは沢村の運命を決定づけたと言える。
沢村は巨人から解雇を告げられた際、流石に気落ちし、
父親に「大投手などと煽てられていい気になっていた、わしがあほやったんや」と語ったが、
自分を責めるだけで正力や巨人に対する恨みごとは言わず、入営時には笑顔を見せていたという。
この文章の出典は「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」です。
次はこの本を読んでみたい。
コメント