20250126金勝アルプス④ 狛坂磨崖仏/白洲正子著「かくれ里」
今日は令和8年3月14日。
2日前の記事の続きで、昨年1月26日の
山のことを記事にします。
金勝アルプスの中に含まれる歴史的遺跡にたどり着きました。
地図の⑥です。
狛坂(こまさか)廃寺跡にある磨崖仏です。
最初に目に入ったのは、この石。
「狛坂寺跡」という古い標識。
狛坂寺はどんなお寺だったのか。
このサイトから引用します。
ちなみにこの文章中に出てくる金勝寺は「こんしょうじ」と読みます。
金勝アルプスの「こんぜ」とは違います。
金勝寺は女人の参拝が許されなかった ため、金勝寺の別院として、
狛坂寺が9 世紀に建てられたのだそうです。
磨崖仏は、狛坂寺に詣でた女人が拝するために
作られたものかも知れません。
金勝寺は、狛坂廃寺後から東方にあります。
地図で示します。国土地理院の地形図を利用します。
金勝寺は自動車で行くことはできますが、
狛寺廃寺跡(狛坂磨崖仏)は登山道を歩かないといけない場所に
あります。そこにたどり着きました。
狛坂寺が廃寺になったのはいつか?
廃寺跡に立つ案内板に答えはありました。
説明の最後の部分を見て下さい。
「明治に廃寺となる。
やはり明治時代に廃仏毀釈政策の犠牲になりました。
廃寺となってしまいましたが、磨崖仏は残りました。
その花崗岩の高さ6.3m、幅4.5m、厚さ0.7-0.8m(右側)。
中央の如来像の高さは2.2mで、左右の菩薩像は高さ2.4m程度。
私の身長よりもグッと大きな像でした。
1年以上の月日が経って、そうだったのか忘れてしまいました。
栗東歴史民俗博物館には、この磨崖仏の実物大レプリカが
展示されているとのこと。
これって、ちょっと面白い状態。
目の前に本物が野ざらしで置いてあって、
レプリカが建物の中で、保存されているというわけです。
でも、これが本来なのでしょう。
本物はこのまま野ざらし(自然の中で)、
石面に歴史を刻んでいくのがいいなと思います。
さて、ここで「かくれ里 愛蔵版」(白洲正子著/新潮社)について。
この本は2010年発行。
初版は1971年発行のものです。
3月5日の記事「金勝アルプス①」に出てきた書物。
ここでも道草 20250126金勝アルプス① 「湖南アルプス」「金勝」を解明(2026年3月5日投稿)
図書館で借りて、金勝アルプス関連のところを読んでみました。
白洲正子さんは、白洲次郎さんの奥さん。
1910年生まれ。
1998年没。随筆家。
この本から一部引用していきます。
磨崖仏は、聞きしに優る傑作であった。見あげるほど大きく、美しい
味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとり
まいている。奈良時代か、平安初期か知らないが、こんなに迫力のあ
る石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中
に、山全体を台座とし、その上にどっしり居坐った感じである。周囲
には、僧坊の石垣の跡が残り、かなり大きな寺だったととがわかるが、
金勝山の別名が狛坂寺であることを思うと、ここが奥の院であったか
も知れない。 狛坂というからには、帰化人が領した土地で、朝鮮の景
色も、私は知らないがこの辺の岩山に似ているのではないだろうか。
(121p)
「美しい味」という表現。
歴史をまとった姿を表しているのでしょう。
「環境がいい」に共感。
誰でも気軽に行ける場所にはないところがいい。
「しじま」は「静寂」の意味。
「狛坂」から帰化人を連想しています。
「狛」にどんな意味があるのだろうと調べました。
「高麗」の意味があるとのこと。びっくりしましたが、
なるほどと納得できます。白洲正子さんの教養を感じました。
「僧坊の石垣の跡」はここなのかな?
