2018年8月28日 (火)

沢村栄治にとって心から幸福と思った一戦

 

今日は8月28日。

  

前投稿に引き続き、

後楽園球場のサムライたち」(澤宮優著/現代書館)より。

 

沢村栄治さんのお父さん賢二さんが、

次のように言っています。

  

「もし栄治の野球生活にボールを握って心から幸福と思った

一瞬があるとすれば、この一戦の好投じゃなかったでしょうか」

(17p)

 

その一戦と言うのが、昭和9年(1934年)にべーブ・ルース等の

大リーグメンバーが来日して行われた日米決戦の第9戦です。

静岡県の草薙総合運動場硬式野球場で行われました。

それまでずっと大リーグのオールスターチームに、

圧倒されてきた日本チーム。

しかし、沢村栄治が先発したこの試合は違いました。

名だたる大リーガーが、沢村を打てない。

 

この試合の様子を、この本では詳しく書いています。

一部引用します。

  

0-0で迎えた7回。

 

この裏は全米チームは3番ベーブ・ルースからである。

絶好の攻撃の機会である。

ルースが全米の名誉にかけても打たんとする気迫が

マウンドの沢村にも伝わってきた。

だがルースは焦っていた。

沢村は意表をついたスローボールを外角いっぱいになげると、

簡単にバットを出して平凡な投手ゴロを打たせてしまった。

頬が充血したルースは、観劇に沸く観衆を横目で見て呟いた。

「この球場が悪い。太陽が目に入ったから打てなかったんだ」

(16p)

 

ベーブ・ルースにこんなことを言わせた沢村栄治。

気分よかっただろうなあ。

続く4番打者ゲーリックに、甘く入った変化球ドロップを打たれ、

ホームラン。

それでも、沢村が失った点は、この1点のみ。

日本は点を入れることができず、0-1で敗れるが、

9回まで息詰まる接戦でした。

こんなシーンもあったそうです。

  

一方では全米チームもスポーツマンシップを忘れなかった。

沢村が四球で塁に出たときはベーブ・ルースやゲーリックが

肩を冷やさぬようにと、駆け寄って自分が着ているセーターを

着せて、沢村の肩を叩いて激励をしてくれた。

(17p)  

 

こんなこともあったので、「心から幸福」と

思ったのでしょう。

沢村栄治18才。

まだまだ”大人”のしがらみが少なく、

体も絶好調だったので、

怖いもの知らずで、伸び伸びと投げていたのでしょう。

  

そんな沢村に、その後戦争が暗い影を落とすのです。

  

 

この本に、巨人軍が沢村を入団させるときの、

正力松太郎さんの言葉が載っていました。

※参考:ここでも道草 沢村栄治1.黒鉄ヒロシさんのコメント(2012年4月26日投稿)

「一生面倒を見る」とは書いてありませんでした。

 

正力は「とにかく日本の野球も必ず職業野球の時代がやってくる。

だから栄治君を僕に任せてくれないか。

そのときだけの面倒を見るというのではなく、

先の先まで、面倒を見るから正力を信用して

万事お任せください」と父親の賢二を説いた。

(18p)

 

これが黒鉄ヒロシさんの言う

「一生面倒を見る」の具体的な言葉なのでしょう。

 

  

しかし!もう私はこの「具体的な言葉」を調べていた。

過去の記事を読んでいて、この記事に出会いました。

ここでも道草 巨怪伝・・・沢村栄治/死んでしまえば仇花(2012年4月29日投稿)

ちゃんと調べていた私。

すっかり忘れていたことに驚き。

でも当時の私自身を褒めたい気持ちもあります。

「やるじゃん、俺」

 

つづく  

2018年8月26日 (日)

「この先輩たちがあって今日がある」先輩の一人が沢村栄治

今日は8月26日。

  

スバルのCMソングでもある小田和正さんの

「wonderful life」を聞き込みたくて、

この曲の入ったアルバムを、レンタル店で借りました。

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CD3枚組のアルバムでした。

「オフコース」時代のセルフカバー曲も

たくさん入っていて、

懐かしさもあるアルバムでした。

まだしばらく生活のBGMは小田和正だ。

   

