2024年3月25日 (月)

番組「ブラタモリ 秘境!黒部峡谷」/黒三ダム(千人谷ダム)黒四発電所

  

今日は令和6年3月25日。

  

前記事に引き続き、

1月20日に放映された「ブラタモリ 秘境!黒部峡谷 黒部の絶景は

電源開発の軌跡にあり?」より。

  

いよいよ千人谷ダム(黒三ダム)を見ます。

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戦後の関西地方の電力供給の役割を果たしたダムです。

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300名以上の犠牲者を出した難工事でした。

  

この橋の下には大きな管があります。

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この鉄管の役割は後で説明があります。

タモリさんたちは、地下にある黒部川第四発電所に向かいます。

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この発電所、行かんかったかな、子どもの時。

家族旅行で黒部ダムに行った覚えがあります。

この空間も見たような・・・。

写真で見たのかな。

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なんと、黒四発電所で使った水が、鉄管を通って、

次の発電所まで落ちていくのでした。

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新黒三発電所は確かにありました。

さらにそこで使った水は、下に落ちていきます。

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新黒ニ発電所は、黒ニ発電所の地下にあるそうです。

黒部川の水が有効に利用されて、発電が行われています。

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なるほどです。

次がラストになります。

番組「ブラタモリ 秘境!黒部峡谷」/高熱隧道

   

今日は令和6年3月25日。

  

前記事に引き続き、

1月20日に放映された「ブラタモリ 秘境!黒部峡谷 黒部の絶景は

電源開発の軌跡にあり?」より。

   

欅平(けやきだいら)から黒三ダム(千人谷ダム)に向かいます。

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急勾配だったので、トロッコ列車が無理なコースを

トロッコ列車可能にするためにつくられたものとは?

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それはエレベーターでした。

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標高600mから800mに上げるエレベーターでした。

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このエレベーターのおかげで、トロッコ列車が走れる勾配になります。

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欅平から200m上がったことで、景色が変わります。

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実際に行ったら、見てみたいなあ。

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エレベーターで上がって、再びトロッコ列車に乗ります。

今度の列車は小さめです。

隧道が狭いためです。

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まさに本で読んだ高熱隧道に行くところです。

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最高に高くて160度の高温になったようです。

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作業員は60度の熱気にさらされていました。

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小説「高熱隧道」でも描かれていた方法です。

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なぜ岩盤がこんなに熱かったのか。

番組で説明してくれていました。

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地質が違っていたので、隙間が空いていて、

その隙間にマグマの熱さが上がってきていたと考えられるそうです。

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ぜひ、実際に行って、この熱さを体験したいと思います。



























   

番組「ブラタモリ 秘境!黒部峡谷」/トロッコは欅平まで そこからは水平歩道

   

今日は令和6年3月25日。

  

前記事に引き続き、

1月20日に放映された「ブラタモリ 秘境!黒部峡谷 黒部の絶景は

電源開発の軌跡にあり?」より。

  

猫又から再びトロッコ列車に乗って終点を目指すタモリさんたち。

終点の直前で、タモリさんが「黒三」を発見します。

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黒部川第三発電所です。

そして終点の欅平(けやきだいら)駅。

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ここは観光スポットです。

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この奥鐘橋から2つの発電所が見られます。

先ほどの第三発電所が手前にあります。

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奥に新黒三発電所があります。

この発電所については、番組の後半に説明があります。

  

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戦争が大量の電力が必要になり、国策で黒三発電所・ダムは

造られました。

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欅平から上流にダムが造られましたが、それが困難を極めました。

どんな困難だったか。

それがわかる映像を、タモリさんたちは見ました。

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なぜ人力なの?

どうして、欅平までのようにトロッコにしなかったのか。

  

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欅平からダム建設地までが急勾配だったので、

トロッコで上がれなかったのです。

  

じゃあどうしたのか?

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欅平から千人谷ダム建設地まで、隧道(トンネル)が掘られました。

この隧道は、作業員用でしたが、今年開放されるようになりました。

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6月からの開放予定でしたが、以前記事に書いたように、

橋の破損があって、10月に延期されました。

いよいよ次の記事で、隧道のこと、つまり高熱隧道のことを書きます。

番組「ブラタモリ 秘境!黒部峡谷」/黒一の堰堤と発電所

   

今日は令和6年3月25日。

  

1月20日に放映された「ブラタモリ 秘境!黒部峡谷 黒部の絶景は

電源開発の軌跡にあり?」がよかったです。

この番組から、書き留めます。

  

