津軽三味線の生演奏を聴く/「仁太坊物語」
今日は4月17日。
昨日津軽三味線の演奏を生で聴く機会がありました。
あまり触れる機会のなかった津軽三味線ですが、
いろいろなことを知りました。
覚えておきたいことをメモしておこうと思います。
・三味線の材料:棹(さお)・・・紅木(こうき)非常に堅い木。
その他、紫壇(しだん)、花林(かりん)
撥(ばち)(弦をはじく道具)・・・鼈甲(べっこう)
その他、象牙、木材、プラスチック
・津軽三味線の元祖の話が面白かった。「仁太坊(にたぼう)」という方です。
そこで聞いた話と似た話が、次のサイトにありました。
一部引用します。
津軽三味線はある1人の男によって誕生したと云われています。
(中略)
現在の青森県五所川原市金木町神原、
岩木川の河原に生まれた仁太坊こと、
秋元仁太郎(1857〜1928)は
津軽三味線の生みの親であると云われています。
津軽三味線の基礎を築いた功労者にも関わらず、
世に認められずこの世を去りました。
八歳の時に疱瘡にかかり生死をさまよい、失明してしまいます。
母親は仁太坊を産み、まもなく他界。
父は岩木川の船渡し守りで、仁太坊が十五歳の時に事故により水死、
仁太坊は天涯孤独となります。
そして、生きて行く為に彼は坊様となり、門付けをし、
その日の糧を求めて三味線を弾き歩きました。
さらにもう少し引用します。
仁太坊と津軽三味線のルーツ解明は、
1980年代に大條和雄先生によって発表されました。
大條先生の仁太坊については『弦魂津軽三味線』(合同出版)
『津軽三味線の誕生』(新曜社)などで読むことができますが、
『金木今昔物語・著/白川兼五郎』(自家版・昭和56年)
こちらでも神原の仁太坊について書かれてます。
(中略)
『金木今昔物語』によりますと、
意外にも仁太坊は家々の軒先を廻る門付けは
めったにしなかったそうです。
ただの物乞いはしないとのポリシーが強く、
毎日のように街の盛り場や茶屋、居酒屋などで、
旅の人を相手に芸を売ったそうです。
(中略)
出掛ける時はバサマ(女房)の『まん』といつも一緒。
まんは手引きの六尺棒と太鼓を手に持ち、
盲目の仁太坊を手引きします。
仁太坊は、背中に佐々木小次郎の長刀のように
太棹の三味線を背負い、腰には横笛と尺八を差して
手引きの六尺棒につかまり歩いたそうです。
芸風は、津軽三味線のソロ演奏と云うよりも、
八人分の芸を披露する八人芸(はちにんげい)。
唄うと云うよりは唄を語るような口説き節風のもの。
三味線や尺八などを用いて唸り上げます。
じょんがら、よされ、おはらもみんな入っていて、
熱が入るとナンジョ(謎かけ)から祭文までやる芸達者ぶり。
叩き奏法を自ら編み出し、弾くと云うよりビュンビュン!と叩く、
あらん限りの芸を取り混ぜ、聴衆をひとのみにしてしまい、
あたりを圧したそうです!神原から金木の盛り場まで、
いつも同じ道を妻の手引きで歩きます。
なかなか興味深い人物だと思いました。
昨日は仁太坊さんへの賛歌として作曲された「仁太坊物語」が、
演奏されました。
その曲だと思われる曲が、動画でアップされていました。
ここに紹介します↓
YouTube: 【津軽】tugarushamisen nitaboumonogatari【三味線】仁太坊物語
以上です。
いい機会でした。
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