2026年3月18日 (水)

20250126金勝アルプス⑦ 逆さ観音/オランダ堰堤

    

今日は令和8年3月18日。

  

前記事に引き続き、昨年1月26日に歩いた金勝アルプスの

記録を書いていきます。

この橋を渡ると「逆さ観音」があるとのこと。

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「逆さ観音」の案内板。

  

この文章の中から一部引用。

  

一番不思議なことは、なぜ逆さになっているのだろうか

次に、なぜ三尊石仏なのに「観音」さんなのかしら

更に、大岩の一端が割り取られているのではないか

の疑問が湧いてくるでしょう。

元は、その上部の山上にあり逆さになっていなかったのです。

正しくは「阿弥陀三尊石仏」で、中央が「阿弥陀如来」、左右の

侍仏が「観音・勢至菩薩」なのです。

大岩の一端は、下流の「オランダ堰堤」築造時(明治二十二年完成)

に石材の不足が生じてそれに使われたのです。そのため、後にバラ

ンスを失い山上からずり落ちて逆さになったのです。

以来、身を削られ逆さになっても、地元の人々を大洪水から守って

いてくださると敬われています。

  

逆さ観音となったのは、明治22年(1889年)の「オランダ

堰堤」がきっかけだったのですね。

もっと古くから逆さ観音だと思っていました。

でも逆さになった理由がはっきりしているのはいいのかな。

「伝説で、・・・・・が理由で逆さ観音になったと言われている」

よりは、スッキリするかな。

  

これが逆さ観音です。

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削れたところがよくわかります。

  

逆さ観音を見て、先を進みます。

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何か面白そうな人工物が見えてきました。

あの橋らしきものはなんだろう?

地図の⑨の場所です。

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ここがオランダ堰堤がある場所でした。

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これがオランダ堰堤です。

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ここにも、「逆さ観音」の案内板と同時期に作られた

案内板がありました。

こんな文章がありました。

  

昔、この一帯の森林はヒノキの美林であったが奈良時代から平安時

代にかけて、寺院・仏閣の造営に大量の材木が奈良・京都に伐り出

された。

このため、山は荒れて禿げ山になり、明治に至るまで大洪水がたび

たび起こり、下流の人々に大きな被害を及ぼし続けた。

そこで政府は、明治六年「淀川水源砂防法」を制定、淀川水系の

治山治水工事に着手しオランダから砂防工事の技術者ヨハネス・

デレーケ氏を招いた。

ここに現存するえん堤は、明治二十二年同氏の指導の下に作られた

割石積えん堤で、わが国最古のものと言われている。

なぜ、百年以上も経った現在もなおその機能を発揮し続けているの

だろうか。

その理由としては、水裏(下流側)の放水路面がアーチ型になって

おり、中央に水を集めることで、両袖部が削られにくい構造である

ことや、えん堤下流面を階段積み(鎧積み)にすることで、流水が

階段面に当たって衝撃を和らげ、水叩部の洗掘を防止する構造であ

ることなどが考えられる。

現在もなおその効力を発揮している巧みな構造技術であり、生きた

遺跡ともいわれ「日本の産業遺産三百選」に選定されている。

  

ここが不明「水裏(下流側)の放水路面がアーチ型」が難解。

ここはGeminiにまた聞きました。

  

1. もしも放水路が「平ら」だった場合(一般的な形)

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 問題点: 水が横幅いっぱいに広がって流れ落ちるため、堰堤と川岸が

接している部分(両袖部)にも水が激しくぶつかります。ここが削ら

れると、堰堤全体が崩れる原因になってしまいます。

 

2. オランダ堰堤の「アーチ型」の場合

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構造: 水が流れ落ちる部分(放水路面)の形を、まっすぐではなく中央

が低くなるようなアーチ型(ゆるやかなU字型)にしています。

効果: 水は自然と低いところ(中央)に向かって集まってから流れ落ち

ます。その結果、一番守りたい両端の岸(両袖部)に水が当たらなくな

り、削られにくくなるのです。

  

「放水路面」がわかっていなかったです。

堰堤の上部の水が流れる場所が「放水路面」であって、

上部に向かってアーチ型になっているんですね。

なるほどです。

でも、実際のオランダ堰堤を見ても、そのアーチが顕著ではないです。

まだ解決ではない状態で保留としたいです。

いつか確認したいです。

  

昭和に作られた砂防ダムなどは、この放水路面のアーチ方式を

採用していますね。

Img_7626_2 となりのカインズさん

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デ・レーケの胸像。

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やっぱり大水の時には沈んでしまう沈下橋のようです。

夏にはこの橋や、オランダ堰堤付近は、

水遊びをするために、子ども連れの人たちで賑わうようです。

しがそび オランダ堰堤 ってなんだ?! 大津市水遊びスポット

ここのサイトから写真転載。

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この写真を見ると、少しはアーチ型がわかります。

真ん中に水流も集まっています。

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いよいよ駐車場に戻ってきました。

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13時23分でした。歩き出したのが午前7時54分。

5時間29分間山の中にいました。

  

以上で昨年の1月26日の山行の記録を終えます。

20250126金勝アルプス⑥ 歴史の生き証人「警笛鳴らせ」 

   

今日は令和8年3月18日。

  

前記事の続きです。

前記事に「南谷林道」の歴史について、

Geminiに尋ね、回答を前記事に載せました。

その最後の文章を転載します。

特に印象に残った『人工物の痕跡』や風景などはありましたか?