昨年末に映画「黒部の太陽」を観て、映画の中で「黒三」が

出てきました。そうか「黒四」と言うからには、

「黒三」「黒ニ」「黒一」があるわけだと気がつきました。

今回の「ブラタモリ」では、その4つのダム・発電所を巡ります。

  

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宇奈月からトロッコ電車に乗ると、この発電所を見かけます。

お城のような形の発電所です。

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タモリさんたちを案内してくれているのが、この方。

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トロッコ列車は、猫又という駅に到着します。

作業員用の駅で、観光客は下車しませんが、

タモリさんたちは特別に下車します。

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ここに黒ニの発電所があります。

実はここに黒一のダムがかつてはあったのです。

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橋を渡って、写真の左手にあるのが、黒部第二発電所。

この橋の部分が、かつては猫又堰堤と呼ばれたダムでした。

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ここで発電所とダムの関係を説明。

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ダムで水を取水して、下方にある発電所に水を落とします。

この落差で、水に勢いがついて、タービンを回すのです。

それでは、猫又堰堤で取水した水は、どこの発電所に落ちたか。

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昭和2年に完成した柳河原発電所は、現在はなく、

痕跡が残っています。

お城のような新しい柳河原発電所の隣でした。

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猫又堰堤と柳河原発電所が、黒一の施設のコンビでした。

 

黒部川は、谷が深く、水量が多いので、ダムを造る好適地でした。

  

  

続く

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑧ 朝鮮人を描かなかった吉村昭さん

   

今日は令和6年3月25日。

  

前記事に引き続き、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

  

今回も引用が長いです。

この本の一番言いたいことが書いてあると思うので、

引用します。

  

清水弘さんは、「真説『高熱隧道』」を書いた人です。

書いた当時は北海道大学低温科学研究所に所属していました。

現在は故人です。

  