「英雄の選択」で沢村栄治さんのことを取り上げました。

やっぱり興味のある人だったので、注目しました。

さらに本も読みたくなり、次の本を借りて読みました。

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後楽園球場のサムライたち」(澤宮優著/現代書館)

巨人軍の6人のサムライのことが書かれた本でしたが、

今回は、私は沢村栄治のみ読みました。

  

「まえがき」の文章をたっぷり書き留めます。

  

 

まえがき

 

今年(平成18年)2月13日に巨人軍の

 

宮崎キャンプで起こった小さな事件である

 

OBの400勝投手金田正一氏と広岡達朗氏が

 

練習の視察に訪れていた。

  

二人が立っている中、原辰徳監督が若手のある左腕投手に向かって、

 

「この人を知っているか?」と金田氏を指した。

 

投手はドラフト1位で入団し3年目奈迎え

 

将来を嘱望されている選手である。

 

同じ左腕という理由で金田氏を紹介したのである。

 

若手投手は「金村さんです」と答えて、

 

さらに「何勝したか知っているか」という原監督の質問に

  

「300・・・・ うーん」と首を傾げてしまった。

  

さすがに原監督も「バカヤロウ、400勝だ!」と

 

を軽く叩いて叱ったが,この光景を見ていた広岡氏が

  

危機感を覚え、二軍練習場へ直行した。

  

氏は、二軍ナインの前で「巨人軍は伝統のあるチーム。

 

OBの名前くらい覚えておかなければ」と一喝し、

 

臨時講義を始めたという。

 

氏は中島治康、沢村栄治、川上哲治、水原茂,スタルヒン、

 

千葉茂、長嶋茂雄、王貞治ら各氏の名前を挙げられて、

 

70年にわたる球団の歴史を12分にわたって語った。

 

村禎章二軍監督をはじめ2軍ナインは直立不動、

 

脱帽で話を聞いていたという。

 

さてこの件に限らず私はプロ野球で活躍した選手たちの

 

ほとんどが歴史の中に埋没してしまって忘れられてしまう

 

危機感じている。とくに近年は忘却の度合いが激しい。

 

現代という時代のみに目を向け、過去に活躍した選手は

 

凄まじい勢いで忘れられている。

  

その加速度はじつに驚くべき速さである。

 

私はそこにプロ野球の危機を感じる。

  

広岡氏はこうも言った。

 

「君たちはすばらしい球団に入った。

 

この先輩たちがあって今日がある。

 

君たちには私の話を権利があるし、

 

先輩が後輩を指導するのは義務だ」

 

氏の懸念通り、歴史に学ばない結果、

  

プロ野球はいつしか魅力を失ってしまった。

 

(5~6p)

  

「この先輩たちがあって今日がある」

 

この言葉は、今回いやに重たく感じました。 

 

最近、巨人軍選手の不祥事が多いからか?

  

現代の野球ファンが、過去の名選手たちに思いを馳せるとき、

  

今のプロ野球に何が欠けているのか一目瞭然とわかるはずである。

 

すべてが管理化された社会では、

  

個人は組織の歯車としてしか生きてゆけなくなった。

 

そこに個性の輝きを見ることはできない。

 

私たちは組織の規律にとらわれず自由に伸び伸びと

 

己の信念に従ってプレイした選手を見ることで、

 

自己の願望をそこに見出して大きな溜飲を下げるのである。

 

今のサラリーマン社会の投影をプロ野球に見ようとは思っていないはずだ。

 

自分もあの選手のように自由に生きてみたい。

 

そんな思い 抱かせる野球選手が現れない限り、

 

われわれの窮屈な毎日は救われない。

  

私は巨人という常に優勝を求められる組織で、

  

チームのために自分を殺すことなく、

 

自己の誇りを大事にした選手たちを取り上げたつもりである。

 

「巨人軍は紳士たれ」と言われながらも、

 

自由に個性を発揮したサムライたちがかつてはいた。

 

ここに利益を強く求められる現在の企業社会の中で、

 

かに個人が自己の誇りをもって生きてゆくかという

 