「金勝」を「こんぜ」と読む理由は、
この本が原典だということですが、その箇所が明瞭ではありません。
関連すると思うところをピックアップします。
地図でみると、狛坂寺は、金勝山のつづきにある。コンショウとも
コンゼとも訓み、最近は近江アルプスなどと呼ばれているが、
琵琶湖の南、栗太郡の奥にある連山で、南側は信楽に接している。
(109p)
「訓み(よみ)」は初めてみる使い方です。
ここでは「こんぜ」と読む理由について書いてありません。
草津から南下すると、栗東町の金勝(こんぜ)という村に出る。
(109p)
ここには次のように書いてあります。
栗東とは、"栗太郡の東"に由来し、今から67年前の昭和29(19
54)年10月1日に、"栗太郡の東"にあった治田・金勝・葉山・
大宝の4つの村が合併して栗東町が誕生したことで、まちのあゆみ
がスタートしました。
こんな過程で、金勝村は栗東町に加わりました。
72年が過ぎたことになります。
今でも栗東町には、金勝の地名はあるのでしょうか?
Googleマップで調べましたが、どうも栗東町内には
「金勝」の地名は見つかりませんでした。
住所にもないようです。
でも「金勝幼稚園」「セブンイレブン栗東金勝店」
「コミュニティセンター金勝」「こんぜの里りっとう」
「こんぜの里バンガロー村」「金勝生産森林組合」
そして極め付けは金勝小学校
この小学校のHP冒頭には次のように書いてあります。
栗東市の南部に位置し、栗東市のほぼ半分の面積が金勝学区と
なっている。
地名では残っていないようですが、
いろいろな施設名として残っていて、
栗東市の南半分が金勝小学校の校区とのこと。
このサイトから引用します。
ちなみにこの文章中に出てくる金勝寺は「こんしょうじ」と読みます。
金勝アルプスの「こんぜ」とは違います。
金勝寺は女人の参拝が許されなかった ため、金勝寺の別院として、
狛坂寺が9 世紀に建てられたのだそうです。
磨崖仏は、狛坂寺に詣でた女人が拝するために
作られたものかも知れません。
金勝寺は、狛坂廃寺後から東方にあります。
地図で示します。国土地理院の地形図を利用します。
金勝寺は自動車で行くことはできますが、
狛寺廃寺跡(狛坂磨崖仏)は登山道を歩かないといけない場所に
あります。そこにたどり着きました。
狛坂寺が廃寺になったのはいつか?
廃寺跡に立つ案内板に答えはありました。
説明の最後の部分を見て下さい。
「明治に廃寺となる。
やはり明治時代に廃仏毀釈政策の犠牲になりました。
廃寺となってしまいましたが、磨崖仏は残りました。
Wikipediaによると、磨崖仏は花崗岩に彫られており、
その花崗岩の高さ6.3m、幅4.5m、厚さ0.7-0.8m(右側)。
中央の如来像の高さは2.2mで、左右の菩薩像は高さ2.4m程度。
私の身長よりもグッと大きな像でした。
1年以上の月日が経って、そうだったのか忘れてしまいました。
栗東歴史民俗博物館には、この磨崖仏の実物大レプリカが
展示されているとのこと。
これって、ちょっと面白い状態。
目の前に本物が野ざらしで置いてあって、
レプリカが建物の中で、保存されているというわけです。
でも、これが本来なのでしょう。
本物はこのまま野ざらし(自然の中で)、
石面に歴史を刻んでいくのがいいなと思います。
さて、ここで「かくれ里 愛蔵版」(白洲正子著/新潮社)について。
この本は2010年発行。
初版は1971年発行のものです。
3月5日の記事「金勝アルプス①」に出てきた書物。
ここでも道草 20250126金勝アルプス① 「湖南アルプス」「金勝」を解明(2026年3月5日投稿)
図書館で借りて、金勝アルプス関連のところを読んでみました。
白洲正子さんは、白洲次郎さんの奥さん。
1910年生まれ。
1998年没。随筆家。
この本から一部引用していきます。
磨崖仏は、聞きしに優る傑作であった。見あげるほど大きく、美しい
味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとり
まいている。奈良時代か、平安初期か知らないが、こんなに迫力のあ
る石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中
に、山全体を台座とし、その上にどっしり居坐った感じである。周囲
には、僧坊の石垣の跡が残り、かなり大きな寺だったととがわかるが、
金勝山の別名が狛坂寺であることを思うと、ここが奥の院であったか
