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2012年1月

2012年1月 6日 (金)

テレビで勉強・・・日本海海戦/複数で跳ぶ8の字跳び

  

今日は1月6日。

今日も頑張るぞう。

   

最近見た番組より。

   

NHKのドラマ「坂の上の雲」の最終回は、

我が家のレコーダーが不調なため、

年末の本放送も再放送も録画失敗。

もう一か所、学校でも授業用に録画予約しておいたのがよかった。

1月になって教室で見ました。

RIMG0471三笠の艦上

RIMG0478海戦の模様
  

旅順攻防戦もすごい映像でしたが、

最終回の日本海海戦も、引き込まれる映像でした。

どこがCG?

この映像は貴重です。

ラストで、主人公の参謀秋山真之の死について語られていました。

秋山真之は大正7年2月4日に49歳で亡くなります。

臨終の言葉。周りの人たちにこう言ったそうです。

「皆さん、いろいろお世話になりました。これからは一人で行きます」

格好いいではありませんか。

      

00040_l 

有名な戦艦三笠の艦上の絵。

中央が東郷平八郎。東郷の右奥でうつむいて何か見ているのが秋山真之。

この時35歳前後ということになります。若い。

   

    

12月30日放映の「スクールLive Showfor KIDS スペシャル なわとび王選手権2011」を見ました。

これも教室で見ました。

8の字跳びは、勤務校でやりますが、ルールが違いました。

1分間で何人が跳べたかを競います。

大きく違うのが、何人で一緒に跳んでもいいということです。

実際映像では、2~5人!で跳んでいました。

でもこれなら、8の字が苦手で、入るタイミングがとれない子にはありがたい方法ではと思いました。

RIMG0464なわとび1

RIMG0457なわとび2

RIMG0463なわとび3
  

3学期早々、なわとび大会の提案をしなくてはなりません。

例年通りのクラス対抗8の字跳びのつもりでしたが、

少し例年と変えてもいいのかなと思えてきました。

今年は、できるだけ工夫をしていきたい。

テレビからアイデアをもらいました。 

   

    

 

     

 

   

   

   

 

2012年1月 5日 (木)

「ひさしくなおらないやまい」は読みではない/畠山重篤さんの本


今日は1月5日。

   

今日は図書館に行ってきました。

1つの目的は、畠山重篤さん関連の本を借りたかったからです。

畠山さんは宮城県気仙沼で牡蠣養殖業を営む人。

牡蠣養殖のためには、山に緑をと植林をした人。

前から気になっていた人でしたが、NHKの「ザ・プロフェッショナル 仕事の流儀」でも登場。

より知るために本を読むことにしました。

まず4冊。1月19日の返却日までに読むぞう。

RIMG0503
   

    

もう1つの目的は、大漢和辞典(大修館書店)です。

話は以前の投稿に遡ります。

「痼の訓読み」html

   

」を1字で「ひさしくなおらないやまい」と読むことを書きました。

しかし、調べていくと、これは「大漢和辞典」の字訓索引に載っているからだそうで、

そこには「字訓」と言いながらも、「読み」ではなく「意味」が載せられているようです。

  

こうなると実際に「大漢和辞典」で確かめたい。

家にはそんなすごい辞典はありません。

やっぱりあるのは図書館です。

確かめてみました。

RIMG0484  

全13巻のすごい辞典。

    

索引巻で、字訓索引で引いてみました。

ありました、ありました。

RIMG0487
   

こんなふうに載っていたのですね。

    

七巻の1182ページを調べました。

RIMG0488

「読み」は「ク」「コ」です。

意味に「久しくなほらない病」とあります。

やっぱりこれは読みではありません。

「大漢和辞典」を見て、そう結論を出しました。

   

 

 

   

 

 

 

雲の写真/クレーンの写真

  

今日は1月5日。

  

雲の写真。

RIMG0412 12月28日撮影 墓参りの時

RIMG0483 1月5日撮影 勤務校にて

雲だけでなく、地上にあるものを一緒に写すと何かいいなあ。

    

   