ヒントがちりばめられている。

  

学ぶべきは現在ではなく、過去にあるのだ。

 

広岡氏の言うように先人たちの足跡に謙虚になって教えを請うとき、

 

おのずからわれわれが今どう生きるべきかという道は開かれる。

 

広岡氏の言われる「この先輩たちがあって今日がある」という言葉は、

  

野球界に限らず現代日本がもっとも忘れている

 

大事な忠告なのである。

 

 

ロ野球にはサッカーの リーグなどとは違って

 

強くも悲しい長い歴史がある。

 

それは戦争を生き抜いてきたという点である。

 

戦争という暗い時代を体験して、社会的な地位を

 

確立した点は他のプロスポーツに見られない唯一の特色である。

 

温故知新というが、今原点に帰ってプロ野球を見つめなおす

 

時期が来ているように思う。

  

 

ここに取り上げた人たちは、偉大な記録を残しただけという

 

選手ではない。

 

その瞬間にすべてを出し尽くして己の信念をまっとうした

 

素晴らしい方たちである。

  

そして軽く派手なものがもてはやされる今の時代において

  

一生懸命に生きる行為がどんなにすばらしいものかを、

 

彼らの生き方は教えてくれる。

  

6人の物語を通して今、平和の中で野球が思い切りでき幸せと、

 

打算なく全力を出し切った男たちの潔さを

 

知っていただければと思う。

 

(7~8p)

 

このまえがきの文章は、たくさん書き留めておきたいと思った

印象的なものでした。

  

6人のうちの沢村さんの生き方は、やはり参考になりました。

全力を出した生き方だったと思います。

また後日の投稿に書きます。 

「8月15日のプレーボール」その9.若者よ 野球のできる時代はいい

 

今日は8月26日。

 

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

番組のラストシーンです。

  

ナレーター:野球に目覚めた若者たちを

  生き生きと描いた作品で知られる作詞家の

  阿久悠。

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  戦争で亡くなった球児たちに思いを馳せた詩があります。

  

  あの八月十五日は

  既に歴史の中の点になってしまった。

  有名無名の球児たちが

  ボールを捨て バットを捨て

  海に 野に 空に

  若い命を散らせたことを

  若者は知らない

  若者よ 野球のできる時代はいい

  若者よ 野球のできる時代はいい

  (八月十五日の青春より)

  

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以上で、8月1日放映の

歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」の読み物化を終了。

しかし、時間がかかります。

今回も9本の投稿が必要で、

1本目は8月22日だったから、

5日間を要しました。

 

見た番組を次々に読み物化していけたらいいなと、

理想では思いますが、なかなか難しい。

でも、読み物化したことで、

私は番組を本当に吸収した気分になります。

他の手が浮かぶまでは、時間を見つけて、

番組の読み物化を進めていきたいですね。

 

  

次も野球の話を書きます。

 

「8月15日のプレーボール」その8.観客の熱気の質が違う

 

今日は8月26日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

番組の写真。開会式の写真です。

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もう一つ、動画を紹介します。


YouTube: 白球の記憶 球場は希望に満ちた 1946年 戦後初の大会

 

印象的なシーンを聞き書きして、書き留めます。

成田中に勝った京都二中のメンバーが登場。

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黒田脩さんは、全国大会に出場できた時のことを、

「夢のような気持ち」だったと言っています。

さらに、次のように言っています。

 

ナレーター:日常生活にも苦しむ時代。

  黒田先生には、予想を超える光景が映りました。

黒田:とにかくビックリしました。

  (観客のシャツで)白一色。

   とにかく白いは。それは印象にありましたね。

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  ビックリしました。この観衆(の数)には。

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  それが(私たちのような)選手だけではなく、

  観衆もビックリして感謝しています。

ナレーター:大会は、開会式から決勝戦まで大入り満員。

  立ち見が出るほどの大盛況でした。

  観客の一人だった下神洋造さんです。

  13才だった当時の喜びを今も忘れられません。

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下神:絶対野球を見たいと(思いました)。

  今と比べたら、熱気の質がね、ちょっと違うような

  気がしますね。 

  子どもは初めて見る興奮、

  大人は、やっぱりまた野球が見られるという(気持ち)。

  思い切り野球ができるようになった喜び。

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ナレーター:戦争が終わった。

  未来への希望が球場全体を包んでいました。

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観客席がぎっしりと埋って、

観客のシャツの色で白一色だったというのが、

印象に残りました。

熱気の質が違うという表現も印象に残りました。

なるほどと思いました。

  

  

「歴史秘話ヒストリア」だけでなく、

他の動画も見て、第28回全国中等学校優勝野球大会の様子が、

見えてきました。

次がこのシリーズのラスト!