も知れない。 狛坂というからには、帰化人が領した土地で、朝鮮の景
色も、私は知らないがこの辺の岩山に似ているのではないだろうか。
(121p)
「美しい味」という表現。
歴史をまとった姿を表しているのでしょう。
「環境がいい」に共感。
誰でも気軽に行ける場所にはないところがいい。
「しじま」は「静寂」の意味。
「狛坂」から帰化人を連想しています。
「狛」にどんな意味があるのだろうと調べました。
「高麗」の意味があるとのこと。びっくりしましたが、
なるほどと納得できます。白洲正子さんの教養を感じました。
「金勝」を「こんぜ」と読む理由は、
この本が原典だということですが、その箇所が明瞭ではありません。
関連すると思うところをピックアップします。
地図でみると、狛坂寺は、金勝山のつづきにある。コンショウとも
コンゼとも訓み、最近は近江アルプスなどと呼ばれているが、
琵琶湖の南、栗太郡の奥にある連山で、南側は信楽に接している。
(109p)
「訓み(よみ)」は初めてみる使い方です。
ここでは「こんぜ」と読む理由について書いてありません。
草津から南下すると、栗東町の金勝(こんぜ)という村に出る。
(109p)
ここには次のように書いてあります。
栗東とは、"栗太郡の東"に由来し、今から67年前の昭和29(19
54)年10月1日に、"栗太郡の東"にあった治田・金勝・葉山・
大宝の4つの村が合併して栗東町が誕生したことで、まちのあゆみ
がスタートしました。
こんな過程で、金勝村は栗東町に加わりました。
72年が過ぎたことになります。
今でも栗東町には、金勝の地名はあるのでしょうか?
Googleマップで調べましたが、どうも栗東町内には
「金勝」の地名は見つかりませんでした。
住所にもないようです。
でも「金勝幼稚園」「セブンイレブン栗東金勝店」
「コミュニティセンター金勝」「こんぜの里りっとう」
「こんぜの里バンガロー村」「金勝生産森林組合」
そして極め付けは金勝小学校
この小学校のHP冒頭には次のように書いてあります。
栗東市の南部に位置し、栗東市のほぼ半分の面積が金勝学区と
なっている。
地名では残っていないようですが、
いろいろな施設名として残っていて、
栗東市の南半分が金勝小学校の校区とのこと。
1971年、白洲さんは金勝村を訪れていますが、
現在はない可能性があります。
先にもいったように、信楽は金勝山の南麓に位置する。金勝の名が
示すとおり、それは金属を扱う人々が奉じた神、もしくは銅か何か
の鉱脈があったに違いない。 景山さんのお話では、金勝族(金粛、
金精とも書く)といって、青銅を業とする集団があり、良弁がそれを
統率したのではないかといわれる。
私もその説に賛成である。良弁が金勝寺を建てたのは伝説かも知れ
ないが、帰化人の彼がそういう人たちを指導したことは想像できる。
(115p)
ここで「金勝族」が初登場。
青銅を業とする集団と書かれています。
Geminiが紹介したところです。
少なくとも、大仏の建立は、帰化人の助けがなければできないことで
あった。 特に金勝族をひきいた良弁の功績は大きい。また景山先生を
わずらわすと、金勝族は、ただし帰化人ではなく、木地師、 丹生族
(水銀を業とする人々)、海人族などとともに、日本に古くからいた特
殊な集団で、それらの人々によって、古代人の生活は支えられていた。
近江に多いそれらの職人に、新しい技術を教えたのが、大陸渡来の帰
化人であった。 金勝寺を建てたのは、良弁かも知れないが、金勝山は
それよりはるか昔からの、金勝族が奉じた神山であったに相違ない。
山麓の里坊に祀られる多くの神像は、私にそういうかくれた歴史を語
ってくれる。神仏の混淆は、宗教の世界だけの出来事ではない、一回
きりの事件でもない、あらゆる時代に、あらゆる所で行われた、和魂
洋才の表現であった。
(118p)
金勝族は帰化人ではなく、特殊な集団であり、大仏建立に
貢献したことがわかってきました。
そして金勝山(鶏冠山、天狗岩などの山々)と金勝族は
関係が深いこともわかります。
つまり、白洲正子さんの「かくれ里」で言えることは、
金勝(こんぜ)族と関係が深いので、金勝アルプスと命名され、
金勝は「こんぜ」と呼ばれる理由だということです。
根本的な、「金勝」をなぜ「こんぜ」と読むのかの説明には
なっていないと考えられます。







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