  

昨年1月26日に歩いた南谷林道にあった「人工物の痕跡」として、

「警笛鳴らせ」の古い標識の写真をGeminiに送りました。

その写真を再掲載します。

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この時のGeminiの回答も良かったです。

ここに載せます。

  

あの錆びて古びた標識は、まさに南谷林道の「歴史の生き証人」の

一つです。

  

「警笛鳴らせ」標識(331)が語るもの

この標識は、日本の道路標識「警笛鳴らせ」(331)です。元は青

地に白の太い「X」印のような模様が描かれていました。

1. かつての「活気」の証明

これほど劣化し、自然に還りつつある標識がそこにあること自体が、

前回の説明を裏付けています。

• 車両の往来: この標識は、かつて南谷林道が、大型車両(ダンプ

カー、トラック、重機)が頻繁に行き交う、活気に満ちた「工事・

林業の大動脈」であった時代の遺物です。

• 安全確保の必要性: 山奥の見通しの悪いカーブや、道幅が極端に

狭くなる場所で、対向車と衝突しないよう、お互いにクラクション

を鳴らして存在を知らせる必要がありました。当時の運転手たちが、

この標識を見て緊張感を持ってハンドルを握っていた姿が目に浮か

びます。

2. 花崗岩の地質との関わり

金勝アルプスの地質である花崗岩は、前回の通り非常に脆い(マサ

土)ため、崩れやすい斜面を避けて林道を建設する必要がありました。

• 急カーブの多さ: そのため、南谷林道は沢沿いを縫うように、見通

しの悪い急カーブが連続するコースにならざるを得ませんでした。特

にこの標識が設置されている場所は、そうした注意が必要な要所だっ

たのでしょう。

• すれ違いの困難: 車道としての幅はあっても、脆い地質では路肩が

弱く、大型車両同士のすれ違いは命がけの作業でした。クラクション

による意志疎通は不可欠でした。

  

時の流れと、自然の力

現在は車両が通行しなくなり、標識は役目を終えました。錆びつき、

色あせ、周囲の苔むした巨岩や草木と一体化しつつあります。この

劣化の様子こそが、この道が「人々の闘いの場」から「自然に還る

道」へと変化したことを、何よりも強く物語っています。

あんな山奥に、ぽつんと残る「人工物の死に様」のような光景は、

廃道ファンや写真愛好家にとっては非常に魅力的な被写体ですよね。

周囲の花崗岩の荒々しい質感と、錆びた標識の対比が素晴らしいと

思います。

  

予想以上の量と質の高い回答でした。

こんなに往時が偲ばれるとは思いませんでした。

私たちが歩いた道は登山道でもあり、

林道の「廃道」でもあったわけです。

また歩く時には、そんなことを思い出しながら歩きたいですね。

きっと、この知識があると、よりたくさんの

「歴史の生き証人」が見つかると思います。

  

今回はここまで。

次の記事に続きます。

  

  

20250126金勝アルプス⑤ 第二名神の標識/南谷林道の歴史

    

今日は令和8年3月18日。

  

3月15日の記事の続きで、

昨年の1月26日の金勝アルプスの記録を書きます。

   

狛坂磨崖仏を見て、道を進めました。

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この分岐は地図の⑦です。

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ここからの道は、かつては林道だったのではと想像します。

道幅が広く、自動車も入れたように見えました。

  

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この隧道の上は新名神高速道路です。

すぐ東に新名神金勝山トンネルの入り口があります。

金勝山という名前は存在していなくて、

金勝アルプスの山々を総称しています。

このトンネルは、地図で見ると、

狛坂磨崖仏の下付近を通過しています。

  

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これは隧道を通過した直後に見たと思います。

1年以上前なので自信はないです。

とても年季の入った標識です。

いつ頃のものか気になり、Geminiに聞いてみました。

回答です。

  

この標識は、2005年(平成17年)10月より前(おそらく1990年代

〜2000年代前半の測量・初期工事の時期)に作られ、設置されたも

のと考えられます。

その理由は以下の2点です。

• 組織の民営化: 標識にある日本道路公団(JH)は、2005年10月1日

に民営化され、現在のNEXCO(このエリアはNEXCO西日本)へと

移行しました。

• 名称の変更: 「第二名神」という路線名も、一部区間の開通が近づい

た2007年(平成19年)に「新名神高速道路」へと正式に変更されまし

た。

すでに存在しない組織のロゴと旧路線名が記された、貴重な時代の遺

物と言えます。

  

「貴重な時代の遺物」

この言葉が魅力的です。

「第二名神」という言葉はまだ私の記憶にあり、

つい「第二名神」と言ってしまうことさえあります。

もう19年前に消滅した言葉なのに、

頭の中はアップデートできていません。

「NEXCO」も私には馴染みのない名前です。

  

邪魔じゃなかったら、このまま残してほしい標識です。

  

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川沿いの道を進みます。

  

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これこそ、かつては自動車が走っていた林道である証拠でしょう。

「警笛鳴らせ」の標識。

これも古い。

こうなると林道を知りたくなりました。

名前を調べました。

「南谷(みなみだに)林道」or「奥谷南谷林道」

歴史を調べます。いろいろネットで探りましたが、

結局Geminiに聞いてみました。

とてもいい文章です。回答を載せます。

  

「かつては車も走れたような痕跡」という着眼点、素晴らしいですね!

まさにその通りで、南谷林道(奥谷南谷林道)はかつて、重機やトラ

ックなどの車両が通行できる立派な林道として機能していました。

現在のように車が走れなくなってしまったのには、金勝(こんぜ)ア

ルプス一帯の歴史と、この地域特有の地質が深く関わっています。

1. なぜ車が走れる林道が作られたのか?