 

つづく

  

   

  

  

「8月15日のプレーボール」その7.最初の試合 成田中対京都二中

 

今日は8月26日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

番組ではないけど、

この動画が目に入りました。

  

Photo  

第28回全国中等学校優勝野球大会の映像がありました。

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昭和21年、大会初日は8月15日。

8月15日は太平洋戦争が終わったhからちょうど1年。

8月15日が選ばれたのは、そのような日をあえて選んで、

8月15日が敗戦の日ではなく、高校野球が復活した喜ばしい日と

したかったのでしょうか。そんな想像をしました。

 

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前投稿で書いた記念ボール贈呈のシーンありました。

前投稿の新聞記事の写真よりも鮮明です。

 

謎の写真↓

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この写真は何だろう?

何か、開会式に向けて、いいものを落下させた?

たとえば、ポール・ラッシュ中佐の贈呈した記念ボールが、

パラシュートでグランドに落とされた・・・

などと予想しました。

  

調べました。

  

バーチャル高校野球

このサイトには、次のように書いてありました。

  

西宮球場の上空を飛ぶ米軍機。

後部から見える白い帯は、散布された殺虫剤のDDTだ。

戦後、シラミやノミを駆除するため、

連合国軍総司令部(GHQ)が国内中で使った。

人が大勢集まる球場も例外ではなかった。

  

何と!殺虫剤!

全く予想外でした。

  

さらに次のような文章もありました。

  

戦後初の第28回大会は、GHQによる「占領色」が色濃かった。

大会会長があいさつした後、祝辞を述べたのは

元立教大教授でGHQのポール・ラッシュ中佐だ。 

その後、ラッシュ中佐は代表19校の主将と握手を交わし、

米国製のボールを寄贈。米軍機の祝賀飛行もあった。

  

米軍機の祝賀飛行もあったのですが、

上の写真は、DDT散布でした。

この動画で説明はなかったです。

観客や選手は、どんな気分で、白い粉をかぶったのだろう。

あまりに今と状況が違いすぎて、予想がつかないです。

  

そして記念すべき第一試合が、

成田中(千葉県)VS京都二中の試合でした。

第一試合だったのですね。

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ここで前投稿でも書いたシーンがありました。

再掲載。

 

成田には第六回二死後両石原の二安打で

好機をつかむかと見えたが、

石原(照)の本塁滑り込みの失敗で

寸前に憤死したのは、(中略)惜しまれる。

(昭和21年8月16日朝日新聞)

石原照夫さんはピッチャーであり、

相手投手との投げ合いで、0-0が続いていました。 

自らがホームインして、均衡を破ろうとしました。 

しかし、アウト。

その憤死した時の写真です↓

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石原照夫さん↓

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ナレーター:(写真を見ると)キャッチャーがタッチする前に、

  ホームインしているように見えます。

  成田中のチームメイトは、石原(照)が、

  ホームベースに滑り込んだ瞬間をはっきりと

  覚えていると言います。

 

石田さんと同じチームの、もう一人の石田(利男)さんn証言。

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石田(利):ヒット打って、走ってくるのを見ていたから、

  (中略)タイミングはセーフだった。完全に。

  初の得点だなと思った。

 

しかし、前述したように判定はアウトでした。

  

ナレーター:この場面が勝負の分かれ目となりました。

  0対1で成田中は敗れました。

 

冒頭の動画より。

Photo_6

写真は京都二中の得点シーンです。

  

