2012年1月 6日 (金)

リチャード・トレビシックは蒸気機関車を製作

  

今日は1月6日。

昨年使っていた日めくりより。

   

EPSON048
   

リチャード・トレビシック。イギリス人。

1804年に蒸気機関車を製作しました。

この人の孫が日本に関係していました。

   

孫の一人、フランシス・ヘンリー・トレビシックは1876年に来日、

主として官設鉄道新橋工場の汽車監察方などを歴任して、1897年まで在勤しました。

日本で日本人女性と結婚、1904年に退職帰国しました。

兄のリチャード・フランシス・トレビシックも機関車技術者であり、

1888年に来日、主に神戸工場の汽車監察方などを勤め、1904年まで勤務しています。

兄弟とも、日本の機関車技術の向上と定着に大きな役割を果たしました。(Wikipediaより)

   

この2人のように、幕末・明治期に、

欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人のことを

お雇い外国人」「お抱え外国人」と呼びました。復習、復習。

   

もう一つ面白いことを知りました。

2011年4月13日、リチャード・トレビシック生誕240周年を記念して、

Googleイギリス版のホームページのロゴが特別バージョンとなったそうです。

Trevithick11-hp
   

イギリス人はちゃんとわかっているんだ、この人のこと。

何かホッとしました。いいぞ、イギリス人。

    

     

    

日めくりから勉強がまた広がった。

 

テレビで勉強・・・カムチャツカ半島の名峰クリュチェフスカヤ

   

今日は1月6日。

今年もテレビを使って子どもたちの好奇心をどんどん広げたいと思っています。

そのためには教師がどんどん番組を見ていきたいです。

   

新年、最初に録画した番組は、

1日午前4時から放映された「世界の名峰 グレートサミット クリュチェフスカヤ」です。

カムチャツカ半島にある火山。

活火山としてはユーラシア大陸最高峰の4750m。しかし噴火のたびに標高は変わります。

富士山を彷彿させる山容が素晴らしい。

引退したら・・・引退した時の体力では登れないかもしれませんが、

この山に登りたいと思いました。

噴火あり、氷河のクレバスあり、落石ありと危険たっぷりの山ですが、

本当に姿が美しい。

いくつか番組を撮影した写真を載せます。大判で。

RIMG0494山1

RIMG0495山2

RIMG0496山3

RIMG0497山4 隣の山カーミン

RIMG0498山5

RIMG0500山6

RIMG0501山7

RIMG0492山8
 

どうでしたか?

クリュチェフスカヤにすでに4回登っているベテランの

「高い山は時間をかけて登るべきだ」は大事な言葉。

正月に奥さんの実家で見かけたカレンダーに、同種の言葉がありました。

偶然だけに、心に残りました。

もしかしたら、今年の自分にとって重要な言葉になる可能性がありかな。

RIMG0431
   

     

引退したら登りたいと思った山は初めて。

仕事のゴールにしたいほどの山に新年早々出会えました。

   

テレビ番組の写真ばかりでしたが、次のサイトだと、もっといい画像が見られます。

「富士山によく似た『クリュチェフスカヤ火山』の噴火した写真」html

「カムチャツカ半島」html ・・・すぐ隣のカーミン峰の写真もあり

テレビで勉強・・・日本海海戦/複数で跳ぶ8の字跳び

  

今日は1月6日。

今日も頑張るぞう。

   

最近見た番組より。

   

NHKのドラマ「坂の上の雲」の最終回は、

我が家のレコーダーが不調なため、

年末の本放送も再放送も録画失敗。

もう一か所、学校でも授業用に録画予約しておいたのがよかった。

1月になって教室で見ました。

RIMG0471三笠の艦上

RIMG0478海戦の模様
  

旅順攻防戦もすごい映像でしたが、

最終回の日本海海戦も、引き込まれる映像でした。

どこがCG?