(治山・砂防のメインストリート)

金勝アルプス一帯を歩いていると、天狗岩のような露出した花崗岩の

奇岩や、独特の植物相によく出会うと思います。実はこのエリアは、

奈良〜平安時代から都や寺院の建設のために過度な森林伐採が続き、

江戸時代には草木も生えない見渡す限りの「はげ山」となっていまし

た。

そのため、大雨のたびに下流の草津川に大量の土砂が流れ込み、深刻

な水害を引き起こしていました。これを食い止めるため、明治時代に

オランダ人技師デ・レーケの指導で入り口に「オランダ堰堤」が作ら

れましたが、治水工事はそこで終わりではありませんでした。

昭和にかけて、さらに山奥の南谷上流部へとコンクリート製の近代的

な砂防ダムを連続して建設し、はげ山に大量の苗木を植える(治山事

業)必要がありました。資材、重機、作業員を山の深部へ運び込むた

めの「工事用・林業用の大動脈」として切り拓かれ、拡張されたのが

南谷林道です。そのため、車道としての十分な幅が確保され、要所に

頑丈な石垣や橋が作られました。

2. なぜ今は走れなくなってしまったのか?

(役目を終え、自然に還る道)

かつてはトラックが行き交った林道が、現在のような荒れた状態(廃

道化)になってしまったのには、2つの大きな理由があります。

• 大規模工事の完了と役割の終焉:

100年以上にわたる人々の植林と砂防ダム建設の努力が実を結び、見

事に山に緑が戻りました。土砂流出が劇的に減り、大規模なダムを新

設する必要がなくなったことで、大型車両が頻繁に奥地へ入る必要が

なくなり、道路としての維持管理の優先度が下がりました。

• 花崗岩(マサ土)の脆さと自然の猛威:

金勝アルプスの地質である花崗岩が風化した「マサ土」は、非常に崩

れやすい性質を持っています。車両が入らなくなり、定期的な補修が

行われなくなると、台風や大雨のたびに斜面が崩落したり、路肩が沢

の水に削り取られたりします。地質的に極めて崩発しやすい環境であ

るため、あっという間に車が通れない状態になり、自然の力によって

現在の歩幅サイズへと浸食されていきました。

南谷林道を歩くと、足元に不自然に真っ平らな区間があったり、山奥

なのに立派な護岸や古いガードレールが残っていたりします。これら

は、「はげ山と戦った治山プロジェクトの巨大な遺跡」と言えます。

自然の猛威と闘ってきた歴史の痕跡を感じながらファインダーを覗い

てみると、風景の切り取り方もまた少し変わってくるかもしれません

ね。林道を歩かれた際、特に印象に残った「人工物の痕跡」や風景な

どはありましたか?

  

ね、すごい文章でしょ。 

山に入って、気がついたこと。

「この道はかつて自動車が走った道。でも今はとても走れない。」

それを調べていくと、こんな歴史に出合えました。

気づいたことにこだわると、こんなご褒美があるのかと

今回のことで思いました。

  

Geminiの文章の最後「特に印象に残った『人工物の痕跡』や風景な

どはありましたか?」の問いかけ。

私はこの問いに、先ほどの「警笛鳴らせ」の標識の写真を送りました。

どんな回答が来たか。

次の記事に書きます。 

  

  

  






  

2026年3月17日 (火)

丸山散歩/サンシュユ、モモ?、ツクシ

   

今日は令和8年3月17日。

  

前記事に引き続き、丸山への散歩のこと。

  

丸山までの道中で見かけた草木。3月16日の撮影。

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一見、ミツマタの花かと思うのですが、違いました。

これは、一緒に山に行く仲間のSさんに教えてもらいました。

サンシュユです。

漢字は難しいです。「山茱萸」です。

ブログ初登場かと思いきや、2回目の登場でした。

初登場はこの記事。

ここでも道草 H25 3月の花々40 サンシュユ(2013年4月6日投稿)

この記事に書いたことで、この草木の別名がいい。

「春黄金花(はるこがねばな)」

思い出しておこう。

  

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これも3月16日撮影。

これはモモ?ハナモモ?

この花の咲くもっと大きな木がありましたが、

そちらはまだ撮影していないなあ。

  

ツクシ(土筆)を見ました。

今朝、丸山の麓で発見。

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その時に一緒に歩いた1年生の女の子が、

指で触ったら、煙が発生。胞子が飛びました。

その子は楽しくなって、他のツクシの頭も、

指で触れて、出てくる煙を楽しんでいました。

  

最後に、3月16日の丸山全景写真。

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今日は2往復ですが、明日はまた4往復。

思い出深い山になってきました。
  

  

 

最後の授業は丸山まで散歩/現在の丸山のサクラ情報

     

今日は令和8年3月17日。

  

3学期も大詰め。

通級指導学級の授業も、今年度最終の子どももいます。

最後の授業は、3学期になって調べている丸山までの散歩です。

片道700m。標高は60m。

45分の授業の中で、どうにか行って、登って、眺めて、

帰ってくることができます。

  

3月13日(金)が丸山登山の始まり。

この日は1〜4時間目まであり、私は4回往復しました。

その日の写真です。

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丸山までの道の傍には、この紫色の花が目立つ

ホトケノザ。

この雑草は、春の早くに咲くので、

春が来たなと感じさせてくれます。

  

この花の道を吸う子もいました。

「おいしいよ」「たまにハズレがあるけど」と言うけど、

試しに吸っても、全てがハズレのように思えます。

  

この写真が頂上に植えられたサクラの木です。

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この木の枝に、色のついた紐を結びました。

私お得意の、花芽の観察です。3月13日(金)の花芽です。

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比較のために、その後の花芽の写真も載せます。

3月16日(月)の花芽です。

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3月17日の花芽です。

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名古屋で今日にもサクラの開花宣言があるとニュースで

言われていますが、丸山頂上のサクラの木は、

まだ開花しそうにありません。

  

