「大関和物語」① 明治時代と現代は大きく違う
今日は令和8年4月23日。
久々に本を読破しました。
電子本ではなく、図書館で借りた実物の本です。
「明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語」
(田中ひかる著/中央公論新社)
気になる文章を引用していきます。
プロローグの文章です。
今や看護師という職業なくして、医療の世界は一日も成り立たない。
それは、所定の学校で専門知識や技能を身につけ、国家試験に受か
って初めて就くことのできる専門職であり、人々の健康や命を守る
尊い職業として、広く認知されている。しかしかつては、「金のた
めに汚い仕事も厭(いと)わず、時には命まで差し出す賤業(せん
ぎょう)」と見なされていた。
家老の娘に生まれながら、この「賤業」に就き、生涯をかけて「看
護婦」の技能の向上と制度化に努めたのが、大関和(ちか)である。
和は離婚して二人の子を育てる母親でもあった。和とともに看護婦
となり、彼女を支え続けた鈴木雅(まさ)もまた、二人の子を持つ
「寡婦(かふ)」であった。
これは、近代日本において、看護婦という職業の礎(いしずえ)を
築いた二人のシングルマザーの物語である。(7p)
NHK連続テレビ小説「風、顔るる」の原作として紹介されている本。
興味を持ったので、さっそく借りて読み始めました。
最近、途中で読むのをやめちゃうことがあり、
読破しきれていない本が山積み。(現実世界でもネット世界でも)
今回は図書館で借りて2週間の期間に間に合うように、
他のことよりも優先して読書。
ドラマでも感じていましたが、看護師の歴史に浅さに驚きました。
明治政府は、発足後間もない明治三(一八七〇)年に発布した「新
律綱領」において、妾は妻と同等の二親等と定めている。翌年の内
務省指令も「臣民一般妾の称号苦しからず」とし、戸籍にも「妾」
の文字が記載された。つまり、法的にも「一夫多妻」が認められて
いたのだ。民法によって「一夫一婦制」が成立するのは、明治三十
一(一八九八)年のことである。
和が妾の存在に難色を示したため、両家で話し合いが持たれ、妾と
の関係を清算するという条件で、縁談がまとまった。(13p)
これもビックリです。
一夫一婦制は1897年以降のこと。
妾(めかけ)という言葉は、昔のことを扱ったドラマで
「お妾さん」とか登場してましたが、う〜ん、
大河ドラマ「青天を衝け」で渋沢栄一のお妾さん大内くにさんが
登場しました。栄一との間に子どもも産みます。
明治31年より前だったのでしょうか。
当時の農村の生活を知る『石ころのはるかな道』の著者伊藤まつをは、
農家の嫁について、牛や馬以下の扱いでさんざん酷使され、「三度の
粗食さえ満たすことができ」ず、「体をこわして長くわずらう身となっ
たり、死んだりしていった」と述べている。「女工哀史」があるよう
に、農村の嫁にも「哀史」があった。
女工はわずかとは言え賃金がもらえ、辛い境遇を慰め励まし合う仲間
もいたが、農家の嫁たちは姑の手前、愚痴をもらすことさえはばから
れた。「わが働きでわが着物も買う、三度の飯も睨まれずに食う」
ことができる女工たちを「何んぼうええもんか」(『荷車の歌』)と
うらやむ嫁もいた。
苦しい生活の中で「間引き」はなかば公然と行われ、それは特に女児
が生まれた場合に多かった。子どもたちの男女比に、明らかに偏りの
見られる村もあった。間引きを密告され、九年の懲役を終えて地主へ
挨拶にきた小作の嫁が、監獄生活は農業の苦役がないばかりか、食事
も麦の割合が少なく、月経の手当てのための「ボロ」も支給されるた
め、農村の生活より楽だったと報告したという話が残っている。常に
妊娠、出産、授乳を繰り返していたため、今日に比べると月経の回数
はかなり少なかったとはいえ、「ボロ」さえ手に入らない生活をして
いたことがわかる。
貧しい小作の家に生まれた女は、産声を上げた途端に殺されるか、生
き延びたところで工場か遊郭へ売られる運命であった。売られずに、
同じ小作の家へ嫁いだところで、自分の産んだ子を間引き、その結果、
監獄につながれることさえあったのだ。(22〜23p)
「間引き」について調べていたら、間引き絵馬が各地にあることを
知りました。
ブログ 信仰心に触れる 徳満寺 子返しの図(間引き絵馬) 茨城県北相馬郡利根町
このサイトの写真を転載。
「子返し」は、授かったものを元に返すことでしょう。
間引きよりは柔らかい言葉ではありますが、やっぱり残酷です。
障子に映る母親の影は鬼です。
間引きを戒めるための絵馬のようですが、
母親も苦しい窮状の末の決断だったと思います。
続く


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