試合直後、ホームベースをはさんで両校のあいさつ。

その後、ホームベースで憤死した石原照夫さんは、

投げ合った相手校のピッチャーのもとに駆け寄って、

次のように言いました。

  

石原(照):ありがとう。次の試合、頑張れよ。

相手投手:おう。

  

ナレーター:悔しさをにじませることなく、

  惜しみないエールをライバルに送ったのです。

  この時の心境を、石原は後にこう振りかえています。

石原(照):セーフでもアウトでも

  そんなことはどうでもいい。

  戦争が終わり、思い切り野球ができた。

  夢中で投げられ打てた。

  それだけで十分だった。

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ナレーター:ただ生きて、白球を追う。

  それがどれだけありがたいことか。

  グランドを駆け回った球児たちは、

  思いのままプレーをする喜びにあふれていました。

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石原(利):当時はね、負けて悔しいって問題じゃないんだよなあ。

  ああ、ここで試合をしている。

  ここで試合して、好きな野球ができてさ、

  もう純真そのものじゃなかあ。

  ひとつのスポーツに打ち込めた人間として

  俺は、幸せだったと思うね。

ナレーター:戦時中、何の役にも立たない遊びと非難されてきた野球。

  その野球が、戦争で傷ついた人々の心を癒し、

  戦後の日本を牽引する力となっていったのです。  

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戦争は、やりたいと思ったことができなくなる時だと、

番組「英雄の選択」で磯田道史さんが言っていました。

やりたいと思っていた野球ができた時の、

2人の石原さんの言葉は、尊い。

やろうと思えば、とことんできる平和な今を、

もっと大切にしたい。

もう少し、とことんやりたい。

  

最後に、第28回全国中等学校優勝野球大会の

優勝校を紹介。

決勝戦で2-0で京都二中を破った

浪華商業でした。

冒頭の動画の写真です。

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つづく

 

2018年8月24日 (金)

「8月15日のプレーボール」その6.芦屋中/ポール・ラッシュ中佐が贈った記念ボール

 

今日は8月24日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

 

浪華商業、松本市立中、和歌山中に引き続き、

次の学校はここ↓

Rimg0152_2  

兵庫県立芦屋高校と思われます。

(番組最後の資料提供のテロップより)

この高校については、次のサイトがいい。

あしかび会事務局だよりNHK「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール」に芦高野球部創部の頃の写真が登場(8月1日) 

当時は芦屋中学校

この写真が使われることを、報じています。

番組だと左端の部員の顔が、

「歴史秘話ヒストリア」のマークで消えていて、

ちょっと悲しいです。

上記サイトによると、「翠球」(兵庫県立芦屋高等学校野球部五十年史)

56ページに掲載されている1946年(昭和21年)に撮影された写真だそうです。

左端の部員さんの顔を、この本で見てみたいですね。

機会があれば・・・・、でもそんな機会はないかな?

さらに、このサイトにリンクがあったのがここ↓

あしかび会事務局だより 「芦屋の奇跡」野球部全国大会初出場と記念ボール(昭和21年8月)

記念ボールとは?

引用します。

  

太平洋戦争終戦から1年後の1946年(昭和21年)8月15日、

甲子園球場が進駐軍に接収されていたため、

阪急西宮球場(現在の阪急西宮ガーデンズの場所にあった。)

で開催された戦後初の第28回全国中等学校優勝野球大会の

出場校(19校)の主将にGHQ(連合国軍総司令部)の

ポール・ラッシュ中佐から記念のボールが贈られた。

初出場の兵庫県代表芦屋中学の橋本修三主将に贈られたボールが、

このほど朝日新聞(2015年7月29日付夕刊・東京本社発行)に

掲載された次の写真のボールです。

(写真は省略) 

 

上記サイトに、1946年8月16日の朝日新聞の記事の

写真がありました。その記事の中に、

ポール・ラッシュ中佐から記念ボールが球児に

贈られる写真がありました。

部分だけ載せます。

Doc20160316174604_001_2  

このポール・ラッシュ中佐。

山梨県北杜市に「ポール・ラッシュ記念館」があります。

私は、今回初めて知った人ですが、

戦後の日本に影響を与えた人なのでしょうか?