クレーンの写真。

RIMG0304 12月4日撮影

RIMG0490 1月5日撮影

2枚とも新豊川市民病院の建設現場。

大きなクレーンがいくつもあって目立ちます。

起工式は昨年の5月16日に行われました。

完成は平成24年12月。開院は平成25年5月の予定だそうです。

その頃またブログに書いていることでしょう。   

   

    

 

 

日記が追いついた

  

今日は1月5日。

昨日から今日にかけて、たまった日記を書いていました。

何と昨年8月22日から1月4日までの4か月余り。

毎日何をやったか、何をやりそこなったかの記録はいちいち書いてあったのですが、

その時の思いみたいなのは書いてありませんでした。

1日1日何をやったか読んで、一言感想を書いていきました。

結果、2学期を丸ごと振り返ったわけで、大仕事でした、疲れました。

   

RIMG0482

※これが今年度の日記帳です。

 何でも書いて、何でも貼ってあります。

 私の記憶を担当しています。

 子どもたちには「脳みそ」だと言っています。

     

忙しい2学期でした。

修学旅行・陸上大会・1日がかりのバスの社会見学・学芸会・

指導員訪問授業・かけ足運動・持久走大会・研究授業などなど。

行事的なものが続きました。

今年度は体育主任だったこともあって、よく動きました。

こうやって、4か月余りの期間にやったことを読んでみて、

我ながらよくこなしたなあ、切り抜けてきたなあと感心します。

今から同じことをやれと言われても絶対いやだと思います。

   

2学期はあっという間に済んでしまったと思っていましたが、

細かく振り返ったら、いろいろやってきた積み重ねだと思いました。

日記が追いついたことで、また前を向いて進んでいこうと思います。

バックには積み重ねがあります。その積み重ねを実感しています。

さらに3学期に何を加えるか。

   

残りの冬休みで準備します。いい3学期にするぞう。

2012年1月 4日 (水)

通勤路の大根畑・・・いつ収穫するのだろう

  

今日は1月4日。

   

今日は初出勤。自転車で行きました。

自転車通勤だと気になるのが大根(ダイコン)畑です。

    

現場は、昨年4月に大根の花が素晴らしかった畑です。

「大根の花・・・鬆(す)が入る」html (2011年4月24日投稿)

   

昨年10月13日の大根畑。

RIMG004210月13日の大根畑 RIMG004310月13日大根のアップ

確か10月始めくらいに発芽していたと思います。

9月終わりか、10月入ってすぐぐらいに種まきしたと思います。

さあ今年は収穫するのかなと思って写真を撮りました。

    

昨年11月5日の大根畑。

RIMG012111月5日大根畑

だいぶ大根の葉が成長しました。

   

昨年11月30日の大根畑。

RIMG021811月30日大根畑 RIMG021911月30日大根のアップ

ついに土の中から大根の白い肌を発見しました。

   

昨年12月27日の大根畑。
RIMG037612月27日大根畑 12月27日大根のアップ

今回は通勤自転車も一緒に撮影。

葉が生い茂って、大根が見えにくくなっていました。

もう収穫なのでは?そう思って撮影しました。

    

そして今朝。1月4日の大根畑。

RIMG04501月4日大根畑 RIMG04511月4日大根のアップ

別角度から同じ畑を撮影しました。

大根もしっかり成長しています。でもまだ収穫していません。

葉の色が変わっているところもあり、もう衰退していきそう。

いいのかな?今年も花が咲いちゃうぞ?

   

畑仕事したことがある人に聞いたら、連作しているところから疑問視されました。

大根はあまり連作しないそうです。

ただ春から秋にかけて、この畑に何が植わっていたか自信なし。

目の前にあっても関心がないと見えず。

   

収穫時期は、土から出てきた大根の状態で判断するそうです。

写真を見せたら、もう収穫時期だと言われました。

もしかしたら、何も植えずに雑草畑にするよりも、

大根畑にしておいた方がいいと判断して、

収穫せずにこのままにしておく考えかもしれないよと教えてくれました。

さあどうなるか。

自転車通勤限定の通勤路。

自転車の時は観察を続けようと思います。


2012年1月 3日 (火)