この映像は貴重です。

ラストで、主人公の参謀秋山真之の死について語られていました。

秋山真之は大正7年2月4日に49歳で亡くなります。

臨終の言葉。周りの人たちにこう言ったそうです。

「皆さん、いろいろお世話になりました。これからは一人で行きます」

格好いいではありませんか。

      

00040_l 

有名な戦艦三笠の艦上の絵。

中央が東郷平八郎。東郷の右奥でうつむいて何か見ているのが秋山真之。

この時35歳前後ということになります。若い。

   

    

12月30日放映の「スクールLive Showfor KIDS スペシャル なわとび王選手権2011」を見ました。

これも教室で見ました。

8の字跳びは、勤務校でやりますが、ルールが違いました。

1分間で何人が跳べたかを競います。

大きく違うのが、何人で一緒に跳んでもいいということです。

実際映像では、2~5人!で跳んでいました。

でもこれなら、8の字が苦手で、入るタイミングがとれない子にはありがたい方法ではと思いました。

RIMG0464なわとび1

RIMG0457なわとび2

RIMG0463なわとび3
  

3学期早々、なわとび大会の提案をしなくてはなりません。

例年通りのクラス対抗8の字跳びのつもりでしたが、

少し例年と変えてもいいのかなと思えてきました。

今年は、できるだけ工夫をしていきたい。

テレビからアイデアをもらいました。 

   

    

 

     

 

   

   

   

 

2012年1月 5日 (木)

「ひさしくなおらないやまい」は読みではない/畠山重篤さんの本


今日は1月5日。

   

今日は図書館に行ってきました。

1つの目的は、畠山重篤さん関連の本を借りたかったからです。

畠山さんは宮城県気仙沼で牡蠣養殖業を営む人。

牡蠣養殖のためには、山に緑をと植林をした人。

前から気になっていた人でしたが、NHKの「ザ・プロフェッショナル 仕事の流儀」でも登場。

より知るために本を読むことにしました。

まず4冊。1月19日の返却日までに読むぞう。

RIMG0503
   

    

もう1つの目的は、大漢和辞典(大修館書店)です。

話は以前の投稿に遡ります。

「痼の訓読み」html

   

」を1字で「ひさしくなおらないやまい」と読むことを書きました。

しかし、調べていくと、これは「大漢和辞典」の字訓索引に載っているからだそうで、

そこには「字訓」と言いながらも、「読み」ではなく「意味」が載せられているようです。

  

こうなると実際に「大漢和辞典」で確かめたい。

家にはそんなすごい辞典はありません。

やっぱりあるのは図書館です。

確かめてみました。

RIMG0484  

全13巻のすごい辞典。

    

索引巻で、字訓索引で引いてみました。

ありました、ありました。

RIMG0487
   

こんなふうに載っていたのですね。

    

七巻の1182ページを調べました。

RIMG0488

「読み」は「ク」「コ」です。

意味に「久しくなほらない病」とあります。

やっぱりこれは読みではありません。

「大漢和辞典」を見て、そう結論を出しました。

   

 

 

   

 

 

 

雲の写真/クレーンの写真

  

今日は1月5日。

  

雲の写真。

RIMG0412 12月28日撮影 墓参りの時

RIMG0483 1月5日撮影 勤務校にて

雲だけでなく、地上にあるものを一緒に写すと何かいいなあ。

    

   

クレーンの写真。

RIMG0304 12月4日撮影

RIMG0490 1月5日撮影

2枚とも新豊川市民病院の建設現場。

大きなクレーンがいくつもあって目立ちます。

起工式は昨年の5月16日に行われました。

完成は平成24年12月。開院は平成25年5月の予定だそうです。

その頃またブログに書いていることでしょう。   

   

    

 

 

日記が追いついた

  