清水弘さんは聞き取りのときに、話者の記憶と「高熱隧道」の記述が

異なると知らされたことがあると書いている。著名な小説によって自

らの記憶を疑ったり上書きすることはありうることで、すぐれた文学

とはそれほど読者に大きな影響を与えるものであり、公の文書に用い

られることもある。 現実にあった出来事を扱う歴史文学では、ノンフ

ィクションとの境界が曖昧になりやすいうえに、読者は事実より真実

を求める。さらにいえば、「黒三」 ダムは戦争や雪崩事故、植民地の

人々といった一見ネガティブな要素を持ち、「黒部の太陽」で有名に

なった「黒四ダムの影になってしまいがちだ。だが、歴史を省みると

き、影にこそ学ぶべき真実が存在する。

吉村昭は「精神的季節」で、高熱隧道の工事に携わった人々に対して、

「一生の間にそれほど印象深い仕事を持ち得たそれらの人々は、人間

として最も幸せな人々だといっていい」と書く。だが、それらの人々

とは日電や佐藤組の所長や監督であって、「黒三」建設に動員された

延べ二八〇万人の労働者ではない。 実際、現場労働者は自然を征服し

ようとする主人公たちの壮大な挑戦の素材として描かれている。 現場

所長が切り端のダイナマイト事故でバラバラになった遺体を集めて整

える場面がある。 労働者たちが騒ぎ出し工事が中断されないように、

黙々と作業を続ける所長の苦悩は描くが、事故で死傷する労働者の心

情には触れない。労働者は描かれる対象ですらないのだ。 記録をもと

に、吉村昭はテーマに合わせてストーリーを構想し、聞き取りと入念

な資料の読み込みにより、事故のディーテイルと所長の心理だけを描

写する。 主題は、大自然に挑む電社員や所長・現場監督にあって、

死を強いられる労働者にはない。 主題の展開のための素材は必要だが、

属性や意思をもつ存在としてではなく、顔や名前のない「人夫」とし

てだ。

「人夫たちは、同僚が死体になっても悲しむことしか知らないように

みえる。その死が、なぜ起こったのかというに、かれらは怠惰だし、

それに工事には死はつきものだという長い間培われてきた諦めが、か

れらの眠りをよびさまさないでいるのだ」と吉村昭は書く。 だが、労

働者の主体性を奪うような表現はどうなのだろう。 事故が起これば命

を失うこともあり、家族が困ることを一番よくわかっているのは労働

者自身だ。だから、見舞金や葬儀料を要求し、安全な労働環境を整備

するように抗議した。 しかし、戦争のためだから、国策事業だからと、

大事故で大きな犠牲を出しても直後に工事を継続するように陰に陽に

圧力がかけられ、運よく生き残っても逃げ出すこともできず、黙々と

工事に就くしかなかったのだ。

三〇年以上も前のことだが、「実在したのに、なぜ朝鮮人労働者を書

かなかったのか」と吉村昭に手紙を送った知人がいる。 何度出しても

返事がないので予告して訪問したが、門を閉められ相手にされなかっ

たと話していた。話ができたにしても、朝鮮人が働いていたことは知

っている。テーマにとって必要ではないから書かなかっただけだ。

それがどうした」と吉村昭は言ったであろう。労働者の国籍を書けば

書いたで説明が要る。 それでは話が複雑になり、表現したいテーマが

薄れる。 他にも、資料がなかった、取材できない、書くとまずいこと

がある、書かない約束だったなどが考えられるが、本当のところは謎

である。吉村昭は、大自然や国家プロジェクトに関心があっても、影

の存在である労働者には関心がないのであろう。

吉村昭の考えを批判はできるが、 小説 「高熱隧道」を変えることは

できない。だが、生きている私たちの考えを変えることはできる。

峡谷の電源開発で多くの労働者が犠牲になった。日本人もいれば、朝

鮮人もいた。過去にはそうした犠牲者を悼み、慰霊してきた電力会社

や建設会社もあった。この谷を父親の墓だと思っている金鍾旭さんも

いた。峡谷で働く朝鮮人たちは、よい仕事をしようと努力し、家族を

養い、自分の命を守るために労働条件を交渉し、自分たちの尊厳を保

ってきた。そうした人たちが町の一員となって町は栄えた。記憶を記

録しなければ、人間は忘れる。日本の敗戦で故郷に帰ったにしても、

存在したという事実を埋れさせてはならない。

二章でも書いたが、近年ダークツーリズムといわれるものが提唱され

ている。負の歴史を無視するのでもなく、隠すのでもなく、そこを起

点として新しい歴史観や人間関係の再構築をめざす。関電は社員に、

黒部市は地域の人たちに、そして旅行客に、「黒四」ばかりでなく、

「黒三」の事実を伝えてはどうだろう。町の歴史 、住民の奮闘のス

トーリーこそ観光資源になる時代だ。

(204〜205p)

  

「高熱隧道」を読み終えた時には、なんと素晴らしい作品なんだと

思いました。

でも、人夫に顔や名前がない、主体性がないと言われたらその通り。

ラストシーンで、無闇に人夫たちを恐れる技師たちに、

違和感がありました。

黒三ダム、発電所の歴史を後世に残す役割はあるけど、

正確ではないのが致命的です。

「黒三ダムと朝鮮人労働者」と合わせて読むのがいいなと思いました。

この本を読んでおかなければ、私は誤解したままでした。

  

  

思えば、昨年の12月まで、全く知らなかった黒三。

わかってきました。

こういうのが楽しい。

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑦ あったことをなかったことにするのはおかしい

   

今日は令和6年3月25日。

   

前記事に引き続き、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

   

  

長いけど、大事なことが書いてあるので、

引用します。

   