またいつか調べてみたいです。

 

芦屋中のお話はここまでにして・・・・・

  

 

この同じ紙面に、成田中(千葉県)VS京都二中の試合のことが、

書かれていました。その部分だけ転載します。

Doc20160316174604_001_3  

記事の文章を一部引用します。

  

成田には第六回二死後両石原の二安打で

好機をつかむかと見えたが、

石原(照)の本塁滑り込みの失敗で

寸前に憤死したのは、(中略)惜しまれる。

  

「歴史秘話ヒストリア」では、まさにこの場面を

再現ドラマで紹介していました。

次の投稿で書きます。 

「8月15日のプレーボール」その5.松本市立中/和歌山中

 

今日は8月24日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

 

1945年の秋に、

1946年の8月に、全国中等学校優勝野球大会が

6年ぶりに行われるという知らせがありました。

その知らせを受けて、浪華商業野球部復活した話を前投稿で書きました。

番組のその続きを、聞き書きします。

 

 

ナレーター:この頃、全国各地でも野球チームが

  次々に活動を再開していました。

  白球を追うことで、失われた青春を取り戻そうとしたのです。

 

この場面で紹介されたチームの写真を3枚。

 

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長野の「MMM」

どこの高校だろう? 調べました。

長野県立松本美須々ケ丘高校のようです。

(番組最後の資料提供のテロップより)

1946年春創部。

 

なぜ、松本美須ケ丘高校なのに、Mが3つ?

「松本」のM、「美須々ケ丘」のMで2つなのでは?

この疑問が気になったので調べました。

この資料がよかった。

松本美須々ケ丘高校 野球部創部70周年記念号 2015年10月発行

そこに答えがありました。

  

当時、美須々ケ丘高校は、松本市立中学校という名前でした。

(松本市立中学校)Matsumoto Municipal Middle Schoolの

M3つなのだそうです。

スッキリしました。

この記念号は読みごたえのあるものでした。

番組中に出てきた写真の出所もわかりました。

Rimg0164  

この写真、印象に残っていました。

記念号に載っていました。

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全国中等学校優勝野球大会でのシーンでした。

写っていたのは、松本市立中学校(美須々ケ丘高校)でした。

日付までわかってしまった!

この記念号に感謝。

  

  

では2校目。

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和歌山県立桐蔭高校と思われます。 

(番組最後の資料提供のテロップより)

当時の校名は和歌山中学校

 

桐蔭高校と言うと、今年100回記念大会で優勝した

大坂桐蔭高校(1988年~)を思い出しますが、

和歌山県立桐蔭高校の方が先輩のようです。

Wikipediaによると「桐蔭」という名前は、

和歌山県立桐蔭高校初代会長の命名によるようです。

引用します。 

  

校名

1948年5月10日の開校に際し、

初代校長・松野三郎の命名によるもので、

有名な漢詩である「少年易老学難成 一寸光陰不可軽

未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声」(少年老い易く、学成り難し。

一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢。

階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声。)から、

「桐のようにすくすくと真っすぐに育て」という願いと

「寸刻を惜しんで勉強をせよ」という意味が込められている。

 

「梧」は「青桐」のこと。

今まで「アオギリ」について書いたことがありました。

ここでも道草 一葉落ちて天下の秋を知る(2011年11月3日投稿)

ここでも道草 「アオギリ」も葉っぱがキリに似ている(2016年8月27日投稿)

 

この漢詩の意訳を別のサイトから引用。

関西吟詩文化協会 漢詩紹介

 

詩の意味

若者はアッという間に年をとってしまい、

学問はなかなか完成しにくい。

だから、少しの時間でも軽軽しく過ごしてはならない。

池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、

階段の前の青桐(あおぎり)の葉には、もう秋風の音が聞かれるように、

月日は速やかに過ぎ去ってしまうものである。

 

鑑賞

今も昔も人生は短く学問の道は遠い

前半二句は今でも親や教師が口にしそうな

若者向きの学問のすすめです。

後半二句の具体的な比喩(ひゆ)が説得力をもっています。

若さをむさぼり楽しんでいるうちに秋風が吹いてきて

人生は終わりに近づくのですよと諭(さと)しています。

いわゆる勧学(かんがく)の詩として最も親しまれています。

  