今日は1月5日。

昨日から今日にかけて、たまった日記を書いていました。

何と昨年8月22日から1月4日までの4か月余り。

毎日何をやったか、何をやりそこなったかの記録はいちいち書いてあったのですが、

その時の思いみたいなのは書いてありませんでした。

1日1日何をやったか読んで、一言感想を書いていきました。

結果、2学期を丸ごと振り返ったわけで、大仕事でした、疲れました。

   

RIMG0482

※これが今年度の日記帳です。

 何でも書いて、何でも貼ってあります。

 私の記憶を担当しています。

 子どもたちには「脳みそ」だと言っています。

     

忙しい2学期でした。

修学旅行・陸上大会・1日がかりのバスの社会見学・学芸会・

指導員訪問授業・かけ足運動・持久走大会・研究授業などなど。

行事的なものが続きました。

今年度は体育主任だったこともあって、よく動きました。

こうやって、4か月余りの期間にやったことを読んでみて、

我ながらよくこなしたなあ、切り抜けてきたなあと感心します。

今から同じことをやれと言われても絶対いやだと思います。

   

2学期はあっという間に済んでしまったと思っていましたが、

細かく振り返ったら、いろいろやってきた積み重ねだと思いました。

日記が追いついたことで、また前を向いて進んでいこうと思います。

バックには積み重ねがあります。その積み重ねを実感しています。

さらに3学期に何を加えるか。

   

残りの冬休みで準備します。いい3学期にするぞう。

2012年1月 4日 (水)

通勤路の大根畑・・・いつ収穫するのだろう

  

今日は1月4日。

   

今日は初出勤。自転車で行きました。

自転車通勤だと気になるのが大根(ダイコン)畑です。

    

現場は、昨年4月に大根の花が素晴らしかった畑です。

「大根の花・・・鬆(す)が入る」html (2011年4月24日投稿)

   

昨年10月13日の大根畑。

RIMG004210月13日の大根畑 RIMG004310月13日大根のアップ

確か10月始めくらいに発芽していたと思います。

9月終わりか、10月入ってすぐぐらいに種まきしたと思います。

さあ今年は収穫するのかなと思って写真を撮りました。

    

昨年11月5日の大根畑。

RIMG012111月5日大根畑

だいぶ大根の葉が成長しました。

   

昨年11月30日の大根畑。

RIMG021811月30日大根畑 RIMG021911月30日大根のアップ

ついに土の中から大根の白い肌を発見しました。

   

昨年12月27日の大根畑。
RIMG037612月27日大根畑 12月27日大根のアップ

今回は通勤自転車も一緒に撮影。

葉が生い茂って、大根が見えにくくなっていました。

もう収穫なのでは?そう思って撮影しました。

    

そして今朝。1月4日の大根畑。

RIMG04501月4日大根畑 RIMG04511月4日大根のアップ

別角度から同じ畑を撮影しました。

大根もしっかり成長しています。でもまだ収穫していません。

葉の色が変わっているところもあり、もう衰退していきそう。

いいのかな?今年も花が咲いちゃうぞ?

   

畑仕事したことがある人に聞いたら、連作しているところから疑問視されました。

大根はあまり連作しないそうです。

ただ春から秋にかけて、この畑に何が植わっていたか自信なし。

目の前にあっても関心がないと見えず。

   

収穫時期は、土から出てきた大根の状態で判断するそうです。

写真を見せたら、もう収穫時期だと言われました。

もしかしたら、何も植えずに雑草畑にするよりも、

大根畑にしておいた方がいいと判断して、

収穫せずにこのままにしておく考えかもしれないよと教えてくれました。

さあどうなるか。

自転車通勤限定の通勤路。

自転車の時は観察を続けようと思います。


2012年1月 3日 (火)

上海上陸作戦その5・・・80日で24キロ体重減

   

今日は1月3日。

前投稿のつづき。

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)より引用。

著者は、上海から南京への強行軍中に病のために病院へ。入院と言われる。

    