宇奈月の町史など公式の地域史に朝鮮人の存在が書かれていない。理

由はいろいろ考えられる。一つは、和田さんが書いているように、リ

スペクトがないこと。日本近代史において、朝鮮人が鉱山や炭鉱から

土木工事の現場まで、ツルハシとスコップとダイナマイトを手に最底

辺で働いたのは紛れもない事実である。そうした植民地の労働者を酷

使した事実を問題にされたくないために、存在や事実を否定したり、

隠した。それを記録に残さないのは差別であり、リスペクト=人権の

尊重や仕事への感謝がないからだと私も思う。

日本では、一九九〇年代後半から「歴史修正主義」なるものが台頭し

てきた。学術的に歴史的事実とされていることを、ある種の考えや思

想をもって否定し、思想に合わせて都合よく作ったあらたな「事実」

で上書きする歴史観を、「歴史修正主義」という。修正の意味は正し

く直すということであるが、実際には、天皇中心の政治思想=皇国史

観によって過去の植民地支配や戦争を肯定し、歴史を捏造することで

ある。植民地朝鮮を近代化した、東南アジアへの侵攻によって欧米列

強の支配から解放した、南京事件はなかった、日本軍「慰安婦」はい

なかった、など加害の歴史を無視し、否定する。また、植民地責任や

戦争責任を問う歴史認識を「自虐史観」として批判する。事実に基づ

いて反省し、憲法の前文に則り平和な未来を志向する歴史認識のどこ

が自らを貶めることになるのだろう。

黒部電源開発でたくさんの朝鮮人が働き、家族が宇奈月町で暮らして

いたという事実は、地域史に記録しないことで、年月の経過とともに、

また住民の世代が変ることで、いま消えようとしている。これは宇奈

月町だけでなく、全国の同様の歴史をもつ地域で起きている。さらに、

すでにある記念碑や追悼碑など公共の空間から排除しようという動き

もある。負の歴史をわざわざ書き残すことはないと考えたかどうかは

わからないが、こうした地域史における事実の不記載=抹消は、地方

における保守政治のもつ政治思想と一体になって、歴史修正主義とい

う国全体の思想運動に回収されている。さらに、国政においても戦争

を体験していない世代の国会議員によって歴史的事実が否定されてい

る。二〇二一年四月に、日本軍「慰安婦」問題や強制連行問題で、

「従軍慰安婦」ではなく「慰安婦」を使うように、また「強制連行」

を使わないように変えるように閣議で決定したことはその一つの動き

である。その一方で、呂野用墓や霊のというような構造物から歴史を

学ぼうという市民の動きがあるのも事実である。

(202〜203p)

  

「過去の植民地支配や戦争を肯定」

昨日、記事にしたことに関連してきます。

お国のために出征した人たちのことを考慮すると、

戦争を悪いことと全面否定するのは気が引けてしまいます。

でも戦争は、未来、絶対に起こしてはいけないことであり、

そのことについては、戦争で命を落とした人たちも、

賛同することだと思うのです。

その一方で、戦争は、勝者の歴史となりやすいことも注意です。

結局事実を調べて、教えることが大事なのでしょう。

なぜ戦争を起こしてしまったかに始まり、

戦争の現場でどんなことがあったかを教え、

とてもたくさんの人たちが命を落としたことを

淡々と教えるのがいいのでしょう。

朝鮮人を強制連行したことは事実なので、決して修正させない。

  

「強制連行」を使わない。

閣議で決定したの?

日本弁護士連合会 政府見解により教科書の「従軍慰安婦」「強制連行」等の記述を変更させる動きに関する会長声明

ここには次のように書いてあります。

  

内閣は、2021年4月27日、「『従軍慰安婦』という用語を用いる

ことは誤解を招くおそれがある」、「単に『慰安婦』という用語を用い

ることが適切である」、「朝鮮半島から内地に移入した人々(中略)に

ついて、『強制連行された』若しくは『強制的に連行された』又は『連

行された』と一括りに表現することは、適切ではない」、「『強制連行』

又は『連行』ではなく『徴用』を用いることが適切である」などとする

2通の答弁書を閣議決定した。

  

ふむふむ、強制連行されたと一括りにするのは、

確かにいけないかもしれないが、

「強制連行」という言葉を削除する動きはどうかと思います。

群馬の森の追悼碑撤去も、関連団体が「強制連行」という

言葉を使ったことを、県は問題にしていました。

強制連行はあったのだから、この言葉は残すべきだと思います。

  

記念碑や追悼碑など公共の空間から排除

群馬の森の動きが思い出されます。

撤去を要請していた市民団体の態度が解せません。

こんなのは嘘っぱちだという声は、

絶対おかしいです。

その大きな声に屈したのなら、撤去はおかしいと思います。

  

あったことをなかったことにするような歴史修正主義との

せめぎ合いの時代なのかなと思います。

  

呂野用墓

「よやんぼ」と読むそうです。

本書の記述によると、富山地方鉄道内山駅の山側にある

雑木林の中にあるお墓です。

堀江節子さんは、だいぶ前からこの墓の存在を知っていて、

30年以上前に書いた著作にも触れています。

黒部川の電源開発工事の犠牲者のお墓です。

ネット上にも、関係記事がありました。

写真も転載してみます。

チューリップテレビ 85年前の墓標…戦時体制の黒部峡谷 ダム建設事故の犠牲者を悼む 市民グループが調べた朝鮮人労働者とは【戦争の記憶とやま】

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本書63pに、このお墓のことが書いてあります。

2024年3月24日 (日)

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑥ 「高熱隧道」に朝鮮人が出てこない理由/キャニオンロードは10月1日から

   

今日は令和6年3月24日。

  

