沢村栄治5.京都商業中退/参考記録
今日は4月27日。
昨日の投稿のつづきで沢村栄治について。
「沢村栄治とその時代」(東京書籍)から引用。
慶応大学に進み、腰本監督のもとで思いっ切り野球をやりたいという栄治の気持ちが、
父の賢二には痛いほどわかっていた。
本来なら息子のその気持ちを叶えさせてやるのが父親であるわしの役目だろう、と賢二は考えた。
しかし、相変わらず商売はうまくいっていなかった。
栄治を大学にやる余裕など今の賢二にはとてもなかった。
そういうことを慮(おもんばか)る息子だということも知っていた。
このことが賢二の心を重くしていた。 (中略)
栄治は1か月前の話を思い出していた。
それは、読売新聞運動部長である市岡忠男が栄治に言ったものだ。
「沢村君、君の将来のためにも京商を卒業したいという気持ちは十分すぎるほどわかる。
そこで、どうだろう。私が辻本校長とかけあって卒業免状をもらえるよう頼んでみよう」
栄治は訝(いぶか)しげに、
「本当にそんなことができるのですか」
と市岡に訊いた。
「病気で休んでも卒業免状は出ると聞いている。もらえるよう、努力してみよう」
と市岡は答えたのだった。
・・・・・栄治は、とりあえず職業野球に入り、後で大学に行けばええ、と考えた。 (96-97p)
ベーブルースをはじめとするアメリカメジャーチームとの対戦のため、
高校を中退させてまで沢村栄治さんを投げさせようとした大人の都合。
結局卒業免状は手に入らず、沢村さんは中卒。それが沢村さんの運命を変えてしまいます。
栄治は、京都商業を中退した。この中退が、この時点ではまったく想像もできなかったことだが、
栄治にとって後に起こる悲劇の原因となったのだった。 (99p)
昭和 9年(1934年)アメリカメジャーリーグチームと対戦。その時のチームがもとで、大日本東京野球倶楽部が結成。
昭和10年(1935年)大日本東京野球倶楽部、アメリカを転戦する。その後国内を転戦。
昭和11年(1936年)大日本東京野球倶楽部は「東京巨人軍」に正式改称。
7球団による日本職業野球連盟が発足。巨人軍はアメリカ転戦後にリーグに参加。
昭和11年7月1日の日本職業野球結成記念東京大会から、
日本のプロ野球は公式記録とされています。
しかし、沢村さんは、それまでの2度のアメリカ転戦、国内転戦でかなり投げています。
沢村さんを見たいために観客が集まってきたので、沢村さんが投げる回数が増えます。酷使されました。
二度にわたるアメリカ遠征。そしてその間に行われた国内遠征での栄治の成績は54勝20敗。
勝率0,843という驚異的なものだった。
わずか1年3か月足らずの間に栄治が残したものである。
しかし、600個を超す奪三振などの数々の記録は、
リーグ戦が始まっていないため、すべて参考記録として残るのみだった。
公式記録には一切カウントされていない。 (184p)
もちろん、同世代の野球選手は同じことと言えば同じですが、
酷使された記録が公式記録に残らないのは残念なことだと思います。
実際、私も、アメリカでこんなに試合をしていたなんて、この本を読むまで知りませんでした。
「沢村賞」の投手なのに、プロ野球で活躍した期間が短いとも思っていました。
誤解していました。 (つづく)
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