私は別室に入り、看護兵に手伝ってもらってフンドシ一つの裸になった。

そして、出征してからはじめて自分の体を見ておどろいてしまった。

すっかりやせほそった体には骨がつきだし、

足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、

膿と血が流れている。

上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、

自分の足を見たことがなかった。

足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまた水びたしにするような毎日であったので、

足が腐ったようになってしまったのだろう。

   

私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。

それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。

看護兵が私の目方をはかった。

「十一貫五百(約43キロ)」

看護兵は機械的に目盛りを読み上げた。

私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約67.5キロ)であった。

上陸以来八十日、そのあいだに24キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

   

私はそのままの姿で軍医の前に立った。

軍医はじっと私の裸を見ていたが、

「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。

どうして軍医に見せなかったのだ?」

彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。

私はその言葉を聞いたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、

軍医にお願いしても、相手にしてくれませんでした。

毎日がひどい戦争だったのです。」

そして私は動けなくなってしまった。207p)

   

上海に命からがら上陸した著者たちは、毎日心を休める間もなく、

いつ命を落とすかわからない状況で進軍し、戦っていました。

周りでは戦友が傷つき、命を落としているのを目にしてきました。

80日の間に落ちた体重が、その時の苦労を物語っていると思います。

    

以上で引用を終了します。

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)はもう新しく出版されていないようですが、

どうにか手に入れて少しでも多くの人に読んでもらいたいと思いました。

上海敵前上陸 (1979年)
上海敵前上陸 (1979年) 三好 捷三

図書出版社 1979-11
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この本の文を引用して、上海上陸作戦の様子をまとめたサイトも参考にしました。

ここです。※「戦史研究/ウースン(呉淞)上陸作戦」htm

   

日本人も中国人もたくさんの人たちが上海ー南京での戦争で亡くなりました。

どの人も、戦争がなければ死ななかった人です。さぞ無念だったと思います。

その戦争自体も、歴史の彼方に行ってしまいそうです。

もし、自分が犠牲者の一人だったら、

生きている人たちに自分たちのことを語り継いで欲しいと思うのでは。

私のブログで、少しでも関心を持ってくれたら幸いです。     

     

上海上陸作戦を知って勉強中。何か情報があったら教えてください。

上海上陸作戦その4・・・せっかく生き残ったのに

  

今日は1月3日。

昨日のCMで3月2日上映スタートの映画「戦火の馬」を見ました。

スピルバーグ監督の作品。

第一次世界大戦が舞台の映画です。

前投稿で、戦争に馬がかりだされたことを書きましたが、

この映画も同じ。戦争にかりだされた馬の話のようです。

たった一度のCMで、心をわしづかみにされた感じ。見に行きたい。

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前投稿のつづき

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)より引用。

   

   

私たちが小宅の部落を歩いているとき、

敵の不発の追撃砲弾が半分土中にうずもれて、ななめになっているのを見つけた。

ちょうど昨日の攻撃中、私がいた場所であった。

不発であったのがさいわいして、私は命びろいをしたことになる。

あれが普通に爆発していたら、私をふくめて五、六人は死んでいただろうと思うと

ゾッとした。

私が村尾に、あれは危ないから危険の標識をつけないといけない、

といっているちょうどそのとき、一人の兵隊がその不発弾に近づいてきた。

私が、

「危ないぞ、さわるな!」

と叫ぶのと同時に、その兵隊は不発弾を足げにした。

その瞬間、不発弾は爆発し、兵隊の姿はなくなっていた。

一瞬にして雲散霧消してしまったのである。

せっかく昨日のはげしい戦闘を生き残ってきたというのに、

まったく何ということか。

戦場では一瞬たりとも気を抜くことは許されないのだ。

私は爆発の煙を目にしながら、慄然としてしばらく立ちつくしていた。(150p)

    

恐ろしい出来事です。

戦争とはこういうものだ、絶対してはならないと訴える機会があったら

思い出したい出来事です。

   

   