前記事に引き続き、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

二〇二四年度から上部軌道を経て黒四ダムまでの「黒部ルート」(欅平

黒四発電所 黒部湖までの工事のために掘削した地下ルート)が一般観

光客に開放され、関電は年間一万人を受け入れる。現在でもV字谷の

景色は素晴らしく、欅平までのトロッコ電車での観光は海外の観光客

にも人気で、韓国人観光客も少なくないと聞いている。そうした人た

ちに日本人と朝鮮人が協力して電源開発が行われた事実と感謝を伝え

ることはできないだろうか。「黒四」建設は、関西電力の太田垣社長

が陣頭指揮を執り、社員一丸となって取り組まれ、戦後の高度成長を

もたらしたと称賛される。一方、「「黒三」」 建設は、戦時の国策事

業として取り組まれ、高熱隧道や雪崩事故など多くの困難を克服して

完成した。 「黒四」が太陽であれば、「黒三」は影のような存在では

あるが、「黒三」なしに「黒四」は存在しない。 峡谷の景色を満喫し、

黒部ダムや黒部湖を見ることができるのは、「黒三」のおかげだ。戦

時下、植民地から来た朝鮮人労働者が携わった電源開発の過酷な歴史は、

国内外の観光客にとっても興味深いことに違いない。

(187p)

  

この本の出版は2023年7月なので、

黒部宇奈月キャニオンルートのことについて触れています。

このルートは、有名な黒四ダムよりの以前に造られた

黒三、黒ニ、黒一の発電所、ダムを知るコースです。

黒三でたくさんの朝鮮人が働いていたことは、

せっかく行くのだったら、勉強しておくべきだと思います。

この本「黒三ダムと朝鮮人労働者」と「高熱隧道」、

そして「真説『高熱隧道』」もお薦めです。

(「真説〜」については、3月21日の記事を見てください)

   

黒部宇奈月キャニオンルートは、6月30日がオープンの日でした。

しかし、関係する橋が、能登半島地震によって壊れたため、

延期となりました。

黒部宇奈月キャニオンルートHP

ここを見ると、次のようなお知らせがありました。

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今年は中止という話も聞いていたので、

10月1日のなり、期間は短くなりましたが、

ありがたいです。

行きたいですね。

7月頃に予約が始まるそうなので、情報を逃さないようにしたいです。

  

「黒三」ダム建設について書かれた小説に、吉村昭による「高熱隧道」

がある。一九六七年に刊行され、現在なお広く読まれている。 これを

きっかけに黒部峡谷を訪れる人は多いという。吉村昭は、現場、証言、

史料等を取材し、事実に基づいてストーリーを構成する「記録文学」

「歴史文学」 で定評がある。この手法は一九六六年の『戦艦武蔵』か

らスタートし、翌年発表の「高熱隧道」で新境地を拓いたと、自身が

「精神的季節』(一九七二)に書いている。 佐藤組から資料の提供と取

材の便宜を受け、「黒三」 建設当時と同じような環境の現場に入って、

高温の温泉湧出地帯を掘り進んだ日電や佐藤組の所長や現場監督など

の関係者から聞き取りを行い、その歴史的挑戦を主題に作品化した。

ヒト・モノ・カネ、そしてイノチまでも総動員してダムを完成させよ

うとする狂気は、国民を戦争に駆り立てる政治的社会的圧力と相似形

で、そこに読者を飲み込む説得力がある。

事実に基づいて書かれるから記録文学とされるのだが、多くの人はこ

れを事実、または事実に近いものとして読む。だが、記録文学はあく

まで小説、フィクションである。吉村昭は難工事でたくさんの犠牲者

が出たことは記すが、その中に朝鮮人が多く含まれるという事実には

一切触れない。これについては、新田次郎との対談(『波』新潮社一

九七〇年5・6号)で、次のように話す。「この工事に従事した労働者

の半ば以上は朝鮮のヒトですが、強靭な体力を駆使してついにトンネ

ル貫通を果たした。 今の考え方からすると、朝鮮の人を労働者に使

ったというと虐使したのではないかと考えがちですが、事実は比較に

ならないほど高い給与が魅力となった。ともかく朝鮮の人と書くと主

題が妙にねじれてしまう恐れがあるので、ただ労務者という形で押し

通しました。 また自分の主題を明確にするためフィクションとして

書きました」。 そして、「私は主題の足を引っ張るような要素は容

赦なく捨てて、主題を生かす事実だけを使っています」。「事実と

は異なっていても、私の小説に関するかぎりそれが真実なのです」

と続ける。戦時下、電源開発、難工事といったシチュエーションで、

植民地からの労働者というのは欠くことのできないファクターだと

思われるが、「高熱隧道」については朝鮮人が存在しないことが彼

の主題を明確にすると断言する。

記録文学や歴史小説はドキュメンタリーのようにとらえられがちで、

すべて事実と思って読む人も珍しくない。吉村昭の作品は現場にい

た人の証言が活かされていて迫真感がある。 それでも、小説は小説

である。制作意図に沿わないことは省かれ、作者が紡いだ構成のな

かで場面に合わせて会話が創られるにもかかわらず、文字になって

いることが真実だと思わされてしまう。そして、「記録文学」とし

て評価が高いがゆえに、ストーリーに不要だとして省かれた、実在

した朝鮮人の存在が消されてしまった。

(192〜193p)

