2024年3月21日 (木)

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」④ 「真説『高熱隧道』」の存在

   

今日は令和6年3月21日。

  

昨日の続きで、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

  

着工した年の一九三七年二月二六日、皇道派青年将校がクーデターを

起こした。七月七日には盧溝橋事件が起きた。いよいよ中国侵攻が本

格化し、関西では軍需品製造のための電力が待たれていた。早期完成

のため、隧道工事が主となる第二工区では同時に何カ所からも掘削し、

昼夜兼行で工事が行われ、さらに、「冬営」が敢行された。日本電力

株式会社取締役齋藤孝二郎土木部長は「一年のほとんど半ばにも及積

雪期を除外しては工程に及す影響であるから、あらゆる危険と不自由

を忍んでも冬営作業は止むを得ない次第である」(「黒部川第三発電所

工事余談」 齋藤孝二郎 一九三八年一二月二日稿)と書いている。

冬期間宇奈月との通行ができない状況は安全面からも問題だと当初か

ら指摘されていたが、はたしてこの冬営が志合谷ホウ雪崩事故、そし

て阿曽原ホウ雪崩事故などを起こし、幾多の犠牲者を出した。

自然環境保全のために着工が遅れたことについて、齋藤土木部長は

「産業風致両立こそ真に黒部を活かす所以なりと信じ、これより実行

して来たもので、私は茲に産業風景是非を論ずることを敢てせぬ」と、

産業と風致とを同時に実現しようとしたのだが、これが多大な犠牲と

辛酸を加重したのだろう。志合谷雪崩事故の少し前に書かれたものだ

が、当初の十字峡水没を避けて、仙人谷にダム建設をすることになっ

た。いずれにしろ高熱隧道の工事は避けることはできなかったかもし

れないが、早期完成を至上命題とするなかで自然保護を要請されたこ

とが工事着工を遅らせ、危険がわかっているのに冬営を強いられるこ

とになり、人命を犠牲にして工事を進めることになった。

(26〜27p)

  

この文章の中に「風致」が出てきます。

「風致」は最近知った言葉です。

ここでも道草 20240218幕山・城山登山/湯河原町の風致地区条例(2024年2月29日投稿)

風致は自然の景色などのおもむき、あじわいの意味です。

黒三ダム・発電所建設にあたって、

産業と風致を両立させようとした結果、

黒部渓谷の景色を壊さないために、

隧道を掘ることが選択されたということでしょうか。

そして冬期の工事。

その結果、300人以上の犠牲者が出てしまいます。

   

志合谷宿舎は合掌造り木造四階建で、側壁だけが厚さ一メートルの無

筋コンクリートだった。 まず屋根が飛ばされ、合宿上部は雪崩に打ち

砕かれて、就寝中の人々とともに志合谷から対岸尾根(対岸尾根は寄宿

舎と同じ高さか、それより低い) までの広い範囲に飛散した。三月に

入り、奥鐘釣山の絶壁の下に建物の一部と遺体が一ヵ所にあるのが発

見された。宿舎下部はその場に倒壊し、ここでも死傷者を出した。隣

接し佐藤組配下喜田組事務所ではコンクリート壁が倒れ、一名が圧死

した。事務所に続き、抗口に直結して別の宿舎が隧道内に建っていた。

また、隧道内宿舎地点から谷に降りる斜度は七〇度でロープなしでは

行動できない。

以上は、北海道大学低温科学研究所の故清水弘教授が作成した『真説

「高熱隧道」」(北海道地区自然災害科学資料センター報告, 7、 pp.

37-521992) の中の一文である。清水教授は、志合谷の実地調査と生

存者の証言を検証し、さらに志合谷に限らず一九七三年ころから約一〇

年間に黒部峡谷各地で起こった雪崩事故の様子を三〇人以上から聞き

取り、科学的考察をもとに報告書を作成した。 そして、吉村昭の「高

熱隧道」の記述と比較して表を作成する。 すでに「高熱隧道」を読ま

れた人は、「オヤッ?小説とは違う!」と思われたであろう。小説とわ

かっていても、人は吉村昭の記述を事実と思い、体験者ですら自分の

記憶を修正、上書きしがちである。

小説「高熱隧道」では、雪崩の威力を以下のように表現する。

「爆風は宿舎の二階から上部をきれいに引き裂いて、比高七八メート

ルの山を越え、宿舎から五八◯メートルの距離にある奥鐘山の大岩壁

にたたきつけた。途中に破片らしきものが何も発見されないことから、

宿舎はそのままの形で深夜の空を運ばれたと想像された。」

ホウ雪崩の爆風に飛ばされた建物が宙を飛び、 大岩壁にたたきつけら

れるシーンは恐ろしいまでリアルに目に浮かび、ホウ雪崩の凄まじさ

と就寝だった人たちが感じたであろう恐怖を感じさせる。 いやいや、

一瞬のことで恐怖を感じることもなかったかもしれない。

だが、これは事実ではない。

(34〜35p)

   

志合谷泡雪崩事故の様子は、吉村昭さんの「高熱隧道」の記述の

イメージが焼きついています。

しかし、違うようです。

宿舎はそのままの形で飛んでいって、

奥鐘山の岩壁に激突したイメージですが、

それだけではなかったようです。

  