 

脱線して、いい勉強ができました。 

3校目は、次の投稿で。

  

つづく。

    

「8月15日のプレーボール」その4.浪華商業野球部の復活

 

今日は8月24日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

戦争で中断していた高校野球大会。

その復活の知らせは、1945年秋に届きました。

 

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Rimg0148  

1946年の8月に、全国中等学校優勝野球大会が

6年ぶりに行われるという知らせです。

(終戦直後の知らせ。素早いです)

この知らせを聞いて、戦争で野球部が廃部になった学校で、

野球部が復活したり、野球部がなかった高校でも、

野球部が創設され始めました。

 

番組では、最初、浪華商業のことが紹介されていました。

※「浪華」を何と読むのだろうと思って、調べました。

 「なにわ」でした。

元野球部員が、他のメンバーを集める時の台詞です。

 

話聞いてくれ、後輩諸君。

バット振って、カーン当てて、ダー!走ったら、

ごっつ気持ちええと思わんか。

  

元野球部員の熱のこもった呼びかけで、

素人同然の学生までが集まったそうです。

全部で14人での再スタートだったそうです。

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当時の新入部員の手記には次のように綴られていたそうです。

 

何か体ごとぶつかるものが欲しい!

という思いに駆り立てられました。

「これだ!これなんだ!」

待ちに待ったものが

現れた思いがしました。

(三村脩さんの手記より)

  

敗戦直後のうちひしがれた学生にとって、

うれしい知らせだったようです。

ただ、野球部ができたけど、道具がない。

番組では、お母さんが嫁入り道具の琴を闇市で売って、

その闇市でグローブを手に入れて子どもに渡した話が紹介されました。

当時はグローブはなかなか手に入らない、そして高価なものでした。

当時貴重だった米一升と、野球ボール1個の値段が

一緒だったそうです。

  

浪華商業も同じです。

当時のメンバーだった人へのインタビュー記事を読みました。

戦争体験者インタビュー 島田雄三さん 山本英夫さん

Photo 左:島田さん  右:山本さん 

一部引用します。

  

(戦争で)淡路にあった浪商の校舎は消失。

戦後は東淡路小学校の校舎を間借りして、授業が再開した。

野球部は4年生(昭和20年)の後半ごろに再開。

同級生や後輩はみんな疎開先から戻ってきて、

部員は30名ほどだった。

都島の高倉にあった鐘紡のグランドを借りて練習をしたり、

プロ野球で活躍する先輩が練習道具をもってきてくれるなど

浪商OBの協力が大きかったそうだ。

最初は14人のスタートでしたが。

30名ほどになったのですね。

  

 

他の学校の野球部については、

次の投稿で。

 

 

2018年8月22日 (水)

「8月15日のプレーボール」その3.屋根裏に野球道具を隠したのは・・・

今日は8月22日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」の聞き書きをしていきます。

 

再現ドラマ

阿部正:戦争が終わったら、その時は、みんなで野球部復活させよう。

  そして、今度こそ、後輩たちを甲子園に連れて行こう。

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映像

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ナレーター:1945年8月。終戦。

  平和を取り戻したとはいえ、野球部が再開する見込みは

  全く立っていませんでした。

  そんな時、生徒たちの前に、戦場から帰ってきた

  野球部のOBが姿を現します。

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再現ドラマ

OB:お前たち、ついてこい。

ナレーター:連れていかれたのは、校舎の屋根裏部屋でした。

現役:おおおお。

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ナレーター:実はここに野球道具を隠し人物こそが、阿部正でした。

  3年前、将校から野球を否定された日の夜のことです。

(ノックの音)

先生:どうぞ。

阿部:失礼します。

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先生:おお、正か。遅くにどうした?