  

吉村昭が対談で語っている朝鮮人を書かないという理由だが、私に

は後付けのように思われる。私の理解はこうである。吉村昭の「記

録文学」の手法では、当事者への直接の取材が必須である。だが、

取材しようにも、大多数は戦後すぐに故郷に帰ってしまって話を聞

くことができない。例え小説といえども、 いかに吉村昭であっても

取材なしでは書けなかったのではないか。こうして、吉村昭の意図

がどうであれ、多くの読者は、朝鮮人は存在しなかったと思ってい

るのだ。

(194p)

  

なぜ「高熱隧道」に朝鮮人が出てこないか。

この194pの説は納得です。

朝鮮人人夫の話が聞けてないなら、吉村さんは書けなかったんだ。

朝鮮人人夫がどう考えているのか、正確に掴めずに、書きなかったんだ。

だから、改めて書きますが、技師たちは、人夫が何を考えているのか

妄想を膨らませて、そして恐怖につながっていったんだと思います。

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑤ 実は人夫の多くは朝鮮人だった

   

今日は令和6年3月24日。

  

3月21日の記事の続きで、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

   

北陸タイムス」は一九三八年八月二八日夜、阿曽原の隧道内でダイナ

マイトが自然発火で爆発し、南藤吉こと南慶述(35) 外五名の半島人

土工は無残にも頭部、顔面を粉砕して即死、山本政造他二名の内地人

は瀕死の重傷を負うた。さらに、同時刻には人見平(仙人谷)の隧道工

事でも土田武夫こと孫武述(38) 外三名の半島人土工が重傷を負う大

惨事が発生した」と、連続して起きているダイナマイト事故を報じた。

日本人もいたが、多くは朝鮮人だった。

(47p)

  

「高熱隧道」(吉村昭著)を読んでいる時に、全く出てこなかった

「朝鮮人」が、「黒三ダムと朝鮮人労働者」を読んでいると

ちょくちょく出てきます。あれれ?と思い出します。

  

  

体力を消耗するので、作業は一〇分から三〇分交替で行われ、坑口で

休み、塩分を補うために梅干を食べて出番を待って再び入坑した。そ

のため、一日の実動時間は短かった。火傷しないようにゴム合羽や肌

着を着ていたが、ケガや火傷、発破による事故は絶え間なく起き死傷

者が出ると、仲間に取りすがって「アイゴー、アイゴー」と泣いてい

たのを覚えている人もいた。

「アイゴー」とあるように、高熱隧道を掘り進んだのはすべて朝鮮人

の労働者だったと奥田淳爾さんは「黒部川水域の発電事業(二)」に書

いている。あまりに過酷な作業環境での重労働だったため、体力を消

耗するので水代りにおかゆを飲み、ゆで卵を食べ、牛乳が用意されて、

不調を訴えればカルシウム注射が打たれた。労働時間は一応八時間、

三交代で実働時間は三時間ほどだった。 ズリ出しで日給は一五円、切

り端は二〇円~二五円というから当時では破格の賃金だった。それば

かりか、「高熱隧道での仕事は、命知らずの朝鮮人だからできた」と

いわれ、技術力の高さに驚く人もいた。

(51p)

  

驚きです。「すべて朝鮮人の労働者だった」という証言。

そう言われてみたら、「高熱隧道」の人夫には名前がなかったことを

思い出します。

管理する技師たちには名前、日本名がありました。

人夫には名前がなかったぞ。

それも朝鮮人とわからないようにしたのかな。

「高熱隧道」を読んでいる時には、人夫は日本人のイメージでした。

自然にそう思っていました。

違いました。

そうなると、300名を超える犠牲者の意味が違ってきます。

朝鮮人は、全員ではないけれど、強制されてきた人たちもいました。

  

  