この文章中に出てくる「真説『高熱隧道』」

これは偶然ネットで発見していました。

真説「高熱隧道」(清水弘)

ここを見ると、吉村昭さんの記述と、

清水さんが調査した記録の食い違いが、

表によって示されています。

どうやら「高熱隧道」は正確なものではないようです。

  

「真説『高熱隧道』」のラストの記述が気になりました。

引用します。う〜ん、写真を転載します。

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吉村昭さんの「高熱隧道」の舞台裏を見た感じです。

「高熱隧道」 すごい本に出合ったと感じましたが、

完璧な本ではなかったようです。
  

  

  

マクドナルドのCM/宮崎あおいさんの登場

   

今日は令和6年3月21日。

  

ケーブルテレビで再放送しているドラマ「純情きらり」を、

昨年の10月から見続けています。

以前にも書きましたが、「純情きらり」は、2006年4月から

半年間放映されたNHK連続テレビ小説です。

このブログが始まるよりも1年早く、18年前のドラマです。

私にとって、ブログを始める前と後では区切りがあって、

始める前の出来事は、昔のことのように思えてしまいます。

その法則だと、このドラマは昔のドラマですが、

映像が鮮明なこともあって、あまり古さを感じません。

最近のドラマのように思って見ている自分がいます。

  

主人公の有森(松井)桜子を演じるのは、宮崎あおいさんです。

宮崎さんは1985年11月生まれなので、現在38歳かな。

ということは、「純情きらり」の頃は、20歳となります。

そうかあ。

最近見るCMで、これって宮崎あおいさんか?と思えるものがありました。

半信半疑で調べたら、宮崎あおいさんでした。

びっくりです。


YouTube: 宮崎あおい、EPO「う、ふ、ふ、ふ、」にのせ、てりたまをパクリ! マクドナルド新TVCM「春好き?てりたま好き?篇」「マックデリバる?篇」

宮崎「春好き?」

後輩「春、好きっす…」

宮崎「お花見は?」

後輩「好きっす、す」

宮崎「じゃあ…てりたまは?」

後輩「好きっす」

宮崎「じゃあ…てりたま買って、お花見するのは?」

こんな会話が出てくるCMです。

この動画は3本収録されていますが、

最初の15秒バージョンだけ見たことがありました。

真ん中の30秒バーションがやっぱりいいですね。

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「純情きらり」から18年経ちましたが、

笑顔は変わらないなあと思って見ました。

笑わなかったら、宮崎あおいさんに似ている若手さんかなと

思ったことでしょう。

18年の経過を感じさせない宮崎あおいさんを見て、

「純情きらり」はますます最近のドラマに思えてきます。

  

「純情きらり」は、毎日1本ずつ見てきましたが、

今日が148回。

3月いっぱいで終了だと思うので、大詰めです。

 

 

 

 

  

【追記】

あれれ、2年前にもCMに出てたの?

見た覚えがありません。


YouTube: 宮崎あおい、小悪魔的なふるまいで後輩翻弄!? 「30年ぶり」マクドナルドCMに出演 てりたまシリーズ新CM

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「30年ぶり」に引っかかりました。

調べました。

ORICON NEWS

ここに書いてあったことを転載します。

  

宮崎は撮影を振り返り、「とても楽しかったです。実は30年くらい前に

出演させていただいたことがあって…エキストラをしていた 5~6 歳の頃、

ハッピーセットの CM に出させていただいたことがあり、自分の中で勝

手に『30年ぶり』って(笑)。母とも『うれしいね』という話をしてい

て、実際に今日撮影に参加できて『てりたま』もとてもおいしかったので、

すごく楽しい一日でした」と充実した様子。

  

そうだったのですね。

     

  

  

  

  

【追記2】  

2023年はどうだったのかなと調べました。

吉岡里帆さんでした。


YouTube: 【30秒版】 吉岡里帆 マクドナルド てりたま めっちゃ春じゃん篇 TVCM

これも吉岡さんが後輩と「てりたま」を食べています。

基本、同じです。

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来年の「てりたま」のCMに注目しよう。

まだ寒い/雹が降り、サクラの冬芽に変化なし

   

今日は令和6年3月21日。

  

昨日の暴風警報。

心配していましたが、思ったよりこの地域は

強風が吹かなくて良かったです。

ただ、寒気が入ってきたことで、

上空が不安定になり、雹(ひょう)が降ってきました。

1分間録画しました。


YouTube: 2024年3月20日 天気不安定 白いものが降った!

  

今日も寒いです。

朝のゴミ出しも、寒かったなあ。

まだ冬だ、いつ春が来るんだと思ってしまいました。

町内会のお花見は3月26日の予定。

電子回覧板で、サクラの冬芽の写真を、

ほぼ毎日アップしていますが、

ちなみに昨日はこんな感じでした。

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ちょっと26日には、開花でさえ難しいなと思います。

26日の天気もあまり良くないようなので、

延期できるのなら、1週間遅らせるのがいいのではと思います。

主催者さんは、どうお考えかな。

2024年3月20日 (水)

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」③ 最初は高峰譲吉でした

   

今日は令和6年3月20日。

  

この本の引用も間が空いてしまいました。

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)

いつ以来か調べました。

ここでも道草 本「黒三ダムと朝鮮人労働者」② 黒三と黒四は「不ニ一体」(2024年2月17日投稿)