上海上陸作戦その5・・・80日で24キロ体重減

   

今日は1月3日。

前投稿のつづき。

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)より引用。

著者は、上海から南京への強行軍中に病のために病院へ。入院と言われる。

    

私は別室に入り、看護兵に手伝ってもらってフンドシ一つの裸になった。

そして、出征してからはじめて自分の体を見ておどろいてしまった。

すっかりやせほそった体には骨がつきだし、

足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、

膿と血が流れている。

上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、

自分の足を見たことがなかった。

足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまた水びたしにするような毎日であったので、

足が腐ったようになってしまったのだろう。

   

私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。

それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。

看護兵が私の目方をはかった。

「十一貫五百(約43キロ)」

看護兵は機械的に目盛りを読み上げた。

私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約67.5キロ)であった。

上陸以来八十日、そのあいだに24キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

   

私はそのままの姿で軍医の前に立った。

軍医はじっと私の裸を見ていたが、

「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。

どうして軍医に見せなかったのだ?」

彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。

私はその言葉を聞いたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、

軍医にお願いしても、相手にしてくれませんでした。

毎日がひどい戦争だったのです。」

そして私は動けなくなってしまった。207p)

   

上海に命からがら上陸した著者たちは、毎日心を休める間もなく、

いつ命を落とすかわからない状況で進軍し、戦っていました。

周りでは戦友が傷つき、命を落としているのを目にしてきました。

80日の間に落ちた体重が、その時の苦労を物語っていると思います。

    

以上で引用を終了します。

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)はもう新しく出版されていないようですが、

どうにか手に入れて少しでも多くの人に読んでもらいたいと思いました。

上海敵前上陸 (1979年)
上海敵前上陸 (1979年) 三好 捷三

図書出版社 1979-11
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この本の文を引用して、上海上陸作戦の様子をまとめたサイトも参考にしました。

ここです。※「戦史研究/ウースン(呉淞)上陸作戦」htm

   

日本人も中国人もたくさんの人たちが上海ー南京での戦争で亡くなりました。

どの人も、戦争がなければ死ななかった人です。さぞ無念だったと思います。

その戦争自体も、歴史の彼方に行ってしまいそうです。

もし、自分が犠牲者の一人だったら、

生きている人たちに自分たちのことを語り継いで欲しいと思うのでは。

私のブログで、少しでも関心を持ってくれたら幸いです。     

     

上海上陸作戦を知って勉強中。何か情報があったら教えてください。

上海上陸作戦その4・・・せっかく生き残ったのに

  

今日は1月3日。

昨日のCMで3月2日上映スタートの映画「戦火の馬」を見ました。

スピルバーグ監督の作品。

第一次世界大戦が舞台の映画です。

前投稿で、戦争に馬がかりだされたことを書きましたが、

この映画も同じ。戦争にかりだされた馬の話のようです。

たった一度のCMで、心をわしづかみにされた感じ。見に行きたい。

Thumb-pia-20111212-201112120002-entame
   

    

前投稿のつづき

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)より引用。

   

   

私たちが小宅の部落を歩いているとき、

敵の不発の追撃砲弾が半分土中にうずもれて、ななめになっているのを見つけた。

ちょうど昨日の攻撃中、私がいた場所であった。

不発であったのがさいわいして、私は命びろいをしたことになる。

あれが普通に爆発していたら、私をふくめて五、六人は死んでいただろうと思うと

ゾッとした。

私が村尾に、あれは危ないから危険の標識をつけないといけない、

といっているちょうどそのとき、一人の兵隊がその不発弾に近づいてきた。

私が、

「危ないぞ、さわるな!」

と叫ぶのと同時に、その兵隊は不発弾を足げにした。

その瞬間、不発弾は爆発し、兵隊の姿はなくなっていた。

一瞬にして雲散霧消してしまったのである。

せっかく昨日のはげしい戦闘を生き残ってきたというのに、

まったく何ということか。

戦場では一瞬たりとも気を抜くことは許されないのだ。

私は爆発の煙を目にしながら、慄然としてしばらく立ちつくしていた。(150p)

    