高熱のなかでの危険な作業であっても高賃金であれば、働きたいと思う

日本人はいたかもしれない。しかし、削岩機を使うような体力を必要と

する仕事ができる男性であれば、すでに甲種合格で戦場へと送られてい

た。「五◯キロもある削岩機を子どもでも抱きかかえるようにして持ち、

穴を穿つために切っ先を岩面に突き刺して、振動に耐えることのできる

頑丈な男はすでに朝鮮人しかいなかった」と、高熱隧道を請け負った親

方、金泰景さんの息子・金錫俊さんは話した。 朝鮮人でもできる人は限

られていたのだ。 そうした条件に合う労働者を確保するためには高賃金

で人を集める必要があったが、幸いにも話を聞きつけ全国の飯場から労

働者が集まって来た。 死と背中合わせの作業なのに逃げ出す者はいなか

った。日本人がいくら高いお金が払われようと働かなかった現場で、命

と引き換えに高賃金で働いたのだ。

(52p)

  

なぜ朝鮮人が多かったかの理由が書いてあります。

頭の中の現場の様子が、大きく変わってきました。

  

なお、著者が知るかぎりだが、富山県内の慰霊碑で朝鮮名のダム工事

犠牲者の名前が刻まれているのは、一九二七年着工、一九三〇年完成

の庄川水系祖山ダム(本体施行:佐藤工業、ダム事業者:関西電力)のみ

である。慰霊碑は一九三三年に建てられており、殉職者三一名のうち

朝鮮名は五名である。ここに名前を記し、追悼する。

権福永、朴黙、朴守黙、 金錬妓、安小龍  

  

人が死ぬのが当たり前だったかもしれない工事。

こういう人たちのことは、覚えておかなくてはね。

   

日本の側にも朝鮮人労働者を引き入れる要因があった。第一次世界大

戦後の好況時に一時的に労働力不足になり急激に導入が進んだ。 その

後も鉱山や土木、繊維関連工場の低賃金労働者として受け入れが続い

た。しかし、雇用の調節弁とされて安定的な職業に就くことはできず、

危険で低収入の職場で、「牛馬のごとき扱い」を受けた。いや、「牛

馬の方がましだった」とさえといわれている。

「韓国併合」以前から、日本人は朝鮮人を、人間というより都合のよ

い労働力と考え、同時に危険な存在として取り締まりの対象としてき

た。第一次大戦後に不況が広がり、日本人にも失業者が出るなかで、

政府は一九二三年五月に「朝鮮人労働者募集に関する件」 を公布、

日本人事業者に対して朝鮮人労働者の募集をできるだけ制限するよう

に伝えた。同年九月一日の関東大震災においては、「井戸に毒を入れ

た」「朝鮮人が暴動を起こして日本人を襲撃している」 など官憲によ

り意図的に流された流言飛語によって、民間人の自警団が数千人とも

いわれる朝鮮人や中国人の大量虐殺を行った。しかし、政府や行政は

殺戮行為の捜査も調査も行わず、日本人自身による反省もなかった。

それが一〇〇年後の現在に至るまでも犠牲者の人数がわからない原因

であり、日本人の反省と責任が問われるところである。さらにいえば、

朝鮮での義兵戦争に送り込まれた日本兵の影響を受け、植民地朝鮮へ

の蔑視、偏見が朝鮮人の命の軽視につながり、自警団を結成するなか

で容易く命を奪うことになった。

(78〜79p)

  

日本人は、労働力として朝鮮人を受け入れたが、

怖い存在でもあったことがわかります。

「高熱隧道」(吉村昭著)のラストでは、

人夫たちの集団に恐怖心を抱いた技師たちが、

人夫たちから逃げるシーンがラストです。

なぜあれほど、人夫たちを恐れたのかが、不明でした。

でも、朝鮮人だったと考えると、見えてきます。

多くの犠牲者を出して貫通させた隧道。

その労働環境は過酷で、命懸けの仕事場でした。

そんな場所で働かせた負い目が、恐怖となったのでしょう。

武田邦彦の「ホントの話」(155回)/フィンランドの英雄シモ・ヘイヘ

   

今日は令和6年3月24日。

   

サークルの時に教えてもらって、この動画を見ました。


YouTube: 【公式】武田邦彦の「ホントの話。」第155回 2024年2月23日放送 今回の内容は特に良いです(*自画自賛)

  