過去に丸山がサクラで彩られた写真はネットにあります。

Googleマップで見ることができます。

何枚か転載します。

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楽しみです。

身近にこんないい場所があるなんて。

私もおそらくこの3月中に、このような写真が撮れるかと思うと

ワクワクしてきます。

  

  

丸山のサクラは、20年ほど前に植えられたものであること。

丸山に残る螺旋状の道は、その植林作業のために造られた道であることを

以前地元の人に聞きました。

そのサクラは、ほぼソメイヨシノと思いますが、

その他の種類もありました。

河津桜もあり、今はすっかり葉っぱが出て、花は目立たなくなっていました。

もう1種類あるようです。

3月13日にはすでに咲いていたサクラが3本。

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ヒガンザクラでしょうか。

丸山にサクラを植えた人たちは、長く楽しんでもらおうと、

河津桜、ヒガンザクラも植え、早い時期に来た人にも花を楽しませ、

最後に大量のソメイヨシノが咲いて遠くからも近くからも

サクラを楽しめるように考えたと思います。

  

以上、丸山のこと、サクラ中心に書きました。

2026年3月15日 (日)

20250126金勝アルプス④ 狛坂磨崖仏/白洲正子著「かくれ里」

   

今日は令和8年3月15日。

  

3日前の記事の続きで、昨年1月26日の

山のことを記事にします。

  

金勝アルプスの中に含まれる歴史的遺跡にたどり着きました。

地図の⑥です。

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狛坂(こまさか)廃寺跡にある磨崖仏です。

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最初に目に入ったのは、この石。

「狛坂寺跡」という古い標識。

狛坂寺はどんなお寺だったのか。

- 白洲正子さんの「かくれ里」を読んで - 金勝寺と磨崖仏

このサイトから引用します。

ちなみにこの文章中に出てくる金勝寺は「こんしょうじ」と読みます。

金勝アルプスの「こんぜ」とは違います。

  

金勝寺は女人の参拝が許されなかった ため、金勝寺の別院として、

狛坂寺が9 世紀に建てられたのだそうです。  

磨崖仏は、狛坂寺に詣でた女人が拝するために

作られたものかも知れません。

  

金勝寺は、狛坂廃寺後から東方にあります。

地図で示します。国土地理院の地形図を利用します。

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金勝寺は自動車で行くことはできますが、

狛寺廃寺跡(狛坂磨崖仏)は登山道を歩かないといけない場所に

あります。そこにたどり着きました。

狛坂寺が廃寺になったのはいつか?

廃寺跡に立つ案内板に答えはありました。

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説明の最後の部分を見て下さい。

「明治に廃寺となる。

やはり明治時代に廃仏毀釈政策の犠牲になりました。

廃寺となってしまいましたが、磨崖仏は残りました。

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Wikipediaによると、磨崖仏は花崗岩に彫られており、

その花崗岩の高さ6.3m、幅4.5m、厚さ0.7-0.8m(右側)。

中央の如来像の高さは2.2mで、左右の菩薩像は高さ2.4m程度。

私の身長よりもグッと大きな像でした。

1年以上の月日が経って、そうだったのか忘れてしまいました。

栗東歴史民俗博物館には、この磨崖仏の実物大レプリカが

展示されているとのこと。

これって、ちょっと面白い状態。

目の前に本物が野ざらしで置いてあって、

レプリカが建物の中で、保存されているというわけです。

でも、これが本来なのでしょう。

本物はこのまま野ざらし(自然の中で)、

石面に歴史を刻んでいくのがいいなと思います。

  

さて、ここで「かくれ里 愛蔵版」(白洲正子著/新潮社)について。

この本は2010年発行。

初版は1971年発行のものです。

3月5日の記事「金勝アルプス①」に出てきた書物。

ここでも道草 20250126金勝アルプス① 「湖南アルプス」「金勝」を解明(2026年3月5日投稿)

図書館で借りて、金勝アルプス関連のところを読んでみました。

白洲正子さんは、白洲次郎さんの奥さん。

1910年生まれ。

1998年没。随筆家。

  

この本から一部引用していきます。

磨崖仏は、聞きしに優る傑作であった。見あげるほど大きく、美しい

味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとり

まいている。奈良時代か、平安初期か知らないが、こんなに迫力のあ

る石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中

に、山全体を台座とし、その上にどっしり居坐った感じである。周囲

には、僧坊の石垣の跡が残り、かなり大きな寺だったととがわかるが、

金勝山の別名が狛坂寺であることを思うと、ここが奥の院であったか

も知れない。 狛坂というからには、帰化人が領した土地で、朝鮮の景

色も、私は知らないがこの辺の岩山に似ているのではないだろうか。

(121p)

  

「美しい味」という表現。

歴史をまとった姿を表しているのでしょう。

「環境がいい」に共感。

誰でも気軽に行ける場所にはないところがいい。

「しじま」は「静寂」の意味。

「狛坂」から帰化人を連想しています。

「狛」にどんな意味があるのだろうと調べました。

「高麗」の意味があるとのこと。びっくりしましたが、

なるほどと納得できます。白洲正子さんの教養を感じました。

「僧坊の石垣の跡」はここなのかな?