1ヶ月余りが過ぎていました。

この本の引用も頑張ります。

  

いち早く黒部川電源開発に注目したのは、福沢諭吉の養子の福沢桃介

だった。一九〇九年に調査に入ったが、あまりに急峻な地形だったこ

とと、別の事業を始めたことから手を引いた。また、三井鉱山が神岡

鉱山の鉛精錬のために水利権を出願するなど、多くの企業が水利権を

得ようと競っていた。

だが、実際に大規模な調査と開発が行われたのは一九二〇年代になっ

てからだった。一九一七年、タカジアスターゼの発見者として知られ

る高峰譲吉が、アルミ精錬の電源を求めて黒部川の水力発電の可能性

に注目して調査に乗り出した。一九一九年にはアメリカのアルコ社と

共同で東洋アルミナムを設立、富山湾に面する良港、高岡銅器の加工

技術、水力発電による電力、豊富な労働力を結合してアルミ産業を興

すという壮大な計画を立てた。一九二〇年には欅平から上流へと水平

歩道の開削を開始、一九二一年には電源開発と地域開発を同時に進め

るために黒部鉄道株式会社を起し、建築資材と人員を運ぶ軌道計画を

立てた。一九二二年には宇奈月をリゾート地として開発する黒部温泉

会社を発足、一九二三年には県中心部の富山市から宇奈月まで鉄道が

開通した。

しかし、第一次世界大戦後の不況のさなか一九二二年に高峰が亡くな

ると、 東洋アルミナムはアルミ事業を断念し、黒部水力株式会社と改

称して電源開発事業を縮小し、温泉開発計画も白紙に戻して、株式は

日本電力株式会社(現・関西電力)に譲渡された。富山県のアルミ産業

の発展という高峰の壮大な夢の実現は、戦後を待たなければならなか

った。(高峰譲吉博士研究会「黒部奥山をひらく」)

(15p)

  

東洋アルミナムが水平歩道を作ったのは、

このような経緯(いきさつ)だったのですね。

高峰譲吉は化学者、薬学博士の顔と、実業家の顔があったのですね。

高峰譲吉については、このサイトが参考になります。

高峰譲吉博士研究会 高峰譲吉ってどんな人?

このサイトから図を転載。

Img_4783

ニューヨークの郊外にある墓地の紹介には

次のように書いてあるそうです。

  

「世界で最初のでんぷん分解酵素(タカジアスターゼ)を1896

に開発したことにより”近代バイオテクノロジーの父”として尊敬を

集め、1901年にはアドレナリンを世界で初めて分離した。また有

名なワシントンの桜を(アメリカに)寄贈したのも博士である。」

  

今朝のニュースと繋がったことがあります。

ワシントンのサクラが満開であるというニュースでした。

例年よりも2週間早いそうです。

向こうは暖冬が続いたようです。

日本は3月になって冷えたので、開花すらしていません。

  

「タカジスターゼ」は、夏目漱石の小説に出てきたぞ。

「吾輩は猫である」の苦沙弥(くしゃみ)先生が常用していました。

アドレナリンもこの人だったのですね。

まさか高峰譲吉に、黒三ダムで出会うとは思いませんでした。

  

黒部川電源開発を引き継いだ日電は、さっそく一九二三年九月に宇奈

月─猫又間一二キロの軌道の開削に着手、上流へと調査を進めた。さ

らに、「黒四」へのルート開発として日電歩道の開削に取り組み(一九

二九年完成)、翌一九二四年には柳河原発電所工事を開始した。猫又で

取水口工事に取り掛かり、洪水やホウ雪崩などの自然災害に阻まれな

がらも、三年後の一九二七年に黒部峡谷最初の発電所が運転を開始し

た。

(15〜16p)

  

日電が日電歩道を作ったことが、ここで確認できました。

ホウ雪崩(泡雪崩)はすでに起きていたのですね。

黒部峡谷、怖い場所です。

  

「黒二」は一九三六年十月末に営業運転を開始、送電を始めたが、そ

の完成を待つことなく、同年九月から「黒三」建設工事が開始され、

完成まで四年以上の歳月を費やした。

工事は欅平に発電所を造り、六キロ上流の仙人谷ダムから水を取り入

れるというもので、険しい地形、冬期の積雪、風致地区ということか

ら工事資材運搬用の軌道をはじめ、ダム以外のすべてを隧道内とした。

また、両地点に三〇〇メートルの高低差があり、河川勾配二五分の一

のため、欅平の山中に内径五・五メートル、直高二二二メートルのエ

レベーター(竪坑)を作り、宇奈月から軌道で運んできた資材をトロッ

コに乗せたまま垂直に移動して、再び上部軌道で仙人谷へ、さらには

黒四ダム工事地点まで運ぶ計画が練られていた。そのため、工事開始

以前から人跡未踏の切り立った崖に調査用の狭い道をつけ、さらに上

流へと調査を進め、一九二八年にはすでに「黒四」地点の調査を開始

し、翌年には日電歩道(仙人ダムー黒部ダム)が完成した。その後、一

九三七年には宇奈月から欅平までの軌道が全線開通した。

(24〜25p)

  