恐ろしい出来事です。

戦争とはこういうものだ、絶対してはならないと訴える機会があったら

思い出したい出来事です。

   

   

この上海戦での犠牲者の数を、各種の記録や私のじっさいの経験から推測すると、

日本側には約四、五万の犠牲者があったと思われる。(中略)

上海上陸の初期の部隊は、だいたい全滅に近い犠牲をはらって戦ったことはあきらかである。

その部隊の一員である私は戦いながら、これほどの犠牲をはらってまでも

上海をとらなければならない理由というのが、

どうしても理解できなかった。

この戦争の当初、私たちが教えられた戦争の目的は、

上海在留邦人の生命と財産の保護、ということであった。

ところがこの戦争では、すでに保護する日本人以上の犠牲をはらっていた。

現実に戦っている私には、この戦争のなりゆきなどはわからなかったが、

軍の目的は上海戦を捨て石として、全中国を制圧し、

ひいては東亜全部を支配しようとしていたことは明らかである。157p)

   

たった一つの命を、よくわからない目的のために使うなんて、

死んでいった人たちは本当に無念だったと思います。

本当は時間を惜しまず、本の文章を引用して、

多くの人に出来事を伝えるべきだと思えてきます。

しかし時間に余裕なし。あと1本の投稿に限ります。(つづく) 

 

上海上陸作戦その3・・・「見事に死んでほしい」と言われる時代

   

今日は1月3日。

前投稿のつづき。

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)より引用。

    

「命令。本隊は今朝四時を期して前面の青島に強行上陸を敢行する。

この軍事行動の中心部隊は第三大隊である。終わりっ!」

これをきいた私たちは静まりかえってしまった。

命令をおえると大隊長は顔をやわらげて、

「前面の青島には大部隊のシナ兵がいるという情報がはいっている。

おそらく激戦になると思う。

大隊長も死ぬ覚悟をしているから、お前たちも死んでくれ。

おれは今いったように生還を期していない。

戦争は軍人にとってはヒノキ舞台であるから、

けんめいに戦って見事に死んでほしい。

お前たちの長い苦しかった訓練も、今日一日のためのものである。

おたがいに健闘を祈って戦おう」

といった。この道下大隊長の話を聞いていると、

お前たちの命はあと二、三時間で終わるのだ、終わらすのだ、

といっているようにも思えたが、私にはどうしてもピンとこなかった。

あと二、三時間で死ぬなど、とうてい現実とは思われず、

また思いたくなかったからである。(50p)

   

「見事に死んでほしい」と言われる時代である。

それも命はあと2~3時間。

信じられないし、信じたくないことです。著者に共感します。

結局青島への上陸作戦は中止となり、上海のウースン(呉淞)上陸となります。

     

    

ウースン上陸作戦中、手榴弾だ配布されるが、日露戦争当時の残品。

旧式のもので、あまり役に立ちませんでした。

これは軍隊の兵隊蔑視のせいだと著者は憤っています。

   

当時の国民は、なんとかして兵役をのがれようとして努力していた。

長男は兵隊にとられないといわれると、

子のない他家に入籍して長男となったり、

徴兵検査に不合格になるために検査の前に減食して体重を減らしたり、

醤油を大量にのんで身体の調子を悪くしたりすることがあったそうである。

それに日本では、一銭五厘のハガキ一枚で徴兵検査をして兵隊にすることができたので、

兵隊には「一銭五厘」という蔑称があった。

私も現役時代によく一銭五厘といわれたものである。

また、軍隊ではよく兵隊より馬が大切だといわれた。

それは、馬を手に入れるには大金を必要とするが、

人間はハガキ一枚で簡単に補充することができるからであった。

このことが軍の兵隊蔑視の思想となり、

人間軽視の用兵となっていったものと思う。

じっさい、軍隊の用兵には人間性というものはどこにも感じられなかった。(67p)

    

したがって敵前に上陸して、多くの犠牲者を出す作戦が行われたのでしょう。

(つづく)

   

    

 

上海上陸作戦その2・・・上海ー南京付近の地図

   

今日は1月3日。

前投稿のつづき。

   