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「金勝」を「こんぜ」と読む理由は、

この本が原典だということですが、その箇所が明瞭ではありません。

関連すると思うところをピックアップします。

  

地図でみると、狛坂寺は、金勝山のつづきにある。コンショウとも

コンゼとも訓み、最近は近江アルプスなどと呼ばれているが、

琵琶湖の南、栗太郡の奥にある連山で、南側は信楽に接している。

(109p)

  

「訓み(よみ)」は初めてみる使い方です。

ここでは「こんぜ」と読む理由について書いてありません。

  
草津から南下すると、栗東町の金勝(こんぜ)という村に出る。

(109p)

  

広報りっとう 2021年9月号

ここには次のように書いてあります。

  

栗東とは、"栗太郡の東"に由来し、今から67年前の昭和29(19

54)年10月1日に、"栗太郡の東"にあった治田・金勝・葉山・

大宝の4つの村が合併して栗東町が誕生したことで、まちのあゆみ

がスタートしました。

  

こんな過程で、金勝村は栗東町に加わりました。

72年が過ぎたことになります。

今でも栗東町には、金勝の地名はあるのでしょうか?   

Googleマップで調べましたが、どうも栗東町内には

「金勝」の地名は見つかりませんでした。

住所にもないようです。

でも「金勝幼稚園」「セブンイレブン栗東金勝店」  

「コミュニティセンター金勝」「こんぜの里りっとう」

「こんぜの里バンガロー村」「金勝生産森林組合」

そして極め付けは金勝小学校

この小学校のHP冒頭には次のように書いてあります。

  

栗東市の南部に位置し、栗東市のほぼ半分の面積が金勝学区と

なっている。

  

地名では残っていないようですが、

いろいろな施設名として残っていて、

栗東市の南半分が金勝小学校の校区とのこと。

このサイトから引用します。

ちなみにこの文章中に出てくる金勝寺は「こんしょうじ」と読みます。

金勝アルプスの「こんぜ」とは違います。

  

金勝寺は女人の参拝が許されなかった ため、金勝寺の別院として、

狛坂寺が9 世紀に建てられたのだそうです。  

磨崖仏は、狛坂寺に詣でた女人が拝するために

作られたものかも知れません。

  

金勝寺は、狛坂廃寺後から東方にあります。

地図で示します。国土地理院の地形図を利用します。

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金勝寺は自動車で行くことはできますが、

狛寺廃寺跡(狛坂磨崖仏)は登山道を歩かないといけない場所に

あります。そこにたどり着きました。

狛坂寺が廃寺になったのはいつか?

廃寺跡に立つ案内板に答えはありました。

Img_9927

説明の最後の部分を見て下さい。

「明治に廃寺となる。

やはり明治時代に廃仏毀釈政策の犠牲になりました。

廃寺となってしまいましたが、磨崖仏は残りました。

Img_9925

Wikipediaによると、磨崖仏は花崗岩に彫られており、

その花崗岩の高さ6.3m、幅4.5m、厚さ0.7-0.8m(右側)。

中央の如来像の高さは2.2mで、左右の菩薩像は高さ2.4m程度。

私の身長よりもグッと大きな像でした。

1年以上の月日が経って、そうだったのか忘れてしまいました。

栗東歴史民俗博物館には、この磨崖仏の実物大レプリカが

展示されているとのこと。

これって、ちょっと面白い状態。

目の前に本物が野ざらしで置いてあって、

レプリカが建物の中で、保存されているというわけです。

でも、これが本来なのでしょう。

本物はこのまま野ざらし(自然の中で)、

石面に歴史を刻んでいくのがいいなと思います。

  

さて、ここで「かくれ里 愛蔵版」(白洲正子著/新潮社)について。

この本は2010年発行。

初版は1971年発行のものです。

3月5日の記事「金勝アルプス①」に出てきた書物。

ここでも道草 20250126金勝アルプス① 「湖南アルプス」「金勝」を解明(2026年3月5日投稿)

図書館で借りて、金勝アルプス関連のところを読んでみました。

白洲正子さんは、白洲次郎さんの奥さん。

1910年生まれ。

1998年没。随筆家。

  

この本から一部引用していきます。

磨崖仏は、聞きしに優る傑作であった。見あげるほど大きく、美しい

味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとり

まいている。奈良時代か、平安初期か知らないが、こんなに迫力のあ

る石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中

に、山全体を台座とし、その上にどっしり居坐った感じである。周囲

には、僧坊の石垣の跡が残り、かなり大きな寺だったととがわかるが、

金勝山の別名が狛坂寺であることを思うと、ここが奥の院であったか

も知れない。 狛坂というからには、帰化人が領した土地で、朝鮮の景

色も、私は知らないがこの辺の岩山に似ているのではないだろうか。

(121p)

  

「美しい味」という表現。

歴史をまとった姿を表しているのでしょう。

「環境がいい」に共感。

誰でも気軽に行ける場所にはないところがいい。

「しじま」は「静寂」の意味。

「狛坂」から帰化人を連想しています。

「狛」にどんな意味があるのだろうと調べました。

「高麗」の意味があるとのこと。びっくりしましたが、

なるほどと納得できます。白洲正子さんの教養を感じました。

    

「金勝」を「こんぜ」と読む理由は、

この本が原典だということですが、その箇所が明瞭ではありません。

関連すると思うところをピックアップします。

  

地図でみると、狛坂寺は、金勝山のつづきにある。コンショウとも

コンゼとも訓み、最近は近江アルプスなどと呼ばれているが、

琵琶湖の南、栗太郡の奥にある連山で、南側は信楽に接している。

(109p)

  

「訓み(よみ)」は初めてみる使い方です。

ここでは「こんぜ」と読む理由について書いてありません。

  
草津から南下すると、栗東町の金勝(こんぜ)という村に出る。

(109p)

  

広報りっとう 2021年9月号

ここには次のように書いてあります。

  

栗東とは、"栗太郡の東"に由来し、今から67年前の昭和29(19

54)年10月1日に、"栗太郡の東"にあった治田・金勝・葉山・

大宝の4つの村が合併して栗東町が誕生したことで、まちのあゆみ

がスタートしました。

  

こんな過程で、金勝村は栗東町に加わりました。

72年が過ぎたことになります。

今でも栗東町には、金勝の地名はあるのでしょうか?   