欅平(けやきだいら)には竪坑エレベーターが造られました。

これは今も現役です。

黒ニができたら、黒三、そして黒四。

次から次に、ダムや発電所は造られる計画だったのですね。

もう知らない歴史が、堰を切って私に流れ込んできます。

本「高熱隧道」⑤ 2度目の泡雪崩

   

今日は令和6年3月20日。

  

前記事に引き続き、

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)を読んで、

印象に残った文章を引用していきます。

    

貫通直前の隧道工事では、両工事班の切端が極度に接近した時、穿孔

(せんこう)鑿(のみ)の尖端が相手側の切端に突き出れば、最後の

発破は鑿(のみ)を突き出させた側の権利となるという約束事がある。

その「鑿先をとる」ことが人夫頭・人夫たちの最大の悲願なのだ。そ

のためには、最後の発破の瞬間まで敏速に掘進作業をつづけねばなら

ない。

双方の坑道内に電話がとりつけられ、互に坑内連絡がとれるようにな

った。仙人谷工事班長沼田からも、阿曾原谷工事班の鑿岩機(さくが

んき)の音がきこえてくるといううわずった声が流れてきた。

翌十七日、仙人谷側坑道の切端で午後四時の発破が仕掛けられたのに

つづいて、一時間後には阿曾原谷側で岩盤がダイナマイトの起爆によ

って崩れ落ち、両班の切端の距離は六メートル足らずにまで接近した。

しかし、根津、藤平はむろんのこと、両工事班の幹部技師たちは両切

端間の距離についてはかたく沈黙を守りつづけていた。設計にもとづ

く計算によればたしかに六メートル足らずではあっても、実際には多

少の食いちがいがあらわれるかも知れない。

それに、人夫たちにそのことを洩らしてしまうことは、掘進競争に好

ましくない結果をあたえるおそれがある。 作業の進行状況からみて

到底「鑿先をとる」ことができないと見きわをつけた工事班では、

落胆して意欲を失い、作業を投げ出してしまうことが考えられる。

なるべくかれらを盲目状態において、最後の一瞬までその力のすべて

をしぼり出させる必要があった。

ただかれらは、岩盤の奥からつたわってくる相手方の岩機の音に切端

が 接近しているこを察知しているらしく、かれらの動きにも一層はげ

しいものがあらわになってきていた。火薬係の人夫たちは、うがたれ

た孔に氷の棒をさし入れることも全くやめてしまっていた。

(185〜186p)

  

ダイナマイトに岩盤の高熱が伝わらないように、

氷の棒を差し入れていたのに、焦る人夫たちは、

その手間も惜しんでいたのでしょうね。

  

貫通祝いは、その日の午後一時におこなわれた。

仙人谷工事班の手で岩盤の中心部にダイナマイトが装填され、炸裂音

がとどろいて人が通れるほどの穴があけられた。

藤平には、再び胸にこみ上げるものがあった。加瀬組の後を引きつい

で岩盤に挑みはじめてから、すでに一年四カ月が経過している。阿曽

原谷横坑工事をふくめて九〇四メートルの隧道工事に、それほど多く

の日数を費したことは、藤平自身の経験では今までにないことだった。

が、世界でも稀有な温泉湧出地帯に道をうがつことができたというこ

とは、かれの自尊心を満すのに十分だった。

開かれた穴には清酒が注がれ、仙人谷工事斑の者たちと穴を通して杯

が交され乾杯した。

測定の結果、坑道の食いちがいは横に一七センチの誤差だけですんで

いることが確認できた。そのことは、根津や藤平にとって貫通の喜び

を一層大きなものにさせてくれた。

事務所内で鳴門工事部長、杉山専務をまじえて、あらためて貫通祝い

の杯が交された。鳴門は、根津をはじめ工事関係者の努力をたたえ、

現在掘進中の水路 道の貫通に全力をあげてくれるようにと激励した。

貫通後の慣習で、人夫たちには二日間の特別休暇があたえられた。か

れらは、宿舎の中で眠りつづけていた。

(194〜195p)

  

隧道を両方から掘削していって、たった17cmしかズレないなんて

すごいことだと思います。

貫通した時の祝杯がいい。

穴を通して杯が交わされ乾杯するんだ。

そして2日間のお休み。

貫通はやっぱり特別のことなんだよなあ。

  

  

藤平は、裏山の傾斜を見上げた。かれの口からも、意味のない叫びが

もれた。密生した橅(ぶな)の林に異常が起っていた。あたかもその

部分が人為的に伐りひらかれたように頂から傾斜の下まで七、八〇メ

ートルの幅で樹木の姿が消えている。

その光景が、なにを意味しているのかはあきらかだった。泡雪崩の爆

風が、橅の林の中を通り過ぎたのだ。それは、頂の方向からやってき

て巨大な橅の群れを鋭い刃先で切断し、橅は、大勢の射手が一斉に放

った矢の群れのように空中に舞い上り、宿舎目がけて突き刺さってき

たにちがいなかった。

木造の建築物は圧しつぶされ、それが各部屋に備えつけられた火鉢の

火で火災をひき起したものだと断定された。

(211〜212p)  

  

滅多に起きない泡雪崩(ほうなだれ)が、また襲ってきたのです。

1940年1月9日、阿曽原谷の飯場が、橅の大木に襲われました。

とにかく、こんな出来事があったことを知りませんでした。

知らない歴史は、たくさんあります。

  

