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2018年4月17日 (火)

津軽三味線の生演奏を聴く/「仁太坊物語」

今日は4月17日。

  

昨日津軽三味線の演奏を生で聴く機会がありました。

 

あまり触れる機会のなかった津軽三味線ですが、

いろいろなことを知りました。

覚えておきたいことをメモしておこうと思います。

  

・三味線の材料:棹(さお)・・・紅木(こうき)非常に堅い木。

                その他、紫壇(しだん)、花林(かりん)

        撥(ばち)(弦をはじく道具)・・・鼈甲(べっこう)

                その他、象牙、木材、プラスチック

・津軽三味線の元祖の話が面白かった。「仁太坊(にたぼう)」という方です。

 

そこで聞いた話と似た話が、次のサイトにありました。

「津軽三味線 山本大」ブログ

 

一部引用します。

  

津軽三味線はある1人の男によって誕生したと云われています。

(中略)

現在の青森県五所川原市金木町神原、

岩木川の河原に生まれた仁太坊こと、

秋元仁太郎(1857〜1928)は

津軽三味線の生みの親であると云われています。

津軽三味線の基礎を築いた功労者にも関わらず、

世に認められずこの世を去りました。

八歳の時に疱瘡にかかり生死をさまよい、失明してしまいます。

母親は仁太坊を産み、まもなく他界。

父は岩木川の船渡し守りで、仁太坊が十五歳の時に事故により水死、

仁太坊は天涯孤独となります。

そして、生きて行く為に彼は坊様となり、門付けをし、

その日の糧を求めて三味線を弾き歩きました。

    

さらにもう少し引用します。

  

仁太坊と津軽三味線のルーツ解明は、

1980年代に大條和雄先生によって発表されました。

大條先生の仁太坊については『弦魂津軽三味線』(合同出版)

『津軽三味線の誕生』(新曜社)などで読むことができますが、

『金木今昔物語・著/白川兼五郎』(自家版・昭和56年)

こちらでも神原の仁太坊について書かれてます。

(中略)

『金木今昔物語』によりますと、

意外にも仁太坊は家々の軒先を廻る門付けは

めったにしなかったそうです。

ただの物乞いはしないとのポリシーが強く、

毎日のように街の盛り場や茶屋、居酒屋などで、

旅の人を相手に芸を売ったそうです。 

(中略)

出掛ける時はバサマ(女房)の『まん』といつも一緒。

まんは手引きの六尺棒と太鼓を手に持ち、

盲目の仁太坊を手引きします。


仁太坊は、背中に佐々木小次郎の長刀のように

太棹の三味線を背負い、腰には横笛と尺八を差して

手引きの六尺棒につかまり歩いたそうです。


芸風は、津軽三味線のソロ演奏と云うよりも、

八人分の芸を披露する八人芸(はちにんげい)。

唄うと云うよりは唄を語るような口説き節風のもの。

三味線や尺八などを用いて唸り上げます。

じょんがら、よされ、おはらもみんな入っていて、

熱が入るとナンジョ(謎かけ)から祭文までやる芸達者ぶり。


叩き奏法を自ら編み出し、弾くと云うよりビュンビュン!と叩く、

あらん限りの芸を取り混ぜ、聴衆をひとのみにしてしまい、

あたりを圧したそうです!神原から金木の盛り場まで、

いつも同じ道を妻の手引きで歩きます。

  

なかなか興味深い人物だと思いました。

昨日は仁太坊さんへの賛歌として作曲された「仁太坊物語」が、

演奏されました。

その曲だと思われる曲が、動画でアップされていました。

ここに紹介します↓


YouTube: 【津軽】tugarushamisen nitaboumonogatari【三味線】仁太坊物語

  

以上です。

いい機会でした。  

  

 

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