Googleマップで調べましたが、どうも栗東町内には

「金勝」の地名は見つかりませんでした。

住所にもないようです。

でも「金勝幼稚園」「セブンイレブン栗東金勝店」  

「コミュニティセンター金勝」「こんぜの里りっとう」

「こんぜの里バンガロー村」「金勝生産森林組合」

そして極め付けは金勝小学校

この小学校のHP冒頭には次のように書いてあります。

  

栗東市の南部に位置し、栗東市のほぼ半分の面積が金勝学区と

なっている。

  

地名では残っていないようですが、

いろいろな施設名として残っていて、

栗東市の南半分が金勝小学校の校区とのこと。

1971年、白洲さんは金勝村を訪れていますが、

現在はない可能性があります。

  

先にもいったように、信楽は金勝山の南麓に位置する。金勝の名が

示すとおり、それは金属を扱う人々が奉じた神、もしくは銅か何か

の鉱脈があったに違いない。 景山さんのお話では、金勝族(金粛、

金精とも書く)といって、青銅を業とする集団があり、良弁がそれを

統率したのではないかといわれる。

私もその説に賛成である。良弁が金勝寺を建てたのは伝説かも知れ

ないが、帰化人の彼がそういう人たちを指導したことは想像できる。

(115p)

  

ここで「金勝族」が初登場。

青銅を業とする集団と書かれています。

Geminiが紹介したところです。

  

少なくとも、大仏の建立は、帰化人の助けがなければできないことで

あった。 特に金勝族をひきいた良弁の功績は大きい。また景山先生を

わずらわすと、金勝族は、ただし帰化人ではなく、木地師、 丹生族

(水銀を業とする人々)、海人族などとともに、日本に古くからいた特

殊な集団で、それらの人々によって、古代人の生活は支えられていた。

近江に多いそれらの職人に、新しい技術を教えたのが、大陸渡来の帰

化人であった。 金勝寺を建てたのは、良弁かも知れないが、金勝山は

それよりはるか昔からの、金勝族が奉じた神山であったに相違ない。

山麓の里坊に祀られる多くの神像は、私にそういうかくれた歴史を語

ってくれる。神仏の混淆は、宗教の世界だけの出来事ではない、一回

きりの事件でもない、あらゆる時代に、あらゆる所で行われた、和魂

洋才の表現であった。

(118p)

金勝族は帰化人ではなく、特殊な集団であり、大仏建立に

貢献したことがわかってきました。

そして金勝山(鶏冠山、天狗岩などの山々)と金勝族は

関係が深いこともわかります。

つまり、白洲正子さんの「かくれ里」で言えることは、

金勝(こんぜ)族と関係が深いので、金勝アルプスと命名され、

金勝は「こんぜ」と呼ばれる理由だということです。

根本的な、「金勝」をなぜ「こんぜ」と読むのかの説明には

なっていないと考えられます。  

  

2026年3月12日 (木)

サークルで教わった俳句「米洗う 前◯蛍が 二つ三つ」

     

今日は令和8年3月12日。

  

サークル「21の会」があったのは、3月7日です。

その時の提案資料はこの記事の通りです。

Img_7548

現役教師、元教師の4人の集まり。

いろいろアドバイスや情報をもらいます。

3月7日のサークルでは、私が浮き沈みの実験の話をしたので、

浮沈子(ふちんし)と言う面白い実験を教えてもらいました。

面白いので、すぐにやりたいと思い、準備して、

授業で行いました。

「浮沈子」については、また後日書きます。

  

以前のサークルで教わったことを、忘れないうちにここにメモします。

小学校3年生の担任をしている先生から、

俳句の授業実践が提案されました。

その時に、「米洗う 前◯蛍が 二つ三つ」と言う俳句が

話題になりました。

私は全く知らない俳句でした。

知らないことに、他の方からびっくりされました。

助詞の学習で有名な俳句なのだそうです。

そうなのか。

◯印に「に、で、を、へ」を入れることで、

蛍の状態が変わってくるというわけです。

  

わかりやすいサイトを探しました。

日本語教師のネタ帳 米洗う前(に、で、を、へ)蛍が二つ三つ〔場所を表す助詞〕

ここがいいです。

筆者は中国江蘇省南通の大学で

日本語を教えている方です。

日本出身で、中国で働いたのをきっかけで、

60歳から日本語教師に。

1957年生まれ。私より4歳年上。

スクリーンショットで転載します。

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この俳句を使って教えることはもうないかなあと思いつつ、

記録として記事にしてみました。

助詞1文字で、状況が変わってくる日本語は、

他の国の人からすると難解でしょうね。

私たちは平気で使っていますが。



  

  

  

  

20250126金勝アルプス③ 天狗岩で昼ごはん

    

今日は令和8年3月12日。

  

3月7日の記事の続きで、昨年1月26日に登った

金勝アルプスのことを書いていきます。

  

天狗岩が目前。

登山道から琵琶湖が見えました。

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地図で天狗岩と琵琶湖との関係。

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Googleマップを利用。

西北西方向の写真と思われます。

高い山は比叡山なのかなと思いました。

  

さあ天狗岩です。

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時刻は10時49分でした。3時間5分でここまで来ました。