阿部:先生、お願いがありまして。

  野球道具を燃やせと言われました。

  先生、道具、隠しませんか。

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先生:でも、お前。

阿部:ずっと大事に使ってきた道具が、燃やされるなんて、

  見ていられません。

  戦争が終われば、きっとまた野球ができる時代が来ます。

ナレーター:正が隠し場所に選んだのが、人がふだん出入りしない屋根裏。

  自分に何があっても、野球を復活させる手立てを講じ、

  夢を守り抜こうとしたのです。

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ナレーター:こうして、名門一関中野球部は、復活します。

  正に憧れ、野球部に入部した田村泰延さん。

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  同じ投手の道を歩んだ田村さんにとって、

  正は、唯一無二のヒーローだったと言えます。

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田村:命懸けていた。

  それだけ、野球に対して情熱がやっぱりあったじゃないですかね。

  ありがたいですね。こういう先輩をもったことがですね。

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ナレーター:伝説のエースピッチャー、阿部正。

  戦火によって、青春も命も奪われた正の思いは、

  今も東北の大地でしっかりと受け継がれています。

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「ぞれぞれの街にいた、沢村さん」の一人である、

安部正さんのことを書き留めることができました。

ちなみに、阿部正さんの母校の一関中は、

戦後1946年大会に復活した全国高校野球に出場しています。

田村さんも投げています。

  

  

この番組からまだ引用したものあり。

  

つづく

      

 

「8月15日のプレーボール」その2.それはまさに青天の霹靂でした

 

今日は8月22日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」の聞き書きをしていきます。

  

ナレーター:そうした人気に陰りが見え始めたのが、

  1937年、日中戦争の頃でした。

  戦時体制が日増しに強化されるたびに、

  野球への風当たりが強くなっていったのです。

  1941年夏。新聞に掲載された野球への批判記事です。

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  野球は、体育的な効果が乏しい。

  しかも、莫大な費用がかかる。

  全体主義の立場から、最も排すべし。

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  野球は戦争の役に立たない、遊びだとして、

  厳しく糾弾されるようになったと言います。

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中村哲也教授:野球だったり、球技なんかは

  特にそうだったですけど、遊びが起源ですよね。

  直接役に立たなものはやめてしまえ。

  戦争の役に立つかどうか、戦争に利用できるかどうかの基準で

  物事が選別される。

ナレーター:日々強まる逆風の中でも、球児たちは猛練習を続けました。

  卒業を間近に控えた(阿部)正にとって、この年は最後の夏。

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  甲子園大会に出場することが、心の支えでした。

  大会直前、正たちは突然、校長室に呼び出されます。

  

再現ドラマ

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校長:みんな、練習、ご苦労。

選手たち:はい。

校長:明日からの大会だが、中止が決まった。

選手たち:え!?

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ナレーター:それはまさに、青天の霹靂でした。

  当時、内閣府が出した通達です。

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  この夏は、鉄道輸送がひっ迫するために、

  大会は一切延期にする。

  当時、鉄道輸送に強い影響力をもっていたのが、

  軍部でした。

  前線の拡大で、全国から兵士や物資を集める必要があったのです。

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  軍への協力が当たり前のこととされていた社会。

  正たちは、夢の舞台、甲子園への夢を諦めざるを得ませんでした。

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ナレーター:この年の12月。

  日本軍は真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲。

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  太平洋戦争が始まります。

  戦いが厳しさを増す中、戦火の影は、教育現場にも

  忍び寄ってきました。

  

再現ドラマ

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将校:(野球部員が練習しているグランド)

  おい、お前ら、今すぐ(野球の練習を)やめろ!

  まだ米国の野球をやっていたのか!

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ナレーター:怒鳴りこんできたのは、

  当時、学校に配属されていた陸軍の将校でした。

  将校の次の一言に、正たちは衝撃を受けます。

将校:道具があるから、いつまでも野球をやるんだよなあ。

  だったらいっそのこと、道具は・・・・燃やせ。

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ナレーター:野球部は廃部を命じられます。

  正たちは、野球を続けることすら、否定されてしまったのです。

  生き甲斐を奪われた正。

  1943年1月。そのもとに召集令状が届きます。

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  正は陸軍の歩兵連隊に配属され、戦場に向かうことになりました。

  出征前、正は野球部時代の仲間に、

  秘めた思いをうち明けました。

    

つづく

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