吹雪はやんで、その夜は、一面の星空になった。

県警察部の係官の調査では、山の傾斜から舞い上った撫の巨木は、推

定三百本で宿舎から渓谷一帯に散乱していた。

宿舎に突き刺さっている橅(ぶな)は、すべて根が上方になっている

ことからも一旦舞い上ってから逆さまになり、梢(こずえ)の部分か

ら落下したと想像された。落下した橅は、平均して 径 七 〇センチ、

長さは二〇メートルで、ほとんどが六階から五階を貫き鉄筋コンクリ

ートの床にまで及んでいた。

(213〜214p)  

  

すごい威力です。自然の力は、人間の想像力を軽く超えてしまいます。

  

本「高熱隧道」④ 多くの犠牲者が出ても工事が継続された理由

   

今日は令和6年3月20日。

  

前記事に引き続き、

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)を読んで、

印象に残った文章を引用していきます。

   

その頃、県警察部では、日本電力・佐川組の両者をまねいて、事故の

事後処理に対する見解をあきらかにした。 それは、工事の全面的な

中止命令に近いものだった。

「犠牲者をこれ以上出すのは、もうやめなさい」

部長は、ふりしぼるような声でくり返した。

藤平は、頭を垂れてその声をきいていた。 根津は仏が出ても遺族のこ

とは決して考えるな、と言ったが、遺体とともに宇奈月に降りてから

は、遺体にとりすがって泣き叫ぶ老人や女や子供たちの姿を毎日眼の

前で見てすごした。遺族たちの素朴な態度は、かれの胸を深く刺した。

かれらは泣き叫ぶだけで、肉親を死に追いやったはずの幹部技師や会

社に批判も憤りもぶつけてこようとはしない。 藤平たちが、神妙にか

れらに慰めの言葉をかけると、かれらは、ただ頭を深々と下げて、く

り返し礼を述べるだけなのだ。

死者をこれ以上出すのはやめろという警察部長の悲痛な言葉は、その

まま受け入れなければならない常識にちがいない。

これまで苦しんで工事をすすめてきた以上、全工事を完工させたいの

は山々である。が、黒部渓谷は、人間が挑むのは到底不可能な世界な

のかも知れない。

黒部の奥で工事をすることが無理だ、と宇奈月の町の者たちは言って

いるというが、かれらにとっては、欅平附近ですら秘境なのだ。まし

てその上流の黒部渓谷は、人間の足をふみ入れることのできない恐る

べき魔の谷であることを知っている。その渓谷で、工事をはじめ自分

たちは、かれらからみれば狂人としか思えなかったのだろう。

その結果は、多くの死者となってあらわれた。神秘的な黒部渓谷の自

然の力の前に屈する人間の敗北の姿として、かれらは恐れおののいて

それらの遺体をながめてきたにちがいない。

(157〜158p)

  

泡雪崩によって吹き飛ばされた志合谷宿舎の建物が、

大岩壁に激突しているのが発見され、犠牲者の遺体が

収容された後の場面です。

黒部渓谷が、当時どのように思われていたのかわかる文章です。

  

  

三月十八日、雪崩によるその春最大の鉄砲水が上流で発生し、阿曾

原谷は一時的な洪水状態に見舞われた。激流は宿舎の近くまで押し

寄せ、一階の炊事場には雪をまじえた水が流れこんだ。

水は間もなくひいて危険は去ったが、その日の午後、志合谷事故の

犠牲者全員に天皇陛下から金一封が御下賜されたことを、宇奈月事

務所から電話で知らせてきた。

藤平は、すぐ宇奈月までくだったが、迎えた根津もかれも、その一

名あたり二十五円の金額については、遺族たちの悲嘆をやわらげる

のに効果があるだろうという程度にしか考えなかった。そして、遺

族に対する自分たちの責任が、幾分か軽くなったような気持をいだ

いた。

しかし、その御下賜金の下附決定は、藤平たちの想像もおよばない

大きな波紋を周囲にひき起していた。殊に富山県庁と県警察部の反

応は大きかった。

かれらの黒部第三発電所建設計画第一・第二工区に対する工事の全

面的な中止の意志はきわめてかたく、それはほとんど確定的なもの

になっていた。たとえ中央本省から工事再開命令が出されたとして

も、かれらは犠牲の大きいことを理由に強硬な反抗をしめすにちが

いなかった。かれらは、黒部渓谷の特殊な性格を知りつくしていて、

そこで工事のおこなわれることがほとんど不可能であると判断して

いた。

しかし、御下賜金の下附決定は、かれらの態度をたちまち突きくず

してしまった。それは、かれらの批判をさしはさむ余地の全くない、

おかしがたい絶対的な力をもつ声として受けとられたのだ。

御下賜金の下附には、県側の強い意向をひるがえさせようとする中

央本省の政策的な工作もあったのだろうが、そうした事情に気づい

てはいても、県も県警察部も御下賜金の対象となるような重要な工

事を、自分たちの意志で中止させることは到底許されないことを知

っていた。それどころか、たとえ犠牲はどれほど多くとも、積極的

に工事続行に協力しなければならない立場にあることをさとったの

だ。

(169〜170p)

  

当時の天皇の権力、威力、権威を感じました。

これで、大きな犠牲を出したにもかかわらず、

工事は続けられました。

  

 