どれか1つの岩を天狗岩と言うのではなくて、

この岩の群れ全体のことを天狗岩と言うのかなと

現場に行って思いました。

この岩の斜面を這い登っていくと、

見えていなかった岩が次々に現れました。

  

ちょっと怖い場所もありましたが、場所を確保して

昼食を食べました。

岩の群れとそこから見える琵琶湖の写真です。

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巨大な花崗岩のコアストーンです。

いつか転がることもあるのかな。

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天狗岩には20分ほど滞在。

昼ごはんも岩の上で食べました。

少し傾斜のある岩の面だったので、

バランスをとりながらの食事でした。

  

進みます。

少し南下したところで振り向いて撮影。天狗岩。

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すごいところにいたんだなと思いました。
  

天狗岳の頂上付近からわずか右奥に見える頂は、

鶏冠山の頂上ですね。

  

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1年以上過ぎているので、記憶が薄れていますが、

耳岩に登る登山道だと思います。

この岩の頂の登った人の記録がネット上にはありましたが、

どんな岩だったかな。

「なぜ耳岩?」という疑問を持った覚えはあります。

地図で⑤の場所です。

Img_7422_2

  

白石峰を目指します。

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こんな道もありました。狭い。

  

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ここが金勝アルプスの中では、重要な分岐なのでしょうね。

私たちは右折しました。磨崖仏を目指します。

  

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とっても快適な道です。

    

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コアストーン。

「重ね岩」

他の人の参考記録によると、下の石に仏様が掘られているとのこと。

よく見たら、確かにありました。この写真でもわかります。

その部分を拡大します。

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登山道の高速道路みたいな快適な道でした。

  

現代の高速道路が見える見晴らしのいい場所がありました。

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地元の本宮山にもありますが、ここにもありました、国見岩。

先ほどの高速道路や琵琶湖を見たのも、

この国見岩でしょう。

Img_9919

これも国見岩からの眺めと思われます。

  

進みます。

Img_9922

こういうつっかえ棒は、大きな岩がある山では

時々見かけます。
  

じゃあ、次の記事で磨崖仏です。

  



  








  


  


  

   







  



  

「チャック」は死語に/「YKK」と「YKK AP」との関係

    

今日は令和8年3月12日。

    

前記事の続きですね。

最近の調べで「チャック」が死語になりそうな事態だと知りました。

教師や子育ての親の使う「お口にチャック」も危ないです。

でも私は「ファスナー」「ジッパー」は使い慣れておらず、

死ぬまで「チャック」なのでしょうね。

私のような世代が消えていくと「チャック」は死語になるのでしょう。

  

参考になる資料がありました。

玉川産業HP

このサイトからの引用です。

  

ファスナーとは

英語

1891年、アメリカで誕生。

ファスナーは「しっかり留めるもの」を意味するため、マジックテ

ープも「ファスナー」と呼ばれる。

国際的には「ねじ」などの締め付けるものもファスナーと呼ばれる

ため、それらと区別するために、日本人が思い浮かべるファスナー

は「スライドファスナー」と呼ばれている。

 

 ジッパーとは

英語

1921年、アメリカで誕生。

ファスナーを閉めるときのジーッという音から命名。

B.F.Goodrich社がスライドファスナーの事を「ジッパー」と命名し

登録商標を取得。

現在は登録商標ではなくなったため、一般名称として使用される。

 

 チャックとは

日本語

1927年、広島の尾道で誕生。

巾着のようにしっかりと締まることから日本開閉器商会・チャック

・ファスナー社が「チャック」と命名し登録商標を取得。

現在は登録商標ではなくなったため、一般名称として使用される。

  

「チャック」は日本語なんですね。

「巾着」の「チャク」が「チャック」の語源だったんだ。

「ファスナー」の意味は広く、「ねじ」も「ファスナー」?

区別するために「スライドファスナー」という言葉もあるとのこの。

「ジッパー」の語源は、ファスナーを閉める時の音。

これも初めて知りました。

最も新しい言葉「チャック」が生まれてほぼ100年。

最初に消えていきそうです。

  

玉川産業から写真を転載。

Img_7542

ここでずっと気になっていた「YKK」について調べよう。

ファスナーに刻まれている「YKK」とアルミサッシや扉を作っている

会社の「YKK  AP」の関係について。

  

YKKののなるほど Vol.1 YKKってずっと社名じゃなかったの?

このサイトから引用します。

  

「YKK」という名前は、実は長い間正式な社名ではなかったというこ

とをご存じですか?

昭和9年(1934年)、YKKはファスナーの加工・販売の「サンエス商会」

として創業しました。しかし戦災で工場が焼けてしまい、故郷富山県

に戻った創業者の吉田忠雄が、社名を「吉田工業株式会社」と変えま

した。その英文社名の「Yoshida Kogyo Kabushikikaisha」の頭文

字をそれぞれとって、自社のファスナーの商標名としたのが「YKK」

の呼び名のはじまりです。ファスナーのロゴマークに使用された商標

は多くの人の目に触れ、「YKK」という呼び名が定着するようになり

ました。

そうしてこの商標は、平成6年(1994年)になって社名変更して採り入

れられたのです。だから、正式な社名としてはまだそんなに歴史を経

ていないのです。

Img_7544


  

ファスナーの「YKK」と、アルミサッシや扉の「YKK」は

別会社と思っていました。

作られる製品については、関連性がないと思ったからです。

でも違いました。

  

今まであまり意識していませんでしたが、

アルミサッシや扉の会社「YKK」は正式には「YKK AP」なのですね。  

YKK HP YKKのなるほど Vol.2 YKK APの成り立ち

このサイトから引用。

  

今はYKKグループ全体の売上高の約半分強を占めるまでに成長してい

るYKK AP。その始まりは、1957年にさかのぼります。当時、ファス

ナーの加工・販売を展開したYKKは、ファスナー用原材料となるアル

ミ合金56Sの量産化に取り組み、その技術を生かしてアルミ建具の分

野へ進出し、YKK APは誕生したのです。その後アルミサッシの生産

販売へと事業を拡大しました。YKK・ファスナーとYKK APの住宅用

商品とビル用商品とでは、まるで異質な商品・用途であるように思わ

れますが、その生産工程では設備、技術ともに共通の基盤の上に立っ

ているのです。

Img_7545

  

「YKK」と「YKK  AP」との関係は、親会社・子会社の関係でした。

  

じゃあ「AP」は何?