この上海戦での犠牲者の数を、各種の記録や私のじっさいの経験から推測すると、

日本側には約四、五万の犠牲者があったと思われる。(中略)

上海上陸の初期の部隊は、だいたい全滅に近い犠牲をはらって戦ったことはあきらかである。

その部隊の一員である私は戦いながら、これほどの犠牲をはらってまでも

上海をとらなければならない理由というのが、

どうしても理解できなかった。

この戦争の当初、私たちが教えられた戦争の目的は、

上海在留邦人の生命と財産の保護、ということであった。

ところがこの戦争では、すでに保護する日本人以上の犠牲をはらっていた。

現実に戦っている私には、この戦争のなりゆきなどはわからなかったが、

軍の目的は上海戦を捨て石として、全中国を制圧し、

ひいては東亜全部を支配しようとしていたことは明らかである。157p)

   

たった一つの命を、よくわからない目的のために使うなんて、

死んでいった人たちは本当に無念だったと思います。

本当は時間を惜しまず、本の文章を引用して、

多くの人に出来事を伝えるべきだと思えてきます。

しかし時間に余裕なし。あと1本の投稿に限ります。(つづく) 

 

上海上陸作戦その3・・・「見事に死んでほしい」と言われる時代

   

今日は1月3日。

前投稿のつづき。

上海敵前上陸」(三好捷三著 図書文化社)より引用。

    

「命令。本隊は今朝四時を期して前面の青島に強行上陸を敢行する。

この軍事行動の中心部隊は第三大隊である。終わりっ!」

これをきいた私たちは静まりかえってしまった。

命令をおえると大隊長は顔をやわらげて、

「前面の青島には大部隊のシナ兵がいるという情報がはいっている。

おそらく激戦になると思う。

大隊長も死ぬ覚悟をしているから、お前たちも死んでくれ。

おれは今いったように生還を期していない。

戦争は軍人にとってはヒノキ舞台であるから、

けんめいに戦って見事に死んでほしい。

お前たちの長い苦しかった訓練も、今日一日のためのものである。

おたがいに健闘を祈って戦おう」

といった。この道下大隊長の話を聞いていると、

お前たちの命はあと二、三時間で終わるのだ、終わらすのだ、

といっているようにも思えたが、私にはどうしてもピンとこなかった。

あと二、三時間で死ぬなど、とうてい現実とは思われず、

また思いたくなかったからである。(50p)

   

「見事に死んでほしい」と言われる時代である。

それも命はあと2~3時間。

信じられないし、信じたくないことです。著者に共感します。

結局青島への上陸作戦は中止となり、上海のウースン(呉淞)上陸となります。

     

    

ウースン上陸作戦中、手榴弾だ配布されるが、日露戦争当時の残品。

旧式のもので、あまり役に立ちませんでした。

これは軍隊の兵隊蔑視のせいだと著者は憤っています。

   

当時の国民は、なんとかして兵役をのがれようとして努力していた。

長男は兵隊にとられないといわれると、

子のない他家に入籍して長男となったり、

徴兵検査に不合格になるために検査の前に減食して体重を減らしたり、

醤油を大量にのんで身体の調子を悪くしたりすることがあったそうである。

それに日本では、一銭五厘のハガキ一枚で徴兵検査をして兵隊にすることができたので、

兵隊には「一銭五厘」という蔑称があった。

私も現役時代によく一銭五厘といわれたものである。

また、軍隊ではよく兵隊より馬が大切だといわれた。

それは、馬を手に入れるには大金を必要とするが、

人間はハガキ一枚で簡単に補充することができるからであった。

このことが軍の兵隊蔑視の思想となり、

人間軽視の用兵となっていったものと思う。

じっさい、軍隊の用兵には人間性というものはどこにも感じられなかった。(67p)

    

したがって敵前に上陸して、多くの犠牲者を出す作戦が行われたのでしょう。

(つづく)

   

    

 

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