漸(ようや)く貫通の日が近づいたことに、藤平はあらたな感慨をお

ぼえていた。 加瀬組の放棄した阿曾原谷横坑と仙人谷本坑指定位置に、

それぞれ第一回の発破がとどろいてから七四二メートルの岩盤を掘鑿

(くっさく)してきたことになるが、死者は百七十名をかぞえ四・三

メートル強に対して人間一名が消えてしまったことになる。

人柱という言葉が、自然と胸に浮んでくる。難工事が予想される折に、

生きた人間を水底に沈め土中に埋めたのは神の心をやわらげるためだ

というが、自然はそのような形で犠牲を強いるのだろうか。 人柱は、

事前に神に供えられるが、百七十名の死者は、たとえそれが故意に犠

牲として供えられたものではなくとも、残忍な人柱と異なるところは

ない。

生きて作業をつづけている人夫たちの姿も、決して尋常なものとは思

われない。かれらの体は、熱さにおかされて脂肪分が失われ、骨と皮

のように痩せきってしまっている。そして、体中いたる所に、懲罰で

も受けたように火傷の痕が残されている。連れ立って坑内から出てく

るかれらに、藤平は、死の翳(かげ)りを色濃く見出して、思わず顔

をそむける。

しかし、順調に掘鑿がすすめば三ヶ月後には貫通するという想像は、

藤平の胸をときめかせた。たとえ人夫たちが亡者のように痩せこけて

しまっていようとも、かれらを督励して、切端にぽっかりと穴のあく

のを眼にしたいという願いが、切なく胸の中にあふれた。

(175p)

   

この文章を読んだ時には、私は働く日本人を思い浮かべていました。

しかし、その後に読んだ「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/

桂書房)の内容に驚きます。働いていた人たちの多くは朝鮮人だっ

たということです。

藤平が感じている人夫に対する不安とか、人夫の犠牲があっても

工事を完結させたいという気持ちは、同朋の日本人ではなく、

別国の朝鮮人だからだったのではないのかと。

たくさんの犠牲者が出ても、人夫が反抗しなかったのも、

朝鮮人だからというのもあったのでは。

吉村昭さんは、朝鮮人が働いているのを知りながら、

朝鮮人を1回も出しませんでした。考えさせられます。

  

  

本「高熱隧道」③ 志合谷宿舎泡雪崩事故

   

今日は令和6年3月20日。

  

今朝早く、愛知県東三河地方に暴風警報が出ました。

外を見たら、無風。

でも昨日の天気予報でも、

今日はすごい風が吹くと言っていました。

まさかの暴風警報ですが、気をつけたいですね。

今日は自宅の庭にレンガを並べて花壇を作ったり、

防草シートを敷く予定でしたが、明日に延期。

明日は木曜日なので、私は休みです。

  

昨日は脱線してしまいましたが、

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)を読んで、

印象に残った文章を引用していきます。

  

技師と人夫。そこには、監督する者と従属する者という関係以外に、

根本的に異なった世界に住む者の違和感がひそんでいる。それは、一

言にしていえば、技師は生命の危険にさらされることは少いが、人夫

は、より多く傷つき死ぬということである。と言うより、人夫たちに

は、死が前提となっているとさえ言ってよい。或る工事がはじまる時、

その予算案の中の雑費という項目には弔慰金に該当するものが必ず組

みこまれている。死はあらかじめ予定されている事柄であり、しかも、

それはより多く人夫の死に対して支払われる含みをもっているのであ

る。

(97p)

  

死者が出ることが前提になっているのが怖い。

この黒三ダムでも、その後の黒四ダムでも、

たくさんの犠牲者が出ました。

黒三ダムの場合、多くの朝鮮人が命を落としています。

  

  

藤平は、焦躁感にかられながら事務所にこもって、深夜まで本店に送

るその年一年間の工事報告書の作成を急いでいた。その末尾にしるさ

れた人命の損失は、顚落(てんらく)事故、火薬事故、熱湯噴出事故、

落石事故等合計三十一名で、二年四カ月前の着工以来の死者は、総計

八十五名に達していた。

(118p)

  

この時点で、85名なのです。この後、黒三ダムの関係者は、

未曾有の事故に襲われるので、この数ではすみませんでした。

その事故については、上の記述の後、118p最後から4行目から

書かれています。

  

正月休みも間近に迫った十二月二十七日の深夜、佐川組第ニ校区志合

谷(しあいだに)で大事故が発生した。

(118p)

  

「見て下さい、ないんです」

藤平たちは、伊与田の指さす方向に眼を向けた。

「なにがないんだ」

根津が、反射的に叫んだ。

「宿舎です。 宿舎がないんです」

伊与田の声は、甲高くふるえていた。

短い叫びが、根津たちの口から一斉にもれた。

藤平は、ハンマーで背中をどやしつけられたような激しい衝撃を感じ

ながら眼をこらした。志合谷宿舎は、坑口の近くに高々とそびえ立っ

ていたはずだ。荒々しいコンクリートの肌をむき出しにして、いかつ

い姿で立っていたのだ。が、雪のちらつく夜空の淡い明るみをすかし

て見上げても、鉄筋五階建ての角ばった建物の影は見えず、遠く切り

立った渓谷の岩壁の輪郭が黒々と迫っているだけであった。

根津も口がきけないのか、眼を大きくみひらいて藤平の顔を見つめて

いる。

信じがたいことが起ったのだ。 宿舎が消えたというのは、いったい

どういうことなのか。藤平は、自分の体がはげしくふるえ出してい

るのを意識していた。

(121p)