これもYKKのHPにありました。

  

YKK HP YKK APのなるほど Vol.1 APという文字にこめた思い

このサイトから引用します。

  

ファスナーという生活にとても身近なものを創り出しているYKKグル

ープですが、さらに窓やドアなど生活のすぐそばにあるもの、街の風

景を美しくかたちづくるさまざまな建物や施設の部品や材料などを創

り出していることはご存じでしょうか?

それがYKK APです。

APとは、Architectural Products の頭文字をとったものです。訳すと

「建築部材を提供する会社」と言うことになりますね。

しかしYKK APは、単なる「建築部材を提供する会社」ではなく「人と

建築、人と住まいのあり方を原点から見つめ、建築が担う文化的・社

会的な役割を深く理解し、豊かな暮らしの実現に必要な価値ある建築

用工業製品"Architectural Products"を提供する会社」でありたい、

そういう考えの元につけられた名前なのです。あくまでも、人のそば

にあり、人の暮らしに役立つことを念頭に置いた会社名なのです。  

Img_7546

  

「YKK」は日本人にはわかりやすい言葉が語源でしたが、

「AP」は難しかった。

  

ところで、アルミサッシとかにも「YKK」だったと思うのですが、

いつからこうなったのでしょう。

Img_7547

これについてはYKK AP HPを見るとわかりました。

1994年1月からでした。

私が32歳の時。

この変化に気がつかなかったなあ。

2026年3月11日 (水)

ダブルジップと登山用のジャケットについて

    

今日は令和8年3月11日。

  

前記事の続きで、ダブルジップの服のことを書きます。

ダブルジップのメリットを見ると、

登山用の服にこそダブルジップだといいなと書きました。

登山中の暑さ調整に優れていると思いました。

実際にどうなんだろう。

少し調べてみました。

  

MENS NON-NO WEB

このサイトから転載。

Img_7529_2

mont-bell(モンベル)のダブルジップのジャケットです。

  

山あり谷あり

ここからの転載。

Img_7530

THE NORTH FACE(ザ・ノースフェイス)のジャケット。

  

  

Patagonia(パタゴニア)はどうだろう。

FARFETCH

ここから転載。

Img_7531

これはパタゴニアのジャケットです。

上下にファスナーがあります。

ダブルジップと思われます。

   

Colunbia(コロンビア)は発見できませんでした。

  

ダブルジップが登山に向いているのか、Geminiに聞きました。

回答を引用します。

  

1. 細かなベンチレーション(体温・湿度調節)

ご想像の通り、これが最大のメリットです。山の天候や運動量に合わ

せて、「首元は風から守りたいけれど、ウェア内の蒸れは逃がしたい」

という時に、下半分だけを開けて換気することができます。

2. クライミングハーネスとの相性

ロッククライミングや冬山登山では、腰に「ハーネス」という安全帯

を装着します。ダブルジップの下を開けることで、ジャケットを着て

上半身を保温したまま、腰のハーネスのロープを繋ぐ部分(ビレイル

ープ)だけを外に出すことができます。

3. 急登での「足上げ」を妨げない

岩場や急な階段など、足を高く上げるシーンで、ジャケットの裾が突

っ張って邪魔になることがあります。下を開けておくことで、足回り

の可動域を広げることができます。

  

なるほどです。

ロッククライミングはきっと一生やらないだろうから、

関係ないですが、他の2点はなるほどです。

特に3点目は気がつきませんでした。

Geminiの凄さをまた感じました。

  

もちろんデメリットもあるようです。

これもGeminiの回答を引用します。

  

• 閉め始めの「難易度」が高い

ダブルジップは、一番下の「箱(はこ)」と呼ばれるパーツに、上下

2つのスライダー(引き手)をきっちり揃えてから差し込まなければ

なりません。これが少しでもズレると上手く閉まらず、急いでいる時

などは地味にストレスを感じることがあります。

• 故障のリスクが上がる

パーツが複雑な分、シングルジップに比べて「噛み合わせ」が悪くな

ったり、スライダーが外れたりといった故障が起きやすくなります。

• コストアップ

スライダーが2つ必要になり、構造も複雑なため、製造コストが上がり

ます。安価なファストファッションや、極限まで軽量化を求めるスポ

ーツウェアなどでは、シングルジップが選ばれることが多いです。

  

メリットだけ見ると飛びつきたくなりますが、

そうはいかないところも知りました。 

  

でも下半分が開くのは魅力があるなあ。

登山にきっと役に立ちます。

    

最後に楽天から転載。

Img_7532

これもダブルジップの「マウンテンパーカー」とありました。

ダブルジップ(ダブルファスナー)らしい写真を最後に載せます。

Img_7533

いつの日か買ったら、こんな写真を撮ってアップしたいですね。
  

最近の写真

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楽餓鬼

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いま ここ 浜松

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