動画の最初のネタ。

Img_4825

サークルではこのことが話題になりました。

公立小学校教師からの投稿。

戦争において日本軍はアジアを守った、

併合した地域では教育を普及させ、

インフラ整備に力を注いだと話したところ、

上の先生から、そのようなことは教えないようにと言われたのです。

この先生は、最初は、日本軍は戦争をして、アジアで悪いことをしたと

教えていました。

しかし、教えていた子どもの曽祖父から次のように言われます。

「なぜ日本が悪いことをしたと教えるのか。

私たちは日本を守るために戦ったのに。

悪いことをしたなんて言われたら、日本を守って死んでいった仲間に

顔向できない」

この言葉を聞いて、その先生はしっかり勉強します。

そして、本当のことを知ったその先生は授業で教えました。

でも認められなかったのです。

嫌がらせもあって、現在この先生は休業中です。

武田先生は、戦争は勝者が歴史を作ると言っていました。

そうだよね、真実はどうだったかを調べて伝えることも大事ですが、

「勝者が歴史を作る」という視点も教えたいですね。

この動画は、他の勉強のきっかけにもなりました。

38分35秒くらいから、フィンランドとソ連との

冬戦争の話題になります。

武田先生が、冬戦争で活躍したフィンランドの英雄を

紹介していました。

名前は出ませんでした。

その人は狙撃兵です。

たった一人で、ソ連軍を止めた人です。

名前を出さなかったので、調べました。

「冬戦争 英雄 スナイパー」で検索したら、すぐにわかりました。

  

シモ・ヘイヘという名前でした。

Img_4812

Wikipedia シモ・ヘイヘより転載。

  

ソ連兵を542人射殺したと言われます。

その数は、世界戦史で最多と思われます。

ソ連兵に恐れられ、「白い死神」と呼ばれていました。

動画を調べると、幾つもありました。

その中からこの1本。


YouTube: 【白い死神】シモ・ヘイヘの狙撃能力と冬戦争

  

シモ・ヘイヘに焦点を当てた動画で、

詳しい説明をしてくれています。

冬戦争でシモ・ヘイヘが配属された場所はコッラ川。

Img_4813

ここで、フィンランド軍は32名、ソ連軍は4000名。

Img_4818

このとんでもない兵力差を、32名のフィンランド兵は、

雪を味方につけて、勝利するのです。

関連人物として2名。

32名の隊長。アールネ・ユーティライネン。

Img_4814

  

フィンランド軍の最高司令官。

カール・グスタフ・アンネルヘイム。

Img_4815

この2人もいつかしっかり調べたいと思います。

冬戦争における重要人物です。

ここに書き留めておきます。

今は、シモ・ヘイヘ。

  

Img_4819

シモ・ヘイヘは、顎を撃ち抜かれ、意識不明。

目が覚めたのは1週間後でした。

その直後、冬戦争は終了。

その後、再びソ連と戦争を始めたフィンランド。

継続戦争。

シモ・ヘイヘも参戦を望みましたが、怪我が癒えていなくて、

参戦を認められませんでした。

39歳で退役。

96歳で永眠。長生きでした。

  

コッラ川で対峙したソ連軍は、こう言っていたそうです。

Img_4821

なぜ150%か?

Img_4822

  

  

シモ・ヘイヘは、ソ連軍から奪った機関銃の扱いも上手く、

狙撃以上にソ連兵を射殺しているそうです。

1000人以上を射殺。

後年、このことで非難されたり、脅迫されたりします。

しかし、シモ・ヘイヘは何も言わなかったそうです。

唯一、こんなことを言ったそうです。

Img_4823

こう聞かれたシモ・ヘイヘ。

次のように答えます。

Img_4824

「できる限り実行」

これが大事ですよね。

今の自分は、こう思うことが多いです。

特にこの2年間は、この気持ちですね。

継続したいです。

   

今日はまた知らなかった歴史を知りました。

2024年3月23日 (土)

俳優の寺田農さんが亡くなるとのニュース

   

今日は令和6年3月23日。

  

昨日、修了式。

今年度教えた子どもたちとお別れでした。

やり切りました。

また1年が終わろうとしています。

再雇用2年目。この1年も良かったです。

昨晩は反省会。しっかりビールを飲んで、

たくさんお話をしました。皆さん、お疲れ様でした。

さあ、春休み。

今日から31日までは、できるだけ道草したいですね。

ブログを書きたいです。

  

  

俳優の寺田農(みのり)さんが亡くなったというニュース。

享年81歳でした。

肺がんとのこと。

寺田さんについては、かつて記事にしました。

ここでも道草 映画「肉弾」の絶妙な会話シーン(2015年8月27日投稿)

映画「肉弾」(1968年)で主役を務めました。

このアップは印象に残りました。

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寺田さんの死を伝えるニュースです。


YouTube: 【訃報】俳優・寺田農さん(81)肺がんで死去

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映画「天空の城ラピュタ」(1986年)のムスカ役の声優でも有名。

その声をご丁寧に集めた動画がありました。


YouTube: 【高音質】ムスカ大佐 音声集

  

お馴染みだった俳優さんの死。

確かに確認しました。

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