「8月15日のプレーボール」その2.それはまさに青天の霹靂でした
今日は8月22日。
前投稿に引き続き、
8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール
高校野球 戦火の中の青春」の聞き書きをしていきます。
ナレーター:そうした人気に陰りが見え始めたのが、
1937年、日中戦争の頃でした。
戦時体制が日増しに強化されるたびに、
野球への風当たりが強くなっていったのです。
1941年夏。新聞に掲載された野球への批判記事です。
野球は、体育的な効果が乏しい。
しかも、莫大な費用がかかる。
全体主義の立場から、最も排すべし。
野球は戦争の役に立たない、遊びだとして、
厳しく糾弾されるようになったと言います。
中村哲也教授:野球だったり、球技なんかは
特にそうだったですけど、遊びが起源ですよね。
直接役に立たなものはやめてしまえ。
戦争の役に立つかどうか、戦争に利用できるかどうかの基準で
物事が選別される。
ナレーター:日々強まる逆風の中でも、球児たちは猛練習を続けました。
卒業を間近に控えた(阿部)正にとって、この年は最後の夏。
甲子園大会に出場することが、心の支えでした。
大会直前、正たちは突然、校長室に呼び出されます。
再現ドラマ
校長:みんな、練習、ご苦労。
選手たち:はい。
校長:明日からの大会だが、中止が決まった。
選手たち:え!?
ナレーター:それはまさに、青天の霹靂でした。
当時、内閣府が出した通達です。
この夏は、鉄道輸送がひっ迫するために、
大会は一切延期にする。
当時、鉄道輸送に強い影響力をもっていたのが、
軍部でした。
前線の拡大で、全国から兵士や物資を集める必要があったのです。
軍への協力が当たり前のこととされていた社会。
正たちは、夢の舞台、甲子園への夢を諦めざるを得ませんでした。
ナレーター:この年の12月。
日本軍は真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲。
太平洋戦争が始まります。
戦いが厳しさを増す中、戦火の影は、教育現場にも
忍び寄ってきました。
再現ドラマ
将校:(野球部員が練習しているグランド)
おい、お前ら、今すぐ(野球の練習を)やめろ!
まだ米国の野球をやっていたのか!
ナレーター:怒鳴りこんできたのは、
当時、学校に配属されていた陸軍の将校でした。
将校の次の一言に、正たちは衝撃を受けます。
将校:道具があるから、いつまでも野球をやるんだよなあ。
だったらいっそのこと、道具は・・・・燃やせ。
ナレーター:野球部は廃部を命じられます。
正たちは、野球を続けることすら、否定されてしまったのです。
生き甲斐を奪われた正。
1943年1月。そのもとに召集令状が届きます。
正は陸軍の歩兵連隊に配属され、戦場に向かうことになりました。
出征前、正は野球部時代の仲間に、
秘めた思いをうち明けました。
つづく
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