  

雪崩が、頑丈な宿舎の3・4階を、600m吹き飛ばした事故でした。

  

この事故については、動画でも勉強ができます。


YouTube: 宿舎が空中を600m飛行し大岩壁に激突!雪崩の1000倍ヤバイ『泡雪崩』を知っていますか?1938年 黒部志合谷の宿舎を襲った泡雪崩について徹底解説!【ゆっくり解説】

飛ばされた宿舎は、75mの尾根を飛び越えて、

大岩壁に激突。その途中に、瓦礫などが落ちていなかったので、

宿舎は、形を保ったまま飛んでいったと考えられています。

上の映像の写真です。

Img_4777

Img_4775

Img_4776

奥鐘山は「おくがねやま」と読むようです。

  

「どうでした、警察では」

藤平は、根津の青ざめた顔を不安そうに見つめた。

「芳しくない空気だ。工事中止だと息まいていやがる。犠牲者があま

り多く出るので、強硬なんだ。中央の本省でどう言おうと、絶対に工

事は中止させると言っていたよ」

根津がうつろな表情で言った。

藤平は、根津の眼に光るものを見た。たしかに警察側の判断は当然す

ぎるほど当然だろう。今度の事故で行方不明になった者はおそらく一

人の例外もなく絶望的だろうし、その数を加えると工事着手以来佐川

組関係だけでも人夫・ボッカの死者は百七十名に達している。宇奈月

の町の者が口にしているように、黒部渓谷は、まだ人間の知識や能力

ではおよびもつかない為体(えたい)の知れぬ強大な力をもつ大自然

なのだろうか。強引に工事をすすめてきてはみたが、人間の生命は、

その力の前にあっけなく次々とすりつぶされてゆく。

しかし根津にしてみれば、自然に屈することは堪えがたい屈辱にちが

いない。作業員の死が山積しても、かれは、その死骸を踏んまえて隧

道を貫通させるために全力を傾ける人間なのだ。

(136〜137p)


  

泡雪崩という暴風のような雪崩による事故。

警察は当然、工事を中止させようとします。

でも、工事は継続されました。その理由は、上の動画にあります。

良かったら見てください。
  

  

2024年3月19日 (火)

群馬の森 朝鮮人慰霊碑撤去について

   

今日は令和6年3月19日。

  

前記事の続き。

  

ダイナマイトについて調べていて、

群馬の森が、日本のダイナマイトの歴史にとって

大事な場所だとわかりました。

その群馬の森が、最近のニュースで話題になっていました。

群馬の森に、2004年に建てられた朝鮮人追悼碑撤去のニュースです。

戦時下に、日本人の若者が戦地に送られ、

労働力不足を補うために、朝鮮人を日本に連れてきて働かせました。

過酷な労働で、命を落とす人もたくさんいたそうです。

群馬県も例外ではなく、たくさんの朝鮮人が犠牲になりました。

その記憶を残そうと、群馬の森に追悼碑が建てられました。

  

産経新聞 <主張>朝鮮人追悼碑 政治利用で撤去は当然だ

撤去は当然だという産経新聞の記事を引用します。

  

一方、同会(追悼碑を守る会の前身)が当初作成した碑文原案には

「強制連行」の用語が使われ、日本批判が目立つような内容だった。

そこで県が修正を求め、「政治的行事を行わない」ことを条件に設

置を許可した経緯がある。

この設置条件は県立公園の中立性を保つため、極めて重い約束事で

あった。

  

そんな条件での追悼碑建立でしたが、その条件が破られたと書いています。

  

ところが16~24年の追悼式で政府批判が繰り返されていたこと

が確認され、県は(平成)26年、10年ごとに行われる設置許可

の更新を認めなかった。

同会は県の措置を違法として提訴し、1審前橋地裁は同会の主張を

認めたが、2審東京高裁は「追悼式で『強制連行』という文言を含

む政治的発言があり、碑は中立的な性格を失った」として同会の請

求を棄却した。令和4年の最高裁でも同会の上告が棄却され、県勝

訴の判決が確定している。

  

この言い分をどう思いますか。

場所は公共性の高い公園だったのがネックかと思います。

しかし、県知事は、設置場所の移動を提案したとも聞きました。

その提案は受け入れられませんでした。

県知事には、歴史を変えようという考えはなかったのだと思います。

   

ここで気になるのは、この追悼碑を撤去するように動いていた

市民団体があるということです。

その人たちの考え方は問題があります。

日本人は、朝鮮人を強制連行していないんだ、

日本は朝鮮人には悪いことをしていない、

どちらかというと朝鮮のインフラ整備のために、

日本のお金を使って実行したんだという主張です。

あったことは認め、反省し、追悼し、

でもこれからは、新しい歴史を作っていこうという考え方ではなく、

そんな黒い歴史はなかったんだという考え方です。

自虐史観のように、過去の歴史を

ずっと引きずるのは良くないことです。

日本が朝鮮でやった良かったこと、悪かったことを確認し、

それを歴史に残すべきだと思うのです。

   