「上海 上陸」とうって検索すると、

映画「「おにいちゃんのハナビ」上海上陸(2010年5月)

AKB上海上陸(2011年9月)

なども含めて、いろいろな人たちが上海上陸という言葉を使っていました。

しかし、日中戦争に関係する項目はなかなか出てきません。

27番目にやっと出てきたと思ったら、

私が投稿した内容でした。・・・昨年12月17日投稿

   

だいぶ後ろに追いやられているなと、検索の並びで思いました。

※でもそのつづきを見ていくと、本多勝一氏の「南京への道」について論じている項目がありました。

そうか「南京の道」を昔読んで、上海上陸については、かつて勉強したことがあったことを思い出しました。

    

   

では前投稿で紹介した本「上海敵前上陸」(図書出版社)のこと。

作者は三好捷三(しょうぞう)さん。

本の巻末の資料によると、1905年香川県生まれ。

本の初版が出版されたのは、1979年ですから、

74歳でこの本を出版されたことになります。

今のうちにちゃんと書き残しておこうと思って書かれた本なのでしょう。

    

この本の巻頭にあった上海ー南京付近の地図はとても役に立ちました。

名古屋第三師団歩兵第6連隊や丸亀第十二連隊が上陸した

ウースン(呉淞)という場所が手元の地図ではわかりませんでしたが、

この地図でよくわかりました。

EPSON058

(次につづく)    

 

 

 

上海上陸作戦その1・・・きっかけ

  

今日は1月3日。

ちょっと面白い勉強が始まっています。

   

12月に、文房具を買いに本屋へ。

目的のものを買って、お店を出ようとした時に、

出口付近にあった本に目がとまりました。

   

愛知県謎解き散歩」(白井伸昂編著/新人物往来社)

51+Quyo97qL__SS500_
    

気になったので、しばらく立ち読み。

内容も良さそうなので、再びレジの戻って買いました。

   

さっそく読んでみて、特に印象に残ったのが、

知多半島の先にあるセメントの軍人像。

そして日中戦争時の上海上陸作戦。

そのことをさっそく書いて投稿しました。

「知多半島中之院の軍人像/上海上陸作戦」html

     

関連本があることがわかり、本を入手。

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)

この本を、年末に高崎に行った往復の電車内でほとんど読みました。

RIMG0447RIMG0444
 

古本で手に入れましたが、2段組みの細かい字の本でした。

最近の単行本は、もっと大きな活字で、2段組みなんか滅多にありません。

最初は抵抗がありましたが、中身の良さにぐいぐい引き込まれました。

1937年(昭和12年)8月に、日本軍は中国の上海に上陸作戦を実行しました。

セメント軍人像になった名古屋第三師団歩兵第6連隊が

まず上海のウースン(呉淞)に上陸しようとして、多大な犠牲を払いました。

10日後に丸亀第十二連隊が同じくウースン(呉淞)に上陸。

これまたおびただしい犠牲者を出します。

作者の三好さんは、丸亀第十二連隊に所属し、12月まで転戦して、

生き延びた人です。

   

本の帯にこう書いてありました。

RIMG0448

昭和12年7月7日、華北の盧溝橋でおこった日中両軍の衝突は、

またたくまに上海に飛び火し、翌八月には大編成の陸軍部隊が

上海の戦場に投入されることになった。

しかし兵隊たちは予想外に頑強な中国軍の反撃にあい、

狂乱の戦場のなかで毫末も個人の意志は許されることもなく、

満足な武器もあたえられないまま、

彼らの多くは自分の運命をのろいながら戦死していった。

この戦死した人々のことを考えるにつけて、

私は私なりにこの戦争の実態を記録しておき、

私たち兵隊がどのように戦って、死んでいったのかということを、

いつの日か世の人々に伝えていかなければならないと思うようになった。

    

この著者の思いがしっかりこもった本でした。

次の投稿からも、この本について書いていきたいです。

   

本屋の出入り口で見かけた本から始まった勉強。

もし、その本を見かけてなかったら、何も始まらなかった勉強。

こういった縁を感じる勉強は楽しい。

まだまだ広がりそうな勉強です。(つづく)

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