「8月15日のプレーボール」その4.浪華商業野球部の復活
今日は8月24日。
前投稿に引き続き、
8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール
高校野球 戦火の中の青春」より。
戦争で中断していた高校野球大会。
その復活の知らせは、1945年秋に届きました。
1946年の8月に、全国中等学校優勝野球大会が
6年ぶりに行われるという知らせです。
(終戦直後の知らせ。素早いです)
この知らせを聞いて、戦争で野球部が廃部になった学校で、
野球部が復活したり、野球部がなかった高校でも、
野球部が創設され始めました。
番組では、最初、浪華商業のことが紹介されていました。
※「浪華」を何と読むのだろうと思って、調べました。
「なにわ」でした。
元野球部員が、他のメンバーを集める時の台詞です。
話聞いてくれ、後輩諸君。
バット振って、カーン当てて、ダー!走ったら、
ごっつ気持ちええと思わんか。
元野球部員の熱のこもった呼びかけで、
素人同然の学生までが集まったそうです。
全部で14人での再スタートだったそうです。
当時の新入部員の手記には次のように綴られていたそうです。
何か体ごとぶつかるものが欲しい!
という思いに駆り立てられました。
「これだ!これなんだ!」
待ちに待ったものが
現れた思いがしました。
(三村脩さんの手記より)
敗戦直後のうちひしがれた学生にとって、
うれしい知らせだったようです。
ただ、野球部ができたけど、道具がない。
番組では、お母さんが嫁入り道具の琴を闇市で売って、
その闇市でグローブを手に入れて子どもに渡した話が紹介されました。
当時はグローブはなかなか手に入らない、そして高価なものでした。
当時貴重だった米一升と、野球ボール1個の値段が
一緒だったそうです。
浪華商業も同じです。
当時のメンバーだった人へのインタビュー記事を読みました。
一部引用します。
(戦争で)淡路にあった浪商の校舎は消失。
戦後は東淡路小学校の校舎を間借りして、授業が再開した。
野球部は4年生(昭和20年)の後半ごろに再開。
同級生や後輩はみんな疎開先から戻ってきて、
部員は30名ほどだった。
都島の高倉にあった鐘紡のグランドを借りて練習をしたり、
プロ野球で活躍する先輩が練習道具をもってきてくれるなど、
浪商OBの協力が大きかったそうだ。
最初は14人のスタートでしたが。
30名ほどになったのですね。
他の学校の野球部については、
次の投稿で。
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