前記事で紹介した動画を再び掲載します。


YouTube: 「群馬の森」朝鮮人追悼碑が撤去に 「記憶 反省 友好」の思いはどこへ【報道特集】

この中で、山本一太知事は、次のように言っています。

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知事の考え方は、あくまでも条件違反だからであって、

朝鮮人追悼の気持ちは否定していないのです。

  

この報道特集に対して、5つの偏向があると

さささのささやんは言っています。


YouTube: 【報道特集 偏向5回】TBSに中立性は無いようだ【匿名TV記者 炎上】マスコミと呼ぶ人はまともじゃない


この動画の前半です。

最初に見た時には、なるほどと賛成しましたが、

あらためて「報道特集」を見て、

撤去を求める人たちの市民団体(番組では右翼団体と表現)の人たちの

いでたち、そして発せられる言葉は、異様でした。

繰り返しますが、私はこの人たちを問題にしたい。

    

この動画が、私には比較的納得します。


YouTube: 「『群馬の森 朝鮮人追悼碑』撤去について」【古谷経衡】2024年2月5日(月)大竹まこと 古谷経衡 阿佐ヶ谷姉妹 砂山圭大郎【大竹紳士交遊録】【大竹まことゴールデンラジオ】


古谷経衡さんの意見です。

撤去を求める市民団体は、強制連行はなかった、

過酷な労働はなく、賃金も支払っていた、

日本は悪くないという、歴史を改竄する人たちであり、

その圧力に、群馬県が忖度したのではないかという説です。

  

自虐史観はGHQが仕掛けたことという説が

最近の私の頭に入ってくるようになりました。

でも自虐史観をひっくり返して、

日本人は悪いことはなかったんだというのは

行き過ぎではないでしょうか。

過去は過去。

世代も変わったので、過去のことは学んでおいて、

未来の時と場合に活かせばいいのです。

慰安婦像が象徴する、日本はひどい国であり、

朝鮮人にずっと負い目を感じるように仕向けるものは、

もういい加減、撤去でいいと思います。







  

  

本「高熱隧道」② ダイナマイトは水の存在は支障にならない

   

今日は令和6年3月19日。

  

ずっとやっていなかったことをやります。

ここでも道草 本「高熱隧道」① 犠牲者が出た日電歩道(2024年2月11日投稿)

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)を読んで、

印象に残った文章を引用していく続きです。

今から頑張ります。

    

それにくらべると、ダイナマイトは、水中爆発なども可能なように水の

存在も全く支障とはならない。ただ導火線が濡れると点火しないのが難

点ではあるが、これも鬢(びん)つけ油をぬることで解決されている結

局、発破火薬も、従来通りダイナマイトを使う以外には考えられないこ

とが確認された。

(81〜82p)

  

隧道は高熱であるため、ダイナマイトの自然発火による

爆発が恐れられました。

高熱であるために、人夫の体に、川の水をポンプアップして

浴びせ続ける作戦をしました。

当然、ダイナマイトは濡れるのですが、

ダイナマイトは水の存在が支障にならないんですね。

ダイナマイトの原料は、ニトログリセリン。

わずかな衝撃でも爆発するニトログリセリンを、

ダイナマイトにしたのはノーベルでしたよね。

  

Wikipedia ダイナマイト

ここで少し調べました。

明治になって、日本にはダイナマイトを作る技術がなく、

貴重な外貨を使って、外国から購入して、

琵琶湖疏水の工事などに使ったそうです。

琵琶湖疏水はたくさん調べ、現地にも行ったので懐かしい。

日露戦争でも、輸入したダイナマイトを大量に使いました。

必要に迫られ、日本でもダイナマイトが作られました。

1906年(明治39年)東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所でのことでした。

群馬県岩鼻村に製造所はありました。

現在の群馬県高崎市岩鼻町であり、製造所の跡地は「群馬の森」

と呼ばれる県立公園です。

ここに石碑があるそうです。

Img_4769

上州まったり紀行

  

  

群馬の森といえば、最近騒がれました。

朝鮮人労働者追悼碑の代執行による撤去です。

1月29日に行われました。

話はどんどん脱線していきますが、

2月10日にTBS「報道特集」で、

この撤去について取り扱われました。

YouTubeでその番組を見ることが、今はできます。


YouTube: 「群馬の森」朝鮮人追悼碑が撤去に 「記憶 反省 友好」の思いはどこへ【報道特集】

  

う〜ん、やっぱりこのことは次の記事に書きます。

まだ長くなるので。  

2024年3月18日 (月)

3月18日 勤務校のモモも開花していました

   

今日は令和6年3月18日。

 

前記事の続き。

  

アーモンドの開花に喜び、写真を撮っていましたが、

ふと、隣の隣の隣の木に目が行きました。

そこにはモモがありました。

そこにモモがあることをすっかり忘れていました。

アーモンドに集中していました。

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あれれ、モモも開花していることに気がつきました。

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アーモンドの開花数より、明らかに多かったです。

アーモンドに負けず劣らずのきれいな花でした。

さっそく、タブレットに接眼レンズをつけて、

開花したての花に迫りました。

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モモもいい花です。

 

キアゲハ、アーモンドの花、モモの花。

今日1日で、こんなに見ることができました。

今日は予感通り、いい日になりました。




  

 

最近の写真

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